8月8日、朝。
放送も、集合の指示もなかった。ただ、船内のあちこちに立て札が出ていた。
「本日・明日はクルージング日程です。クラスの区別なく、船内を自由にご利用いただけます」
立て札を読んだ生徒たちの間から、あちこちで安堵した声が漏れ聞こえていた。
――そういうことか。
島から帰るだけだったはずの船が、そのまま骨休めの船に化けたわけだ。何の前触れもない。この学校は、いつもそうだった。先に何かを見せてから、あとになって裏を明かす。
島の疲れを抜くための空白であると同時に、他クラスと自由に関われる空白でもある。集会でも無人島でも、他クラスの顔は嫌でも視界に入ってきた。だが、あれは常に監視と競争の中でのことだ。誰にも見張られず、自分から近づける機会は、これまでほとんどなかった。
休ませてやる、という顔をしながら、裏で何を用意しているのかまでは、今この時点ではまだ何一つ見えなかった。
甲板に出ると、A・B・Cクラスの人間が大勢いた。集会で見る顔、無人島の遠目に見た顔――知らない相手ではない。だが、こうして誰の号令も、試験の緊張もないまま面と向かうのは、初めてだった。
須藤が、隣で首の後ろを掻いていた。
「なんか、変な感じだな」
「何がだ」
「いや、集会とか島とかじゃ嫌でも顔合わせてただろ。けど、今日は誰も見張ってねえっつーか……話しかけていいのか、わかんねえ」
須藤の言うことも、わからなくはなかった。監視の目の中で見る「他クラス」と、自分の意思で近づく「他クラス」は、頭の中での重さが違う。
その日の午後、食堂で、元気はつらつとした女と目が合った。
堀北のような刺々しさはない。ただ、値踏みでも敵意でもない目で、こちらを見ていた。
「あなたが、赤木くんだよね?」
明るく、笑顔で声をかけてきた。
「1年Bクラスの一之瀬です。噂は、少しだけ聞いてるよ」
「どんな噂だ」
「無人島試験で、Dクラスをかなり押し上げた人がいるって」
一之瀬は、誰に対しても同じ温度で笑う女だった。この笑顔の裏に何があるのかは、今の時点では読めない。
「Bクラスのまとめ役だって聞いたな」
陣形の乱れの正体を探ろうとして、綾小路も自分も辿り着けなかった相手だ。目の前にいるのが、その答えそのものなのか、それとも表向きの看板でしかないのか――値踏みする側に回った。
「にゃはは、まとめてるつもりはないんだけどね。気づいたらそう思われてた、って感じかな」
当たり障りのない受け答えだった。だが、当たり障りのなさそのものが、この女の技術なのかもしれなかった。表の看板と、陣形を崩さず動かしている手が同じ人間だとしたら――それはそれで、厄介な部類だ。
「あんたは、あの龍園を知ってるか」
試しに訊いてみた。
「知ってるよ。……あんまり、近づきたいタイプじゃないかな」
一之瀬は、笑顔のまま、少しだけ声のトーンを落とした。
「Cクラスの子たちは、みんなあの人の顔色ばかり見てる。……見てて、あんまり気持ちのいいものじゃないよ」
「あんたのクラスは違うのか」
「うちは、みんな自分の頭で決めてる。……そういう、つもり、だけどね」
最後の一言だけ、少し力が抜けていた。本音がちらりと覗いた瞬間だったのか、それすらも計算だったのかは、今の段階ではまだ判断できなかった。
一之瀬が離れた後、伊吹が近くを通りかかった。目が合うと、あからさまに顔をしかめた。
「あんた、目につくところうろつくんじゃないわよ」
「うろついてねえよ。ただ立ってただけだ」
「その面構えが、もう目障りだって言ってんのよ」
「そりゃ生まれつきだ、勘弁してくれ」
伊吹は、何も言わずに顔を背けた。
そのまま、伊吹は歩いていった。島の借りを、まだ返し終えていないと思っている顔だった。
夕方、甲板の隅で、龍園と行き合った。
「他クラスの品定めか、赤木」
「あんたもだろ」
「まあな」
龍園は、手すりにもたれたまま、遠くを見ていた。
「見えたか、坂柳」
「なんのことだ」
「クックック、しらばっくれんなよ。知ってんだろ」
俺は黙った。
「探したのか」
「......探したというほどでもねえ。ただ、目に入れば気づく程度には気にしてた」
「今回も、姿を見せねえままだろうな、あの女は」
龍園は、口の端を上げた。
「島の外で、何かをずっと仕込んでたみてえだからな」
「なんでそんなことがわかる」
「葛城が、ぽつぽつ寄越してくるんだよ。あいつは、あの女の動きを誰より気にしてる。政敵っていうのは、そういうもんだ」
「詳しく話す気はねえんだろ」
「ねえよ」
「一つだけ訊く」
俺は言った。手の内を一枚だけ晒す。惜しくはなかった。龍園がどう動じるか、それ自体が材料になる。
「葛城との取引、坂柳に知られたら、あんたはどうする気だ」
「別にどうもしねえよ」
龍園は、笑いとも呼べない息を吐いた。
「知られたところで、契約はとっくに結んじまってる。今さら覆せる話じゃねえ」
「後悔くらいしてねえのかよ、その女は」
「後悔なんぞ、俺の勘定に入ってねえ」
龍園は言った。
「あの女がどんな顔をするか、俺はただそれだけが見たい」
「それだけかよ」
「さあな」
龍園は、口の端をまた上げた。
「配牌の並べ方くらい、自分の頭で考えな」
それだけ言って、龍園は歩き去った。
――島の外、か。
坂柳の思惑は、まだ何も見えていない。
8月9日は、朝から堀北に捕まった。
「あなたも、少しは他クラスと話したら」
「昨日、話した」
「誰と」
「一之瀬と、伊吹だ。それから龍園ともな」
堀北の眉間に、はっきりと皺が寄った。伊吹の名前を出した瞬間だった。
「伊吹さんと、何を」
「にらみ合っただけだ。向こうから突っかかってきた」
「……あの人には、島でずいぶんやられたのよ。忘れたわけじゃないでしょう」
「忘れちゃいねえよ」
「龍園くんとも、わざわざ話す必要があったの」
「向こうから来たんだよ」
「……そう」
堀北は、それ以上は追及してこなかった。ただ、納得したというよりは、今は保留にしただけの顔だった。
「あんたはどうなんだ」
「私は、Bクラスの神崎くんと少し」
神崎という名前は、初めて聞いた。
「真面目な男よ。噂話には全く興味がないみたいで、話が早かったわ」
「何を話した」
「無人島試験、どこまで内容を外に漏らしていいのかって話」
堀北は言った。
「向こうは、口の堅さを気にしてた。……あの人も、あの人なりに、クラスの中で立場が難しいんだと思うわ」
「難しいって、どういう意味だ」
「わからないわ。ただ、そういう気配がした、というだけ」
堀北の勘は、当てにならないものではなかった。無人島の1週間で、それは何度も証明されている。
「他に誰か話したか」
「平田くんと、少し。あとは……Cクラスの子に声をかけられたけど、名前は聞いてないわ」
「なんの話をされた」
「特に何も。ただ、こっちの顔を確かめに来たみたいな空気だった」
――偵察か。
龍園が伊吹を島に潜り込ませたのと同じ理屈で、他クラスも情報収集くらいはしているはずだった。この2日間、俺たちも同じことをしていたに過ぎない。
誰もが、誰かの品定めをしている。それだけの話だった。この2日間、誰一人として、ただ休んでいた人間はいなかったはずだ。
「坂柳は見なかったか」
「坂柳さん?見てないわ。この2日間、姿を見せていないんだと思う。……クラスでどう扱われているかくらいは、噂で聞くけど」
堀北の口ぶりから、あの女がAクラスの中でどう扱われているのかが、なんとなく伝わった。噂だけが先に歩いていて、本人はまだ誰の前にも出てきていない。それ自体が、もう一つの手がかりだった。
昼、食堂で佐倉と綾小路が並んでいるのを見かけた。二人とも、こちらには気づかなかったらしい。何を話していたのかまでは、遠すぎて聞こえなかった。佐倉の表情に、目立った変化はなかった。それだけは、遠目にも確かめられた。
須藤は、他クラスの運動部らしい連中と、走り込みの話で盛り上がっていた。
夕方、甲板でもう一度伊吹を見かけた。今度は一人ではなく、見覚えのない女子と話していた。
近づくと、伊吹の話し相手は、そそくさと離れていった。
「なんの用よ」
「用はねえよ。ただ、たまたまここを通っただけだ」
「嘘つき」
伊吹は、腕を組んで鼻で笑った。
「あんた、いつもそうやって獲物を探してる目してる」
「獲物じゃねえ。材料だ」
「同じことでしょ」
言い返せなかった。この女の言葉には、時々、無視できない鋭さがある。
伊吹澪という女は、こちらを敵視しながらも、こちらの本質を割と正確に見抜いている。厄介な取り合わせだった。敵意と洞察が、同じ人間の中に同居している。どちらか片方だけなら、まだ扱いやすかった。
俺自身は、これといった収穫のないまま2日を終えた。集めた材料はどれも半端で、まだ形を成していない。
坂柳有栖という女は、結局、一度も姿を見せなかった。
その空白の分だけ、次に見えた時の情報量が重くなる。悪くない賭け方だと、無理にでも思うことにした。
8月10日、朝8時。板が震えた。
メールだった。差出人は学校の運営システム。
――これか。
2日間、休ませてやるという顔の裏で用意していたものが、ようやく形になって出てきた。この学校が本当に何もせず生徒を遊ばせるはずがないとは思っていたが、名前も中身も、今初めて知る。
「『夏季グループ別特別試験』の実施を通知する。明日より4日間(完全自由日1日を含む)、1年生全生徒を干支の12グループに再編成し、各グループ内に『優待者』を一名指定する」
文面は、そのまま続いた。
「優待者が誰であるかは、他の生徒には一切明かされない。ただし優待者本人には、自身が優待者であることを通知する」
隠されるのは周りの目から見た正体であって、本人の自覚じゃない。賭場の隠し玉と同じ理屈だ――札を伏せているのは他人に対してで、自分の手札は自分で見えている。
文面を読み返した。優待者本人への追記は、どこにも無い。俺は今回、外から探る側だ。
「優待者には、解答を送信する権利がない。試験最終日、午後9時半から10時の間のみ、各自の端末から所定のグループへ解答を送信できる。1人1回まで」
全員一致で優待者を正解すれば、優待者以外のグループ全員に50万ポイント、優待者本人には100万ポイントが支給される。誰か一人でも不正解なら、優待者だけが50万を受け取る。
そして――試験期間中、優待者以外の誰かが単独で正解を告げれば、その人物と所属クラスに得点。優待者のクラスは失点する。外せば逆になる。
全員一致より、抜け駆けの方が旨みがある局面もある、ということだ。
誰を信じて、誰を出し抜くか。無人島でさんざんやった勝負を、また別の形でやらされる。
1日2回、指定の部屋で1時間の話し合いが義務付けられる。
メールの末尾に、追伸のようにもう一行あった。
「なお、無人島試験の最終持ち点は、既に各クラスのクラスポイントへ加算済みである」
――214が、そのまま乗ったわけだ。100から314。
この一週間、頭の中で転がしていた数字が、今度はクラス全体の値になって返ってきた。
もう一通、別のメールが届いていた。
グループ名簿だった。
「子」
13人の名前が並んでいる。
最初の三文字で、目が止まった。
坂柳有栖。
――出やがったか。
2日間、姿を見せなかった女の名前が、初めて文字として目の前に現れた。
続きを読んだ。
伊吹澪。一之瀬帆波。
昨日、今日と顔を合わせたばかりの二人が、そのまま同じ組に並んでいた。
そして、うちのクラスから。
堀北鈴音。平田洋介。高円寺六助。
残りは知らない名前だったが、それはどうでもよかった。
――悪くない面子だ。
初日から、これだけ知った名前が並ぶのは珍しい。だが、知っているからといって、読みやすいとは限らない。むしろ逆だ。知らない相手より、知っている相手の方が、化けの皮の厚さが厄介になる。
2日間の交流日は、無駄じゃなかったわけだ。
もしこのメール一本がいきなりこの13人を突き付けてきていたら、伊吹の顔つきも、一之瀬の言葉の選び方も、今より一段浅い読みで終わっていたはずだ。先に顔を合わせておいたことが、そのまま材料になっている。
龍園の組は、まだわからない。あの男自身が明かす気がない以上、こちらから探る手はほとんどなかった。焦って探ったところで、あの男には察知されるだけだ。
だが、坂柳のことは、少しだけわかった。
2日間、この女は一度も甲板にも食堂にも姿を見せなかった。160人からそこそこ知られているはずの名前が、これだけ徹底して隠れているのは、単なる人見知りじゃない。
――島の外で何か仕込んでたみてえだ、と龍園は言っていた。葛城から流れてくる話だとすれば、当てずっぽうではない。
姿を見せない2日間も、その仕込みの続きだった可能性はある。だとすれば、明日からの4日間は、その仕込みの答え合わせになるということだ。
悪くない巡り合わせだった。
顔も知らない女を、遠くから探すだけだった昨日までとは違う。明日から4日、同じ部屋で、同じ空気を吸うことになる。
伊吹の言葉が、頭の隅に残っていた。
――獲物じゃねえ。材料だ。
同じことでしょ、と伊吹は言った。
言い返す言葉が出てこなかったことに、少しだけ苛立った。材料と獲物の境目は、扱う側の理屈でしかない。相手からすれば、どちらも同じ扱いだ。
だが、境目を意識しなくなった瞬間、賭場は狩場に変わる。それだけは、いつも線を引いておきたかった。
窓の外は、もう暗い。
明日から、この境目をどこまで守れるかも、この試験の一部だった。
龍園なら、そんな境目など最初から持っていない。境目を持たない人間の方が、この手の勝負では強い。それでも、俺は俺のやり方を変える気はなかった。
変えた瞬間に、たぶん自分が自分でなくなる。それだけは、確かだった。
この物語に恋愛要素をいれるべきか
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必要
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一切不用
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少しみたい