六月も半ばを過ぎた頃から、須藤の様子が変わった。
朝の走りには、変わらず来る。だが、口数が減った。
三日目の朝、俺は訊いた。
「何かあったか」
「……別に」
「そうかい」
俺はそれ以上訊かなかった。
言いたくないことを訊き出しても、大抵は嘘が返ってくるだけだ。
だが、四日目の朝、須藤の方から言った。
「……なあ。絡まれてんだよ、最近」
「誰にだ」
「Cクラスの連中。名前は知らねえけど、いつも同じ面子」
……。
「何をされてる」
「何も」
須藤は、苛立った様子で吐き捨てた。
「それが気持ち悪いんだよ。何もしてこねえ。ただ、いる。廊下でも、購買でも、部活の帰りでも」
「話しかけてくるのか」
「たまにな。『調子どうよ』とか、そんなん。……普通に話しかけてくるだけなんだよ。それが余計に」
なるほど。
俺は、走りながら考えていた。
――丁寧な仕事だ。
何もしていない。だから、誰にも訴えられない。教師に言ったところで、「話しかけられただけ」で終わる。
だが、やられている側は確実に削られていく。
賭場でも、そういうやり方がある。負けが込んでいる客の後ろに、ただ立つ。何も言わない。それだけで、客の手はどんどん乱れていく。
「殴りたくなるだろ」
俺がそう言うと、須藤の足がわずかに乱れた。
「……なる」
「殴るな」
「わかってるよ」
須藤は、苦しそうに言った。
「わかってるから、きついんだよ」
その日から、俺は須藤の周りを見るようにした。
二日で、形が見えた。
常に三人。距離は五、六歩。話しかけるのは一日に一度か二度。それ以上は絡まない。
徹底している。
一度、間近で見た。
購買の前だった。
須藤が列に並んでいる。その三歩後ろに、三人が立っていた。
「須藤くーん」
一人が、明るい声で呼んだ。
須藤の肩が、跳ねた。
「なあ須藤くん。今日さ、部活あんの?」
「……ある」
「へえ。バスケだっけ。強いんだってな」
和やかな声だった。悪意の欠片もない。
だが、須藤の背中は板のように固まっていた。
「あのさ。この前の中間、すごかったらしいじゃん」
……。
俺は、菓子の棚の陰でそれを聞いていた。
「なんか、危なかったのに残ったんだろ? よかったなあ」
「……ああ」
「誰かに助けてもらったの?」
――来た。
須藤の手が、握られるのが見えた。
拳を作って、それから、ゆっくり開いた。
「……知らねえ」
「え、知らねえの? 自分のことなのに?」
「うるせえな。知らねえもんは知らねえんだよ」
「なんだよ、怒んなって。……訊いただけじゃん」
三人が、笑った。
嫌な笑い方だった。声を荒げるでもなく、詰め寄るでもない。
ただ、笑うだけだ。
須藤は品物を持って、逃げるように列を離れた。
……。
俺は棚の陰から動かなかった。
あの男は、耐えた。
拳を作って、開いた。あそこで一発でも出ていれば、その場で終わっていた。
――だが、次は。
三人は、須藤が去った後もその場に残っていた。
そして――
俺が見ている時には、必ず一人がこちらを見ていた。
……ほう。
見せているわけだ。
こちらに見えるようにやっている。隠す気がないどころか、見られたがっている。
――誰に見せたい。
須藤に、じゃない。あの男を追い込むだけなら、こそこそやった方が効く。
見せたいのは、周りだ。
誰かが、この様子を見て、動くのを待っている。
「赤木くん」
放課後、堀北が来た。
「須藤くんのこと、気づいているわね」
「ああ」
「平田くんが茶柱先生に相談したそうよ。……何もしていない以上、学校は動けない、と言われたらしいわ」
「だろうな」
この学校は、規則を破った人間しか裁かない。
規則を破らずに人を追い込む人間には、手が出せない。
規則が完璧であるほど、規則の外側の手口が効くようになる。
「……目的が、わからないの」
堀北は、珍しく困った顔をしていた。
「須藤くんを退学させたいなら、殴らせればいい。実際、あと少しで殴りそうだわ。……でも、それなら、もっと乱暴に煽ればいいはずでしょう」
「そうだな」
「なのに、ぎりぎりで手前を保っている。まるで――」
「殴らせたくねえのさ」
堀北が、顔を上げた。
「……え?」
「須藤に殴らせたら、あの男の狙いは終わる」
俺は言った。
「須藤が退学になったら、それで話が閉じちまう。……あいつが欲しいのは、須藤じゃねえ」
「じゃあ、何」
「動く奴だ」
堀北の表情が、固まった。
「一つ、訊く」
俺は続けた。
「須藤の一点を誰が買ったか、クラスの外に漏れてるか」
「……漏れているでしょうね」
堀北は、少し考えてから答えた。
「誰が払ったかは伏せたけれど、須藤くんが残ったこと自体は隠せない。……あの日、Dクラスの誰かが10万を出した、という事実は、調べれば誰にでもわかるわ」
「そうだ」
俺は頷いた。
あの日、この教室の全員が空だった。それは学年中が知っている。うちのクラスが四月分を過去問に注ぎ込んだことも、上級生を経由すれば漏れる。
空のはずのクラスから、10万が出た。
――誰かが、持っていた。
「あの男は、それを知りたいんだ」
俺は言った。
「金を持ってる人間が、Dクラスに一人いる。誰かはわからん。だから、炙り出そうとしてる」
「……須藤くんを追い込めば」
「金を出した奴は、庇いに来る」
堀北の顔から、血の気が引いた。
「自分が助けた人間が、目の前で潰されそうになってる。……大抵の人間は、そこで動く。動けば、正体がわかる」
俺は、椅子の背にもたれた。
「よく出来てる。手も上げてねえし、規則も破ってねえ。ただ、金を持ってる人間を釣り上げるための餌を、毎日置いてるだけだ」
沈黙があった。
「……それ、あなたのことじゃない」
堀北の声が、掠れていた。
「そうだな」
俺は答えた。
「俺が狙われてる」
寮に戻ってから、俺は長いこと天井を見ていた。
あの日、俺は堀北に言った。
――金を持ってると知られた人間は、卓の上で一番先に狙われる。
だから残高を伏せた。誰にも言うなと約束させた。堀北は約束を守っている。須藤も、誰にも言っていない。
それでも、割れた。
持っていることは隠せた。
だが、使ったことは隠せなかった。
……なるほどな。
金というのは、握っている間は隠せる。だが、動かした瞬間に足跡が残る。
あの一点は、確かに須藤を残した。同時に、俺の居場所を指し示す矢印にもなった。
俺は、自分の言葉に自分で嵌まったわけだ。
……悪くない。
こういう間抜けは、久しぶりだ。
だが、と俺は思う。
あの男が探しているのは「金を持っている奴」だ。
――今の俺は、一銭も持っていない。
全部使った。残高は0だ。来月1万が入るまで、俺はこの学校で最も貧しい生徒の一人でしかない。
あの男が炙り出そうとしているのは、もう存在しない人間だ。
……面白い。
狙われているのに、狙われている中身はもうない。
こんな形の勝負は、初めてだ。
翌朝、走りながら、俺は須藤に言った。
「須藤。しばらく、俺と走るのをやめろ」
あの男の足が、止まった。
「……は?」
「一人で走れ。時間もずらせ」
「なんでだよ」
「訊くな」
「訊くわ!」
須藤が、俺の腕を掴んだ。
力が強い。振り払える気はしなかった。
「なんでだよ。俺が絡まれてっから、面倒事に巻き込みたくねえとか、そういうことか」
「違う」
「じゃあ何だよ」
……。
説明すれば、この男は納得しないだろう。
「お前の隣にいると、俺が誰なのか向こうにわかってしまう」――そう言えば、須藤は自分のせいだと思う。思ったうえで、余計に俺の近くにいようとする。
この男は、そういう男だ。
だから、別のことを言った。
「あんたと走ってると、俺が遅れる」
「は?」
「あんたは速い。合わせてもらってるのは、こっちだ」
俺は腕を振りほどいた。
「一人で走った方が、俺の分になる」
須藤は、しばらく俺を見ていた。
それから、はっきりと言った。
「嘘つけ」
……。
「お前、嘘つく時、目ぇ逸らさねえのな。逆に不自然なんだよ」
……ほう。
この男は、こういうところだけ鋭い。
「巻き込むとか、そういうのはいいから」
須藤は、俺の前に立った。
「俺、お前に借りがあんだよ。返してねえ借りが」
「借りなんぞ、ねえ」
「あるんだよ」
言い合いになった。
この男は、退かなかった。
……仕方がない。
俺は、少しだけ考えて、言った。
「じゃあ、一つ頼む」
「おう」
「絡まれてる時、絶対に俺の名前を出すな」
須藤が、眉を寄せた。
「……名前?」
「誰かに助けられたとか、誰が金を出したとか。そういう話を、一言もするな。……向こうがどれだけ探ってきてもだ」
「……なんで」
「それが、借りの返し方だ」
須藤は、しばらく黙っていた。
それから、頷いた。
「わかった」
あの男は、それ以上訊かなかった。
……悪くない。
この男は、理屈がわからなくても、約束は守る。
あの日、残高のことを誰にも言わなかったのと、同じだ。
その日の放課後、昇降口で綾小路とすれ違った。
「須藤の件、気づいているか」
「ああ」
「Cクラスは、動く相手を探している」
この男も、同じところに辿り着いていた。
「わかってるなら、話が早え」
「一つ確認したい」
綾小路は、いつもの平坦な声で言った。
「お前は、動くのか」
……いい質問だ。
動けば、正体が割れる。動かなければ、須藤が削られ続ける。
どちらも、向こうの手の内だ。
「動かねえよ」
俺は答えた。
「今はな」
「今は」
「あの男が待ってるのは、慌てて出てくる人間だ。……待たせておけばいい」
俺は歩き出した。
「餌ってのは、置いておくと腐る」
綾小路は、何も言わなかった。
だが、背中に視線が残っているのはわかった。
――さて。
向こうは、こちらが動くのを待っている。
こちらは、向こうが焦れるのを待っている。
どちらが先に、待ちきれなくなるか。
……久しぶりだ。
この待ち合いの感じは、悪くない。
寮の窓から、外を見ていた。
待つ、と言ったが、ただ座っているつもりはない。
あの男の狙いは、こちらを動かすことだ。だとすれば、こちらがやるべきは一つ。
――須藤が、削り切られる前に終わらせる。
いつまでも待てるわけじゃない。あの男は毎日削っている。人間は、削られ続ければ必ずどこかで折れる。
俺が持っているのは、時間じゃない。
須藤が耐えられる日数だけだ。
……それは、そう長くない。
だとすれば。
向こうが焦れるのを待つのではなく、焦れさせなければならない。
餌に食いつかない魚を前にして、釣り人が何を考えるか。
場所を変えるか、餌を変えるか――あるいは、魚がいないと思って引き上げるか。
三つ目に持っていければ、それが一番安い。
……そのためには。
俺は、机の引き出しを開けた。
箱の中身は、8本のままだ。
金は0。手札は何もない。
あるのは、あの男が「まだ知らないこと」だけだ。
――知らないでいてもらう、という手札が一つ。
悪くない。
卓の上で一番強い牌は、相手がまだ見ていない牌だ。