試験当日の教室は、妙に静かだった。
誰も喋っていない。だが、緊張しているわけでもない。
全員が、手元の紙を最後にもう一度確かめている。答えを書き写した紙だ。
安心している顔だった。
池が、何度も同じ場所を指でなぞっている。山内が、隣の生徒と答えを突き合わせて「合ってる合ってる」と繰り返している。
……悪くない眺めだ。
一ヶ月前、この教室にはこんな空気はなかった。誰も彼も、自分のことしか考えていなかった。
今は、全員が同じ紙を握っている。
もっとも。
その紙のおかげで、俺の首を吊るす縄も、同じだけ高いところに掛かるわけだが。
「……なあ、赤木」
須藤が、後ろから声をかけてきた。
顔が白い。
「英語、やっぱ自信ねえわ」
「そうか」
「お前は」
「読めねえのは変わらねえよ」
須藤は、少し笑おうとして、失敗した。
「……お互い、やべえな」
「そうだな」
俺は答えた。
「だが、やることはもうねえ。ここから先は、座って牌を引くだけだ」
「牌?」
「……なんでもねえ」
一時間目は、国語だった。
紙が配られる。伏せたまま、開始の合図を待つ。
配られた瞬間から、指先で紙の重さを測っていた。
枚数は、去年と同じ。
伏せられた紙というのは、悪くない。
中身が見えていないという一点で、卓の上と同じになる。まだ何も起きていない。良くも悪くもなっていない。
こういう時、大抵の人間は「いい方」を願う。願った分だけ、違った時に崩れる。
俺は何も願わなかった。
――始め。
紙をめくる。
……。
一問目。同じだ。
二問目。同じ。
三問目、四問目、最後まで。
一字も変わっていない。
俺は、短く息を吐いた。
二年変えなかった相手が、三年目も変えなかった。
それだけのことだ。だが、そこに全部賭けていた。
賭けが通った時、人は嬉しくなるものらしい。
……その気持ちを、俺はあまり信用していない。
通ったのは、俺が正しかったからじゃない。相手が変えなかったからだ。読みが当たったのと、運が良かったのは、外から見れば同じ形をしている。
そこを混同する打ち手から、次の局で沈む。
俺は鉛筆を持ち、覚えた形を並べ始めた。
三時間目が、英語だった。
紙をめくる。
並んでいる文字は、相変わらず何一つ読めない。
だが、形は覚えている。
3番の答えは、頭に丸みのある字が二つ並んで、その後ろに短い棒が一本。
7番は、長い一続きの塊。真ん中あたりに、上に飛び出す線が一本ある。
12番は――
俺は、手を止めた。
問いの並びが、記憶と同じであることは確かめてある。だが、俺が書いているのは意味のわからない記号の羅列だ。
書き間違えても、気づく手立てがない。
一本線が多くても、少なくても、俺にはわからない。
……妙な気分だった。
牌なら、指先で触れれば形がわかる。裏を向いていても、彫りの深さと縁の丸みで、何の牌かを言い当てられる。市川という男は、目が見えないまま、俺よりも正確にそれをやってのけた。
あの爺さんは、見えないものを触って読んだ。
俺は今、見えているものが読めないまま、形だけを写している。
似ているようで、まるで逆だ。
あの男には、触れば意味がわかった。俺には、見えても意味がわからない。
――だからこそ、丁寧にやるしかない。
俺は、一画ずつ、写した。
速く書こうとはしなかった。急げば線が崩れる。線が崩れれば、それは別の記号になる。
覚えた形を、そのまま紙の上に置いていく。
牌を捨てるのと同じだ。迷った手つきで置けば、それだけで相手に読まれる。
……もっとも、ここには読む相手もいないわけだが。
最後の一問を書き終えて、俺は手を離した。
合っているのか、間違っているのか。
わからない。
わからないまま、机の上に置いた。
これで、俺の分は終わりだ。
あとは、この紙が誰かの手に渡って、赤い印がつくのを待つだけになる。
書き終えて、顔を上げた。
まだ半分以上、時間が残っている。
周りを見回した。
ほとんどの生徒が、まだ手を動かしている。答えを覚えてきたはずなのに、それでも時間がかかっている。書き写すのと、理解して書くのとでは、速さが違うのだろう。
平田が、何度も見直しをしている。堀北は、とうに書き終えた顔で、それでも紙を睨んでいる。
須藤は――
鉛筆が、止まっていた。
顔を伏せて、一点を見つめている。
思い出せないのか。あるいは、覚えた形と目の前の問いが噛み合わないのか。
……手を貸してやることはできない。
答えを教えれば、それは一発だ。あの女がはっきり言った。この学校でやってはいけないことの一つは、確実にそこにある。
俺は視線を戻した。
賭場でも同じだ。隣の客が沈んでいくのを、黙って見ているしかない場面がある。
助けたければ、卓の外でやるしかない。
卓の上でやったら、二人とも叩き出される。
……それに。
あの男が今、どうにか一問思い出したとして、その分だけ平均が上がる。
上がった平均は、そのまま俺の首に掛かる。
助かってほしい、と思っている。
同時に、助かるほど自分が危うくなることも、正確にわかっている。
こういうのを、たしか矛盾と呼ぶんだろう。
……悪くない気分だった。
賭場では、味わったことのない類のものだ。
窓際の席で、綾小路が手を止めていた。
あの男も、とうに書き終えている。
だが、様子が妙だった。
書き終えた紙を眺めて、消しゴムを手に取り、また置く。それを何度か繰り返している。
見直しているんじゃない。
……削ってるな。
どの問題を落とすかを、選んでいる。
全部書ける人間が、どれを空白にするかで悩んでいる。
馬鹿げた話だ。
だが、あの男にとっては、それが一番難しい判断なんだろう。多すぎれば目立ち、少なすぎれば怪しまれる。ちょうどいい間抜けさを、毎回作らなきゃならない。
……疲れる生き方だ。
俺は自分の紙を見下ろした。
俺は、書ける全部を書いた。それでもまるで足りているように見えない。
あの男は、書ける全部の半分も書かないと決めている。
同じ教室で、同じ紙を前にして、真逆のことをやっている。
いつか、この男とは正面からやることになる。
その時、あいつが何点取れる人間なのかを、俺はまだ知らない。
全教科が終わったのは、夕方だった。
教室から人が引いていく。
「終わったー!」という声が、廊下のあちこちで上がっている。誰も彼も、解放された顔をしていた。
俺は席に座ったまま、動かなかった。
――終わった。
やることは、全部やった。
覚えられるものは覚えた。捨てると決めたものは捨てた。書ける形は全部書いた。
そして今、俺の手からは何もかもが離れている。
紙は回収された。もう一文字も直せない。
平均が何点になるかは、この学年の百六十人が決める。線がどこに引かれるかも、俺の与り知らぬところで決まる。
……これだ。
これが、一番嫌なところだ。
卓の上でなら、まだやりようがある。持ち点が減っても、次の局がある。振り込んでも、取り返す手が残っている。
だが、紙を出してしまえば、もう何もできない。
あとは、誰かが数えて、誰かが線を引いて、俺の首が繋がっているかどうかを、向こうが決める。
あの夜と同じだ。
金を差し出されて、もう終わりだと決められた、あの夜と。
……いや。
俺は立ち上がった。
少しだけ、違う。
あの夜、俺には打つ手が残っていた。残っていたのに、周りが卓を畳んだ。
今度は、打つ手がもうない。俺自身が、出せるものを全部出し切った上で、待っている。
同じ「待つ」でも、中身がまるで違う。
――そう思うことにした。
鞄を持って廊下に出ると、須藤が壁にもたれていた。
俺を待っていたらしい。
「……英語、駄目だったわ」
「そうか」
「いや、全部じゃねえんだ。半分くらいは書けた。けど、後ろの方が全然思い出せなくて」
須藤は、髪をぐしゃぐしゃに掻いた。
「あれ、四十点いってねえかもしれねえ」
「線が四十とは限らねえよ」
「え?」
「平均次第だ。四十かもしれねえし、四十五かもしれねえ」
「……余計悪いじゃねえか!」
その通りだった。
俺は少し笑った。
「なあ赤木。お前は?」
「わからん」
「わからんって」
「読めねえまま写したからな。合ってるか間違ってるか、俺には確かめようがねえ」
須藤が、ぽかんとした顔をした。
「……それ、こえーな」
「そうか?」
「こえーだろ。自分が何点取ったかもわかんねえって」
……そうかもしれない。
だが、俺にとってはむしろ、そちらの方が馴染みがある。
牌を切る時、それが通るかどうかは切ってみるまでわからない。読み切ったつもりでも、確かめる術は最後までない。
通ったか、振り込んだか。
結果が出るまでは、どちらでもない。
「……須藤」
「あ?」
「終わったことを数え直すのは、やめとけ」
「なんでだよ」
「数えたところで一点も増えねえ。増えねえのに、寝られなくなるだけだ」
須藤は、少しの間黙っていた。
「……お前、たまに年寄りみてえなこと言うよな」
俺は答えなかった。
この男が、俺をいくつだと思っているのかは知らない。
訊かれたこともない。
窓の外は、もう暗くなり始めていた。
結果が出るのは、来月だという。
それまで、この学校で俺は、生きているのか死んでいるのかわからないまま歩くことになる。
……ずいぶん、気の長い賭場だ。
だが、悪いことばかりでもない。
この一ヶ月で、わかったことがいくつかある。
この学校は禁止をせず、値札を貼る。線は隠され、人によって高さが違う。知らせは配られないことがある。そして、助け合いが人を殺すこともある。
どれも、賭場で見てきたものと同じ形をしていた。
違うのは、ここでは誰も、自分が博打を打っている自覚がないということだけだ。
俺は歩き出した。
結果が出れば、この学校は次の手を出してくる。
その時が、本番だ。