アカギ〜実力至上主義の教室に舞い降りた天才〜   作:GC

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 七月の終わりが近づくと、教室は浮ついた。

 

 夏休みの話ばかりだ。どこへ行くだの、何を買うだの。

 

「なあ赤木、夏どうすんの」

 

 池が話しかけてきた。

 

「どうもしねえ」

 

「え、寮でずっと? もったいねえって。プールとか行こうぜ」

 

「行かねえ」

 

「あー、こいつ誘っても無駄だわ」

 

 山内が笑い、二人はそのままどこかへ行った。

 

 ……夏休み。

 

 この学校の敷地から出られない以上、休みといっても場所は変わらない。

 

 変わるのは、授業がなくなることだけだ。

 

 ――授業がない、ということは。

 

 監視の目が減る。教室に集まる理由も消える。

 

 人が散らばって、誰がどこで何をしているかが見えにくくなる。

 

 そういう時期に、大きい試験がある。

 

 ……偶然じゃねえだろうな。

 

 この学校は、そういう置き方をする。

 

 

 

 

 

 終業式の数日前、綾小路が変わった。

 

 誰も気づいていない。

 

 平田も、堀北も、須藤も、誰一人として気づいていなかった。当然だ。変わったといっても、目に見えるものは何もない。

 

 教室での席の位置も、話す相手も、口数も、全部同じだ。

 

 だが、違う。

 

 俺は、朝の教室でそれに気づいた。

 

 

 

 

 

 人間には、二種類の立ち方がある。

 

 どこにも行く予定がない人間の立ち方と、行き先が決まっている人間の立ち方だ。

 

 外から見れば、どちらも同じに見える。だが、動き出す時の一拍目が違う。

 

 行き先のない人間は、動き出す前に一度、どこへ行くかを決める。その分だけ、最初の一歩が遅れる。

 

 行き先が決まっている人間は、その一拍がない。

 

 あの男は、この三ヶ月ずっと、前者だった。

 

 教室を出る時、鞄を持ち上げる時、必ず一拍あった。あの一拍は、こちらを測るための間だと、俺は思っていた。

 

 違ったのかもしれない。

 

 あれは単に、この学校でどこへも行く気がなかった人間の一拍だ。

 

 ――今朝、それが消えていた。

 

 ……ほう。

 

 誰かが、あの男に行き先を与えた。

 

 

 

 

 

 昼、俺は屋上に続く階段の踊り場で綾小路を捕まえた。

 

 あの男は、一人でそこにいた。

 

 誰かを避けているのではない。ただ、人のいない場所を選ぶ習慣がついているだけだろう。

 

「一つ訊きたい」

 

「……また、か」

 

「茶柱に、何を言われた」

 

 綾小路の動きが、完全に止まった。

 

 いつもの一拍ではない。もっと長い、明確な停止だった。

 

「……なぜ、そう思う」

 

「歩き方が変わった」

 

 俺は答えた。

 

「行き先の決まった人間の歩き方になってる。……三ヶ月、そうじゃなかった男がだ」

 

 綾小路は、答えなかった。

 

 しばらく、廊下の窓の方を見ていた。

 

「先月、あの女はあんたに頼んでる」

 

 俺は続けた。

 

「Dクラスを上げたい。そのために動いてくれと。……あんたは、動く理由がないと言って断った」

 

「……なぜ、それを」

 

「本人から聞いた」

 

 俺は言った。

 

「断られたあの女は、次に俺のところへ来た。同じ頼みだ。……そして俺も、受けなかった」

 

 綾小路は、黙って聞いていた。

 

「頼んで駄目な相手が、二人。……そこまでやって、まだDクラスを上げたい人間が、次に何をすると思う」

 

 沈黙が落ちた。

 

「頼んで動かねえなら、握るしかねえ」

 

 俺は言った。

 

「あんたが失いたくねえもんを一つ見つけて、それを盾にする。……あの女は、そうしたんだろ」

 

 長い沈黙だった。

 

「否定しないんだな」

 

「……否定する意味がない」

 

 綾小路は、そう答えた。

 

 

 

 

 

 それだけで、十分だった。

 

 ――脅された。

 

 脅されたということは、握られたということだ。

 

 この男には、人に知られたら困ることがある。それを、あの女が握った。

 

 ……なるほど。

 

 あの女が「知る立場にない」と言った時の、あの言い方。

 

 あれは、俺のことだけを指していたんじゃない。

 

 この学校の教師は、生徒の何かを知りうる立場にいる。そして、それを使うかどうかを、自分で決められる。

 

 俺の骨の年が空欄で通っているのも、あの男の過去が握られているのも、同じ場所から出ている。

 

「一つ、言っておく」

 

 俺は言った。

 

「怒っちゃいねえよ」

 

「……怒る理由がないだろう」

 

「あるさ」

 

 俺は答えた。

 

「俺は、あんたを取っておいたんだ」

 

 綾小路が、こちらを見た。

 

 初めて、まっすぐに。

 

「龍園の時、俺が前に出たのは、あんたを庇うためじゃねえ」

 

 俺は言った。

 

「あの男に先に見つけられて、潰されるか取り込まれるかされたら、俺があんたと向き合う機会が消える。……だから、目を俺に引いた」

 

「……」

 

「取っておいたつもりだった。……そこへ、横から手が伸びた」

 

 綾小路は、答えなかった。

 

 だが、その顔には、何かが浮かんでいた。

 

 驚きではない。

 

 ――既に、同じ結論に達していた人間の顔だ。

 

「……気づいていたのか」

 

「そっちも気づいてたろ」

 

「ああ」

 

 この男は、あっさり認めた。

 

「お前は、オレを守っていない。オレを取り置いている。……そう理解した」

 

「そうかい」

 

 ……。

 

 やはり、この男は面白い。

 

 こちらが言葉にする前に、同じ場所に立っている。

 

 

 

 

 

「で、あんたは何を約束させられた」

 

「言う義理はない」

 

「そうかい」

 

 俺は引かなかった。

 

「じゃあ、言い方を変える。……あんたは今、誰のために打つことになった」

 

 綾小路の目が、わずかに動いた。

 

「……どういう意味だ」

 

「三ヶ月、あんたは自分のために何もしなかった」

 

 俺は言った。

 

「目立たず、記録を残さず、卒業まで行く。それがあんたの打ち方だった。……それは、あんた自身が決めたことだ」

 

「……そうだな」

 

「今は違う。あんたは、あの女が決めた行き先に向かって歩いてる」

 

 俺は、綾小路の顔を見た。

 

「――それは、あんたの勝負じゃねえ」

 

 沈黙が落ちた。

 

 窓の外で、蝉が鳴き始めていた。

 

 

 

 

 

「……お前は」

 

 綾小路が、ようやく口を開いた。

 

「オレに、どうしろと言っている」

 

「どうもしろとは言わねえ」

 

 俺は答えた。

 

「あの女の言う通りに動いても構わん。それであんたが困らねえなら、俺が口を出す話じゃねえ」

 

「……なら、なぜ言った」

 

「面白くねえからだ」

 

 俺は、はっきりと言った。

 

「あんたと卓を囲む時、あんたが誰かに言われて座ってるんじゃ、話にならねえ。……脅されて張った手ってのは、どれだけ上手くても、ただの作業だ」

 

 綾小路は、じっと俺を見ていた。

 

「俺が見たいのは、あんたが自分の意思で張る手だ」

 

 俺は言った。

 

「あの女に借りがある。使えば、あんたを外してやることもできるかもしれん」

 

「……使うのか」

 

「使わねえ」

 

 俺は答えた。

 

「使ったら、あんたは俺に借りができる。……借りで座らせるのも、脅して座らせるのも、大して変わらねえだろ」

 

 綾小路の表情が、初めてはっきりと動いた。

 

 ほんのわずかにだが、確かに動いた。

 

 

 

 

 

 俺は、階段を降りようとした。

 

「赤木」

 

 背中に、声がかかった。

 

「一つ、訂正しておく」

 

 振り返ると、綾小路がこちらを見ていた。

 

「オレは、脅されて動くことにしたわけじゃない」

 

「ほう」

 

「あの人が持ち出したものは、確かに効く。……だが、それだけなら、オレは無視した」

 

 綾小路は、続けた。

 

「無視した場合に何が起きるかを、計算した。その上で、動く方が損が少ないと判断した。……それだけだ」

 

 ……。

 

 俺は、少し笑った。

 

「そりゃ、脅されたって言うんだ」

 

「違う」

 

「同じだ」

 

 俺は言った。

 

「損得で決めたと言えば、自分で決めたことになると思ってるだろ。……ならねえよ」

 

 綾小路が、黙った。

 

「損得ってのは、相手が並べた選択肢の中で計算するもんだ。選択肢を並べたのは、あんたじゃねえ。……あの女だ」

 

 俺は続けた。

 

「並べられた中から一番マシなのを選ぶのは、自分で決めたとは言わねえ。……それは、選ばされたって言うんだ」

 

 長い沈黙があった。

 

「……お前は」

 

 綾小路の声は、いつも通り平坦だった。

 

 だが、いつもより少しだけ遅れて出てきた。

 

「随分と、はっきり言うんだな」

 

「事実だからな」

 

「……そうか」

 

 あの男は、それ以上何も言わなかった。

 

 

 

 

 

 階段を降りながら、俺は考えていた。

 

 ――値がついた。

 

 この三ヶ月、あの男には値段がついていなかった。

 

 誰も、あの男が何を欲しがっているかを知らない。欲しがっていないように見えるからだ。何も欲しがらない人間には、値段のつけようがない。

 

 だが、あの女は見つけた。

 

 あの男が失いたくないものを、一つ。

 

 それを見つけた瞬間、あの男には値段がついた。

 

 ……厄介なのは、そこだ。

 

 一度値段がついた人間は、二度目からは簡単になる。

 

 あの女に買えたということは、他の誰かにも買えるということだ。龍園でも、他のクラスの誰かでも、この学校の外の誰かでも。

 

 ――そして、俺には買えない。

 

 俺には、金も、握るものも、何もない。

 

 あるのは、あの女に作らせた借り一つだ。

 

 使えば、あの男を一度は外せる。

 

 だが、使った瞬間、あの男は俺に買われたことになる。

 

 ……それでは、意味がない。

 

 俺が欲しいのは、あの男の首じゃない。

 

 あの男が、自分で座ると決めた卓だ。

 

 買った席に座らせても、そこに座っているのは、あの男じゃなくなる。

 

 ――だから、使わない。

 

 俺は階段を降りきって、廊下に出た。

 

 窓の外は、もう夏の色をしていた。

 

 夏の試験が来る。

 

 あの男は、あの女の行き先に向かって歩き出した。

 

 俺は、その隣を歩くことになる。

 

 ……悪くない。

 

 道連れが、どこで自分の足で歩き始めるか。

 

 それを見るのは、悪くない見物だ。

 

 

 

 

 

 その日の夕方、職員室の前で茶柱と行き合った。

 

 偶然ではないだろう。この女は、いつもそういう場所に立っている。

 

「赤木」

 

「なんだ」

 

「綾小路と、話したそうだな」

 

「早えな」

 

「この学校で、見られていないことがあると思うのか」

 

 ……二度目だ。

 

 この女は、同じ台詞を使い回す癖がある。

 

「一つ、確認しておきたい」

 

 茶柱は、少し声を落とした。

 

「お前は、あの件に口を挟むつもりか」

 

 ……ほう。

 

 わざわざ訊きに来たか。

 

 この女は、俺が借りを持っていることを覚えている。そして、それを何に使われるかを警戒している。

 

 ――正しい警戒だ。

 

「挟まねえよ」

 

 俺が答えると、茶柱の眉がわずかに動いた。

 

「……理由を聞いても」

 

「あんたのためじゃねえ」

 

「わかっている」

 

「なら、それでいい」

 

 俺は歩き出そうとした。

 

「赤木」

 

 背中に、また声がかかった。

 

「一つだけ言っておく」

 

 茶柱の声は、いつもより低かった。

 

「私は、あの生徒に対して、褒められたことをしていない。……自覚はある」

 

「そうかい」

 

「それでも、やった」

 

 俺は足を止めて、振り返った。

 

 この女は、窓を背にして立っていた。

 

 顔は、逆光でよく見えなかった。

 

「……なぜ、そこまでする」

 

「言えん」

 

「そうかい」

 

 俺は、それ以上訊かなかった。

 

 訊いたところで、この女は言わないだろう。

 

 だが、一つだけわかったことがある。

 

 ――この女は、後ろめたさを持っている。

 

 脅した相手に対して、それが正しくないと自分でわかっている。

 

 ……それは、弱みだ。

 

 平気でやる人間は、崩せない。何とも思っていないからだ。

 

 だが、後ろめたい人間は違う。

 

 いつか必ず、その一点を突かれる。

 

 

 

 

 

 寮への道を歩きながら、俺は一つ、引っかかっていることを転がしていた。

 

 あの女は、なぜわざわざ「褒められたことをしていない」と俺に言ったのか。

 

 言う必要のない台詞だ。

 

 俺は口を挟まないと答えた後だった。話は終わっていた。それでもあの女は、自分から一言足した。

 

 ……そういうことを、人はいつやる。

 

 賭場でよく見た。

 

 大きく張った客が、張った直後に、訊かれてもいないのに手の内をぼやく。「今日は調子が悪い」だの「本当はこんな打ち方はしない」だの。

 

 あれは、独り言じゃない。

 

 自分の張りに自信がない時、人は先に言い訳を置く。

 

 ……もっとも。

 

 本当に非道いことをやった人間が、罪悪感で口を滑らせただけかもしれない。

 

 どちらとも取れる。

 

 ――だから、決めつけない。

 

 ここで「あの女はハッタリだ」と決めてかかるのが、一番危ない。

 

 張りに自信のない人間の顔と、悪いことをしたと思っている人間の顔は、外からは同じ形をしている。見分けようとして見分けられるものじゃない。

 

 見分けるには、卓が動くのを待つしかない。

 

 脅しってのは、面白い性質を持っている。

 

 握られている間は、中身を確かめる必要がない。相手が言った通りのものを握っていると、勝手にこちらが思い込むからだ。

 

 中身が知れるのは、一度きりだ。

 

 ――脅された側が、言うことを聞かなくなった時。

 

 その時、脅した側は、言った通りのことを実際にやらなきゃならない。

 

 やれれば、本物だった。

 

 やれなければ、最初から何も握っちゃいなかったことになる。

 

 あの男は、今は従っている。だから、まだわからない。

 

 だが、あの男が従わなくなる日は、必ず来る。

 

 ……それまでは、決めつけない。

 

 俺は、そこまで考えて、思考を畳んだ。

 

 今わかることは、ここまでだ。

 

 俺は、その一点だけを覚えて、寮へ戻った。

 

 借りは、まだ懐にある。

 

 使い所は、まだ来ていない。

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