講堂を出た新入生たちは、クラスごとに列を作らされた。誰が並べたのかもわからないうちに、俺は「Dクラス」と札の下がった列の後ろに立っていた。
列の前の方で、二人組の男が小声で笑い合っている。
「厳しいとか言ってたけど、真面目にやってりゃ平気っしょ」
「だよなー。てか腹減った。購買どこ」
その程度の話だ。ついさっき聞いたばかりの言葉が、自分の首にかかった縄だとはまだ気づいていない。気づく必要がないほど、これまでの人生で何かを本気で失ったことがないんだろう。
悪いとは思わない。ただ、そういう連中の集まりらしいということは、覚えておく。
案内の教師についていく。廊下も階段も、あの寮と同じ清潔な白さだった。違うのは、人の声が増えたことだけだ。
教室に入る。窓際から数えて三列目、後ろから二番目。座席表とやらに、そう指定されていた。誰が決めたのかは知らない。文句を言う理由もない。卓の位置など、勝負が始まってしまえば大した意味を持たない。
机も椅子も、寮の家具と同じ質感だった。木目調に見えて、木ではない何か。
教壇の後ろの壁には、一面、白い板が張られていた。
黒板ではない。白い。
最初は、まだ何も貼られていない掲示板の類かと思った。だが、傍らに置かれた筒状のものを見て、考えを改める。あれで字を書くのだろう。白い面に、何色かの文字を。
……なるほど。
黒い板に白い粉で書くか、白い板に黒い字で書くか。ひっくり返しただけのことだ。粉が舞わないだけ、こちらの方が上等なんだろう。
この学校は、そういう場所らしい。俺の知っているものを、ひとつ残らず、少しずつ新しくして並べてある。
教壇に立ったのは、女の教師だった。姿勢がいい。声に無駄がない。
「――席につけ。今からホームルームを始める」
それだけで、教室の空気が一段引き締まった。この女、生徒に舐められることに慣れていない。悪くない。
「担任の茶柱だ。自己紹介やら班分けやらは後回しにする。先に、諸君らの生活に直接関わる話をしておく」
茶柱と名乗った教師は、手元の板に触れながら続けた。
「入学時点で、各クラスには一律1000のクラスポイントが与えられている。このクラスポイントに100を掛けた額が、毎月1日、諸君ら個人にプライベートポイントとして支給される」
1000に、100を掛ける。
「つまり今月、諸君らの手元には10万ポイントが振り込まれている。既に使える状態だ。購買、食堂、その他学内のあらゆる場所で、金銭と同様に使用できる」
教室が、わっと沸いた。
……10万。
俺は、その数字をもう一度、頭の中で転がした。
大卒の初任給が、月に9200円ほどだったはずだ。工場の作業員なら、それより下だ。10万といえば、大の大人が真面目に一年近く働いて、ようやく手にする額ということになる。
それを、餓鬼に。無条件で。毎月。
南郷の借金は、300万だった。あれは人一人の一生を丸ごと踏み潰すのに十分な額で、だからこそ竜崎の側は本気で取り立てに来たし、南郷は雀卓の前で震えていた。300万を10万で割れば、30だ。この学校の連中は、三年も通えば、あの夜の南郷が背負っていた地獄と同じ額を、何の痛みもなく通り過ぎることになる。
市川との勝負は、800万まで吊り上がった。安岡が自分の懐から200万をねじ込んでまで、続けさせたがった金額だ。あの男の目の色が変わったのも、周りの人間が息を詰めたのも、その額に見合うだけの何かを、全員が本気で差し出していたからだ。
ここには、それがない。
……狂ってやがる。
教室では、既に何を買うかの相談が始まっていた。誰も、この数字がどこから湧いてきたのかを訊かない。
それが一番、腑に落ちなかった。
金というのは、誰かが出したものだ。必ず出所がある。出した人間には、必ず理由がある。慈善で金を出す人間などいない。少なくとも、俺が見てきた卓の周りには一人もいなかった。
なのにここでは、誰も出所を訊かない。当たり前のように、貰えるものとして受け取っている。
「ちなみに、このポイントは翌月に持ち越せる。使い切る必要はない」
茶柱がそう付け加えたとき、教室から「じゃあ貯めとくか」という気の抜けた声が上がって、すぐに笑いに紛れて消えた。誰も本気で貯める気がないのは、声の軽さでわかった。
「以上だ。何か質問は」
手を挙げる者はいなかった。
訊くことなど、いくらでもあるはずだった。
1000。この数字が、そもそも何なのか。誰が決めた1000なのか。増えるということは、減るということでもある。減るとすれば何をしたときで、今この瞬間、既に減り始めていないと、どうして言い切れるのか。
講堂で聞いたはずだ。生活態度、協調性、規律。それらすべてが数値化される、と。
数値化されるということは、今、この教室で誰かが欠伸をしていることも、机に突っ伏していることも、全部どこかで数えられているということじゃないのか。
誰も訊かない。
増える方の話しか、頭に入っていないからだ。
俺は教壇の女を見た。茶柱は、質問がないことを確認すると、それ以上何も言わずに名簿を閉じた。教えなかったのではない。訊かれなかっただけだ、という顔をしていた。
あの顔には見覚えがある。手を伏せたまま、相手が自分から踏み込んでくるのを待っている打ち手の顔だ。
ホームルームが終わると、教室はすぐに騒がしくなった。誰と購買に行くだの、何を買うだの、たわいのない話ばかりだ。
「――君が赤木くんだよね。よろしく、僕、平田っていうんだ」
人当たりのいい笑みを浮かべた男が、わざわざ席を立って声をかけてきた。誰にでもこうしているんだろうというのが、顔つきでわかる。差し出された手を、俺は見るだけで取らなかった。
「あ……ごめん、急にこういうの苦手だったかな。何かあったら、気軽に言ってよ」
悪気のない笑顔のまま、男は引き下がっていった。優しい人間だ。優しいままで、いつまでこの学校に立っていられるのかは知らないが。
「……平田くん。無駄よ。話す気がない相手に話しかけても、時間の浪費でしょう」
少し離れた席から、そう言った女がいた。最初に俺を値踏みするように見ていた、あの女だ。俺を一瞥しただけで、興味を失ったように前の方へ視線を戻していく。
その女は、周りが浮かれている中で一人だけ、板の画面を睨んだまま指を動かしていた。買い物をしている手つきではない。何かを数えている手つきだ。
この教室で、あの数字に浮かれていなかったのは、俺とこの女くらいのものだった。
もっとも、女の方は「なぜ配られたか」ではなく「どう使えば得か」を考えている顔に見えた。似ているようで、そこは別の話だ。
窓際の席で、一人だけ、誰とも話さずに外を見ている男がいた。講堂で見た男だ。周りに完全に溶け込んでいるようでいて、誰の輪にも入っていない。
平田のような愛想もなく、あの女のような値踏みの目も向けてこない。ただ、周囲の温度に合わせて自分の温度を消している。
浮かれてもいない。数えてもいない。何も、していない。
(……ここにいたか)
同じ卓に着いたということだ。悪くない。
昼が近いのか、廊下の向こうから食い物の匂いが漂ってきた。その流れに乗って、俺も購買とやらの前まで歩いた。
棚には、菓子や飲み物、見慣れない包装の弁当までが並んでいる。値札の代わりに、小さな数字が商品の下に貼られていた。
弁当が、400。茶が、120。菓子の袋が、200と少し。
……なるほど。
その数字を見た瞬間、頭の中で組み上がりかけていた計算が、音を立てて崩れた。
俺の知る10万円なら、屋台の中華そばが一杯40円だ。2500杯は食える。大人が一年近く働いてようやく届く額なのだから、当然そうなる。
だが、ここでは違う。昼飯一食で400なら、10万で250食。一日三食を全部ここで賄えば、三ヶ月と保たない。
同じ「10万」でも、中身が丸ごと違う。
つまり、数字そのものには意味がないということだ。10万という響きに反応した俺の方が、間違っていた。ここでの10万は、俺の知る10万ではない。この街の物差しで測り直さなければ、何一つ正しく読めない。
――ならば、測り直せばいい。
物の値段さえ並べてしまえば、あとは引き算だ。難しいことは何もない。
この学校の10万は、俺の知る10万ほどの重さを持っていない。だが、軽くもない。ひと月かけて使い切るには十分すぎて、三年遊んで暮らすには全く足りない。ちょうど、油断すれば溶けてなくなる程度に配られている。
絶妙な額だ。
少なすぎれば、餓鬼どもは最初から諦める。多すぎれば、使い切れずに残る。どちらでも、この仕掛けは働かない。
毎月きれいに使い切って、来月をあてにさせる。それが一番、人を大人しくさせる配り方だ。
偶然そうなっているとは、到底思えなかった。
列に並ぶ生徒たちは、財布代わりのあの光る板を掲げ、次々と品物と引き換えていく。慣れた手つきだった。金を払っているという実感すら、この連中の中にはもうないのかもしれない。板を翳せば、勝手に数字が動く。ただそれだけの動作だ。
一人の女子が、菓子を三つも四つも抱えてレジに並んでいた。連れの男が「買いすぎだろ」と笑い、女子が「だって余るし」と返す。
余る。
その一言が、この学校の設計者の狙いを全部言い当てているような気がした。
余ると思っている限り、人は考えない。足りないと思って初めて、どこから来た金なのかを訊く気になる。
俺は何も買わずに、列から離れた。
背後で、レジの機械が軽い音を立て続けている。誰かの数字が減り、誰かの手に物が渡る。その繰り返しが、朝からずっと途切れていない。
この音が止まったときが、この学校の本当の始まりだろう。
卓に着いて最初に、何もしていないのに点棒を積まれたことがある人間なら、誰でも同じことを考えるはずだ。
あれは、勝たせているんじゃない。乗せているんだ。
最初に気前よく勝たせて、こいつは行けると思わせて、それから本番が始まる。撒き餌に食いついた魚から順に釣り上げられていく。何十回も、そういう卓を見てきた。
この10万も、同じ形をしている。
配られた理由を誰も訊かないうちは、この学校は安全な場所に見えるだろう。使い切って、来月また同じだけ振り込まれると信じている限りは。
夕方、寮の部屋に戻った。
窓の下を、生徒たちが歩いていく。手には、購買や店の袋を提げている者が多かった。菓子、飲み物、服、よくわからない箱。朝には何も持っていなかった連中が、半日で両手を塞いでいる。
初日だ。まだ、何も始まっていない。
だが、もう始まっているのかもしれない。
俺は懐から学生証を出し、机の上に置いた。名前だけが刷られた紙切れ。相変わらず、それ以上の情報は何も書かれていない。
板の方は、朝と同じで、俺の指には応えなかった。数字がいくつ入っているのか、確かめる術もない。だが、確かめる必要も感じなかった。
10万あろうが、ゼロだろうが、それ自体はどうでもいい。問題は、その数字が何と引き換えになるかだ。
あの夜、南郷が震えていたのは、300万という数字が怖かったからじゃない。その数字の向こうに、指を落としに来る人間の顔が見えていたからだ。数字が怖いんじゃない。数字の後ろに立っている奴が怖いんだ。
この学校の数字の後ろには、まだ誰の顔も見えていない。
だからこそ、誰も震えていない。
だが、必ずいる。1000という数字を決めた人間が、どこかに座っている。撒き餌を撒く側の人間が、必ずどこかにいる。
それが誰なのか。何を釣り上げるつもりでいるのか。
――見えてくるまでは、こっちから餌に手を出す理由もない。
俺は制服のまま、ベッドに横になった。天井は、朝と同じ白さで、相変わらず影一つ落としていない。
1000という数字が、どういう理由で減るのか。
まだ誰も、それを訊いていない。