アカギ〜実力至上主義の教室に舞い降りた天才〜   作:GC

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第12話「差込」

 結果が返ってきたのは、6月に入ってすぐの朝だった。

 

 茶柱が教室に入ってきた時点で、空気が張り詰めた。

 

 誰も喋らない。全員が、あの女の手元の紙束を見ている。

 

「中間試験の結果を返す」

 

 いつもと同じ、抑揚のない声だった。

 

「まず、赤点のラインを伝えておく。今回の学年平均は79.6点。したがって、赤点は40点だ」

 

 教室が、ざわついた。

 

 40。

 

 俺は、その数字を頭の中に置いた。

 

 高い。

 

 平均が八十近い。答えを持って席に着いた人間が、学年にどれだけいたかということだ。

 

 やはり、他所も全部持っていた。

 

「なお、この試験は五科目すべてが対象だ。一科目でも40を下回った者は、退学となる」

 

 誰も、息をしていなかった。

 

 

 

 

 

 紙が、一枚ずつ配られていく。

 

 受け取った瞬間に安堵の息を漏らす者。数字を見た途端に固まる者。

 

 俺の番が来た。

 

 茶柱が、紙を差し出す。

 

 その手つきに、何の色もなかった。生かすとも殺すとも書いていない顔だ。

 

 俺は紙を受け取り、上から順に見た。

 

 国語、62。

 

 社会、58。

 

 理科、55。

 

 数学、81。

 

 ……なるほど。

 

 数字だけの科目が、突出している。他は、線の少し上に並んでいる。

 

 狙った通りの形だった。

 

 そして、最後。

 

 英語。

 

 44。

 

 ……。

 

 俺は、その数字をしばらく見ていた。

 

 44。

 

 線が40だから、4つ上だ。

 

 覚えた形を、俺は正確に写せていたらしい。全部ではない。44点分しか合っていない。だが、必要な分は越えた。

 

 ……通ったか。

 

 妙な感慨は、湧かなかった。

 

 通る手だと思って切った牌が、通った。それだけのことだ。

 

 喜ぶ理由もないし、驚く理由もない。

 

 俺は紙を四つに折って、懐に入れた。

 

 

 

 

 

 教室のあちこちで、声が上がっていた。

 

「やべえ、ギリギリだった……」

「42とかだったんだけど」

 

 誰も彼も、線の少し上にいる。

 

 当然だ。答えを覚えて臨んで、それでも完璧には思い出せない。人間なんてそんなものだ。

 

 その中で、一つだけ、動かない席があった。

 

 須藤だった。

 

 紙を持ったまま、身動きもしていない。

 

 俺は席を立って、その後ろに回った。

 

 肩越しに、数字が見えた。

 

 国語、61。

 

 社会、59。

 

 理科、63。

 

 数学、57。

 

 英語――

 

 39。

 

 ……一点。

 

 たった一点、足りない。

 

「須藤くん?」

 

 平田が、様子に気づいて近づいてきた。

 

 紙を覗き込んで、顔色が変わる。

 

「……嘘だろ」

 

 教室が、静まっていった。

 

 誰かが誰かに囁き、それが広がり、やがて全員がこちらを見ていた。

 

「……あー」

 

 須藤が、掠れた声を出した。

 

「……マジか」

 

 それだけだった。

 

 叫びもしなければ、机も叩かない。

 

 紙を持った手が、少し震えているだけだった。

 

 ……こういう顔だ。

 

 俺は思った。

 

 本当に終わった人間の顔は、こういう顔をしている。

 

 あの時、教室の連中の顔を見て「まだ甘い」と思った。間違いなかった。あの時のあいつらには、まだ「何かの間違いじゃないか」という色があった。

 

 今の須藤には、それがない。

 

 

 

 

 

「伝えておくことがある」

 

 茶柱の声が、教室を切った。

 

「この学校では、退学が決まった生徒に対して、救済の手段が用意されている」

 

 全員が顔を上げた。

 

「プライベートポイントによる、点数の購入だ」

 

 ……ほう。

 

「試験の点数は、ポイントで買える。1点につき、10万ポイント」

 

 教室が、爆発したように騒がしくなった。

 

「買えんの!?」

「じゃあ須藤、1点だけじゃん!」

「10万集めりゃいいんだろ!?」

 

 湧いた声は、しかし、すぐに萎んでいった。

 

 全員が、同じことに気づいたからだ。

 

 ……このクラスに、10万はない。

 

「4月分は、過去問に全部注ぎ込んだ」

 

 誰かが、呆然と言った。

 

「5月は0だった。誰も、一銭も入ってねえ」

 

 平田が、自分の端末を睨んでいる。何度か操作して、それから顔を上げた。

 

「……僕の残りは、800ポイントだ」

 

「俺、300」

「私、ほとんど残ってない……」

 

 声が、次々に上がる。

 

 どれも、桁が二つ足りない。

 

 40人分を掻き集めても、10万には遠く及ばないだろう。

 

 当たり前だ。4月に配られた分を溶かし、残りを過去問に注ぎ込んだのだから。

 

 ――よく出来ている。

 

 俺は、また同じことを思った。

 

 この学校は、まず金を使い切らせた。使い切らせてから、金で買える救済を用意した。

 

 用意した上で、届かない額に設定してある。

 

 救えるかもしれない、という形だけを見せて、実際には救えない。

 

 ……その方が、諦めさせるより効くからだ。

 

 教室が、静かになっていった。

 

 須藤は、まだ座ったままだった。

 

 

 

 

 

「……赤木くん」

 

 放課後、堀北が来た。

 

 教室には、もう誰も残っていない。須藤も、いつの間にか消えていた。

 

「単刀直入に言うわ」

 

 この女の顔には、迷いがなかった。

 

「あなたのポイントを、須藤くんに使ってほしい」

 

 ……来たか。

 

「約束したわね。使い道を決めるときは相談する、と」

 

「したな」

 

「今、私から相談しているのよ。……立場が逆だけれど」

 

 俺は、椅子の背にもたれた。

 

 この女は、俺の残高を知っている唯一の人間だ。誰にも言わないと約束して、実際に言っていない。

 

 そのうえで、こうして正面から来た。

 

「訊くが」

 

 俺は言った。

 

「あんたは、なぜ須藤を助けたい」

 

「クラスの人数が減るのは、損失だからよ」

 

「そりゃ建前だ」

 

 堀北の眉が、わずかに動いた。

 

「……本音を言えというの」

 

「言わなくていい」

 

 俺は答えた。

 

「あんたの理由には、興味がねえ。……俺が知りたいのは、俺の理由の方だ」

 

 堀北が、怪訝な顔をした。

 

 

 

 

 

 俺は、懐から端末を出した。

 

 10万。

 

 一度も動かさなかった数字だ。この一ヶ月、俺の値打ちを支えていたのは、実のところこの数字じゃない。誰もこれを知らなかったという事実の方だ。

 

 使えば、消える。

 

 消えれば、俺はまた無一文に戻る。次に何かを買う必要が出たとき、俺には何もない。

 

 ――割に合わない。

 

 どう考えても、割に合わない。

 

 あの男を助けたところで、俺の首は一ミリも安全にならない。恩を売れる相手としても、須藤は大した札じゃない。頭も回らないし、金も持っていない。

 

 賭けとして見れば、これは最低の張り方だ。

 

 ……それでも。

 

 俺は、あの紙を持って固まっていた男の顔を思い出していた。

 

 あれは、負けた顔じゃなかった。

 

 39点。40まで、一点。

 

 あの男は、負けたんじゃない。線に届かなかっただけだ。それも、たった一点。

 

 打ち切っていない。まだ何もかもが終わっていない。

 

 なのに、席を立たされる。

 

 誰かが線を引いて、誰かが数えて、届いていないと決める。それだけで終わる。

 

 ――もう終わりだ、と。

 

 ……ああ。

 

 そうか。

 

 俺は、自分が何を我慢ならないと思っているのかを、ようやく正確に理解した。

 

 金の話じゃない。友情の話でもない。

 

 俺は、あの言葉が嫌いなだけだ。

 

 まだ打てる人間に向かって、外から「終わりだ」と言うこと。

 

 あの夜、俺に向かって言われたのと、同じ言葉だ。

 

 

 

 

 

「使う」

 

 俺がそう言うと、堀北が息を吐いた。

 

「……ありがとう」

 

「礼はいらねえ」

 

 俺は端末を操作した。堀北に教わった通りに、力を抜いて指を滑らせる。

 

 覚えたばかりの手つきで、俺は一ヶ月分の全部を差し出した。

 

「言っておくが、あいつのためじゃねえ」

 

「……じゃあ、何のため」

 

「学校のためでもねえよ」

 

 俺は立ち上がった。

 

「気に入らねえからだ。それだけだ」

 

 堀北は、しばらく黙っていた。

 

 それから、少しだけ笑った気配があった。

 

「……あなた、本当に嘘が下手ね」

 

「上手いつもりだったんだがな」

 

 残高が、0になった。

 

 一ヶ月ぶりに、俺は本物の無一文になった。

 

 ……悪くない。

 

 持っていた時より、いくらか身軽だ。身軽になった分だけ、次に何を積むかを考えればいい。

 

 

 

 

 

 昇降口を出たところで、綾小路が立っていた。

 

 いつもの場所、いつもの立ち方だ。

 

「須藤は、残るらしいな」

 

「早えな。誰に聞いた」

 

「誰にも」

 

 綾小路は、いつもの平坦な声で言った。

 

「明日の朝、あいつが教室にいれば、誰かが払ったということだ。……それだけの話だろう」

 

 まだ明日になっていないうちから、そう言っている。

 

 この男は、結果を見る前に結果を知る癖がある。

 

「で、それが俺だと」

 

「他にいない」

 

 断定だった。

 

「このクラスの全員が、4月の分を使い切っている。過去問に注ぎ込んだ日、俺は誰がいくら出したかを見ていた。……10万を作れる人間は、あの日の時点で一人も残っていない」

 

 ……なるほど。

 

 あの日、この男は金の集まり方を数えていた。誰が助かって誰が助からないかを、あの時点で計算していたことになる。

 

「一つ訊くが。あんたは、出さなかったのか」

 

 少しの間があった。

 

「……俺に、そんな余裕はない」

 

 嘘だな、と思った。

 

 だが、突く気にはならなかった。持っていて出さなかったのなら、それはこの男の打ち方だというだけだ。

 

「あんたは、須藤が消えても構わなかったのか」

 

 返事は、しばらく来なかった。

 

「……構わないとは言わない」

 

 綾小路は、そう答えた。

 

「ただ、俺が出す理由がなかった。それだけだ」

 

 この男は、助けたくなかったとは言わなかった。理由がなかったと言った。

 

 ――理由さえあれば、出すということでもある。

 

 覚えておこう。

 

 この男を動かしたければ、情に訴えても無駄だ。理由を一つ、作ってやればいい。

 

 

 

 

 

 翌日、須藤は教室にいた。

 

 どういう顔で来ればいいのかわからないという顔で、入口のあたりに突っ立っていた。

 

 誰が金を出したのかは、伝えられていないらしい。堀北がそう処理したんだろう。

 

 俺はいつも通り、後ろの席に座っていた。

 

 須藤が、まっすぐこちらに来た。

 

「……赤木」

 

「なんだ」

 

「お前だろ」

 

 ……。

 

 当然か。

 

 この男は、俺の懐に10万があることを知っている数少ない一人だ。あの食堂で、俺の口から聞いている。

 

 そして今、そのちょうど10万で、一点が買われた。

 

 足し算のできる人間なら、誰でも辿り着く。

 

「何の話だ」

 

「とぼけんなよ」

 

「知らねえな」

 

 俺は窓の外を見た。

 

「クラスの誰かが出したんだろ。……堀北あたりが集めて回ったんじゃねえのか」

 

「集まるわけねえだろ。全員空っぽだったの、お前も見てただろうが」

 

 ……よく見ている。

 

 この男は、頭が回らないわけじゃない。回さないだけだ。回す気になった時は、存外まっすぐ的に届く。

 

「じゃあ、そのスマホ見せろよ」

 

 須藤が、手を出した。

 

「残高。0になってりゃ、お前だろ」

 

 ……なるほど。

 

 そう来るか。

 

 俺は、少し考えた。

 

 見せれば、一発で割れる。見せなければ、それはそれで答えになる。

 

 どちらも同じだ。

 

 だが――

 

「断る」

 

「なんでだよ」

 

「人に財布の中身を見せる趣味はねえ」

 

「いや、そういう話じゃ」

 

「そういう話だ」

 

 俺は、須藤の顔を見た。

 

「懐を見せろってのは、そういうことだ。……仮に今日それを見せたら、俺は明日から、誰に見せろと言われても断れなくなる」

 

 須藤の手が、止まった。

 

「賭場じゃ、持ち金を見せた奴から順に剥がされる。……覚えとけ」

 

 しばらく、須藤は俺を見ていた。

 

 それから、手を引っ込めた。

 

「……わかんねえけど。わかった」

 

 わかっていない顔だった。

 

 だが、引き下がった。

 

 この男は、理屈より先に、こちらが本気かどうかを見る。そういう嗅ぎ方をする人間だ。

 

「じゃあ、これだけ言わせろ」

 

 須藤は、まっすぐ言った。

 

「ありがとな」

 

「だから、俺じゃねえって」

 

「知らねえよ。誰かにありがとうって言いてえだけだ」

 

 ……。

 

 うまいことを言う。

 

 礼を受け取らせないためには、こちらが「俺じゃない」と言い続けるしかない。だがこの男は、宛先を空にしたまま礼だけを置いていった。

 

 受け取り拒否ができない形にして、置いていったわけだ。

 

 ……計算でやっているなら、大したものだが。

 

 この男の顔を見る限り、そうではないらしい。

 

 だから、余計に始末が悪い。

 

 それから、須藤は俺の机の上に、パンを一つ置いた。

 

「……これ、やるわ」

 

「なんだこりゃ」

 

「いや、なんつーか……お前、毎日あれだろ。山菜のやつ」

 

 俺は、そのパンを見ていた。

 

 200ポイントもしないだろう、安い菓子パンだ。

 

 あの男の残高が、今どれだけあるのかは知らない。だが、多くはないはずだ。

 

「……もらっとく」

 

「おう」

 

 それだけで、須藤は自分の席に戻っていった。

 

 それ以上は、何も訊かなかった。

 

 俺は袋を破って、一口食った。

 

 ……甘い。

 

 この一ヶ月で、初めて口にした甘いものだった。

 

 10万で買った一点の見返りが、200ポイントの菓子パン一つ。

 

 ……悪くない。

 

 賭場で、これほど分の悪い勝負をしたのは初めてだ。

 

 だが、卓には全員が残っている。

 

 それでいい。

 

 

 

 

 

 その日のホームルームで、茶柱が一つ付け加えた。

 

「今回の中間試験を、このクラスは全員が突破した」

 

 教室が、少しざわついた。

 

「規定により、クラスポイントを付与する。……100だ」

 

 声が上がった。

 

 0から、100。

 

 二ヶ月ぶりに、この教室に数字が戻ってきた。

 

「来月の支給は、一人1万ポイントとなる」

 

 歓声が起きた。

 

 池が山内の背中を叩き、平田が安堵の息を吐いている。堀北だけが、静かに前を向いていた。

 

 俺は、その騒ぎを後ろから眺めていた。

 

 4月には、10万を配られて誰も礼を言わなかった。今は、1万で全員が笑っている。

 

 人間は、額じゃなく、増えたか減ったかで喜ぶ。

 

 懐の端末に触れた。中身は0のままだ。来月まで、また山菜定食に戻ることになる。

 

 ……別に、構わん。

 

 この学校は、俺から10万を取り上げた。

 

 だが、買ったものは残っている。

 

 須藤が座っている席と、堀北が黙っていてくれることと、綾小路が「理由さえあれば出す」男だという読みだ。

 

 消えた分だけ、卓の上に置いてある。

この物語に恋愛要素をいれるべきか

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