テントの中で、俺はカードを指で挟んだまま動かなかった。
薄い板だ。印字された名前は、堀北鈴音。持ち点は213。占有の3が乗った数字だ。
この数字自体には、もう驚きがない。
驚きがないというのは、悪いことじゃない。数字が動かなくなった卓は、そこから先、数字以外の何かで勝負が決まる。
――残り、一晩。
うちだけ数えても、意味はない。
Aは、あの洞窟に籠もったまま、自分ではほとんど何も買っていない。今朝の時点で280は超えているはずだ。Bは、快適にやっている分だけ日々削れている。2日前に確かめた時は220台だった。今はもう、200を割っているかもしれない。Cは、とうに0だ。
順に並べれば、うちは下から二番目。上の二つとの差は、まだ開いたままだ。
残すだけでは、届かない。それは何日も前にわかっている。
最終日の点呼は、これまでと同じなら8時だ。そこで紙を出す。出したら、正午まで何も起きない。何も起きないまま、結果だけが降ってくる。
つまり、こちらが手を動かせるのは、今夜が最後になる。
……上等だ。
最後の一晩に何もかもが詰め込まれてるのは、賭場でも珍しくない。むしろ、そういう夜の方が信用できる。だらだら長い夜より、詰まった夜の方が、誰が何を持っているかがはっきり出る。
テントの外に出ると、堀北が座っていた。
目は開いている。
「まだ起きてたのか」
「言われたのは、カードを預けることだけよ。寝ろとは言われていないわ」
……ほう。
この女は、言葉を正確に覚えている。俺が「寝ろ」とまでは言わなかったことも、正確に。
「屁理屈だな」
「あなたに教わったのよ」
やられた返しだった。
俺は、その隣に腰を下ろした。
「占有の刻限が近い」
「わかってる」
「行くのはあんただ。カードは、その時だけ渡す」
「……あなたが持っていた方が、安全なんじゃないの」
「持ってるだけの人間が、占有まで通せば、動きの跡が残る。誰が触れてるかを見比べりゃ、名義と違う人間だと割れる」
堀北は、しばらく黙っていた。
「……そう」
この女は、それ以上訊かなかった。
訊かなかったということは、何かに気づいて、気づいた上で黙ったということだ。
さっき、俺が「カードそのものか、それを持ってる人間か」と言った時、この女の顔から色が引いた。あの時の恐怖の宛先は、堀北自身だった。
今夜、宛先が変わったことに、この女はもう気づいている。
――勘のいい女だ。
困る勘の良さだった。
林の際まで、二人で歩いた。
スポットの前まで来ると、堀北がカードを差し出した俺の手から受け取り、機械に通す。軽い音がして、緑の光が一つ点いた。
「終わったわ」
「戻れ」
「あなたは」
「もう少し、ここにいる」
堀北の目が、こちらを見た。
「なぜ」
「見ておきたいものがある」
嘘ではなかった。ただ、全部でもなかった。
この女に、今夜俺が何を待っているかを言うつもりはない。言えば、この女は動く。動けば、こちらの計算に一人分の余計な変数が増える。
――帰れ。
言葉にはしなかった。だが、堀北はしばらく俺を見てから、踵を返した。
足取りに、迷いがあった。
この女は、納得していない。
納得していないまま、従った。
……それでいい。
従うことと、信じることは別だ。この女は、俺の勘定を信じちゃいない。ただ、口を挟んでも通らないことを知っているだけだ。
賭場でも、そういう客はいた。降りろと言われて降りるが、目だけは最後まで卓に張り付いている客だ。
あれは、諦めた客の目じゃない。
いつでも戻れる場所を、確保している目だ。
「早いな」
声をかけると、暗がりから綾小路が出てきた。
四度目だ。
「散歩か」
「今日は違う」
……ほう。
初めて、いつもの返事を崩した。
「聞かせろ」
「洞窟のもう一人だ」
綾小路は、いつもの平坦な声で言った。
「名前が知れた」
「言ってみろ」
「戸塚」
俺は、その名前を頭の中で転がした。
「葛城じゃねえんだな、やっぱり」
「葛城は、慎重すぎて占有できない男だ。だが慎重すぎる男が一度だけ、占有した振りをした。……振りをする必要があるということは、本物を庇ったということだ」
筋は通っていた。
「どうやって割った」
「3日、同じ刻限に張った。……戸塚は、毎回同じ癖で機械に触れる。葛城は違う。二人分の癖を並べれば、どちらが慣れているかは見える」
3日。
この男は、3日、同じ場所に立ち続けていたわけだ。
「最小の手数で動く男が、3日か」
「最小とは言っていない」
「言ってねえな」
俺は認めた。
「それで、その名前が、うちの点にどう繋がる」
「最終日、他所のリーダーを当てれば50が入る」
綾小路は、いつもと変わらない声で言った。
「Aの名前は、これで書ける」
……悪くない。
悪くないどころじゃない。
龍園は0だ。当てても取れない。Bは、まだ尻尾を出していない。
だが、Aは違う。Aは280前後を抱えたまま帰る側だ。あそこから50を引き剥がせるなら、その50は他所のどの50より重い。
「一つ、繋がった」
俺は言った。
「龍園は、Aに物資を流してる。Cの持ち点で買ったもんを、Aに渡してる。見返りは島の外だと踏んでた」
「知ってるのか」
「勘定だけだ」
俺は続けた。
「300を捨てて、当て合いで取れるのは150。半分にしかならねえ張り方だ。あの男が、それでも捨てたのは、この島の外で受け取る約束があるからだ」
「戸塚とは、別の話だ」
綾小路が言った。
「戸塚は、たまたま向こうの陣地にいた男だ。龍園とAの取引に、名前までは絡んでいない」
「そうかい」
二つの糸は、別のものらしい。だが、両方ともAクラスに繋がっている。
葛城は、慎重な男だ。だが慎重な男の陣地に、龍園の物資が流れ込み、慎重な男の同室者が本物のリーダーだった。
――偶然が重なりすぎている。
もう一度、あの陣地を洗う価値はありそうだった。だが、それは今夜の仕事じゃない。
「一つ訊く」
俺は言った。
「あんたは、これを俺に渡す義理はねえはずだ」
「言ったはずだ」
綾小路は、こちらを見た。
「あんたが動いた分だけ、うちの持ち点は増える、と。……あの日、うちは損をした。今日、埋める」
この男は、律儀だ。
律儀という言葉が、この男に似合うとは思っていなかった。だが、勘定として律儀なんだろう。貸し借りを、きちんと閉じるタイプだ。
「もう一つ」
俺は続けた。
「あんたは、これを他所に売る気はねえのか」
「売る理由がない」
前にも聞いた台詞だった。
「使う理由は、あるのか」
綾小路は、少しの間、黙っていた。
「まだだ」
また、それか。
「その『まだ』は、いつまで続く」
「――今夜までだ」
初めて、期限が出た。
俺は、その男の顔を見た。
月明かりの下でも、表情は変わらない。だが、今の一言には、これまでとは違う重さがあった。
「何を仕込んでる」
「言う義理はない」
「そうだったな」
俺は頷いた。
いつもの答えだった。だが、いつもと違って、今夜はそれが不安に聞こえなかった。
この男が「今夜まで」と区切りを打ったなら、今夜のうちに何かが動く。動いた結果は、こちらに見える形で出るはずだ。
――待てばいい。
待つことに、慣れている。
綾小路が林の奥へ戻っていくのを見送ってから、俺はテントの列の方へ歩いた。
佐倉が、いた。
膝を抱えて、テントの陰に座っている。
「今夜はいいと言ったはずだ」
「……はい」
「なら、なぜ出てる」
佐倉は、しばらく答えなかった。
「……眠れなくて」
噓ではないだろう。だが、それだけでもないはずだ。
「見張れと言われなかったから、何もしないでいい。そう言われて、素直に頷ける性分か、あんたは」
佐倉の肩が、跳ねた。
「……違います」
「だろうな」
俺は、その隣にしゃがんだ。
「一つ教えてやる。今夜、俺はここを離れる」
「……どこへ」
「言わねえ」
「……」
「その代わり、頼みがある」
佐倉が、顔を上げた。
「俺が朝までに戻らなかったら、それだけ覚えとけ。誰かに言う必要はねえ。ただ、覚えとくだけでいい」
佐倉の顔から、色が引いた。
「……何をするつもりですか」
「賭けだ」
俺は立ち上がった。
「勝てば、うちの持ち点が増える。負けても、あんたらの点は減らねえ。……減るのは、俺の分だけだ」
「そんな……」
「数えられる側と、数える側の話をしただろ」
俺は、佐倉を見下ろした。
「今夜だけは、あんたが数える側だ。俺のことを、な」
佐倉は、しばらく何も言わなかった。
それから、小さく頷いた。
「……はい」
声が、少しだけ強くなっていた。
「あの」
佐倉が、離れかけた俺を呼び止めた。
「戻ってこなかったら……本当に、何もしなくていいんですか」
「ああ」
「先生に、言わなくていいんですか」
「言えば、あんたが余計なことを知ってたって話になる。それは、あんたにとって得にならねえ」
佐倉は、それ以上訊かなかった。
だが、俺が背を向けても、しばらくその場を動かなかった。
この女は、今、初めて誰かに何かを預けられている。
……いい使い方だ。
人は、預かったもののためになら、朝まで起きていられる。自分のためには倒れる女が、他人の分だと保つ。
あの晩、佐倉に伊吹の見張りを頼んだのと、同じ理屈だった。
俺は、砂浜の一番端まで歩いた。
カードは、もう堀北の手に戻っている。俺の懐にあるのは、何もない。
金もねえ。カードもねえ。
あるのは、この体一つと、今夜ここに一人で立っているという事実だけだ。
――誰が見ても、隙にしか見えない形だ。
龍園は、まだ今夜は動かないと踏んでいる。伊吹は、2日続けて動いた後だ。休んでいるはずだ。
だが、俺が今夜ここに一人で立っているという情報は、明日の朝には向こうにも届く。届いた瞬間、あの女の中の勘定が変わる。
――今日は休むはずだった。だが、目の前に、誰も守っていないカードの持ち手が立っている。
休みを一日削っても、割に合う目に見えるはずだ。
それでいい。
乗ってくれば、話は早い。
この島で、他クラスへの暴力は即失格だ。あの女がもし、俺に手を出せば、それだけでCクラスは終わる。龍園がどれだけ先まで手を読んでいようが、この一発だけは避けようがねえ。
乗ってこなければ、それもいい。
乗ってこないというのは、あの女がまだ理性を保っているということだ。理性を保っている限り、明日の朝、もう一段派手な手は来ない。
――どっちに転んでも、こっちの損はねえ。
賭けと言ったが、正確には賭けじゃない。
張った牌が、通っても通らなくても、こちらの手は痩せない。そういう形に組んである。
堀北には、これを言わなかった。
言えば、堀北はここに残ろうとする。残られては困る。俺一人が張っている分には、痩せる手は俺のものだけで済む。二人分になれば、その分だけ計算が重くなる。
――一番みっともないところを、見せる相手じゃねえ。
五月、俺の一番情けねえところ――板の使い方すら知らなかったこと――は、もうこの女に見せている。今さら隠す意味はねえ。
だが、今夜のこれは違う。あれは、隠しようのない無知だった。今夜のは、見せれば止められる。それが困る。
これは、恐怖じゃない。ただの勘定だ。
勘定を、恐怖と勘違いされるのが、一番厄介だった。
波の音だけがする。
月は高く、じきに傾き始める頃合いだった。
夜が明ければ、8時に点呼が来る。紙を出す。それで、こちらの手はすべて出し切ったことになる。
あとは、正午まで、何も知らされないまま待つだけだ。
――決まっていると思った人間から、順に落ちていく。
前に、自分でそう思った。
だから、決まったなどとは思わない。
最後の一枚が河に落ちるまでは、まだ何も終わっちゃいない。
――さて。
紙には、何を書く。
Aは、戸塚の名前で書く。それは決まった。Cは0だ。当てても、あそこから払わせられるかどうかは、茶柱に確かめちゃいない。確かめてねえもんに賭ける気はねえ。
残るはBだ。
あそこは、まだ尻尾を出していない。守りに徹しているクラスは、守っているつもりの動きがそのまま指し示す、と踏んでいた。だが、まだ形になっていない。
書けるのは一つだけかもしれない。
……それでいい。
一つでも当てれば、50は入る。当てた後にどう騒がれようが、確定した数字は動かねえ。
賭場では、確実な一枚を最後まで持っておく方が強い。切る枚数の多さじゃない。切った枚数のうち、何枚が通ったかだ。
俺は、懐に手を入れた。
何もない。
カードもない。金もない。持っているのは、戸塚という名前一つと、この体だけだ。
悪くない持ち点だ。
少なくとも、四ヶ月前、この学校に放り込まれた夜よりは、よほど多くを持っている。
砂が、冷たかった。
夜が明ければ、この島でのことは全部終わる。終わった後に何が来るかは、まだ見えない。
見えないまま卓に着くのは、いつものことだ。
俺は、砂の上に腰を下ろし、夜明けを待った。
この物語に恋愛要素をいれるべきか
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必要
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一切不用
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少しみたい