その朝も、俺は須藤と走っていた。
結果が出てからも、これだけは変わっていない。
変わったことが一つあるとすれば、あの男が前より喋るようになったことだ。
「なあ赤木。今日、祝勝会やるってさ」
「祝勝会」
「平田が言い出した。赤点組が全員残ったからって」
……なるほど。
「俺、行きたくねえんだけど」
「なぜだ」
「いや、なんつーかさ」
須藤は、走りながら顔をしかめた。
「祝われる側なんだよ、俺。……お前に助けられて残ったのに、俺だけ胴上げされるみてえな面してんの、無理だろ」
……。
この男は、時々、妙なところで細かい。
「俺じゃねえと言ってるだろ」
「はいはい」
須藤は、それ以上絡んでこなかった。
あの日以来、こうだ。
こちらが否定すると、あっさり引き下がる。引き下がるが、信じてはいない。
そして、誰にも言っていない。
……この男は、口が軽いように見えて、肝心なところは持っている。
悪くない。
放課後の教室に、菓子と飲み物が並べられた。金を出したのは平田だ。来月の支給が決まったから、と言って、残っていた分を使ったらしい。
「赤点組、生還おめでとー!」
池が音頭を取り、教室が沸いた。
俺は、教室の後ろでそれを眺めていた。
……妙なもんだ。
一ヶ月半前、この教室には他人のために時間を使う人間が一人もいなかった。
今は、全員が誰かの生還を祝っている。
崩れる時は一瞬だが、固まる時にも同じくらいの速さがあるらしい。
「赤木」
須藤が、皿を二つ持って隣に来た。
片方を、俺の前に置く。
「食え」
「……こりゃなんだ」
「唐揚げ。あと焼きそば」
俺は皿を見た。
量が多い。明らかに、一人分ではない。
「多いな」
「お前、今月きついだろ」
……。
俺は、須藤の顔を見た。
あの男は、こちらを見ていなかった。自分の皿の唐揚げを口に放り込んでいる。
「別に、深い意味はねえよ」
須藤は、前を向いたまま言った。
「体つくれって言ったの俺だし。走ってんのに飯食わねえんじゃ、意味ねえだろ」
……。
なるほど。
この男は、俺が今月0だと知っている。
なぜ0なのかも、知っている。
だが、そうは言わない。走るために食え、と言う。
――受け取り拒否ができない形にして、置いていくわけだ。
あの日のパンと、同じやり方だった。
この男は、こういうことだけ上手い。
「……もらっとく」
「おう」
唐揚げは、山菜定食より遥かにうまかった。
二ヶ月ぶりの、油気のある飯だった。
俺は黙って食った。須藤も何も言わなかった。
周りでは、池と山内が誰かの物真似をして騒いでいる。平田が飲み物を配って回っている。堀北は隅で本を読んでいて、櫛田が誰にでも笑いかけていた。
――悪くない眺めだ。
俺は、そう思っている自分に少し驚いた。
賭場で、卓を囲んだ連中に情が湧いたことなど、一度もなかったはずだ。
教室を出たのは、日が傾いてからだった。
廊下を歩きながら、俺は今日の教室の顔を思い返していた。
一つ、気づいたことがある。
あの教室は、今、非常に扱いやすい状態にある。
全員が「助かった」と思っている。助かった人間は、次も助かると思う。次も助かると思う人間は、警戒しない。
あの日、10万を配られた時と同じ顔だ。
……また、緩む。
この学校が本当に上手いのは、そこだと思う。
一度締めて、一度緩ませる。締めっぱなしでは人間は保たないし、緩みっぱなしでは面白くない。
次に何かが来るのは、この教室が一番浮かれているうちだろう。
――そう思った矢先だった。
昇降口の手前で、人だかりがあった。
うちのクラスの生徒が三人。囲んでいるのは、見覚えのない顔が四人。
制服は同じだ。だが、顔ぶれに見覚えがない。
……別のクラスか。
「だからさあ、悪気はねえんだって」
囲まれている一人が、へらへらと笑っていた。
うちのクラスの男だ。名前は知らないが、教室で見た顔だった。
「ぶつかっただけだろ? 謝ったじゃん」
「謝ったで済むと思ってんのか」
囲んでいる側の一人が、低い声で言った。
……ほう。
俺は足を止めた。
声の質が違う。
脅している人間の声じゃない。脅す必要がないと知っている人間の声だ。
この差は、大きい。
人だかりの中心に、一人だけ座っている男がいた。
昇降口の段に腰を下ろして、囲みの外から眺めている。
制服を着崩して、足を投げ出していた。
その男だけが、笑っていた。
「――クックック」
妙な笑い方だった。
喉の奥で鳴らすような、湿った音だ。
周りの連中が全部立っている中で、その男だけが座っている。それでいて、その場の中心がどこにあるかは、誰の目にも明らかだった。
俺は、その男を見た。
男も、こちらを見た。
……。
目が合った瞬間に、わかった。
この男は、他人を「使えるか、使えないか」でしか見ていない。
俺が知っている種類の目だ。竜崎も、そういう目をしていた。あの手の人間は、相手の顔ではなく、相手の折れる場所を見ている。
違うのは――
竜崎は、それを隠そうとしていた。
この男は、隠していない。
「何か用か? Dクラス」
男が、こちらに声をかけてきた。
周りの連中が、一斉にこちらを向いた。
「別に」
「ならとっとと行けよ。……見物料は取ってねえが、居座られるのは好かねえ」
「そうかい」
俺は動かなかった。
男の目が、少しだけ細くなった。
「聞こえなかったか?」
「聞こえた」
「じゃあなんで動かねえ」
「動く理由がねえからだ」
場が、静かになった。
囲んでいた連中の何人かが、こちらに体を向け始めている。
……。
こういう時、大抵の人間は退く。
退かない人間は、勘定ができないか、勘定ができすぎているかのどちらかだ。
「クックック」
座っていた男が、また笑った。
「変わった奴がいるじゃねえか、Dクラスにも」
男は立ち上がった。
背が高い。俺の頭一つ半は上にある。
「名前は」
「赤木」
「へえ」
男は、俺の顔を上から下まで眺めた。
「Dクラスにしちゃ、退かねえ面してる。……もっとも、俺より随分下から見上げてるがな」
「そうだな。あんたがでかいだけだ」
「否定しねえのか」
「見りゃわかることを否定しても、しょうがねえ」
男が、少し面白そうな顔をした。
「……龍園翔だ。覚えとけ」
――龍園。
須藤が言っていた、Cクラスの噂の男か。
同じ一年で、同じ月に入ってきた人間だ。
それが、もう自分の組を一つ丸ごと手足のように使っている。
……二ヶ月で、そこまで持っていったわけだ。
噂は正しかったらしい。
「なあ赤木。一つ教えてやろうか」
龍園は、俺の前に立っていた。
見下ろす形になっている。それを意識してやっている立ち方だった。
「この学校で一番弱いのは、Dクラスだ。ポイントも0、頭も悪い、まとまりもねえ。……お前らは、いつでも喰える」
「そうかい」
「怖くねえのか」
「怖い理由がわからねえ」
俺は答えた。
「あんたは今、俺を殴らねえ。……殴った瞬間に、あんたが退学だからだ」
龍園の笑いが、止まった。
周りの連中が、息を呑む音がした。
「この学校は、手を上げた奴を一発で切る。あんたはそれを知ってる。知ってて、この場所でやってる」
俺は、昇降口を見回した。
人通りのある場所だ。時間帯も、まだ生徒が残っている。
「わざわざ人目のあるところを選んでるだろ。……手を出すつもりがねえって、自分でわかってるからだ」
沈黙があった。
龍園の顔から、表情が抜けていた。
こういう顔になる人間は、二種類いる。図星を突かれて怒っている人間と――
「クックック」
――面白がっている人間だ。
「ハハッ。おい、聞いたかお前ら」
龍園が、笑い出した。
「Dクラスの雑魚が、俺に説教してやがるぜ」
周りが慌てて笑い始めた。追従の笑いだ。誰も、何が可笑しいのかわかっていない。
「気に入った」
龍園は、俺の肩を軽く叩いた。
「お前、名前なんつったか。……赤木か。覚えとくぜ」
それから、囲んでいた連中に顎をしゃくった。
「行くぞ。今日は退屈しのぎになった」
連中が、ぞろぞろとついていく。
囲まれていたうちのクラスの三人が、腰を抜かしたようにへたり込んだ。
「あ、赤木……お前、なんであんな」
立ち上がりながら、一人が震えた声で言った。
「殺されるかと思ったぞ」
「殺されねえよ」
「なんでわかるんだよ!」
「言った通りだ。殴った瞬間にあいつが退学になる」
「そんなの、あいつが我慢できなかったら終わりじゃねえか!」
……その通りだ。
俺は答えなかった。
こちらの読みが正しかろうが、相手が一度でも堪え性を失えば、それで終わる。今日は堪えた。それだけの話だ。
だが、それを言う必要はない。
この三人には、今日「大丈夫だった」という事実だけが残ればいい。理屈まで渡すと、次に同じ場面が来た時、こいつらは自分で試そうとする。
試して、通らなければ死ぬ。
「早く帰れ」
俺は歩き出した。
だが、頭の中では別のことを考えていた。
――今日のは、通った。
通ったが、次も通るとは限らない。
あの男は、俺の言ったことを否定しなかった。
つまり、事実だと認めた。手を出せば自分が退学になることを、あの男は正確に理解している。
――理解した上で、あれだけの人数を集めて、囲んで、脅している。
殴らずに人を折る方法を、あの男は知っているということだ。
……厄介だな。
殴る人間なら、まだ楽だ。殴られる覚悟さえあれば、こちらの負けはない。
だが、殴らずに済ませる人間は、こちらが折れるまで何度でも来る。
今日は「面白がる」を選んだ。次は選ばないかもしれない。
寮に戻り、俺は窓を開けた。
引き出しから箱を出して、一本くわえる。
火はつけた。
……ひどい味だ。
だが、今日は吸っておきたかった。
あの男の笑い方が、耳に残っている。
「クックック」
ああいう笑い方をする人間を、俺は知っている。
自分が場を支配していると確信している人間の笑い方だ。
実際、あの男は支配している。あの囲みの中で、誰も龍園に逆らわなかった。取り巻きも、囲まれた側も、全員があの男の言う通りに動いた。
殴らずに、それをやっている。
――それは、この学校で一番強い形かもしれない。
この学校は、手を上げた瞬間に切る。だから、腕っぷしだけの人間はここでは生きられない。
だが、腕っぷしを使わずに人を怯えさせる人間は、切りようがない。
規則の内側にいるからだ。
俺は煙を吐いた。
窓の外は、いつもの白い校舎だ。
……卓に着くに値する人間が何人いるか。
入学式の日に、そう思った。
一人、見つかった。
もっとも、あの男は俺を数えていない。今日のところは「変わった奴」で終わっている。
それでいい。
数に入れられていない打ち手ほど、動きやすいものはない。
俺は火を消して、箱を引き出しに戻した。
残りは、あと8本。
……そういえば。
明日の朝も、あの男は走りに来るだろう。
龍園のことを、話すべきかどうか。
――やめておくか。
あの男は、聞けば行く。Cクラスに乗り込んで、殴りかかりかねない。
そして、殴った瞬間に終わる。
俺が10万で買った一点が、その日のうちに無駄になる。
……知らせない方の毒と、知らせる方の毒。
どちらが重いかは、天秤にかけるまでもなかった。
あの日、俺は「手当てのねえ知らせは毒にしかならねえ」と言った。
今度は、俺がそれを配らない側に回るわけだ。
――この学校の連中と、同じやり方でな。