試験当日の教室は、妙に静かだった。
誰も喋っていない。だが、緊張しているわけでもない。
全員が、手元の紙を最後にもう一度確かめている。答えを書き写した紙だ。
安心している顔だった。
池が、何度も同じ場所を指でなぞっている。山内が、隣の生徒と答えを突き合わせて「合ってる合ってる」と繰り返している。
櫛田は、そのどちらにも入らず、席から教室を見渡していた。
誰が安心しているかを、一人ずつ数えているような目つきだった。
俺と目が合うと、いつもの顔になって、小さく手を振った。
……早い。
「なあ赤木、おれさ」
池が、紙を握ったまま振り返った。
「もし今回受かったら、次から服より先に飯食うわ」
「そうか」
「いやマジで。……いや、マジでだって」
誰も笑わなかった。本人も、笑わせるつもりで言ったわけじゃないらしい。
……悪くない眺めだ。
入学した頃、この教室にこんな空気はなかった。誰も彼も、自分のことしか考えていなかった。
今は、全員が同じ紙を握っている。
もっとも。
その紙のおかげで、俺の首を吊るす縄も、同じだけ高いところに掛かるわけだが。
「……なあ、赤木」
須藤が、後ろから声をかけてきた。
顔が白い。
「英語、やっぱ自信ねえわ」
「どこだ」
「後ろの方。長えやつ。……あれ、形がどれも似てんだよ。頭んなかでごっちゃになる」
なるほど。
この男は、覚えようとした。だから、似ているものが混ざる。
「そうか」
「お前は」
「読めねえのは変わらねえよ」
須藤は、少し笑おうとして、失敗した。
「……お互い、やべえな」
「そうだな」
俺は答えた。
「だが、やることはもうねえ。ここから先は、座って牌を引くだけだ」
「牌?」
「……なんでもねえ」
一時間目は、国語だった。
紙が配られる。伏せたまま、開始の合図を待つ。
配られた瞬間から、指先で紙の重さを測っていた。
枚数は、去年と同じ。
伏せられた紙というのは、悪くない。
中身が見えていないという一点で、卓の上と同じになる。まだ何も起きていない。良くも悪くもなっていない。
こういう時、大抵の人間は「いい方」を願う。願った分だけ、違った時に崩れる。
俺は何も願わなかった。
――始め。
紙をめくる。
……。
一問目。同じだ。
二問目。同じ。
三問目、四問目、最後まで。
一字も変わっていない。
俺は、短く息を吐いた。
二年変えなかった相手が、三年目も変えなかった。
それだけのことだ。だが、そこに全部賭けていた。
賭けが通った時、人は嬉しくなるものらしい。
……その気持ちを、俺はあまり信用していない。
通ったのは、相手が変えなかったからだ。それだけだ。
そこを混同する打ち手から、次の局で沈む。
俺は鉛筆を持ち、覚えた形を並べ始めた。
全部を写す気はなかった。
線を越えればいい。越えた分は、どこにも貯まらねえ。
数字の科目だけは、自分で解けるぶんを全部取る。あとは、覚えた形のうち確かなものだけを置いて、怪しいものは空けておく。
張り込みすぎた手は、振り込んだ時に大きい。
二時間目との合間、廊下に出ると堀北が立っていた。
「……どうだった」
「同じだった。一字もな」
堀北は、短く息を吐いた。
「そう。……なら、あとは書けるかどうかだけね」
「そうだな」
「須藤くんが、さっきから水ばかり飲んでいるわ」
俺は、教室の方を見た。
「放っとけ」
「放っておいて、どうにかなる話かしら」
「なる」
「根拠は」
「今声をかけたら、あいつは自分が心配される側だと思う。思ったら、その時点で手が止まる」
「……声をかけない方がいい、と」
「そうだ」
堀北は、納得しかねる顔をしていた。
「あなたのそれは、優しさなの、それとも」
「勘定だ」
「……でしょうね」
「……あなたが言うと、冷たく聞こえないのが妙ね」
「冷たく言ってるつもりだがな」
平田が、廊下の向こうから小走りに来た。
「堀北さん、赤木くん。……みんな、大丈夫そう?」
「あなたが一人ずつ見て回っているのは、知っているけれど」
堀北は、少し呆れた顔をした。
「自分の答案は、見直したの」
平田が、止まった。
「……あ」
それだけ言って、教室に戻っていった。
この男は、たぶん最後まで自分の分を後回しにする。
「平田くんは、ああいう人なのよ」
堀北が言った。
「知ってる」
「止めないの」
「止める理由がねえ。あの男は、それで保ってる」
「保つ?」
「誰かの面倒を見てる間は、自分の分を数えなくて済む」
堀北が、こちらを見た。
「……それ、誰の話をしているの」
「平田の話だ」
俺はそれだけ言って、教室に戻った。
三時間目が、英語だった。
紙をめくる。
並んでいる文字は、相変わらず何一つ読めない。
だが、形は覚えている。
3番の答えは、頭に丸みのある字が二つ並んで、その後ろに短い棒が一本。
7番は、長い一続きの塊。真ん中あたりに、上に飛び出す線が一本ある。
12番は――
俺は、手を止めた。
問いの並びが、記憶と同じであることは確かめてある。だが、俺が書いているのは意味のわからない記号の羅列だ。
書き間違えても、気づく手立てがない。
一本線が多くても、少なくても、俺にはわからない。
……妙な気分だった。
牌なら、指先で触れれば形がわかる。裏を向いていても、彫りの深さと縁の丸みで、何の牌かを言い当てられる。市川という男は、目が見えないまま、自分の手牌どころか、自分が積んだ山の中身まで指で読んだ。
あの爺さんは、見えないものを触って読んだ。
俺は今、見えているものが読めないまま、形だけを写している。
似ているようで、まるで逆だ。
あの男には、触れば意味がわかった。俺には、見えても意味がわからない。
――だからこそ、丁寧にやるしかない。
俺は、一画ずつ、写した。
速く書こうとはしなかった。急げば線が崩れる。線が崩れれば、それは別の記号になる。
覚えた形を、そのまま紙の上に置いていく。
牌を捨てるのと同じだ。迷った手つきで置けば、それだけで相手に読まれる。
……もっとも、ここには読む相手もいないわけだが。
最後の一問を書き終えて、俺は手を離した。
合っているのか、間違っているのか。
わからない。
わからないまま、机の上に置いた。
これで、俺の分は終わりだ。
あとは、この紙が誰かの手に渡って、赤い印がつくのを待つだけになる。
書き終えて、顔を上げた。
まだ半分以上、時間が残っている。
周りを見回した。
ほとんどの生徒が、まだ手を動かしている。答えを覚えてきたはずなのに、それでも時間がかかっている。書き写すのと、理解して書くのとでは、速さが違うのだろう。
平田が、何度も見直しをしている。堀北は、とうに書き終えた顔で、それでも紙を睨んでいる。
須藤は――
鉛筆が、止まっていた。
顔を伏せて、一点を見つめている。
思い出せないのか。あるいは、覚えた形と目の前の問いが噛み合わないのか。
……手を貸してやることはできない。
答えを教えれば、それは一発だろう。
あの女は、数字を一つも出さなかった。やってはいけないことがあるとだけ言って、どこが線かは言わなかった。
言わなかったのか、言えなかったのか。
そこがまだ、わからない。
だが、この一つだけは、線の内側にあるはずがない。
俺は視線を戻した。
賭場でも同じだ。隣の客が沈んでいくのを、黙って見ているしかない場面がある。
助けたければ、卓の外でやるしかない。
卓の上でやったら、二人とも叩き出される。
……それに。
あの男が今、どうにか一問思い出したとして、その分だけ平均が上がる。
上がった平均は、そのまま俺の首に掛かる。
助かってほしい、と思っている。
同時に、助かるほど自分が危うくなることも、正確にわかっている。
……悪くない気分だった。
賭場では、味わったことのない類のものだ。
俺は少し身体をひねって、斜め後ろを見た。
窓際の席で、綾小路が手を止めていた。
あの男も、とうに書き終えている。
だが、様子が妙だった。
書き終えた紙を眺めて、消しゴムを手に取り、また置く。それを何度か繰り返している。
見直しているんじゃない。
……削ってるな。
ちょうどいい間抜けさを、毎回作らなきゃならないわけだ。
――点を自分で決められる奴ってのは、卓じゃ一番タチが悪い。
いつか、面と向かってそう言ってやろうと思った。
俺は自分の紙を見下ろした。
俺は、書ける全部を書いた。それでもまるで足りているように見えない。
あの男は、書ける全部の半分も書かないと決めている。
同じ教室で、同じ紙を前にして、真逆のことをやっている。
いつか、この男とは正面からやることになる。
その時、あいつが何点取れる人間なのかを、俺はまだ知らない。
全教科が終わったのは、夕方だった。
教室から人が引いていく。
「終わったー!」という声が、廊下のあちこちで上がっている。誰も彼も、解放された顔をしていた。
俺は席に座ったまま、動かなかった。
――終わった。
やることは、全部やった。
覚えられるものは覚えた。捨てると決めたものは捨てた。書ける形は全部書いた。
そして今、俺の手からは何もかもが離れている。
紙は回収された。もう一文字も直せない。
平均が何点になるかは、この学年の160人が決める。線がどこに引かれるかも、俺の与り知らぬところで決まる。
……これだ。
これが、一番嫌なところだ。
卓の上でなら、まだやりようがある。持ち点が減っても、次の局がある。振り込んでも、取り返す手が残っている。
だが、紙を出してしまえば、もう何もできない。
あとは、誰かが数えて、誰かが線を引いて、俺の首が繋がっているかどうかを、向こうが決める。
あの夜と同じだ。
金を差し出されて、もう終わりだと決められた、あの夜と。
……いや。
俺は立ち上がった。
少しだけ、違う。
あの夜、俺には打つ手が残っていた。残っていたのに、周りが卓を畳んだ。
今度は、打つ手がもうない。俺自身が、出せるものを全部出し切った上で、待っている。
同じ「待つ」でも、中身がまるで違う。
――そう思うことにした。
鞄を持って廊下に出ると、須藤が壁にもたれていた。
俺を待っていたらしい。
「……英語、駄目だったわ」
「そうか」
「いや、全部じゃねえんだ。半分くらいは書けた。けど、後ろの方が全然思い出せなくて」
須藤は、髪をぐしゃぐしゃに掻いた。
「あれ、40点いってねえかもしれねえ」
「線が40とは限らねえよ」
「え?」
「平均次第だ。40かもしれねえし、42かもしれねえ」
「……余計悪いじゃねえか!」
その通りだった。
俺は少し笑った。
「なあ赤木。お前は?」
「わからん」
「わからんって」
「読めねえまま写したからな。合ってるか間違ってるか、俺には確かめようがねえ」
須藤が、口を半分開けたまま止まった。
「……それ、こえーな」
「そうか?」
「こえーだろ。自分が何点取ったかもわかんねえって」
俺にとってはむしろ、そちらの方が馴染みがある。
牌を切る時、それが通るかどうかは切ってみるまでわからない。読み切ったつもりでも、確かめる術は最後までない。
通ったか、振り込んだか。
結果が出るまでは、どちらでもない。
「……須藤」
「あ?」
「終わったことを数え直すのは、やめとけ」
「なんでだよ」
「数えたところで一点も増えねえ。増えねえのに、寝られなくなるだけだ」
須藤は、少しの間黙っていた。
「……お前、たまに年寄りみてえなこと言うよな」
俺は答えなかった。
この男が、俺をいくつだと思っているのかは知らない。
訊かれたこともない。
窓の外は、もう暗くなり始めていた。
結果が出るのは、来月だという。
……ずいぶん、気の長い賭場だ。
今日、この教室の全員が同じ紙を握って座っていた。
全員が助かれば、線は上がる。
線が上がって困るのは、一番低いところにいる人間だ。
助けた側は、そのことに気づかない。
賭場で見てきたものと、同じ形をしている。
俺は歩き出した。
結果が出れば、この学校は次の手を出してくる。
その時が、本番だ。
この物語に恋愛要素をいれるべきか
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必要
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一切不用
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少しみたい