入学式の日、オレはその男を見つけていた。
体育館に詰め込まれた新入生の中で、一人だけ座り方が違った。
背筋が伸びているわけでも、姿勢が悪いわけでもない。ただ、周囲との連動が一切なかった。
人間は無意識に周りと同期する。誰かが咳をすれば数人が身じろぎし、壇上の声が途切れれば全体の緊張が緩む。教室でも講堂でも、必ずそうなる。
あの男には、それがなかった。
白い髪。細身。年齢の割に落ち着きすぎた表情。
オレの評価は、その時点では保留だった。単に集団に慣れていないだけの人間は、どこにでもいる。
だが、退学の話が出た瞬間、あの男の目の焦点が変わった。
全体で40人ほどが同じ話を聞いていた。姿勢を変えたのは、オレの見た限り三人。堀北鈴音、平田洋介、そしてあの男だ。
前の二人は、危機感によるものだ。恐れが集中を生んだ。
あの男だけが違った。
あれは、恐れの反応ではない。
――興味だ。
この説明を聞いて、最初に興味を示すことができる人間を、オレはホワイトルームでの日々の中でも見たことがなかった。
赤木しげる。
名前を知ったのは、それから一ヶ月以上経ってからだ。
オレは意図的に接触を避けていた。観察対象に近づけば、対象の行動が変わる。距離を取ったまま記録する方が、精度が高い。
だが、四月の終わりに、こちらの想定が崩れた。
あの男が、授業中に堂々と眠った。
次の授業では、無断で教室を出て、五分後に戻ってきた。
どちらも、退屈や反抗ではない。
戻ってきた瞬間、あの男は真っ先に教壇を見た。廊下でも、自分の席でもなく、茶柱の顔だ。
反応を計測していた。
この学校でそれをやる新入生は、ほぼいない。ほとんどの生徒は、何かを試す前に「怒られるかもしれない」で止まる。あの男は、怒られるかどうかを確かめるために動いた。
オレは、記録の欄を一つ書き換えた。
――観察対象を、要注意に。
五月一日の朝、Dクラスのポイントが0になった。
教室が騒ぐ中で、あの男は一度も端末を見なかった。
当時のオレは、それを「関心がない」と解釈した。
これは誤りだった。
後でわかったことだが、あの男は端末を操作できなかった。見なかったのではなく、見ても意味がなかったのだ。
この誤読は、オレの分析における数少ない失点の一つになる。
最も観察していたつもりの対象について、最も基本的な前提を外していた。
――人は、自分が知らないことを想定できない。
あの男が「端末の使い方を知らない可能性」を、オレは一度も検討しなかった。この学校に来て、それを知らない人間がいるはずがないからだ。
そのはずがない、という前提こそが、盲点だった。
あの男が茶柱に質問した時、オレは初めて背筋の内側に妙な感覚を覚えた。
「ポイントが0のまま、月が変わったらどうなる」
教室の全員が「どうすれば戻るのか」を訊いていた場面だ。
あの男だけが、下限を訊いた。
これは、リスク評価の順序が逆転している人間の質問だ。
通常、人間は利得から考える。どうすれば得をするか、どうすれば助かるか。損失の下限を先に確定させようとする人間は、極めて少ない。
オレの知る限り、その思考順序を持つ人間は、二種類しかいない。
訓練された者か――
あるいは、日常的に致命的な損失に晒されてきた者だ。
あの男は、訓練された人間の動きをしていない。動作に統一された規格がない。
だとすれば、後者になる。
十五歳の生徒が、日常的に致命的な損失に晒されてきた。
その仮定は、この学校の入学者選抜と整合しない。
オレは、あの男の記録を確認した。
方法は書かない。手段は残す価値がない。
結果だけを言えば、赤木しげるの学籍記録には、複数の齟齬がある。
入学以前の学歴に、説明されない空白がある。健康診断の記録が、他の生徒と同じ書式で存在しているにもかかわらず、実施日と数値の整合が取れていない。
身長体重の実測値は、十五歳男子の分布の下限に近い。ただし、これは個体差の範囲で説明できる。
説明できないのは、骨年齢に関する項目だ。
該当欄は、空白のまま処理されている。
この学校の管理は、空白を許さない。全項目を埋めなければ、システムが受理しない設計になっているはずだ。
にもかかわらず、その一項目だけが空欄で通っている。
――誰かが、通した。
オレはそこで調査を止めた。
これ以上進めば、オレ自身が別の何かに接続する。この学校の管理系統に触れるということは、そういう意味を持つ。
興味と危険が釣り合わなかった。
ただし、結論は一つ出た。
赤木しげるという生徒は、この学校の正規の手続きの外側から入っている。
誰の意思で、何のためかは、現時点では不明だ。
過去問の一件は、あの男の思考をよく示していた。
範囲変更の通知がDクラスにだけ来ていないことを、あの男は一週間前に把握していた。把握した上で、公表しなかった。
過去問という解決策が揃うまで待った。
あの場でオレが評価したのは、待てたという事実の方だ。
情報の価値は、鮮度ではなく、受け手が対価を払える状態にあるかどうかで決まる。それを理解している人間は多くない。理解していても、実行できる人間はさらに少ない。
人は、知っていることを言いたがる。
あの男は、言わなかった。
その時点で、オレは一つの結論に達している。
――この男は、こちらの手法と近い場所にいる。
ただし、根が違う。
オレの手法は、学習と設計によるものだ。効率的な結果を出すために、そのように行動するべきだと判断している。
あの男は、そうではない。
あれは、生存の結果として身についた形をしている。
教えられたのではなく、間違えれば終わる環境で、間違えなかった個体だけが持つ形だ。
どちらが強いかは、状況による。
だが、模倣が困難なのは、明らかに後者だ。
須藤健の一点を、あの男は自分の全財産で買った。
オレは払わなかった。
理由は単純だ。オレが支出すれば、オレの残高が動く。この学校で、記録に残る形で10万を動かすことには、それ自体に意味が生じる。
誰がその金額を動かせるのか、という問いが立つ。立った問いは、必ず誰かが辿る。
だから、オレは払わない。
須藤健の退学は、オレの計画に有意な影響を与えない。人数が一人減ることによるクラスポイントへの影響は限定的で、代替は効く。
――そう判断した。
その判断は、今も誤っていないと考えている。
ただ一点、想定していなかったことがある。
あの男が、払うと思っていなかった。
合理的に説明できない支出だ。回収の見込みがない。恩を売る相手としての須藤の価値は低い。あの男自身、それを正確に理解していた。
理解した上で、払った。
オレは、その理由を今も特定できていない。
「気に入らねえからだ」
あの男はそう言ったと聞いている。
説明になっていない。だが、嘘でもないのだろう。
――計算で動いていない領域が、あの男には残っている。
オレには、それがない。
これは、優劣の話ではない。
ただ、予測の難易度が違う。
完全に計算で動く人間は、条件さえ揃えば読める。オレは自分自身を、その意味では最も読みやすい人間だと認識している。
あの男は、読めない。
どれだけ観察しても、最後の一手だけが計算から外れる。
龍園翔がDクラスの資金源を探し始めた時、オレは動かなかった。
解法は複数あった。
龍園に別の標的を与える。須藤を物理的に隔離する。あるいは、匿名で情報を流して探索の方向をずらす。
どれも実行可能だった。
オレが選んだのは、待機だ。
理由は二つある。
一つは、オレが動けば、オレの存在が龍園の視界に入る。これは避けたい。
もう一つは――
赤木しげるが動くと、予測できたからだ。
あの男は、自分が使った10万を無駄にすることを許容しない。須藤が退学すれば、あの支出は完全な損失になる。あの男の思考順序からすれば、必ず動く。
オレは、それを確認した。
「お前は、動くのか」
昇降口で、そう訊いた。
答えは「動かねえよ。今はな」だった。
――嘘ではない。だが、意味は明白だった。
今は動かない、という言い方をする人間は、いつ動くかを既に決めている。
オレは、その時点で結論を出した。
この件は、あの男が処理する。
オレは、何もしなくていい。
結果として、あの男は龍園の前に一人で立ち、須藤への圧力を止めさせ、代わりに龍園の記憶に自分の名前を刻んで帰ってきた。
処理としては、最適に近い。
オレが同じ立場なら、恐らく同じ結果は出せなかった。オレの手法では、龍園に「面白い」と思わせることができない。
オレの説得は、常に正しい。正しいがゆえに、相手の感情を動かさない。
あの男は、正しさで龍園を動かしていない。
賭けとして提示し、龍園自身に選ばせている。
選ばせた以上、龍園は自分の判断として約束を守る。強制された約束より、はるかに強い。
――模倣は、できない。
オレにできるのは、あの手法が有効であると記録することだけだ。
ここで、一つ整理しておく必要がある。
あの男が龍園の前に出たことによって、オレは龍園の視界から外れた。
Dクラスに「頭の回る人間」がいるという認識を、龍園は持った。
その認識の対象は、赤木しげるだ。
オレではない。
この結果は、オレにとって極めて都合がいい。
問題は――
あの男が、それを意図していたかどうかだ。
オレは、その可能性を検討した。
あの男は、オレが何かを隠していることを知っている。試験の点数を自分で決めていることも、見抜かれている。「点を自分で決められる奴ってのは、卓じゃ一番タチが悪い」と、直接言われた。
その上で、龍園の注意を自分に集めた。
オレを庇ったのか。
……いや。
結論から言えば、そうではない。
あの男は、オレを守っていない。
あの男は、オレを取っておいている。
龍園に先にオレを見つけられ、潰されるか、取り込まれるかされては困る。そうなれば、あの男自身がオレと向き合う機会が消える。
だから、龍園の目を自分に引き寄せた。
オレのためではない。
自分のためだ。
――卓に、オレを残しておくために。
この解釈は、あの男の言動と矛盾しない。むしろ、他のどの解釈よりも整合する。
そして、この解釈が正しいなら。
オレは、都合よく守られたのではない。
――取り置かれている。
いずれ使われるものとして、盤の上に残されている。
窓の外は、もう暗い。
オレは端末を伏せた。
この二ヶ月半で、オレの計画に生じた変更はない。目立たず、記録を残さず、卒業まで到達する。それだけだ。
変更はないが、変数が一つ増えた。
赤木しげる。
この学校の手続きの外側から入ってきた、出自不明の生徒。
こちらの手法を理解し、こちらの隠蔽を見抜き、その上で――
こちらを、後で使うために温存している人間。
……興味深い、と言うべきなのだろう。
オレは、その感覚を正確に名付けられない。
ホワイトルームで教えられた語彙の中に、該当する項目がない。
ただ一つ、確かなことがある。
あの男が「そろそろだ」と判断した時、オレに拒否権はない。
その時が来るまで、オレは記録を続ける。