結果が返ってきたのは、六月に入ってすぐの朝だった。
茶柱が教室に入ってきた時点で、空気が張り詰めた。
誰も喋らない。全員が、あの女の手元の紙束を見ている。
「中間試験の結果を返す」
いつもと同じ、抑揚のない声だった。
「まず、赤点のラインを伝えておく。今回の学年平均は79.6点。したがって、赤点は40点だ」
教室が、ざわついた。
40。
俺は、その数字を頭の中に置いた。
高い。
平均が八十近い。答えを持って席に着いた人間が、学年にどれだけいたかということだ。
やはり、他所も全部持っていた。
「なお、この試験は五科目すべてが対象だ。一科目でも40を下回った者は、退学となる」
誰も、息をしていなかった。
紙が、一枚ずつ配られていく。
受け取った瞬間に安堵の息を漏らす者。数字を見た途端に固まる者。
俺の番が来た。
茶柱が、紙を差し出す。
その手つきに、何の色もなかった。生かすとも殺すとも書いていない顔だ。
俺は紙を受け取り、上から順に見た。
国語、62。
社会、58。
理科、55。
数学、81。
……なるほど。
数字だけの科目が、突出している。他は、線の少し上に並んでいる。
狙った通りの形だった。
そして、最後。
英語。
44。
……。
俺は、その数字をしばらく見ていた。
44。
線が40だから、4つ上だ。
覚えた形を、俺は正確に写せていたらしい。全部ではない。44点分しか合っていない。だが、必要な分は越えた。
……通ったか。
妙な感慨は、湧かなかった。
通る手だと思って切った牌が、通った。それだけのことだ。
喜ぶ理由もないし、驚く理由もない。
俺は紙を四つに折って、懐に入れた。
教室のあちこちで、声が上がっていた。
「やべえ、ギリギリだった……」
「42とかだったんだけど」
誰も彼も、線の少し上にいる。
当然だ。答えを覚えて臨んで、それでも完璧には思い出せない。人間なんてそんなものだ。
その中で、一つだけ、動かない席があった。
須藤だった。
紙を持ったまま、身動きもしていない。
俺は席を立って、その後ろに回った。
肩越しに、数字が見えた。
国語、61。
社会、59。
理科、63。
数学、57。
英語――
39。
……一点。
たった一点、足りない。
「須藤くん?」
平田が、様子に気づいて近づいてきた。
紙を覗き込んで、顔色が変わる。
「……嘘だろ」
教室が、静まっていった。
誰かが誰かに囁き、それが広がり、やがて全員がこちらを見ていた。
「……あー」
須藤が、掠れた声を出した。
「……マジか」
それだけだった。
叫びもしなければ、机も叩かない。
紙を持った手が、少し震えているだけだった。
……こういう顔だ。
俺は思った。
本当に終わった人間の顔は、こういう顔をしている。
あの時、教室の連中の顔を見て「まだ甘い」と思った。間違いなかった。あの時のあいつらには、まだ「何かの間違いじゃないか」という色があった。
今の須藤には、それがない。
「一つ、伝えておくことがある」
茶柱の声が、教室を切った。
「この学校では、退学が決まった生徒に対して、救済の手段が用意されている」
全員が顔を上げた。
「プライベートポイントによる、点数の購入だ」
……ほう。
「試験の点数は、ポイントで買える。1点につき、10万ポイント」
教室が、爆発したように騒がしくなった。
「買えんの!?」
「じゃあ須藤、1点だけじゃん!」
「10万集めりゃいいんだろ!?」
湧いた声は、しかし、すぐに萎んでいった。
全員が、同じことに気づいたからだ。
……このクラスに、10万はない。
「四月分は、過去問に全部注ぎ込んだ」
誰かが、呆然と言った。
「五月は0だった。誰も、一銭も入ってねえ」
平田が、自分の端末を睨んでいる。何度か操作して、それから顔を上げた。
「……僕の残りは、800ポイントだ」
「俺、300」
「私、ほとんど残ってない……」
声が、次々に上がる。
どれも、桁が二つ足りない。
40人分を掻き集めても、10万には遠く及ばないだろう。
当たり前だ。四月に配られた分を溶かし、残りを過去問に注ぎ込んだのだから。
――よく出来ている。
俺は、また同じことを思った。
この学校は、まず金を使い切らせた。使い切らせてから、金で買える救済を用意した。
用意した上で、届かない額に設定してある。
救えるかもしれない、という形だけを見せて、実際には救えない。
……その方が、諦めさせるより効くからだ。
教室が、静かになっていった。
須藤は、まだ座ったままだった。
「……赤木くん」
放課後、堀北が来た。
教室には、もう誰も残っていない。須藤も、いつの間にか消えていた。
「単刀直入に言うわ」
この女の顔には、迷いがなかった。
「あなたのポイントを、須藤くんに使ってほしい」
……来たか。
「約束したわね。使い道を決めるときは相談する、と」
「したな」
「今、私から相談しているのよ。……立場が逆だけれど」
俺は、椅子の背にもたれた。
この女は、俺の残高を知っている唯一の人間だ。誰にも言わないと約束して、実際に言っていない。
そのうえで、こうして正面から来た。
「訊くが」
俺は言った。
「あんたは、なぜ須藤を助けたい」
「クラスの人数が減るのは、損失だからよ」
「そりゃ建前だ」
堀北の眉が、わずかに動いた。
「……本音を言えというの」
「言わなくていい」
俺は答えた。
「あんたの理由には、興味がねえ。……俺が知りたいのは、俺の理由の方だ」
堀北が、怪訝な顔をした。
俺は、懐から端末を出した。
10万。
一度も動かさなかった数字だ。この一ヶ月、俺の値打ちを支えていたのは、実のところこの数字じゃない。誰もこれを知らなかったという事実の方だ。
使えば、消える。
消えれば、俺はまた無一文に戻る。次に何かを買う必要が出たとき、俺には何もない。
――割に合わない。
どう考えても、割に合わない。
あの男を助けたところで、俺の首は一ミリも安全にならない。恩を売れる相手としても、須藤は大した札じゃない。頭も回らないし、金も持っていない。
賭けとして見れば、これは最低の張り方だ。
……それでも。
俺は、あの紙を持って固まっていた男の顔を思い出していた。
あれは、負けた顔じゃなかった。
39点。40まで、一点。
あの男は、負けたんじゃない。線に届かなかっただけだ。それも、たった一点。
打ち切っていない。まだ何もかもが終わっていない。
なのに、席を立たされる。
誰かが線を引いて、誰かが数えて、届いていないと決める。それだけで終わる。
――もう終わりだ、と。
……ああ。
そうか。
俺は、自分が何を我慢ならないと思っているのかを、ようやく正確に理解した。
金の話じゃない。友情の話でもない。
俺は、あの言葉が嫌いなだけだ。
まだ打てる人間に向かって、外から「終わりだ」と言うこと。
あの夜、俺に向かって言われたのと、同じ言葉だ。
「使う」
俺がそう言うと、堀北が息を吐いた。
「……ありがとう」
「礼はいらねえ」
俺は端末を操作した。堀北に教わった通りに、力を抜いて指を滑らせる。
覚えたばかりの手つきで、俺は一ヶ月分の全部を差し出した。
「言っておくが、あいつのためじゃねえ」
「……じゃあ、何のため」
「学校のためでもねえよ」
俺は立ち上がった。
「気に入らねえからだ。それだけだ」
堀北は、しばらく黙っていた。
それから、少しだけ笑った気配があった。
「……あなた、本当に嘘が下手ね」
「上手いつもりだったんだがな」
残高が、0になった。
一ヶ月ぶりに、俺は本物の無一文になった。
……悪くない。
持っていた時より、いくらか身軽だ。
昇降口を出たところで、綾小路が立っていた。
いつもの場所、いつもの立ち方だ。
「須藤は、残るらしいな」
「早えな。誰に聞いた」
「誰にも」
綾小路は、いつもの平坦な声で言った。
「明日の朝、あいつが教室にいれば、誰かが払ったということだ。……それだけの話だろう」
まだ明日になっていないうちから、そう言っている。
この男は、結果を見る前に結果を知る癖がある。
「で、それが俺だと」
「他にいない」
断定だった。
「このクラスの全員が、四月の分を使い切っている。過去問に注ぎ込んだ日、俺は誰がいくら出したかを見ていた。……10万を作れる人間は、あの日の時点で一人も残っていない」
……なるほど。
あの日、この男は金の集まり方を数えていた。誰が助かって誰が助からないかを、あの時点で計算していたことになる。
「一つ訊くが。あんたは、出さなかったのか」
少しの間があった。
「……俺に、そんな余裕はない」
嘘だな、と思った。
だが、突く気にはならなかった。持っていて出さなかったのなら、それはこの男の打ち方だというだけだ。
「あんたは、須藤が消えても構わなかったのか」
返事は、しばらく来なかった。
「……構わないとは言わない」
綾小路は、そう答えた。
「ただ、俺が出す理由がなかった。それだけだ」
この男は、助けたくなかったとは言わなかった。理由がなかったと言った。
――理由さえあれば、出すということでもある。
覚えておこう。
この男を動かしたければ、情に訴えても無駄だ。理由を一つ、作ってやればいい。
翌日、須藤は教室にいた。
どういう顔で来ればいいのかわからないという顔で、入口のあたりに突っ立っていた。
誰が金を出したのかは、伝えられていないらしい。堀北がそう処理したんだろう。
俺はいつも通り、後ろの席に座っていた。
須藤が、まっすぐこちらに来た。
「……赤木」
「なんだ」
「お前だろ」
……。
当然か。
この男は、俺の懐に10万があることを知っている数少ない一人だ。あの食堂で、俺の口から聞いている。
そして今、そのちょうど10万で、一点が買われた。
足し算のできる人間なら、誰でも辿り着く。
「何の話だ」
「とぼけんなよ」
「知らねえな」
俺は窓の外を見た。
「クラスの誰かが出したんだろ。……堀北あたりが集めて回ったんじゃねえのか」
「集まるわけねえだろ。全員空っぽだったの、お前も見てただろうが」
……よく見ている。
この男は、頭が回らないわけじゃない。回さないだけだ。回す気になった時は、存外まっすぐ的に届く。
「じゃあ、そのスマホ見せろよ」
須藤が、手を出した。
「残高。0になってりゃ、お前だろ」
……なるほど。
そう来るか。
俺は、少し考えた。
見せれば、一発で割れる。見せなければ、それはそれで答えになる。
どちらも同じだ。
だが――
「断る」
「なんでだよ」
「人に財布の中身を見せる趣味はねえ」
「いや、そういう話じゃ」
「そういう話だ」
俺は、須藤の顔を見た。
「懐を見せろってのは、そういうことだ。……仮に今日それを見せたら、俺は明日から、誰に見せろと言われても断れなくなる」
須藤の手が、止まった。
「賭場じゃ、持ち金を見せた奴から順に剥がされる。……覚えとけ」
しばらく、須藤は俺を見ていた。
それから、手を引っ込めた。
「……わかんねえけど。わかった」
わかっていない顔だった。
だが、引き下がった。
この男は、理屈より先に、こちらが本気かどうかを見る。そういう嗅ぎ方をする人間だ。
「じゃあ、これだけ言わせろ」
須藤は、まっすぐ言った。
「ありがとな」
「だから、俺じゃねえって」
「知らねえよ。誰かにありがとうって言いてえだけだ」
……。
うまいことを言う。
礼を受け取らせないためには、こちらが「俺じゃない」と言い続けるしかない。だがこの男は、宛先を空にしたまま礼だけを置いていった。
受け取り拒否ができない形にして、置いていったわけだ。
……計算でやっているなら、大したものだが。
この男の顔を見る限り、そうではないらしい。
だから、余計に始末が悪い。
それから、須藤は俺の机の上に、パンを一つ置いた。
「……これ、やるわ」
「なんだこりゃ」
「いや、なんつーか……お前、毎日あれだろ。山菜のやつ」
俺は、そのパンを見ていた。
200ポイントもしないだろう、安い菓子パンだ。
あの男の残高が、今どれだけあるのかは知らない。だが、多くはないはずだ。
「……もらっとく」
「おう」
それだけで、須藤は自分の席に戻っていった。
それ以上は、何も訊かなかった。
俺は袋を破って、一口食った。
……甘い。
この一ヶ月で、初めて口にした甘いものだった。
10万で買った一点の見返りが、200ポイントの菓子パン一つ。
……悪くない。
賭場で、これほど分の悪い勝負をしたのは初めてだ。
だが、卓には全員が残っている。
それでいい。
その日のホームルームで、茶柱が一つ付け加えた。
「今回の中間試験を、このクラスは全員が突破した」
教室が、少しざわついた。
「規定により、クラスポイントを付与する。……100だ」
声が上がった。
0から、100。
二ヶ月ぶりに、この教室に数字が戻ってきた。
「来月の支給は、一人1万ポイントとなる」
歓声が起きた。
池が山内の背中を叩き、平田が安堵の息を吐いている。堀北だけが、静かに前を向いていた。
俺は、その騒ぎを後ろから眺めていた。
1万。
四月の10分の1だ。
あの時「餓鬼に配るには狂った額だ」と思った10万に比べれば、雀の涙のような額でしかない。
だが、教室の顔は、四月より明るい。
……なるほど。
人間ってのは、額で喜ぶんじゃない。
増えたか減ったかで喜ぶ。
四月には、10万を配られて誰も感謝しなかった。今は、1万で全員が笑っている。
同じ学校が、同じ生徒に、同じように金を配っているだけなのに。
――配り方一つで、こうも変わる。
やはり、よく出来ている。
俺は懐の端末に触れた。中身は0のままだ。来月1万が入るまでは、また山菜定食に戻ることになる。
……別に、構わん。
あれで死ぬわけじゃない。
それに、今日わかったことが一つある。
この学校は、俺から10万を取り上げた。
だが、俺の手元には、その10万で買ったものが残っている。
須藤が座っている席と、堀北が黙っていてくれるという事実と、綾小路が「理由さえあれば出す」男だという読みだ。
金は、消えた。
消えた分だけ、卓の上に置いてある。
――悪くない使い方だった。