アカギ〜実力至上主義の教室に舞い降りた天才〜   作:GC

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刻限

 空の端が、わずかに白み始めていた。

 

 まだ日は出ていない。だが、夜が薄くなっていくのは、匂いでわかる。潮の匂いが、少しだけ軽くなる。

 

 俺は、砂の上に座ったまま動かなかった。

 

 誰も来なかった。

 

 夜の間、何度か足音らしきものを聞いた気がした。そのたびに息を止めて待ったが、どれも波の音か、風が枝を揺らす音だった。

 

 懐には、何もない。カードは堀北に戻した。金もねえ。この体一つで、ここに座っている。囮の姿としては、これ以上のものはない。誰かが俺を狙っても、奪えるものが一つもねえと知った時、向こうがどう出るかが見物だった。

 

 ――そうか。

 

 乗ってこなかった。

 

 それが答えだ。あの女は、まだ理性を保っている。龍園の統制の外に出るところまでは、今夜は行かなかった。

 

 悪い結果じゃない。むしろ、こちらの持ち出しがなかった分だけ得だ。張った牌が通らなくても、こちらの手は痩せない――そう組んであったのは、嘘じゃない。

 

 それでも、少しだけ拍子抜けした自分に気づいた。

 

 ……贅沢な話だ。

 

 勝っても負けても損はしない賭けを打っておいて、退屈するとは。

 

 賭場でも、たまにこういう夜があった。大金が動くと見て構えた卓が、結局何も起きずに明けていく夜だ。ああいう夜を、あの頃の俺は無駄だと思っていた。今は違う。

 

 ――何も起きなかった夜も、勘定には入る。

 

 伊吹が動かなかったという事実そのものが、一枚の情報だ。龍園の手綱がまだ効いている、という情報。それだけでも、懐に入れておく価値はある。

 

 四月、この島に来る前から、俺はずっと紙の相手ばかりを打ってきた。テストの点数、範囲の変更、過去問の値段。どれも、相手の顔が見えない勝負だった。

 

 この一週間だけは、違った。

 

 伊吹の足音を数え、綾小路の外出を数え、佐倉の後ろ姿を数えた。数えた分だけ、相手の輪郭が見えた。

 

 ――久しぶりに、人を打った。

 

 結果がどうであれ、それ自体が悪くない一週間だった。

 

 空が、もう少し白くなっていた。潮風が、頬に冷たい。俺は立ち上がって、砂を払った。

 

 

 

 

 林の際で、人影が動いた。

 

 綾小路だった。

 

 夜通し外にいたのか、それとも今出てきたのかは、顔を見てもわからない。

 

「終わったのか」

 

 俺は訊いた。

 

「ああ」

 

「何がだ」

 

「聞く必要はない」

 

 いつもの答えだった。だが、今日は続きがあった。

 

「一つだけ言っておく」

 

 綾小路は、白み始めた空を見ていた。

 

「あの女は、今夜このあたりには来ない」

 

「――なぜ言い切れる」

 

「言い切れる形にした」

 

 ……ほう。

 

 この男は、俺が乗ってこなかった理由を、俺以上に正確に知っている口ぶりだった。

 

「あんたが、何かしたのか」

 

「した」

 

「内容は」

 

「言う義理はない」

 

 いつもの拒否だった。

 

 だが、この男が「した」とはっきり認めたのは、初めてかもしれない。中身を隠すのと、行為そのものを隠すのとは、違う。

 

「一つだけ、当てさせろ」

 

 俺は言った。

 

「あんたは、あの女を止めたんじゃねえ。あの女に、止まった方が得だと思わせただけだ」

 

 綾小路は、答えなかった。

 

 答えなかったということは、外れちゃいない。

 

「龍園の目的は、Aとの取引だ。持ち点そのものじゃねえ。あの女がここで何かやらかせば、Cは即失格になる。……失格になれば、龍園の取引そのものが宙に浮く」

 

 俺は続けた。

 

「あの女に、それを教えたか」

 

「教えていない」

 

 綾小路は言った。

 

「教えたのは別のことだ」

 

「聞かせろ」

 

「言う義理はない」

 

 三度目だった。

 

 ……仕方ねえ。

 

 この男が、これ以上崩れることはない。

 

「一つ礼を言っておく」

 

 俺は言った。

 

「言う気はねえんだろ」

 

「言われる筋合いもない」

 

 綾小路は、そう答えた。

 

「オレは、オレの分を払っただけだ」

 

 ――律儀な男だ。

 

 やはり、そう思う。

 

 だが、律儀さだけで人は動かない。貸し借りを閉じるためだけに、この男が伊吹一人を相手に一晩を使うとは思えなかった。

 

「もう一つ、訊いていいか」

 

「訊くのは自由だ」

 

「あんたが今夜使った手は、次にどこかで効かなくなるもんか」

 

 綾小路の足が、初めてわずかに止まった。

 

「……なぜ、それを訊く」

 

「一度きりの札なら、あんたはもっと出し渋る性分だ。……今夜、あっさり切ったってことは、次にまた作れる目算があるってことだろ」

 

 長い沈黙があった。

 

「お前は、面倒な男だな」

 

「よく言われる」

 

 綾小路は、それ以上答えなかった。

 

 だが、否定もしなかった。

 

 ――それで十分だ。

 

 この男は、自分の手札を減らさずに、他人の駒を止める術を持っている。今夜がその一度きりの披露なら怖くない。だが、何度でも使える手だとしたら、この男を敵に回した時の見積もりを、根本から変えなきゃならない。

 

 いずれ確かめる。

 

 今日じゃなくていい。

 

 

 

 

 テントの列に戻ると、佐倉が起きていた。

 

 目の下に、隈があった。

 

「……おかえりなさい」

 

「起きてたのか」

 

「はい」

 

 それだけだった。

 

 訊けば、朝まで一睡もしていないだろう。だが、それを咎める気にはならなかった。

 

「何もなかった」

 

 俺は言った。

 

「覚えとけと言った件は、無しだ」

 

「……よかった」

 

 佐倉の声が、震えていた。

 

 安堵の震えだった。

 

「あんたに預けた分は、返す」

 

 俺は言った。

 

「使わずに済んだ。悪い賭けじゃなかった」

 

 佐倉は、少しだけ笑った。

 

 この島に来て、初めて見る類の笑い方だった。

 

「あの」

 

 佐倉が、少し声を落とした。

 

「……島を、出たら」

 

 言葉が、途中で止まった。

 

 それでも、言いたいことは伝わった。

 

 ――島を出たら、また透明に戻るのか。

 

 訊けなかった問いを、俺が代わりに拾った。

 

「戻るかもな」

 

 俺は、正直に答えた。

 

「あんたの言い方だ。ここは特別な場所で、外は違う」

 

「はい」

 

「だが、一つ違うことがある」

 

「……なんですか」

 

「透明だったのに、誰かに数えられたことが一度あった、って事実は消えねえ」

 

 佐倉は、俺を見た。

 

「一度あったことは、二度目がある証拠にはならない。……だが、一度も無かった人間より、望みは持てる」

 

 佐倉は、しばらく黙っていた。

 

 それから、深く頭を下げた。

 

「……ありがとうございました」

 

「礼はいらねえ」

 

 俺は言った。

 

「役に立った分の話だ」

 

 

 

 

 堀北も、起きていた。

 

 テントの陰から、こちらを見ていた。

 

「無事ね」

 

「見りゃわかるだろ」

 

「言葉にしないと、あなたは言わないから」

 

 ……鋭い。

 

「乗ってこなかった」

 

 俺は言った。

 

「賭けは、外れた。……いや、外れちゃいねえな。乗ってこないのも、読み筋の内だ」

 

「危ない橋だったのよ」

 

「危なくなかった」

 

 俺は答えた。

 

「渡る前に、落ちても水に浮く橋だと確かめてから渡った」

 

 堀北は、しばらく俺を見ていた。

 

「……次からは、渡る前に一言、言いなさい」

 

「言えば、あんたは止めに来る」

 

「止めるとは言っていないわ」

 

「同じことだ」

 

 俺は言った。

 

「知った上で黙って見送る、なんて器用な真似は、あんたにはできねえ」

 

 堀北は、それには言い返さなかった。

 

 図星、ということだ。

 

「……あなたが、そう言うなら」

 

 この女は、それ以上追及しなかった。

 

 昨夜、色の引いた顔をしていたのを、俺は覚えている。今、その色は戻っていた。

 

 ――それでいい。

 

 恐怖の宛先が、また自分に戻った。この女にとっては、その方が慣れている。

 

 

 

 

「今日の分の勘定だ」

 

 俺は言った。

 

「213の3は、昨日までの占有分だ。夜のうちに、もう一回取り直しに行っただろう。その分の1が、まだ乗ってねえ。213に、1足して214」

 

「214ね」

 

 堀北が頷いた。

 

 他の三つも、頭の中で並べる。

 

 Aは、戸塚の陣地が動いていないなら、今朝も280は超えているはずだ。Bは、200を割っているかもしれない。Cは、変わらず0。

 

 残った分だけを比べれば、うちはまだ最下位に近い。だが、この試験は残した分だけで決まるわけじゃない。

 

 当て合いの結果次第で、この並びは丸ごとひっくり返る。上位二つを崩せなくても、下位二つの間で何かが動けば、それだけで意味がある。

 

 ――そこに、まだ賭ける余地がある。

 

「今日はもう、買い物もねえ」

 

 俺は言った。

 

「最終日だもの」

 

 堀北は言った。

 

「使う場所も、もう残っていないわ」

 

 そうだ。

 

 残っているのは、紙一枚だけだ。

 

「一つ、考えたことがある」

 

 堀北が言った。

 

「龍園翔は、今朝どんな顔をしているのかしら」

 

 ……いい問いだ。

 

「伊吹から、何も報告が来なかったはずだ」

 

 俺は言った。

 

「動かなかった、と伝えるか。それとも、動けなかったことを黙って飲み込むか。……あの女がどっちを選ぶかで、龍園があの女をどこまで御せてるかがわかる」

 

「わかったところで、どうにもならないでしょう」

 

「ならねえよ」

 

 俺は認めた。

 

「だが、知っておいて損はねえ。……龍園ってのは、駒が一つ勝手に動かなかった時に、それを叱る男か、放っておく男か。それだけで、次にあの男が何をするかの読みが変わる」

 

 堀北は、しばらく黙っていた。

 

「あなた、まだ勝負を続けているのね。もう終わったも同然の島で」

 

「終わってねえよ」

 

 俺は言った。

 

「正午に紙が読まれるまでは、まだ何一つ終わっちゃいねえ」

 

 

 

 

 点呼は、いつも通りだった。

 

 教師が列を数えて回る。数字だけの、静かな朝だった。

 

 39人。誰も欠けていない。

 

 俺は、隣のBクラスの列を見た。

 

 最終日だ。向こうも、そろそろ紙を書く頃合いのはずだ。

 

 ……妙だな。

 

 列の中で、短い髪の女――前に湯を分けようと言ってきた、あの女だ――が、いつもと違う位置に立っていた。

 

 これまでは、ずっと列の真ん中だった。今朝は、端に寄っている。

 

 中心が、空いた形になっていた。

 

 ――誰も、そこに立ちたがらない。

 

 いや。違うな。

 

 誰かが、そこに立たないように、周りが自然と道を空けている。

 

 人は、守りたいものの周りに、無意識に隙間を作る。近づきすぎれば自分が矢面に立つとわかっているからだ。

 

 その空いた場所に、誰がいつも収まっていたかを、俺は思い出そうとした。

 

 ――決まっちゃいねえ。

 

 まだ、確信には遠い。だが、今朝初めて見えた形だった。無人島編を通じて一度も動かなかった陣形が、最終日の朝にだけ、わずかに歪んだ。

 

 考えてみれば、当然かもしれない。

 

 昨日までは、ただ守っていればよかった。だが今日は違う。今日、A・B・C・D、四つのクラスが一斉に紙を出す。守る対象が、初めて「今、この瞬間に狙われるかもしれない」という段階に入った。

 

 どれだけ隠すのが上手い連中でも、一番緊張する日には、体の方が正直に動く。

 

 書くなら、今日しかない材料だ。

 

 列が解けたところで、茶柱が用紙を手に近づいてきた。

 

 薄い紙が一枚。

 

「クラスで一枚。書くのは一人でいい」

 

 茶柱は言った。

 

「空欄でも構わん」

 

「もらう」

 

 俺は受け取った。

 

 堀北が、隣に立った。

 

「何を書くの」

 

「Aは、戸塚と書く」

 

 俺は言った。

 

「Bは、まだ迷ってる」

 

「Cは」

 

「書かねえ」

 

 俺は答えた。

 

「あそこが払えるかどうかを、確かめちゃいねえ。確かめてねえもんに賭ける気はねえ」

 

 堀北は、少し考えてから頷いた。

 

「合理的ね」

 

「そうだ」

 

 俺は紙を広げた。

 

 ペン先を、Aの欄に置く。

 

 ――戸塚。

 

 迷わず書いた。

 

 Bの欄は、まだ白いままだった。

 

 さっき見た、あの空いた場所を思い出す。

 

 まだ、一人の名前にまでは繋がらない。だが、繋がる手前まで来ている。

 

 ……時間はある。

 

 正午までは、まだ数時間ある。この紙が担任の手に渡るまでは、書き直しがきく。

 

 書くか、書かないか。それを決めるまでの間に、何か一つでも拾えるかもしれない。

 

 俺は、ペンを持ったまま、白い欄を見ていた。

 

 懐は、まだ空のままだ。この紙を出し終えたら、駒を一つずつ、あるべき場所に戻していく。

 

 夜が明けた。

 

 最終日が、始まっていた。

 

 残っているのは、正午まで――何も知らされないまま、駒が動くのを待つだけの、あの静かな時間だ。

 

 賭場でも、河に最後の一枚が落ちるまでは、誰も勝ちを口にしない。

 

 勝ちを口にした瞬間から、負けが始まる。それを、俺は嫌というほど見てきた。

 

 だから、今は何も思わない。

 

 ただ、白い欄を見ている。

 

 あと数時間で、正午の鐘が鳴る。

 

 鳴った後にこの島がどう決着するかも、島を出た後に何が待っているかも、今はまだ何一つ見えない。

 

 ――それでいい。

 

 先が見える勝負なんぞ、打つ価値もねえ。

 

 俺は、白い欄を睨んだまま、その場に座り直した。

 

 風向きが、夜のものから朝のものへと変わっていた。潮の匂いが、少しずつ薄れていく。日が昇れば、島はまた、ただの試験場に戻る。

この物語に恋愛要素をいれるべきか

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