入学から数日が過ぎた。
この学校の一日は、判で押したように同じ形をしていた。朝、寮を出る。授業を受ける。飯を食う。寮に戻る。誰も何も賭けていない一日が、そのまま次の一日に繋がっていく。
賭場なら、一日の終わりには必ず勘定がある。勝った者は懐が重くなり、負けた者は帰り道の足が重くなる。どちらにしても、その日に何が起きたのかは、夜には数字になって出る。
ここには、それがない。
だから連中は、日が経つにつれて緩んでいった。
最初に崩れたのは、時間だった。
二日目に、一人が遅れた。
三日目の朝には、赤い髪の大男が、始業のチャイムから10分以上遅れて教室に入ってきた。詫びる様子もなく、大あくびをして席に着く。
「須藤くん、また遅刻? ちゃんと起きないと」
平田が困った顔で声をかける。
「うるせえな。別に減点されるわけじゃねえだろ」
大男――須藤は、そう言って机に突っ伏した。
俺は、その言葉を頭の隅に置いた。
減点されるわけじゃない。
確かに、この数日、誰かが叱られて何かを失う場面は一度も見ていない。教壇の女は、遅れてきた生徒に目を向けもしなかった。名前を呼びもしない。まるで、そこに誰も入ってこなかったかのように授業を続けた。
だが――
賭場で、客が大負けしている最中に「もうやめておけ」と止めてくれる店を、俺は見たことがない。止めれば、客がそこで我に返ってしまうからだ。
女が何も言わないのを見て、俺は初めて、あの教師の立ち位置を疑った。
教える側なのか。それとも、場を回す側なのか。
崩れ方には順番があった。
時間の次は、私語だった。授業中に喋る声が、日を追うごとに大きくなっていく。最初は囁き声だったものが、四日目には普通の会話になり、五日目には笑い声になった。
その次が、あの光る板だ。
机の下で板を触っている連中が、そこかしこにいた。隠しているつもりらしいが、隠す必要すら本当はないと、皆どこかで気づいている。教壇の女は、一度もそれを注意しなかった。
崩れるときは、いつもこの順序だ。まず一人が破り、咎められない。それを見た二人目が破る。三人目からは、破っているという意識すらなくなる。
決まりというのは、破った人間が罰せられなかった瞬間に死ぬ。文面がどう書かれているかは関係ない。
「なあ、赤木も何か買ったか? 俺、めっちゃいい服買ったんだぜ」
池という男が、袖を引っ張って見せてくる。値の張りそうな生地だった。
「いい服だな」
「だろ! わかってんじゃん」
「来月も着てられるといいな」
「……は?」
池がきょとんとした顔をした。
「いや、着るだろ普通。何だよそれ」
「そうだな」
俺はそれで話を切った。
「あー、こいつ変な奴だわ」
「放っときゃいいっすよ。それより池、例の店の話っすけど」
俺の周りで会話が勝手に始まって、勝手に終わっていく。
誰も彼も、買ったものの話をしていた。何を買ったか。次に何を買うか。10万という数字が、半月も経たずに、目に見えて減り始めているらしい。
それでも、誰も慌てていない。
来月また入る。そう信じているからだ。
一度だけ、平田がクラス全体に声をかけたことがあった。
「あのさ、みんな。もう少しだけ、授業中は静かにした方がいいと思うんだ。僕たち、生活態度も見られてるって入学式で言われてたよね」
悪くない読みだった。少なくとも、この教室の中では、あの男が一番まともなことを言っていた。
「大丈夫だって平田。何も言われてねえんだから」
「そうそう。うるさかったら先生が注意するっしょ」
「……そいつは、注意する気がある場合の話だ」
俺がそう言うと、教室が少しだけ静かになった。
平田がこちらを見た。
「え……赤木くん、それってどういう」
「言葉のままだ」
俺はそれ以上説明しなかった。説明したところで、この場の連中には届かない。
「なんだよ、脅かすなって」
「怖い怖い」
案の定、笑いに紛れて流れていった。平田だけが、少し考える顔をしていた。
誰も反論していない。「注意されていないから大丈夫だ」という一点だけで、全員が納得している。
その理屈が通るのは、注意する側に、注意する気がある場合だけだ。
一度、試してみることにした。
卓の様子がわからないときは、まず小さく張ってみる。返ってくる反応で、相手の手の内は大抵知れる。それだけのことだ。
午後の授業で、俺は机に突っ伏して寝た。
隠れて寝たわけじゃない。誰から見ても寝ているとわかる格好で、堂々と目を閉じた。半分だけ薄目を開けて、教壇の方を見ていた。
教師は、こちらを見た。
確かに、一度見た。
そして、何事もなかったように白い板の方へ向き直り、授業を続けた。
……ほう。
見ていないのではない。見た上で、何もしない。
次の授業では、途中で席を立って教室を出た。厠に行く風でもなく、何も言わずに出て、五分ほど廊下に立ってから戻った。
やはり、何も言われなかった。
教室に戻ったとき、平田が心配そうにこちらを見ていた。堀北は、眉を寄せて俺を見ていた。二人とも、何かがおかしいという顔をしている。
教師だけが、何も感じていない顔をしていた。
――違う。
あの女は、俺が何をしたか全部見た上で、口を開かないと決めている。無関心とは別のものだ。無関心な人間は、そもそもこちらを見ない。
見た上で、黙っている。
賭場で、そういう座り方をする人間を、俺は知っている。場を回している側の人間だ。
小テストというものがあった。
配られた紙を見て、俺は少しの間、それを眺めていた。
書いてあることの意味が、ほとんどわからなかった。
英語という文字の並びも、見慣れない記号も、俺の知らない形をしている。習ったことがないのだから当然だ。
周りの連中は、なんだかんだ言いながらも鉛筆を動かしている。文句を垂れていた須藤でさえ、半分ほどは埋めている。こいつらが机に向かっていた年月、俺はまるきり別の場所にいた。それだけの話だ。
あの年月に俺が覚えたことは、この紙の上には一つも書く欄がない。
……まあいい。
俺は名前を書き、それから紙を最後まで繰った。
数字だけの問いが、いくつかあった。それだけは解けた。足し引きも、割った余りも、確率の勘定も、俺が毎晩やってきたことと形が違うだけだ。そこだけ鉛筆を動かして、あとは白いままにしておいた。
埋められないものを埋めようとして、それらしい形に取り繕うのが、一番みっともない。
牌なら読める。人の手も読める。だが、この紙に並んでいる文字の大半は、俺が読めるものじゃない。
読めないものを読めるふりをする人間から、卓では真っ先に沈んでいく。
返ってきた紙には、赤い字で「12」と書かれていた。100点満点の12だ。数字の欄だけが、辛うじて丸をもらっていた。
周りが点数を見せ合って騒いでいる中で、俺は紙を四つに折って懐に入れた。
「うわ、赤木すげえな。俺より下いたわ」
須藤が覗き込んで笑った。悪気があるわけでもなさそうだった。
「……そりゃよかったな」
「あ?」
「あんたが安心できて、よかったって言ってんだ」
須藤は一瞬きょとんとして、それから「わけわかんねえこと言うなよ」と笑って離れていった。
安心した顔だった。自分より下がいる。それだけで、こいつは今日一日を機嫌よく過ごせる。
下を見て安心する人間は、下がいなくなった瞬間に一番早く沈む。
その日も、何も起きなかった。呼び出しもない。補習の話もない。
言ってこないということは、記録していないということじゃない。言う必要が、まだないというだけだ。
賭場でも同じことをする。序盤に大きく振り込んだ客を、店はわざわざ気遣ったりしない。取り返そうとして深みに嵌まっていくのを、黙って眺めている。
声をかけるのは、身ぐるみを剥ぐと決めた最後の一回だけだ。
放課後、教室に残っていたのは俺と、もう二人だけだった。
「……ねえ。あなた、あの点数で何も思わないの」
声をかけてきたのは、あの女だった。平田が「堀北さん」と呼んでいたのを、何度か聞いている。
「別に」
俺がそれだけ答えると、堀北は少し眉を寄せた。
「別に、で済ませるつもり? 12点よ。この学校がどういう場所か、入学式で聞いていなかったの」
「聞いてたさ」
「なら――」
「聞いてたから、慌ててねえんだ」
堀北の言葉が止まった。
俺は、初めてこの女の顔を正面から見た。悪くない目をしている。少なくとも、この教室で買った物の話をしている連中とは、見ているものが違う。
「……どういう意味」
「あんた、遅刻も私語も誰も咎められてねえのを、おかしいと思ってるんだろ」
堀北の表情が、わずかに動いた。図星らしい。
「思ってるわ。この学校は生活態度を評価すると言っていた。それなのに、誰も何も言われない」
「言われねえよ。……最後まで言われねえ」
「なぜ、そう言い切れるの」
「言や、みんなやめちまうからな」
堀北は黙った。
俺は続けた。喋る気になったわけじゃない。この女が、あと一歩のところで踏み外しそうに見えただけだ。
「……あんた、真面目にやってりゃ助かると思ってるだろ」
「当然でしょう。評価される場所なら、評価される振る舞いをすればいい」
「……なるほど」
俺は少し笑った。
「凡庸だな」
「なっ……」
「間違っちゃいねえ。教科書に書いてある通りの答えだ。……だから凡庸だと言ってる」
堀北の目つきが変わった。怒っている顔だ。悪くない。
怒れる人間は、まだ考える余地がある。へらへら笑ってる連中より、よほど見込みがある。
「じゃあ訊くが」
俺は、誰もいなくなった机の列を指した。
「あんた一人が真面目にやって、それで何点戻ってくるんだ」
堀北が、初めて言葉に詰まった。
「……それは」
「戻らねえよ。あんたが遅刻しなかった分の点なんてのは、どこにも書いてねえ。書いてあるのは、あいつらが遅れた分の引き算だけだ」
この女は、自分の答案を綺麗に埋めることばかり考えている。だが、この学校が突きつけてくる紙には、こいつの名前は書いていない。
「あんたの勘定は、あんた一人のもんじゃねえ。……それに気づいてる顔じゃなかったな、今まで」
堀北の頬が、はっきりと強張った。
「……随分な言い方をするのね。12点の人に言われたくないのだけど」
「そうだな」
俺は頷いた。
「俺の12点も、あんたの100点も、同じ紙に足されて、同じところに突きつけられる。……面白えだろ、それ」
「……面白くないわ。全然」
堀北はそう言って、鞄を掴んだ。
「でも――覚えておく」
そう言い残して、堀北は出ていった。
残ったのは、俺と、窓際の男だけだった。
男は、この会話の間ずっと、一度もこちらを見なかった。教科書を片付ける手も止めなかった。
だが、堀北が出ていったあと、その男が席を立つまでに、わずかに間があった。
ほんの一拍。鞄に手をかけてから、実際に持ち上げるまでの、わずかな空白。
聞いていなかった人間の間の取り方じゃない。
聞き終わるのを待っていた人間の間だ。
「あれは、何を確かめたんだ」
男が、初めて口を開いた。
鞄を肩にかけた姿勢のまま。こちらを見てもいない。声には、抑揚というものがほとんどなかった。
「……何の話だ」
「授業中に教室を出ただろう。五分で戻ってきた。手洗いに行ったわけじゃない」
……ほう。
「戻ってきたとき、お前は真っ先に教壇を見た。廊下の様子でも、自分の席でもなく」
こいつは、見ていた。
俺が寝ていた時も、出ていった時も、戻った時も。ずっと、教科書を片付けるような顔で。
「……返ってくるかどうかを見てた」
俺は答えた。隠すほどのことでもない。
「何が」
「何も。……何も返ってこなかった」
男は、少しの間、黙っていた。
「そうか」
それだけだった。
そのまま出ていこうとするので、俺は口を開いた。
「あんた、名前は」
男の足が止まった。
「……綾小路清隆」
「赤木しげるだ」
綾小路は頷きもしなかった。名前を交換したという実感が、まるでない受け答えだった。
俺は続けた。
「あんたも、同じことをやったろ」
綾小路の背中が、止まったままになった。
「もっと前にな。俺よりずっと静かに、誰にも気づかれねえ形で。……だから、俺が何をやってるかすぐわかった」
沈黙があった。
窓の外で、部活の掛け声らしきものが遠く聞こえている。
「……何の話か、わからないな」
平坦な声だった。慌てもしない。焦りもしない。ただ、わからないと言っただけの声。
悪くない。
嘘が下手な人間は、否定するときに声を張る。この男は、何一つ張らなかった。
「そうかい」
俺はそれ以上訊かなかった。
訊いたところで、この男は出さない。出さないとわかった、それだけで今日は十分だった。
綾小路は、こちらを見ないまま教室を出ていった。足音も、歩く速さも、何一つ変えずに。
変えないというのも、一つの技術だ。何も感じていない人間は、そもそも「変えないようにしよう」と考えない。
(……あいつも、勘定してやがる)
二人。いや、あの男を入れて三人。
この40人ばかりの教室で、数字が動いていることに気づいている人間が、三人。
残りの37人は、まだ気づいていない。
寮に戻り、窓の外を眺めた。夜の校舎は、昼と同じ白さで光っている。
賭場には、必ず胴元がいる。客の顔が見える場所に座って、誰が勝って誰が負けたかを全部見ている。
この学校の胴元は、どこにいる。
姿は見えない。声も聞こえない。だが、遅刻の一回も、私語の一言も、答案の12点も、俺が教室を出ていった五分間も、全部どこかに書き留められている。そういう気配だけは、確かにある。
教壇のあの女ですら、たぶん胴元じゃない。あれは場を見張っている人間の座り方だ。回している人間は、もっと奥にいる。
賭場で一番恐ろしいのは、負けている最中じゃない。負けていることに気づかないまま、勘定の紙を突き出される瞬間だ。
もっとも――
勘定が出ること自体は、悪い話じゃない。この学校がようやく手札を見せるということだ。何も起きない毎日ほど、退屈なものはない。
あの夜、俺が欲しかったのもそれだった。持ち点も命も残らないところまで、最後まで。誰も付き合ってはくれなかったが。
俺は制服のまま、ベッドに横になった。
あと何日で、この教室に紙が突き出されるのか。
その日が、この学校の最初の一局になる。