紙は、まだ茶柱の手元にある。
正午までは、書き直しがきくと言った。その言葉通り、俺はBの欄を白いままにして、点呼の後もずっと考えていた。
朝、見た形を、もう一度たどる。
短い髪の女が、列の端に寄っていた。中心が、空いていた。
――守りたいものの周りに、人は無意識に隙間を作る。
悪くない読みだった。だが、読みでしかない。
あの陣形が崩れた理由は、他にいくらでも考えられる。誰かの体調が悪かっただけかもしれない。単に、朝の並び順を変えただけかもしれない。
3日かけて張り込んだ綾小路の答えとは、重みが違う。
俺は、紙のBの欄を見た。
書けば、五分の目に賭けることになる。当たれば50。外れれば50。……賭け自体は、嫌いじゃない。
だが、確かめてねえもんに賭ける気はねえ、とCについては言った。今さらBだけ甘くする理由はない。
同じ基準を、最後まで通す。
もう一度、四つを並べ直す。
Aは戸塚。3日の張り込みという裏がある。書く。
Bは今朝の勘一つ。裏がない。書かない。
Cは0のまま。払わせられるかどうかを確かめていない。書かない。
三つのうち、確実に埋まるのは一つだけだ。少ないと言えば少ない。だが、外れて減る分がないという意味では、一番硬い張り方でもあった。
俺は、Bの欄を白いまま残した。
昼前、綾小路が林の方から歩いてきた。
「一つだけ、確かめさせろ」
俺は言った。
「あんたは、あの女と話したのか」
「話していない」
「じゃあ、どうやった」
綾小路は、少しの間、黙っていた。
「あの女は、誰かに見られていないと確信できる時だけ動く。……昨夜、それを崩した」
「見せたのか。自分を」
「一度だけだ」
――なるほど。
言葉を交わす必要は、なかったわけだ。
姿を見せる。それだけで、あの女の勘定は変わる。人目のない場所のはずが、実は見られていたと知った瞬間、動く方が高くつくと悟る。
説得じゃない。事実を一つ、突きつけただけだ。
「見られて、あんたは平気なのか」
「一度きりだ」
綾小路は答えた。
「一度なら、散歩で押し通せる」
――律儀に、しかも安く済ませたわけだ。
「一つ、言っておく」
俺は言った。
「借りは、これでチャラだ。……次に会う時は、また別の勘定から始まる」
「望むところだ」
綾小路は、初めてそう言った。
この男の声から、いつもの平坦さが、ほんの少しだけ抜けていた気がした。
気のせいかもしれない。
それでも、悪くない兆しだった。
俺は、それ以上訊かなかった。
正午が近づくと、リタイヤした連中含め、四つのクラスが浜に集められた。
一週間ぶりに揃った顔ぶれだった。
教師が、横に並んでいる。中央に立ったのは、茶柱ではなかった。
「学年主任の真嶋だ」
「これより、無人島試験の結果を発表する」
砂浜が、静まり返った。
「今回の試験で、指名が的中したケースが確認された。詳細――誰が誰を指名したか――は公開しない。発表するのは、最終順位と、最終持ち点のみだ」
――そういう作りだったな。
誰が誰を当てたかはわからない。わかるのは、結果の数字だけだ。
周りの空気が、目に見えて張り詰めていく。
この一週間、誰も口にしなかった名前が、今からたった四つの数字になって落ちてくる。
賭場でも、これに似た瞬間を何度も見てきた。牌が最後の一枚になるまで、誰も勝敗を口にしない。だが、体はもう答えを知っている。誰も彼もが、拳を握るか、目を伏せるか、どちらかの形をしていた。
「第4位、Cクラス。最終持ち点、50」
龍園の列が、静かにざわついた。
0だったはずのクラスに、50。
――当てたか。
誰を、とまでは言わない。だが、0のクラスが50を持っているなら、答えは一つしかない。
「第3位、Bクラス。最終持ち点、195」
……そうか。
書かなかった方が、正しかったのか、間違っていたのかは、これじゃわからない。
わからないままでいい。賭けなかった手の結果を、後から悔やむ趣味はなかった。
「第2位、Dクラス。最終持ち点、214」
教室の連中が、一拍遅れて理解した顔をした。
「――に、二位!?」
「マジかよ!」
池と山内が、抱き合って騒いでいる。平田は、呆然と立ち尽くしていた。
「第1位、Aクラス。最終持ち点、235」
葛城の顔は、変わらなかった。だが、隣の男――戸塚だろう――の肩が、わずかに動いたのが見えた。
Aの列から、拍手のような音が上がった。当然だ。四月から一度も崩れなかった一位が、今日も一位のままだった。
だが、その拍手は、思ったより長く続かなかった。
……そうだろうな。
一位ではあっても、二位との差は、たったの21だ。四月の時点なら、考えられない近さだった。
葛城が、こちらを一瞥した。
値踏みの目だった。以前、俺と初めて会った時と同じ目だ。
須藤が、こちらを見た。
「……お前、知ってたのか」
「知らねえよ」
俺は答えた。
「賭けてただけだ」
「賭けって、お前」
須藤は、何か言いかけて、やめた。
代わりに、俺の背中を強く叩いた。
「痛えな」
「うるせえ、これくらい許せ」
悪い痛みじゃなかった。
須藤は、それから照れくさそうに頭を掻いた。
「……お前と走っててよかったわ、マジで」
「毎朝だっただけだ」
「それが、だよ」
須藤は、それ以上何も言わずに、池たちの輪へ戻っていった。
俺は、動かなかった。
周りが浮かれている間、頭の中では別のことを数えていた。
――214。
214で、始まった数字と同じだ。
Aを当てて、50。うちのリーダーも当てられて、50。……差し引き、0。
なのに、この島に来た朝より、四つの中で二番目まで来ている。
誰が、とは言われない。だが、この島に一週間いて、堀北の動きを一番熱心に数えていた人間なら、心当たりは一つしかない。
――伊吹。
カードは奪えなかった。だが、あの女が数えていたのは、カードだけじゃなかった。誰が、いつ、どこへ動いたか。それを積み重ねれば、名前は要らない。動きだけで、リーダーは絞れる。
燃え方が、真ん中からだったことも、今になって繋がる。あの紙には、平田が買い物のたびに書き足していた記録も載っていた。誰が、いつ、何を買ったか。動きの記録と、紙の記録。二つ揃えば、勘だけの推理じゃなくなる。
……見事なもんだ。
悪くない負け方を、向こうもした。
視線を感じて振り返ると、龍園がこちらを見ていた。
列の向こうから、口の端だけで笑っている。
「クックック」
声までは届かなかった。だが、あの笑い方は覚えている。
――てめえは、覚えとくぜ。
六月に言われた言葉が、頭の中で鳴った。
あの日から、この男は俺を勘定に入れ続けている。今日も、たぶんそうだ。
俺は、小さく頷き返した。
龍園も、それだけで満足したように視線を外した。
「以上で、無人島試験を終了する」
真嶋の声が、砂浜に響いた。
「船は、一時間後に到着する。荷物をまとめておくように」
教師たちが、散っていく。
浜が、また騒がしくなった。喜びと、悔しさと、驚きが、一斉に声になって上がっていた。
龍園の列も、静かに動き出していた。伊吹の姿は、遠目にも見当たらなかった。
……今日は、出てこないか。
それも、それでいい。
勝負が終わった後まで、律儀に顔を出す義理は誰にもない。
堀北が、隣に来た。
「二位……信じられないわ」
「信じろ」
俺は言った。
「数字は、嘘をつかねえ」
「214のまま、よ。……当てて、当てられて」
堀北は、指を折った。
「差し引き、0」
「そうだ」
「0で、二位に上がったってことは」
「他所も、似たようなもんだったってことだ」
俺は言った。
「誰も、圧倒的には勝ってねえ。……全員が、少しずつ削り合って、削り負けなかった奴が上に来た」
堀北は、しばらく黙っていた。
「Aは235。うちは214。差は、21」
「そうだ」
「21で、四つの中に順番がついた」
「そういう勝負だ」
俺は言った。
「大きく勝つ必要はねえ。残った分の多さが、そのまま順位になる」
「四月は、1000から0になった日だったわね」
堀北が、遠くを見た。
「あの日、あなたが来て、須藤くんの一点を買って、龍園さんの前に一人で立って……あれから、まだ四ヶ月も経っていないのに」
「時間の話をしてるのか」
「反省してるのよ」
堀北は言った。
「私一人じゃ、ここまで来なかった。それだけは、認める」
「認めなくていい」
俺は言った。
「勝手に認めろ」
「……本当に、可愛げのない男ね」
「よく言われる」
「……Bは、当てていれば一位だったかもしれないのに」
「かもしれない、で終わる話だ」
俺は答えた。
「確かめてねえもんに賭けて、それが通ったところで、次も同じ勘定はできねえ。……通らなかった時のことも、勘定に入れてある」
堀北は、少しの間、黙っていた。
「……あなたらしいわ」
「そうかい」
「褒めてないのよ」
だが、口元は少しだけ緩んでいた。
「それでも、二位の話をしましょう。今日くらいは」
悪くない提案だった。
荷物をまとめていると、佐倉が近づいてきた。
「あの……」
「なんだ」
「二位、おめでとうございます」
「あんたのおかげでもある」
俺は言った。
「伊吹を見張ってた分がなけりゃ、うちはもっと削られてた」
佐倉は、少し驚いた顔をした。
「……私、本当に役に立ちましたか」
「二度も同じことを訊くな」
俺は答えた。
「訊くまでもねえって、前にも言ったはずだ」
佐倉は、俯いた。
だが、その俯き方は、これまでとは少し違って見えた。
「船に乗ったら」
俺は言った。
「今度はあんたが、俺に何か頼んでもいい」
佐倉は、顔を上げた。
「……私が、ですか」
「そうだ」
「何を、頼めばいいのか、わかりません」
「今すぐ思いつかなくていい」
俺は言った。
「思いついた時に、思いついたことを言え。それだけでいい」
「……はい」
佐倉は、頷いた。
この島に来る前の佐倉なら、たぶん「頼み事なんて考えられません」と俯いて終わっていただろう。今は、違う返事をした。それだけでも、7日間分の値打ちはあった。悪くない収支だ。
佐倉は、視線を少し落としてから、また顔を上げた。
何かを考えているような、そんな顔だった。
「……覚えておきます」
小さな声だったが、はっきりしていた。
船を待つ間、俺は砂浜の端に座っていた。
箱の中身は、まだ8本のままだ。
この7日間、一度も吸わなかった。落ち着かなきゃならない場面は、何度もあった。だが、そのたびに、火をつけるより先に手が動いていた。
……いらなかったわけだ。
悪い話じゃない。
波の音が、いつもより近く聞こえた。
この砂も、この波音も、あと一時間で見納めになる。
乗ってしまえば、島でのことは紙の上の数字に変わる。順位も、点も、もう動かない。動かないものを、いつまでも数え直す趣味は無い。
四月、この学校に放り込まれた時、俺の持ち点は0だった。板の使い方も知らず、山菜定食だけを食って、教室の隅で数字を数えているだけの男だった。
あの時、誰かに「お前は二位になる」と言われても、鼻で笑っただろう。
今、Dクラスは二位だ。
……悪くない。
だが、勝ったから満足したわけじゃない。負けても、たぶん同じことを思っていた。
――やることを全部やった上での結果だ、と。
結果より先に、そこだけは確かだった。
龍園。伊吹。綾小路。佐倉。堀北。
この一週間で伸びた五本の糸は、最終日を越えて、まだ切れていない。
龍園は、まだ俺を勘定に入れている。伊吹の暴走は、まだ止まっただけで消えちゃいない。綾小路は、まだ「まだだ」を残したままだ。堀北とは、これから先も同じ卓に着き続けることになるんだろう。
だが、佐倉が一番近い。帰った日の夜が、一番危ない。
あれは、まだ動く数字だ。
――こっちの勝負は、まだ終わっちゃいねえ。
俺は、砂を払って立ち上がった。
箱を懐にしまう。8本のままの箱だ。
……このままでいい。
いつか、本当に必要になる日が来る。その時のために、取っておく。
須藤が、遠くで手を振っていた。船が見えたらしい。
次の卓が、もうすぐそこまで来ていた。
俺は、島の方を振り返らずに、歩き出した。
振り返って見るようなものは、もうこの島にはねえ。
全部、頭の中に積んである。それで十分だった。
波の音が、少しずつ遠くなっていった。船のエンジン音が、代わりに近づいてくる。
新しい音だった。まだ聞き慣れていない、悪くない音だった。
この物語に恋愛要素をいれるべきか
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必要
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一切不用
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少しみたい