試験が終わってからの数日は、奇妙に間延びしていた。
やることがない。
授業はある。だが、あの一週間の張り詰めた空気は、跡形もなく消えていた。全員が結果を待っているだけの、宙ぶらりんな時間だ。
教室の連中は、二種類に分かれていた。
答えを覚え切った顔で笑っている連中と、思い出せなかった箇所を数え直しては黙り込む連中だ。
須藤は、後者だった。
俺は、どちらでもない。
書いたものが合っているかどうか、俺には確かめようがない。数え直すことすらできないというのは、案外、気楽なものだった。
その日の昼、俺はいつも通り食堂の隅にいた。
盆の上には、いつものものが乗っている。
山菜定食。
値のついていない、唯一の献立だ。
この学校では、飯にも全部値札が貼ってある。定食も、麺も、パンも、飲み物も。板を翳せば数字が動いて、皿が出てくる仕組みらしい。
だが、これだけは違う。
何も翳さなくていい。名前を告げれば出てくる。
……味は、ひどいものだ。
煮しめた山菜と、汁と、飯。塩気が足りず、油気もない。三日も食えば飽きるだろうし、実際、この定食を頼んでいる人間を、俺は他に見たことがなかった。
この一ヶ月、俺はこれしか食っていない。
別に、我慢しているわけじゃない。
雀荘の裏で、握り飯一つで二日過ごしたこともある。あれに比べれば、毎日温かい汁が付いてくるだけで上等だ。
問題は、味じゃない。
――他に、食う手段がないからだ。
「……お前さ」
向かいに、須藤が盆を置いた。
こちらは肉が乗っている。飯の量も倍近い。
「毎日それ食ってんの、気づいてたけど。……なんで?」
「これしか取れねえからだ」
「は?」
「他のは、板を翳さねえと出てこねえ」
須藤が、ぽかんとした。
「翳せばいいじゃん」
「翳せねえ」
「……いや、翳すだけだろ?」
俺は箸を置いた。
説明するのが面倒だったが、この男相手に隠す理由もない。
「俺は、あの板が使えねえ」
「使えねえって……電源とか?」
「そこからだ」
須藤は、しばらく俺の顔を見ていた。
それから、爆笑した。
「うそだろお前! 一ヶ月経ってんぞ!」
「笑い事じゃねえよ」
「いや笑うわ! なんで誰にも聞かねえんだよ!」
……。
訊けばよかったのかもしれない。
だが、俺はこの一ヶ月、あの板を「使えなくても困らないもの」として扱ってきた。困らないと思っていたから、訊く発想がなかった。
困らなかったのは、山菜定食があったからだ。
腹が減らなければ、人は自分が不便だということに気づかない。
……よく出来ている。
この学校は、飢えさせない。
飢えさせないから、誰も暴れない。ただ、選べないだけだ。
「じゃあお前、四月からずっと一円も使ってねえの?」
「そうなる」
「……え?」
須藤の顔から、笑いが消えた。
箸が止まっている。
「待て。じゃあお前、10万まるまる残ってんじゃねえの?」
「……」
「おい、あの時じゃん。過去問の金集めた時」
須藤が、身を乗り出した。
「山内が『一番残ってんのお前だろ』って言って、お前『出せねえとは言わねえ』って返しただろ。あれ――」
「言った通りだ」
俺は答えた。
「出せねえとは、言ってねえ」
須藤が、口を開けたまま固まった。
……そういうことだ。
あの時、俺は板が使えなかった。
だから本当は、一ポイントも出せなかった。頭数に入れてくれと言われても、入れようがなかった。
だが、それを言うわけにはいかなかった。
板が使えないというのは、この学校では歩けないというのと同じだ。飯も買えず、金も動かせず、報せも受け取れない。そんな人間だと知られたら、あの教室で俺の値打ちは、その場で0になっていた。
だから、金の話をずらした。
出せないとは言わず、それより高いものを出すと言った。
嘘は一つもついていない。ただ、話の向きを変えただけだ。
――そして、実際にそれで通った。
金を出していたら、俺はあの日、金を出した四十人のうちの一人になっていた。
情報を出したから、俺は「いなければ全員が的を外していた奴」になった。
同じ日、同じ場所で、払うもの一つ選び違えていたら、俺は今も教室の隅の名前のない生徒だったはずだ。
……あれは、弱みを隠すために切った手だった。
弱みを隠したら、値打ちがついた。
賭場でも、そういうことは起きる。手が悪いから降りたのを、読み勝ったと思われる。そこで訂正してやる義理は、どこにもない。
「……お前、あの時わざと言わなかったのか?」
「訊かれなかっただけだ」
須藤は、しばらく考えて、諦めたように首を振った。
「わかんねえ。……けど、なんか、お前らしいわ」
俺は、言われて初めてその形で考えた。
入学の日に配られた10万。誰も彼もが一ヶ月で溶かした10万。
俺のところにあるそれは、一度も動いていない。
買い物をしていないのだから、当たり前だ。
だが――
当たり前のことが、この教室では当たり前じゃない。
五月一日以降、このクラスの収入は0になった。四月の残りを掻き集めて、過去問に10万を注ぎ込んだ。あの日、平田は「残ってるポイント、全部でもいい」と言った。実際、そうしたはずだ。
つまり今、この教室のほとんどの人間は、限りなく空に近い。
その中で、一人だけ。
一度も財布を開けなかった男の分だけが、そっくり残っている。
「……お前、金持ちじゃん」
須藤が、呆けた声を出した。
「そうかもしれん」
「そうかもしれんって」
「確かめる手段がねえ」
俺は言った。
「板が読めねえんだ。いくら入ってるのか、俺は知らねえ」
須藤が、また変な顔をした。
当然だろう。
この学校で一番金を持っているかもしれない男が、自分の残高を見ることができない。
……笑うしかない。
賭場でなら、掛け金は目の前に積まれる。何枚あるかは、見ればわかる。数えればわかる。
ここでは、俺の金は俺に見えない場所にある。
持っているのに、使えず、見えず、誰にも知られていない。
こういうのを、死に金という。
その日の放課後、俺は堀北を捕まえた。
「一つ頼みがある」
「……珍しいわね。なに」
「この板の使い方を教えてくれ」
俺は懐から出して、机の上に置いた。
堀北が、それを見た。それから、俺を見た。
「……板?」
「これだ」
「……スマートフォン、と言うのだけれど」
初めて聞く名前だった。
この一ヶ月、誰もこいつの名前を口にしなかったわけじゃないだろう。教室でも、寮でも、周りは何度もそう呼んでいたはずだ。
だが、耳を素通りしていた。
使えない道具の名前を、人は覚えない。俺にとってこいつは、ずっと石ころと同じだった。
「……スマートフォン、か」
舌に馴染まない響きだった。
まあいい。人に通じる呼び名を一つ覚えておけば、それで用は足りる。
……もっとも、俺の頭の中では、当分これは板のままだろうが。
「その使い方だ。金の残りを見る方法と、物を買う方法。それだけでいい」
堀北の動きが、完全に止まった。
「……あなた、まさか」
「一ヶ月、使えねえままだった」
堀北は、しばらく無言だった。
それから、額に手を当てた。
「……信じられない。じゃあ、あなた今まで何を食べていたの」
「山菜定食だ」
「毎日?」
「毎日だ」
堀北は、心底呆れた顔をした。
それから、少し違う顔になった。
「待って。じゃあ、あなたの四月分は」
「須藤にも同じことを言われた」
「……残っているのね。そっくり全部」
「らしいな」
堀北の目が、細くなった。
この女は頭が回る。今、頭の中で数字を並べているのがわかる。
「……このクラスで、まとまった額を持っているのは、あなただけかもしれないわ」
「そうかい」
「そうかい、じゃないでしょう」
堀北が、少し声を強めた。
「過去問のとき、あなたは結局一ポイントも出さなかったわね。……出せない、とは言わなかったけれど」
「言ってねえな」
「あの場では、そう聞こえたわ。金より高いものを出す、と言われたから、誰も財布の話に戻らなかった」
堀北の目が、まっすぐこちらを向いていた。
「あれ、本当は出せなかったのでしょう。スマートフォンが使えなかったのだから」
「……そうだ」
俺は認めた。
この女に、そこを誤魔化す意味はない。
「嘘は、ついてねえよ」
「ええ。一つもついていない」
堀北は頷いた。
「出せないとも、出せるとも言わなかった。ただ、話をそこから動かした。……見事なものだと思うわ。褒めてはいないけれど」
「……あなた、そういうところがあるわね」
「訊かれなかっただけだ」
「訊かれなければ言わない、というのは」
堀北は、そこで言葉を切った。
言いかけたことは、わかった。
――この学校と、同じやり方だ。
範囲の変更を教えなかった学校と、金があることを言わなかった俺。
どちらも嘘はついていない。ただ、言わなかっただけだ。
「……教えるわ」
堀北は、鞄から自分の板を出した。
「その代わり、一つ約束して」
「なんだ」
「そのポイントの使い道を決めるとき、私に一言だけ相談すること。……使うなとは言わない。ただ、このクラスで唯一まとまった金を持っている人間が、誰にも相談せずに動くのは危険よ」
……ほう。
悪くない条件だった。
この女は、俺から金を取り上げようとはしなかった。クラスのために出せとも言わなかった。
ただ、動くときに知らせろと言った。
「いいだろう」
俺は頷いた。
「その代わり、こっちも一つ言っておく」
「なに」
「俺の残高を、他の連中には言うな」
堀北の眉が上がった。
「……なぜ」
「金を持ってると知られた人間は、卓の上で一番先に狙われる」
俺は言った。
「今、この教室は全員が空っぽだ。そこに一人だけ財布を持った奴がいるとわかったら、何が起きると思う」
堀北は、答えなかった。
答えられなかったのだと思う。
「……わかったわ。言わない」
この女は、頭がいい。
頭がいい人間は、こういう時に嘘をつかない。嘘をつく必要がある場面かどうかを、正確に測れるからだ。
30分ほどで、大体のことは覚えた。
指で押すのではなく、撫でる。強く押しても駄目で、触れる程度でいい。列の中から選ぶには、上下に滑らせる。
……なるほど。
力を入れないというのが、俺の頭になかった。
牌は、力を入れて弾くものだ。この板は逆で、力を抜くほど言うことを聞く。
覚えてしまえば、どうということもない。
最後に、堀北が数字の並んだ画面を出して見せた。
「これが残高よ」
俺は、その数字を見た。
100,000。
……一つも、減っていない。
「四月に配られたのが10万。……本当に、一ポイントも動いていないのね」
「使ってねえからな」
「使っていないというより……」
堀北は、複雑な顔をした。
「使い方を知らなかっただけ、でしょう」
その通りだった。
俺は、この一ヶ月、無一文のつもりで生きていた。
実際は、この教室で一番の金持ちだった。
自分の手札を、自分で見ずに一ヶ月打っていたわけだ。
……間抜けな話だ。
だが、悪いことばかりでもない。
もし最初から読めていたら、俺は何かを買っていたかもしれない。他の連中と同じように、少しずつ溶かしていたかもしれない。
読めなかったおかげで、一枚も切らずに済んだ。
手の内を知らないまま、結果として最善の打ち方をしていたことになる。
――運が良かった。
そう認めるのは、癪だが。
寮に戻り、机の上に板を置いた。
10万。
あの日、この数字を「餓鬼に配るには狂った額だ」と思った。
今でもそう思う。だが、意味は少し変わった。
この学校では、金で何でも買える。物も、便宜も、たぶん人も。
そして今、全員が空っぽで、俺だけが持っている。
――この一ヶ月で、俺の値打ちは二度変わった。
一度目は、範囲の知らせを持っていたとき。あれは一度きりの手札で、切った瞬間に消えた。
二度目が、今日だ。
こっちは、消えない。
使わない限り、ずっと手元にある。
……もっとも。
結果が出るまでは、動かすつもりもない。
俺が赤点を取れば、この金には何の意味もなくなる。学校を出される人間の財布に、値打ちなんぞありはしない。
俺は板を伏せて、明かりを消した。
結果は、来月出る。
その時、この10万が生きた金になるか、死に金のままで終わるかが決まる。