船室は、静かだった。
浮かれていた連中も、さすがに7日分の疲れには勝てなかったらしい。あちこちで寝息が聞こえている。
須藤も、池も、山内も、揃って眠りこけていた。あれだけ騒いでいたのが嘘のようだった。
俺は、眠くなかった。
体は疲れている。だが、頭の方が、まだ卓を降りていなかった。
結果は出た。順位も、点も、確定した。
それでも、頭の中には、まだ数字にならない欠片がいくつも転がっていた。
誰が何を考えて、誰が何をしていたのか。
自分のクラスの外側は、断片しか見えていなかった。
この島にいたのは、4クラス合わせて160人近くだ。うちの卓しか見ていなかったのなら、まともに見えていたのは、そのうちのせいぜい4分の1だったことになる。
……悪くない比率だ。
だが、もう少し欲を出してもいいはずだった。
俺は、甲板に出た。
綾小路が、手すりにもたれて海を見ていた。
「まだ寝ねえのか」
「お前もだろう」
俺は、隣に立った。
「一つ、答え合わせをしたい」
「珍しいな。お前が答えを欲しがるのは」
「欲しいんじゃねえ。埋まってねえ穴が多すぎる」
俺は言った。
「一週間、こっちの卓しか見てなかった。他所の卓で何が起きてたか、知ってるだけ話せ」
綾小路は、しばらく黙っていた。
「……いいだろう」
「まず下着の件だ」
俺は言った。
「あれきり、誰も何も言わなくなった。犯人も、物も、出てこねえまま終わった」
「終わったんじゃない」
綾小路は言った。
「終わらせたんだ、みんなが」
「どういう意味だ」
「証拠がない。犯人もわからない。……疑ったところで、あと数日、同じ島で同じ飯を分け合わなきゃならない。疑い合ったまま回すには、うちのクラスは人手が足りなすぎた」
「消えたわけじゃねえってことか」
「消えていない」
綾小路は言った。
「ただ、表に出す余裕を、誰も持てなかっただけだ」
……ほう。
悪くない読みだった。
「あんたは、犯人を知ってたのか」
「知っていた」
「言わなかったのはなぜだ」
「言う理由がなかった」
いつもの答えだった。だが、今は少しだけ違って聞こえた。
「俺も同じだ」
俺は言った。
「伊吹だと踏んでた。だが、追及する気はなかった」
「なぜ」
「あの女を泳がせておく方が、こっちの得だったからだ」
綾小路は、答えなかった。
肯定でも否定でもない、いつもの沈黙だった。
「一つだけ、確かめさせろ」
俺は続けた。
「物そのものは、結局どうなった」
「戻していない」
「捨てたのか」
「知らない」
綾小路は言った。
「そこまでは、追う理由がなかった」
この男らしい線引きだった。
結果に関わらないものは、最初から数えていない。
「次だ」
俺は続けた。
「龍園は、なぜ最後の夜、自分で動かなかった」
「動く理由がなかったからだ」
綾小路は、即答した。
「あの男は、この島の点なんぞ最初から欲しがっていない。0のまま終わっても、あの男にとっては損じゃない」
「Aから、別に受け取るもんがあるからだな」
「知ってたのか」
「勘定だけだ」
俺は言った。
「300を捨てて、当て合いで取れるのはせいぜい150。それでも捨てた。……島の外で、もっと大きいものを受け取る約束がある証拠だ」
「正確には、受け取るじゃない」
綾小路が言った。
「毟り取る、だ」
「――詳しく話せ」
「Aは、坂柳が来ていない」
――坂柳。
名前だけは知っていた。会ったことも、顔を見たこともない。ただ、Aの頭一つ抜けたところにいる女だと、入学した頃に誰かから聞いた覚えがあった。
その女が、今回いない。
……ほう。
初耳だった。
「来てねえのは、知らねえぞ」
「知らなくて当然だ。誰も見ていない」
綾小路は続けた。
「戸塚が盤面を動かしてたのは、もう知ってるはずだ。……坂柳がいない間、それ以外の全部を背負ってたのが、葛城の方だ」
――洗う価値はありそうだと思っていた陣地だ。
偶然じゃなかったわけだ。
「なぜ坂柳が来てねえ」
「知らない」
綾小路は言った。
「杖を突いてる女だと聞いたことがある。……島を歩き回る試験に、向いてる体じゃない」
「点数には出てたのか、それ」
「出てた」
綾小路は答えた。
「Aの初日は270だった。300のはずが、270。うちの高円寺と同じ形だ」
――そうか。
あの朝、高円寺が一人で降りていったのと、同じ穴が向こうにも空いていたわけだ。
気づかなかった自分に、少しだけ苛立った。
4クラス分、必ず並べろと自分で決めていたはずなのに、開始の数字一つを見落としていた。
「それで、龍園に付け込まれたのか」
「付け込まれたんじゃない」
綾小路の声は、いつも通り平坦だった。
「持ちかけたのは、葛城の方だ」
「――どういうことだ」
「坂柳のやり方に、ずっと不満を持っていた男だ。いない間に陣地を回す羽目になって、その不満が形になった」
「龍園を使って、坂柳を出し抜く気か」
「そう見ていい」
「契約の中身は」
「島の中で、物資とリーダーの動きの情報をAへ流す。見返りは、島の外で、卒業まで続く」
「正確な額までは」
「知らない」
綾小路は言った。
「ただ、島の中でだけ済ませる約束なら、龍園はここまで用心深くやらない。この島を出た後まで効く契約だからこそ、あの男は正体を隠し通した」
……勘定なら、こっちの領分だ。
300を捨てて、150も諦めた。それだけ切り捨てるからには、島の外の取り分は、その穴埋めよりずっと重くなきゃ釣り合わない。
「Aは40人だったな」
「そうだ」
「一人、月2万ってところか」
俺は言った。
「40人分、毎月80万。卒業まで積み上げりゃ、この島の勝負を全部足しても届かねえ額になる」
「根拠は」
「勘定だ」
俺は答えた。
綾小路は、答えなかった。
外れちゃいない、という沈黙だった。
……なるほどな。
龍園が最後まで焦らず、最後まで手を汚さなかった理由が、これで一本繋がった。
この島の300も、150も、あの男にとっては端金だったわけだ。
「一つ訊く」
俺は言った。
「その契約、坂柳は知らねえのか」
「知らない」
「船を降りりゃ、知る」
「知るだろうな」
綾小路は、初めて少しだけ間を置いた。
「葛城は、坂柳がいない間に、坂柳の知らないところで、坂柳のクラスを売った。……それを知った坂柳が、どう扱うかは、オレの知ったことじゃない」
――面白くなりそうだ。
今は口に出さなかった。
「一つ、確かめておく」
俺は言った。
「あんたは、なぜそこまで知ってる」
「洞窟に3日通った」
綾小路は答えた。
「戸塚の癖を見るついでに、他のことも見えた。……それだけだ」
嘘ではないだろう。
だが、それだけでもないはずだ。
この男は、必要な分だけを取って、それ以上は持ち帰らない性分だった。今回、持ち帰った量が、いつもより多い。
――何かのついでに、随分と重い荷物を拾ったもんだ。
それも、口には出さなかった。
「最後だ」
俺は言った。
「Bは、結局何をしていた」
「何もしていない」
「それだけか」
「それだけだ」
綾小路は言った。
「守りに徹して、誰も攻めず、誰にも攻めさせなかった。……お前が最終日に見た陣形の乱れも、オレは見たが、リーダーの名前までは辿り着けなかった」
「他所に物を分けてたのは見た」
俺は言った。
「湯を分けようとした女がいた。あれは、演技じゃねえと踏んでた」
「演技じゃない」
綾小路は言った。
「あのクラスは、そういう動き方を、誰に指図されるでもなくやる。……計算でやっていないぶん、崩しどころもない」
――厄介な形だ。
龍園の脅しも、俺の駆け引きも、腹の底に勘定があるから読める。
だが、勘定なしに動く相手は、こちらの読みの外に立ち続ける。
……そうか。
俺だけが外したわけじゃなかったらしい。
「あそこは、一番読みにくいクラスだった」
俺は認めた。
「攻めてこねえ相手の手の内は、動きが少ねえ分、読む材料も少ねえ」
「同感だ」
珍しく、この男が素直に同意した。
「一つ、付け足しておく」
綾小路は言った。
「Bは、誰も傷つけずに一週間を終えた。それだけは確かだ」
「珍しく人物評をするじゃねえか」
「事実を言っただけだ」
……そうだろうな。
だが、この男がわざわざ言葉にしたこと自体が、一つの評価だった。
殴らず、脅さず、龍園のように誰かを削らず、それでも一週間を保たせた連中がいる。
派手さのない勝ち方を、この男がどう見ているのかは、今の一言だけではわからなかった。
波の音が、甲板に響いていた。
「もう一つだけ、訊いていいか」
俺は言った。
「あんたは、この一週間、何を考えてた」
綾小路は、しばらく海を見ていた。
答えるまでに、いつもより長い間があった。
「言葉にするほど、まとまっていない」
「珍しいな。あんたがそう言うのは」
「珍しいことが、いくつか起きた週だった」
それだけ言って、綾小路は口を閉じた。
これ以上は出てこない気配だった。
「お前を、まだ使う気になれない」
「そうかい」
「それだけだ」
いつも通りの、足りない答えだった。
だが、足りないなりに、何かが変わった気配だけはあった。
俺は、それ以上は掘らなかった。
綾小路が、先に船室へ戻っていった。
入れ替わりに、堀北が甲板に出てきた。
――すれ違ったはずだ。
だが、二人の間に、言葉はおろか、目を合わせた気配すらなかった。
同じクラスで、同じ甲板を、同じ数秒ですれ違っておいて、何も起きない。
――妙な組み合わせだ。
いつか、これも卓に上がる日が来るのかもしれない。
今はまだ、そこまで考える段階じゃなかった。
「まだ起きてたの」
「あんたもな」
堀北は、俺の隣に立った。
「綾小路くんと、何を話してたの」
「答え合わせだ」
俺は言った。
「Aクラス、坂柳が今回不参加だったらしい。留守を任された葛城が、坂柳を出し抜こうと龍園と手を組んでる」
「……契約?」
堀北の顔が、強張った。
「どんな」
「Aの生徒一人につき、月2万を卒業まで。……正確な額までは、綾小路も掴んじゃいねえ。俺の勘定だ」
堀北は、しばらく言葉が出なかった。
「……それ、うちに関係あるの」
「今は無え」
俺は答えた。
「だが、Aから龍園に金が流れ続けるなら、あの男の懐は、これからどんどん厚くなる。……厚くなった金で、あの男が次に何を買うかは、考えとく価値がある」
「私たちを買われる、ってこと」
「かもな」
俺は言った。
「今はまだ、ただの数字の話だ。だが、数字ってのは、いつか誰かの手に渡って、意味を持つ」
堀北は、腕を組んだ。
「……坂柳さん、知ったらどうするかしら」
入学の頃から名前だけは聞いていた、という口ぶりだった。
「知らねえよ」
俺は答えた。
「だが、自分のクラスが自分の知らねえところで売られてたと知って、黙ってる女だとは思えねえ」
「あなたも会ったことないでしょう」
「顔も知らねえよ」
俺は言った。
「ただ、坂柳ってのは、一年からずっとAの上に立ってた女だ。……立ち方を知らねえ人間が、そこにいるはずがねえ」
堀北は、束の間、黙り込んだ。
「……知られたら、Aは荒れるかもしれないわね」
「荒れりゃいい」
俺は言った。
「よそが揉めてる間は、うちに目が向かねえ。ちょうどいい隙間になる」
「相変わらず、他人の不幸を勘定に入れるのね」
「不幸とは言ってねえよ」
俺は答えた。
「揉め事は、揉め事だ。誰かの不幸か幸福かなんぞ、こっちが決めることじゃねえ」
堀北は、小さく息を吐いた。
「……あなたのそういうところ、たまに羨ましくなるわ」
「なんでだ」
「私は、まだ人の不幸を素直に勘定できないもの」
悪くない自己申告だった。
「……この学校、まだまだ知らないことばかりね」
「そうだな」
俺は頷いた。
「一週間で埋まった穴より、新しく空いた穴の方が多い」
「悪くない収支ね、それ」
「そうかい」
「皮肉よ」
だが、その声には、呆れよりも少しだけ、面白がる響きが混じっていた。
答え合わせは、これで十分だった。
埋まった穴もあれば、埋まらないまま残った穴もある。
下着の件は、犯人の心当たりまでで終わった。物の行方は、誰も知らない。
龍園の狙いは、金の流れまでは見えた。だが、葛城が坂柳のどこにそこまで不満を溜めていたのかは、まだ見えていない。中身は、いずれ確かめる価値がある。
坂柳という女は、名前と不在の事実しかわからない。顔を合わせた時、どんな顔をするのかは、会ってみるまでわからない。
Bクラスのリーダーは、最後まで誰にもわからなかった。
綾小路の頭の中は、相変わらず半分も見えない。
――悪くない。
全部埋まっちまったら、次の卓に着く理由がなくなる。
わからないことが残っているというのは、この学校がまだ終わっていないということでもある。
この船が、このまま学校へ向かっているのかどうかも、まだわからない。
そして、佐倉の夜が来る。
答え合わせは、まだ全部済んじゃいない。
船の揺れが、少しだけ大きくなった。
夜が明ければ、港が見える。
島は、もう見えなくなっていた。振り返ったところで、何も残ってはいない。
残っているのは、頭の中の駒だけだ。
龍園。伊吹。綾小路。堀北。そして、まだ会ってもいない坂柳という名前。
新しい糸が、また一本増えていた。
まだ会ってもいない相手に、どう張るかを考える時間くらいは、あってもいい。
急ぐ話じゃなかった。
俺は、船室へ続く扉に手をかけた。
扉の向こうから、須藤のいびきが聞こえていた。
悪くない音だった。
俺は、扉を開けて、暗い船室の中へとゆっくり戻っていった。
この物語に恋愛要素をいれるべきか
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必要
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一切不用
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少しみたい