「行くつもりね」
昼休み、堀北が俺の机の前に立った。
顔を見ただけでわかったらしい。
「約束したはずよ。動くときは相談する、と」
「今、聞いてるだろ」
「事後じゃないの、それ」
堀北は、腕を組んだ。
「……止めても、行くのでしょうね」
「ああ」
「理由を聞かせて」
「須藤が保たねえ」
俺は答えた。
「あと一週間もすれば、あの男は殴る。殴った瞬間に退学だ。……そうなったら、俺が使った10万は、ただ捨てただけになる」
堀北は、何か言おうとして、飲み込んだ。
この女は、俺が須藤のために行くとは言わないことを知っている。
だから、俺が「10万が無駄になる」と言い換えるのも、わかっている。
「……危険よ」
「そうだな」
「向こうの教室に一人で乗り込むのでしょう。人目もない。何をされるか」
「殴られたら、それはそれで使える」
「……は?」
「あの男が手を出したら、その時点であいつが退学だ。……こっちは痛えだけで済む」
堀北の顔が、露骨に歪んだ。
「あなた、自分が殴られる前提で話をしているの」
「勘定の話だ」
「勘定の話をしているつもりで、命を賭けているのよ、あなたは」
……。
悪くない指摘だった。
この女は、時々、こちらの芯を正確に突く。
「一つだけ、約束して」
堀北は、諦めた顔で言った。
「終わったら、何があったか私に話すこと。……黙って一人で終わらせるのは、なし」
「いいだろう」
俺は頷いた。
それくらいなら、安いものだった。
六月の終わり、俺はCクラスの教室へ行った。
放課後だ。廊下から覗くと、中には10人ほど残っていた。
その中心に、あの男がいた。
机に腰を乗せて、足を組んでいる。取り巻きが三人ほど、その周りに立っていた。
俺が入口に立った瞬間、教室の空気が変わった。
「……なんだ、てめえ」
一人が気づいて、声を上げた。
「Dクラスが、何の用だ」
俺は答えなかった。
龍園を見ていた。
あの男も、こちらを見た。
それから、笑った。
「クックック」
喉の奥で鳴る、あの笑い方だ。
「来たか」
……。
待っていた、という言い方だった。
当然だ。この男は、誰かが来るのを待っていた。
来た人間が、探していた相手だからだ。
「入れよ」
龍園が顎で示した。
俺は教室に入った。
取り巻きが、自然と道を空けて、そのまま俺の背後に回る。
……囲まれた形になった。
昇降口の時と、まるで違う。あそこは人目があった。ここにはない。
だが、俺は足を止めなかった。
龍園の正面まで歩いて、立った。
「話がある」
「言ってみろ」
「須藤に付いてる連中を、外せ」
龍園の眉が、わずかに上がった。
それから、また笑った。
「クックック。……ずいぶん、まっすぐ来たじゃねえか」
「回りくどいのは苦手でな」
「で? 俺が外す理由は」
「取引だ」
教室が、静かになった。
「あんたが欲しがってるもんを、売ってやる」
龍園の目が、細くなった。
「……ほう」
「あんたは、須藤に金を出した人間を探してる。だから毎日、須藤の周りに人を置いてる。……違うか」
答えはなかった。
だが、否定もしなかった。
「それを教える。……代わりに、須藤から手を引け」
沈黙が落ちた。
取り巻きの一人が、何か言いかけて、やめた。
龍園は、しばらく俺を見ていた。
値踏みしている目だった。
「なあ赤木」
龍園が、ゆっくり口を開いた。
「てめえ、自分が何を言ってるかわかってんのか」
「わかってる」
「俺は今、金を出した奴を探してる。……その情報を売るってことは、てめえがそいつを知ってるってことだ」
「そうだな」
「知ってる人間ってのは、身内だ。Dクラスの中でも、かなり近え位置にいる」
龍園は、机から降りた。
「つまり、俺はてめえを締め上げりゃいい。売る売らねえの話じゃなく、吐かせりゃ済む」
……当然の返しだ。
俺は、頷いた。
「やってみるか」
龍園の動きが、止まった。
「ここには人目がねえ。あんたの言う通りだ。今、あんたが俺を殴っても、誰も見ちゃいねえ」
俺は、周りを見回した。
取り巻きが三人。全員がこちらを見ている。
「だが、この教室に10人いる。全員が見てる」
「……こいつらは、俺を売らねえよ」
「今日はな」
俺は言った。
「Cクラスがずっとあんたの下にいるとは限らねえ。一年後、二年後、この中の誰かがあんたを引きずり降ろしたくなった時――今日のことが、一番安く使える札になる」
龍園の顔から、笑いが消えた。
「一発殴るだけで、あんたは10人に弱みを配ることになる。……それが安いかどうかは、あんたが決めりゃいい」
教室が、水を打ったように静かになった。
誰も動かなかった。
「……クックック」
龍園が、また笑った。
今度は、少し違う笑い方だった。
「面白えな、てめえ」
「そりゃどうも」
「いいぜ。買ってやる」
龍園は、机に座り直した。
「須藤から手を引く。……その代わり、聞かせてもらうぜ。誰が10万出した」
――来た。
俺は、一拍置いた。
この一拍が、値段を決める。
「俺だ」
……。
教室の全員が、俺を見ていた。
龍園も、俺を見ていた。
それから、笑い出した。
「はァ? てめえが?」
「そうだ」
「馬鹿言え。Dクラスは全員空だっただろうが。てめえ、ポイント0のクラスの人間だぞ」
「四月分を、一度も使わなかった」
俺は言った。
「板の使い方を知らなかったからだ。買い物も、支払いも、何一つできなかった。……だから、減らなかった」
龍園の笑いが、少しずつ止まっていった。
「毎日、山菜定食を食ってた。あれだけは、機械を使わずに出てくるからな」
誰かが、小さく笑った。
すぐに、その笑いも消えた。
龍園の顔が、変わっていたからだ。
「……使い方を、知らなかっただと」
「ああ」
「一ヶ月もか」
「そうだ」
龍園は、しばらく無言だった。
そして、気づいた顔をした。
この男は、頭が回る。
だから、次に何を言うかも、大体読めていた。
「……じゃあ、今は」
「0だ」
俺は答えた。
「全部使った。一点買うのに、ちょうど10万かかった。……今の俺は、この学校で一番貧乏な部類だ」
沈黙が、教室を満たした。
……さて。
今、この男の頭の中で何が起きているか。
あの男は、二週間ほど、須藤に人を張り付けていた。三人を毎日動かして、機会を窺って、こちらが出てくるのを待っていた。
それだけの手間をかけて、得た答えがこれだ。
――Dクラスに金を持っている人間はいない。
いや、正確には「いた」。だが、もういない。
あの男が探していた金は、探し始めた時点で、既に消えていた。
二週間、空を掘っていたことになる。
……これが、一番効く。
賭場でも、同じだ。
大きく張り込んだ客が、一番受け入れられないのは「負けた」ことじゃない。
最初から、そこに何も無かったと知ることだ。
負けたのなら、まだ相手がいる。取り返す先がある。
だが、空を掘っていたと知った人間には、恨む相手すらいない。
自分の手間が、まるごと無駄だったという事実だけが残る。
「……てめえ」
龍園の声が、低くなっていた。
「嘘じゃねえだろうな」
「調べりゃわかる」
俺は答えた。
「須藤の一点が10万で買われたのは事実だ。俺の残高が0なのも事実だ。……その二つを繋げるのに、頭は要らねえ」
龍園は、答えなかった。
だが、この男はもう繋げている。
繋げた上で、認めたくないだけだ。
「一つ、言っておく」
俺は続けた。
「あんたは、いい仕事をした」
「……あ?」
「須藤を削るやり方だ。手を出さず、規則も破らず、毎日少しずつ。……あれは、上手い」
俺は、正直に言った。
「実際、俺は動いた。あんたの狙い通りだ。二週間で、俺をここまで引っ張り出した」
龍園が、俺を見ていた。
「読みは、外れちゃいねえ。金を出した奴は、庇いに来た。……ただ」
俺は言った。
「釣り上げた魚が、痩せてただけだ」
沈黙。
それから――
「クハハ!」
龍園が、声を上げて笑った。
今までとは違う、大きな笑いだった。
「クハハハハ! そうかよ、痩せてたか!」
取り巻きが、困惑した顔で顔を見合わせている。
「気に入った。……いや、前より気に入ったぜ、赤木」
龍園は、机から降りて、俺の前に立った。
顔が近い。
「てめえ、面白えな。俺の網に自分から入ってきて、その網が空だって教えて帰ってくやがる」
「取引だからな」
「取引? クックック……」
龍園は、俺の肩に手を置いた。
軽く叩く。だが、力は入っていた。
「約束は守るぜ。須藤からは手を引く。……もう用がねえからな」
「そうかい」
「だがな、赤木」
その手に、少しだけ力が入った。
「てめえは、覚えとくぜ」
……。
来たか。
「今日わかったことが一つある。Dクラスに、金はねえ。……だが、頭の回る奴が一人いる」
龍園は、俺の目を覗き込んでいた。
「金より、そっちの方が面倒だ」
俺は、答えなかった。
Cクラスの教室を出て、廊下を歩いた。
……取引は成立した。
須藤への圧力は止まる。あの男は約束を守る類の人間だ。守らない方が損だとわかっているからだ。
こちらが払ったのは、10万の使い道という情報一つ。
あれには、もう何の値打ちもない。
金が残っていれば、あれは重い情報だった。「誰から奪えばいいか」がわかるからだ。だが、金が消えた後では、ただの昔話でしかない。
――値打ちのない物を、言い値で買わせた。
賭場でなら、上出来の部類だ。
だが。
俺は歩きながら、肩に残った感触を思い出していた。
――てめえは、覚えとくぜ。
……そこだ。
俺は、金の話を終わらせた。
代わりに、自分の顔を覚えさせた。
入学式の日、俺はこう思った。
数に入れられていない打ち手ほど、動きやすいものはない、と。
今日、俺はその立場を捨てた。
あの男の頭の中に、俺は「Dクラスの頭の回る奴」として書き込まれた。
これから先、Dクラスに何か仕掛ける時、あの男は必ず俺を勘定に入れる。
……高くついたな。
いや。
俺は、少し考え直した。
高いかどうかは、まだわからない。
覚えられるということは、次に卓を囲む時、あの男が俺の前に座るということでもある。
――それは、こちらが望んでいたことでもある。
俺は廊下の窓を見た。
夕方の光が、白い校舎を橙色にしていた。
二ヶ月半、この学校で俺がやってきたのは、ずっと後始末のようなものだった。
配られた紙を読み、線を数え、越え方を探す。
悪くはない。だが、あれは打っているとは言わない。
今日、初めて、こちらから張った。
……それだけで、体の芯が少し熱い。
久しぶりだ。
この感じは、あの夜以来だった。
翌朝、須藤は妙な顔で走りに来た。
「なあ。あいつら、来なくなったんだけど」
「そうか」
「昨日から、ぱったり。……なんでだと思う?」
「飽きたんだろ」
「飽きた?」
「そんなもんだ」
須藤は、しばらく走ってから、言った。
「……お前、なんかしたろ」
「してねえ」
「してんだろ」
「してねえよ」
押し問答になった。
三度目に否定したところで、須藤は諦めたように息を吐いた。
「……まあいいわ」
あの男は、それ以上訊かなかった。
代わりに、走る速さを少し上げた。
俺は、それについていった。
息が上がる。だが、悪くはなかった。
――こいつは、まだ削られていない。
二週間、毎日削られて、それでも一発も出さなかった。
殴らなかったのは、俺のためじゃない。この男が、自分で堪えたからだ。
……大したもんだ。
言うつもりはないが。
その日の放課後、堀北に一部始終を話した。
約束だったからだ。
聞き終わった堀北は、長いこと黙っていた。
「……つまり」
ようやく口を開いた。
「あなたは、価値のなくなった情報を、価値があるうちに買わせたのね」
「そうだ」
「相手が二週間かけたせいで、答えが無価値だと認められなくなっていた、と」
「そうだ」
堀北は、額に手を当てた。
「……趣味が悪いわ」
「賭場じゃ、褒め言葉だ」
「褒めていないのよ」
それから、堀北は少し真面目な顔になった。
「でも、あなた、目をつけられたのでしょう」
「ああ」
「それは、私たちにとって良くないことよ。……Dクラスに厄介な人間がいると認識された」
「そうだな」
「わかっているなら――」
「だが、堀北」
俺は言った。
「あの男は、いずれこのクラスに来た。……俺がいようがいまいがだ」
堀北が、口を閉じた。
「今日わかったのは、あいつが手を出す気がねえってことだ。殴らずに人を折るやり方を選んでる。……それがわかっただけで、こっちは随分楽になる」
「……どういう意味」
「殴ってこねえ相手なら、こっちも殴らずに済む」
俺は答えた。
「殴り合いなら、この学校じゃ先に手を出した方が負けだ。……だが、殴らねえ勝負なら、まだやりようがある」
堀北は、しばらく俺を見ていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……あなた、少し楽しそうね」
「そうかい」
「ええ。……初めて見る顔よ」