七月に入った。
教室は、落ち着いていた。
六月分の1万が振り込まれ、七月にはもう少し増える見込みらしい。クラスポイントは100から少しずつ動いている。遅刻も私語も、あの頃に比べれば見違えるほど減った。
平田が仕切り、堀北が締め、櫛田が間を取り持つ。悪くない形だ。
俺は、朝は須藤と走り、昼は山菜定食を食っている。
「まだそれ食ってんのかよ」
昼、須藤が呆れた顔で言った。
「1万入っただろ。もっとマシなもん食えって」
「腹は膨れる」
「そういう問題じゃねえだろ」
この男は、俺が金を使わないことに納得がいかないらしい。
だが、俺には俺の理屈がある。
1万は、大した額じゃない。だが、使わなければ来月には2万になる。二ヶ月使わなければ、3万だ。
――積んでおかないと、張れない。
六月、俺は10万を一度に張った。あれで須藤の首は繋がったが、代わりに手元は空になった。
空の状態で次の勝負が来たら、俺は何も出せない。
だから、また積む。
昼飯を我慢するのは、そのためだ。味の話じゃない。
「お前さ。金貯めて、何買うつもりなんだ」
「何も買わねえ」
「は?」
「買うために貯めてるんじゃねえ」
俺は答えた。
「張るために貯めてる」
須藤は、しばらく考えて、諦めた顔をした。
「……お前の言うことは、たまに日本語じゃねえな」
悪くない評だった。
昼を過ぎれば、あとはやることがない。
教室の後ろの席から、俺は大抵、そのまま眺めている。誰が誰と話すか、誰が誰を避けるか。それくらいしか見るものがない。
……退屈だ。
悪い意味ではない。
嵐が過ぎた後の海は、必ずこうなる。凪いでいる間に、次の波を作る何かが、どこかで動いている。
俺はそれを待っていた。
その日の放課後、茶柱に呼ばれた。
職員室ではなかった。
指定されたのは、特別棟の空き教室だった。
行くと、あの女は窓際に立っていた。
誰もいない。
……ほう。
人目のある職員室ではなく、こちらを選んだ。
この一手だけで、話の中身が大体読めた。
「座れ」
「立ってる」
「そうか」
茶柱は、それ以上勧めなかった。
少しの間、外を見ていた。
「龍園翔と、取引をしたそうだな」
「ほう」
「否定しないのか」
「あんたが確信もなく口を開くとは思えねえ」
二ヶ月前と、同じ返しになった。
茶柱の口の端が、わずかに動いた気がした。
「Cクラスの生徒が、須藤の周辺から一斉に消えた。同じ日に、お前がCクラスの教室に入ったという報告がある」
「見られてたか」
「この学校で、見られていないことがあると思うのか」
……その通りだ。
「学校は、何もしなかったがな」
「規則を破っていないからな」
俺は言った。
「見た上で、黙ってる。……あんたらの得意技だ」
茶柱は、答えなかった。
だが、否定もしなかった。
「本題だ」
茶柱が、ようやくこちらを向いた。
「夏に、特別試験がある」
「ほう」
「詳細はまだ言えん。だが、これまでの筆記試験とは種類が違う。……クラス全体の順位で、クラスポイントが大きく動く」
「そうかい」
「Dクラスは、現在最下位だ。100ポイントしか持っていない」
俺は頷いた。
ここまでは、事務連絡だ。
問題は、なぜそれを俺一人に、人目のない場所で言うのか、という一点だけだ。
「なぜ、俺に言う」
茶柱の眉が、動いた。
「担任として、生徒に情報を――」
「そいつは職員室でやることだ」
俺は遮った。
「ここに呼んだってことは、職員室じゃ言えねえ話がある。……違うか」
沈黙が落ちた。
窓の外で、部活の掛け声が遠く聞こえていた。
「……お前は」
茶柱が、少し声の調子を変えた。
「本当に、十五か」
……。
来たか。
俺は答えなかった。
この女は、俺の顔を見ていた。
「答えなくていい」
茶柱は、視線を外した。
「私が確かめたのは、そこじゃない。……お前が、どういう答え方をするかだ」
なるほど。
訊いたのは、中身じゃない。反応の方だ。
――同じことを、俺もやる。
「一つ、言っておく」
茶柱は続けた。
「私は、お前が何者かに興味がない。書類上、お前は一年Dクラスの生徒だ。それ以上のことを知る立場に、私はいない」
「立場に、ねえ」
「そうだ」
……。
いい言い方をする。
知らないとは言わなかった。知る立場にないと言った。
つまり、知っているかもしれないが、その話はしない、ということだ。
「で、本題は」
「Dクラスを、上げろ」
茶柱は、はっきりと言った。
「夏の試験で、最下位から抜けろ。……できるとは言わん。だが、やる気のある人間が必要だ」
「平田か堀北に言え」
「言った」
「じゃあ十分だろ」
「足りん」
茶柱の声が、少し強くなった。
「あの二人は、正しく動く。だが、正しい動き方しかできない。……相手が正しくない場合、正しさは何の役にも立たん」
……。
ほう。
この女は、それをわかっている。
「お前は、正しくない方も知っているだろう」
「知ってるさ」
俺は答えた。
それから、続けた。
「だが、一つ妙だな」
「……何がだ」
「俺が最初じゃねえだろ」
茶柱の動きが、止まった。
……ほう。
当たりか。
「あんたが欲しいのは、正しくない動きができる人間だ。……この教室に、俺より先に思い当たる奴がいる」
俺は言った。
「綾小路だ」
沈黙が落ちた。
窓の外の掛け声が、やけに大きく聞こえた。
「……なぜ、その名前が出る」
「あんたも見てるからだ」
俺は答えた。
「あの男は、点を自分で決めてる。取れるのに取らねえ。……一ヶ月も同じ教室にいて、それに気づかねえ教師なら、そもそもあんたはここに俺を呼んでねえ」
茶柱は、答えなかった。
俺は続けた。
「あんたは、先にあいつに言った。……そして、断られたか、まともに取り合ってもらえなかった」
「……」
「だから、二番目に俺のところへ来た。違うか」
長い沈黙があった。
やがて、茶柱は視線を外した。
「……否定はしない」
――なるほど。
これで、二つわかった。
一つ。この女は、綾小路が何かを隠していることを知っている。
二つ。それを知った上で、あの男を動かせなかった。
……面白いな。
あの男は、教師相手にも同じ手を使ったわけだ。
嘘はつかない。ただ、動く理由がないと言う。
理由がないと言われた相手は、理由を作るしかなくなる。作れなければ、諦めて別の人間を探すしかない。
――だから、俺のところに来た。
俺は、その事実を頭の隅に置いた。
教師に「動かない」と言い切れる生徒が、この教室にいる。
そして教師は、それを崩せていない。
「……お前は」
茶柱が、低い声で言った。
「そこまで見えていて、なぜ自分から動かない」
「動く理由がねえからだ」
俺は答えた。
言ってから、少し可笑しくなった。
……同じ答えを返しているわけだ、俺も。
あの男が教師に言ったであろう言葉を、俺が今、同じ相手に言っている。
「――なるほどな」
茶柱が、低く言った。
「二人揃って、同じ返し方をする」
「そりゃ、同じことを訊かれてるからだ」
「なら、こちらも同じ手を打つ」
茶柱は、まっすぐこちらを見た。
「理由がないと言うなら、作ればいい。……お前が動く理由を、私が並べてやる」
……ほう。
来たか。
これが、あの男に対してやったことの、俺への版だ。
「聞こうか」
「クラスが落ちれば、お前も困る」
「困らねえよ」
俺は言った。
「俺は元々、最下位のクラスの、最下位の成績だ。これ以上落ちる場所がねえ。……落ちる場所がねえ人間は、落ちるのが怖くねえ」
茶柱の表情が、初めてはっきりと動いた。
俺は、少し間を置いてから続けた。
「あんた、なんで必死なんだ」
「……何」
「Dクラスが最下位でも、あんたは困らねえはずだ。担任の評価が下がるくらいだろう。……だが、二人続けて生徒に頭を下げる顔じゃねえ」
茶柱が、黙った。
「二ヶ月前、俺は訊いた。生徒に落ちてほしいのか、落ちてほしくねえのかと。あんたは『私は、教師だ』と答えた」
俺は言った。
「あれは、答えたくなかったんじゃねえ。……答えられなかったんだな」
窓際の女は、動かなかった。
だが、その沈黙が答えだった。
長い沈黙があった。
それから、茶柱は言った。
「……借りにしておけ」
「何」
「今日の話は、私からの頼みだ。命令ではない。……お前がそれを聞いたなら、私はお前に借りを作ることになる」
……ほう。
この女は、頭が回る。
自分の立場が今どうなっているかを、正確に理解している。
教師が生徒に「頼む」というのは、そういうことだ。
――大人ってのは、子供に頼み事をした瞬間に、大人じゃなくなる。
賭場でも同じだ。胴元が客に「頼む」と言った瞬間、その場の上下は入れ替わる。金を持っている方が上なんじゃない。頼まなくて済む方が上なんだ。
この女は、それを承知で言っている。
承知した上で、頭を下げた。
……悪くない。
「一つ訊く」
俺は言った。
「その借り、いつでも使えるのか」
「……内容による」
「じゃあ、今は言わねえ」
俺は答えた。
「取っておく」
茶柱が、俺を見た。
この女は、今、自分が何を渡したかを正確に理解している。
いつ何を求められるかわからない借りほど、重いものはない。
金の借りなら、額がわかる。返せば終わる。
だが、中身の決まっていない借りは、返しようがない。返しようがないものは、いつまでも相手の手の中に残る。
「……お前は、本当に」
茶柱は、そこで言葉を切った。
それ以上は言わなかった。
特別棟を出たところで、堀北が立っていた。
待っていたらしい。
「……茶柱先生に呼ばれていたのでしょう」
「よく知ってるな」
「職員室に行ったら、先生がいなかったの。あなたも教室にいなかった。……それだけよ」
この女は、こういう繋げ方をする。
「何を言われたの」
「夏に特別試験があるとよ」
「それは私も聞いたわ。……先週、平田くんと一緒に呼ばれた」
……ほう。
同じことを、既に言っている。
なのに、俺をわざわざ人のいない場所に呼んだ。
やはり、そういうことだ。
「他には」
「Dクラスを上げろとさ」
「それも聞いたわ」
堀北は、少し苛立った様子だった。
「なら、あなたを別に呼ぶ理由がないでしょう。……何を言われたの、本当は」
俺は、少し考えた。
この女には、言っておいた方がいい。
この女は、俺が黙ることを一番嫌う。そして、黙られた時に一番厄介な動き方をする。
「あの女は、俺に頼んだ」
「……頼んだ?」
「命令じゃねえ。頼みだと、はっきり言った」
堀北の表情が、変わった。
この女は、頭が回る。
言葉の重さを、すぐに測れる人間だ。
「教師が、生徒に頼み事を」
「そうだ」
「……それは、まずいわ」
堀北の声が、低くなった。
「教師が生徒に頼むということは、その教師が何かを抱えているということでしょう。抱えているものがある人間は、いずれそれを守るために生徒を使う」
なるほど。
この女も、そこまでは読んだか。
「わかってるさ」
「わかっていて、受けたの」
「受けてねえ」
俺は答えた。
「借りにしておけと言われたから、そのままにしてある。……使う時は、向こうが来る」
「同じことじゃない」
「違うな」
俺は言った。
「受けたなら、俺があの女のために動く。借りのままなら、あの女が俺のために動く番が先に来る」
堀北が、口を閉じた。
それから、深く息を吐いた。
「……あなた、本当に十五歳?」
――今日、二度目だ。
俺は答えなかった。
堀北も、それ以上は訊かなかった。
……さて。
夏に、大きいのが来るらしい。
筆記じゃない。クラス全体の順位で決まる。
――ようやくか。
紙の上で点を数えるのは、もう十分にやった。
あれは試験であって、勝負じゃない。相手がいない。誰かの手を読む必要も、こちらの手を隠す必要もない。
クラス全体の順位で決まるということは、相手がいるということだ。
他の三つのクラスが、同じ場所で、同じものを取り合う。
……そういうのを、俺は知っている。
俺は歩きながら、懐の端末に触れた。
中身は1万と少し。
一ヶ月前、10万を持っていた時よりも、はるかに心細い額だ。
だが、あの時よりも遥かに多くのものを持っている。
須藤が黙っていること。堀北が知っていること。綾小路が理由を待っていること。龍園が俺を覚えていること。
そして今日、茶柱が一つ借りを作った。
どれも金にはならない。
……いや。
俺は少し考え直した。
金にならないんじゃない。
金より先に効くだけだ。
この学校は、何にでも値段をつける。だが、値段のつくものは、金さえあれば誰にでも買える。
値段のつかないものだけが、こっちにしか無い。
――それを積んで卓に着くのが、俺の打ち方だ。
夏まで、あと少しある。
その間に、もう少し積んでおくとしよう。
寮に戻り、引き出しを開けた。
箱の残りは、8本のまま動いていない。
あの日以来、一本も吸っていなかった。
……そういえば。
これも、同じことか。
吸えば無くなる。吸わなければ残る。残っている限り、いつでも吸えるという事実だけが手元にある。
値打ちがあるのは、煙草そのものじゃない。
「まだ吸っていない」という状態の方だ。
――使っていない札は、使った瞬間に値打ちが半分になる。
金も、情報も、借りも、全部同じ形をしている。
持っている間は、相手はこちらが何を持っているか測りかねる。切った瞬間に、それは確定した一枚の紙切れになる。
だから、切る時は一度でいい。
一度で、盆をひっくり返せる時に切る。
俺は箱を戻し、引き出しを閉めた。
窓の外は、まだ明るい。
夏が近い。
この学校が用意した、最初のまともな卓が。