朝、目が覚めてすぐ、枕元の板に触れた。
画面の隅に、見慣れない光が点いている。昨夜受け取ったばかりの連絡先――坂柳からの、最初のメッセージだった。
「昨夜のお言葉、朝になってもまだ頭から離れません。今日はもう少し、確かめさせていただきますね」
それだけの文面だった。返す気は起きなかった。確かめたきゃ、勝手に確かめればいい。答え合わせに付き合ってやる義理もなければ、断る義理もねえ。ただ、こっちから言葉を返す理由が、どこにも見当たらねえだけの話だ。
板を閉じ、上体を起こす。窓の外はもう明るい。8月12日、船上試験2日目の朝が始まっている。エンジンの低い唸りだけが、変わらず床から伝わってくる。
昭和の卓で、命を賭けた勝負を何度もやった。あそこに比べりゃ、クラスポイントが減るなんて、屁みてえなもんだ。怖がらねえ人間が一人でも卓に座れば、その卓の理屈は根本から狂う。
狂った理屈の上でだけ、勝てる手がある。
朝食を挟んで、今日最初の話し合いが始まった。13人分の椅子が埋まる音は、毎回どこか卓が組み直される瞬間に似ている。
「そろそろ、絞ってもいいころだと思うけど」
最初に口を開いたのは、昨日いち早く坂柳側に付いたAクラスの男だった。
「様子見ばかりじゃ、時間だけ食う。抜け駆けで動くなら、早い方がいいだろ」
「まだ早いって」
伊吹が、即座に切り返す。
「外して失点すんのは、そっちのクラスなんだけど。あんた、責任取れんの」
「取れなくても、動かなきゃ何一つ変わらないだろう」
男は、そこで一度言葉を切った。それから、まっすぐこっちを見た。手の内を全部読み切ったつもりの、若い目だった。
「――なあ、赤木。昨日から一人だけどうも様子がおかしい」
部屋の温度が、わずかに変わった。
「誰も彼もが疑心暗鬼になってる中で、あんただけが妙に落ち着いてる。まるで、疑われても痛くねえ場所に立ってるみてえだ」
男の目に、賭けに出る前の光が差した。
「あんた、優待者を庇ってるんじゃなくて――優待者そのものなんじゃねえのか」
息を止めた者が、二人はいた。伊吹が眉を寄せ、一之瀬が息を呑む気配を見せた。坂柳だけが、椅子の背にわずかに体を預け直し、値踏みの温度をこちらに向けてきた。
俺は、男の顔をただ見返した。焦る理由も、慌てる理由も、どこにもねえ。
「違うとは言わねえよ」
部屋の空気が、一段固まった。
「――は?」
「違うとも、そうだとも言わねえ。言ったところで、あんたが信じる理由がどこにある」
男の喉が動いた。俺の言葉は、否定でも肯定でもねえ。だが男の耳には、限りなく肯定に近い何かとして届いたはずだ。自分から手札を厚くして見せた形になる。安全な場所から相手だけ試す気は、端からねえ。
「――なら、確かめさせてもらう」
男はポケットから板を抜き出し、画面を起こした。指が、送信の枠の上で止まる。誰も口を挟まなかった。長机の空気が、一段重くなる。
外れりゃ、男の組は50クラスポイント丸損する。当たりゃ、こっちの組がまるごと沈む。俺の立場も、この一手で今より厚く疑われたまま残る。どっちに転んでも、この場の誰かが後に引けなくなる勝負だ。
それを分かった上で、止める気は起きなかった。止める理由がねえ。終わった後のことまで恐れて手を縮めるようじゃ、そもそも卓に座る資格がねえ。
「クク...早く押しちまえ。それが博打の醍醐味だ」
男の指先が、わずかに震えた。汗が一滴、画面の端に落ちる。
こっちが本気で怖がってりゃ、あの指はとうに落ちていたはずだ。だが、男は逆に自分の手が信じられなくなっていく。狂った理屈の上に立たされた人間の顔だ。
一之瀬は口元に手を当てたまま、静止していた。伊吹は腕を組み、瞬きの数を減らしている。誰も止めろとは言わなかった。止めれば、自分もこの勝負に手を突っ込むことになる。
どれだけ待っても、指は落ちなかった。
「……次の機会にする」
男は板をポケットに戻し、椅子に深く座り直した。目の奥で、何かが萎んでいくのが見えた。賭場で幾度も見てきた顔だ。踏み込む前に、自分で自分の手を数えてしまった人間の顔。
「――ねえ。今の、本気で言ってたの?」
一之瀬が、戸惑いを隠さず男へ問いかけた。
「全員一致がいいって、私はずっと言ってきたのに……いきなり名指しなんて、乱暴すぎるよ」
「悪かったな」
男は、それだけ返して口を閉じた。目に妙な光がまだ残っていた。
「押す寸前まで行って、結局引くとかさ。時間の無駄」
伊吹が、Aクラスの男へ吐き捨てるように言った。呆れの色が濃い、素っ気ない一言だった。
坂柳の口元が、ほんのわずかに動いた。笑ったわけじゃない。それ以上は、何も言わなかった。値踏みの温度だけが、今日はいつもより一段深いところまで沈んでいた。
平田は何も言わなかったが、いつもより長くこっちの横顔を見ていた。名前も知らない残り6人も、それぞれの探るような視線を寄越している。13人という数の重さを、今日初めてまともに意識した。
誰も、それ以上は拾わなかった。話し合いはまた堂々巡りに戻っていく。俺はそれを聞いていない。もう聞く必要がない。
13人が座る卓の温度が、たった一往復で変わった。声を張ったわけでもねえ、脅したわけでもねえ。恐怖という材料を一つも見せなかっただけだ。
この試験で初めて、自分の首そのものが賭け金になった。4ヶ月、他人の勝負ばかり見てきて、腹の底で少し飢えていた。ようやく、それらしい卓に座れた。悪くねえどころか、これ以上ねえ形だ。
昼過ぎ、甲板の隅で堀北に呼び止められた。
「少し、いい?」
「なんだ」
「さっきの、大した度胸ね。あそこまで冷静でいられるのは――本当にただ疑われただけの人間の反応じゃないと思うけど」
この女は、いつも一番答えにくいところから切り込んでくる。
「買い被りだ」
「買い被りかどうかは、私が決める」
いつもより硬い声だった。海風が、束ねた髪をわずかに揺らす。
「スマートフォンの使い方も知らなかった。10万をずっと死に金のまま持ってた。今もそう。……普通の十五歳の生活とは、どこかずれてる。そう思って見てきた積み重ねが、今日の一件で線になっただけ」
「さあな」
「あなたが優待者だとしたら――それを誰にも渡さないまま、いつまで持ちこたえるつもり?」
「平田や高円寺には、言ってねえのか」
「言ってない。これは、私一人の話」
平田を外したのも、頷ける。誰にでも平等に接するあの男は、誰からも都合よく使われる駒になりやすい。腹に何か抱えたまま話せば、いずれ他の誰かに漏れる。この女はそこまで計算した上で、一人で来た。
同じクラスの人間を集めて突き合わせれば、もっと早く答えに近づけるはずだ。だがこの女は、それをしなかった。集めて話せば、こっちが警戒する。一人で来た方が、こっちの素の反応を見られる。
同じクラスの人間が束になって探りに来る日が、いつか来るかもしれねえ。その時が、一番厄介な日になる。今日じゃねえだけだ。
「持ちこたえてるつもりはねえよ」
それだけ言った。
堀北は、しばらく俺の顔を見ていた。値踏みじゃない。何かを確かめるような目だった。
「...あの夜も、あなたはそういう顔をしていたわ。兄の手を止めた時」
「覚えてねえな」
「嘘。忘れるわけがない」
堀北の目の色が、わずかに翳った。呆れとも羨望ともつかない、こっちには判別のつかない色だった。
「怖いものが何もない人間に、私は初めて会った」
「――あんたは、それを知ってどうする気だ」
堀北は、少し黙った。
「まだ、決めてない」
「決めてから来い、とは言わねえ。ただ、覚悟なしに踏み込めば、あんたも巻き添えを食う」
「――脅してるつもり?」
「事実を言っただけだ」
「そう、今更そんな脅しをされても遅いのだけど」
「今更か」
「今更よ。でも、今日はっきり分かった。あなたには、賭け金の底が見えない」
堀北は、それだけ言って視線を海へ戻した。もう値踏みの目じゃなかった。潮風が、頬を撫でて過ぎた。
「底なんぞ、初めからねえよ」
「――そう。なら、私はその外から見ておく」
「頼んじゃいねえ」
「知ってる。だから、勝手にやるのよ」
それだけ返して、堀北は俺の返事を待たずに先へ歩き出した。
夕方、2回目の話し合い。長机に13人が揃う。朝の一件を口にする者は、誰もいなかった。触れれば自分の手の内を晒す羽目になると、もう全員が学んでいる。
「――今日はもう一度、ちゃんと話したい」
口を開いたのは、一之瀬だった。朝の空気を引きずったまま夜を迎えたくないという顔だ。
「疑い合ったまま日を重ねても、いいことないと思う。だから、もう一回訊くね。全員一致でいくべきだって、私は思う」
「昼から、ずっとそれだな」
伊吹が、椅子の背に体を預けたまま言った。
「あんたの理想は分かったから、次の手を言いなよ。全員一致にするための算段は、あるわけ」
「――それは、これから決めていくことだと思う」
「決まってないなら、ただの願望でしょ。そもそも、抜け駆けにゃ締め切りがないんだから」
伊吹が、話の矛先を変えた。
「全員一致は最終日の夜、たった30分。全員が揃うのを待って一発勝負するくらいなら、確信がある奴から先に切った方が得なクラスだって出てくる。朝の一件がそれでしょ。あんたの理想論、その計算に勝てんの」
「――損得だけの話じゃないと思う」
「損得の話をしてんの、こっちは」
一之瀬は答えなかった。数字で殴られると弱いのは、この女も同じらしい。
「――絞れていない、ということですね」
坂柳が、静かに言った。杖の頭に指を這わせながら、こちらへは一度も目を向けなかった。
「では、今日はここまでにしましょうか。無理に結論を急いで崩れるのは、いつも先に動いた側です」
「まだ話は終わってないんだけど」
伊吹が、椅子を鳴らして言った。だが坂柳は答えず、杖を手に取っただけだった。それだけで、伊吹も口を噤んだ。この女がAクラスのトップだからじゃねえ。今この場で一番多く手札を握っているのが誰か、13人全員がもう分かっている。誰も異を唱えなかった。その一言で、話し合いは終わった。
夕食の列に並んでいると、後ろから声がかかった。
「久しぶりだな」
振り返らなくても分かる声だった。綾小路が、トレイを片手に立っていた。相変わらず、気配を隠すのが上手い男だ。
互いにトレイを持ったまま、端の席に落ち着く。この男と卓を挟むのは、いつ以来だったか。
「――お前の組の優待者、絞れたか」
「言う義理はない」
即答だった。迷いも間もねえ、いつもの平坦さのままの拒否。
知らねえなら「何の話だ」で切る男だ。義理を持ち出す時点で、答えを持ってる証拠になる。だが、その先までは読めねえ。持ってる答えが確信なのか、まだ半端な勘なのかは、この一言じゃ分からねえ。
「――そっちは、どうなんだ」
今度は綾小路が訊いてきた。
「さあな」
俺も同じ返し方をした。
互いに、答えを渡す気は端からねえ。それでいて、渡さないという返事の形だけは、律儀に相手へ返している。取っておかれている者同士の作法みてえなもんだ。
「そっちは、変わりねえか」
「――変わらない」
短い一言に、いつもの平坦さが戻っていた。それで十分だった。
夕食が終わる頃には、周りの席もまばらになっていた。綾小路は先にトレイを片付け、短く「じゃあな」とだけ残して席を立った。あの男の背中を見送りながら、腹の底で一つだけ思ったことがある。急ぐ理由は、どこにもねえ。知りたいことは、いずれ向こうから勝手に転がり込んでくる。
部屋に戻り、板を開く。坂柳からの新着はまだない。急かす女じゃねえのは、もう分かっている。
今日、卓の上を何枚かの牌が動いた。名指しの牌は、切られる寸前で止まった。坂柳が仕込んだのか、勝手に転がってきただけなのか、そこはまだ分からねえ。誰が仕込んだ罠であれ、迷わず踏んで、迷わず抜けて見せれば、罠であったこと自体が意味を失う。
朝の一文には、結局何も返さなかった。返す理由が無かったからだ。理由もねえのに言葉を出す方が、よほど小狡い。
窓の外はもう暗い。明日も、同じ卓に着く。怖いものは、何もねえ。
堀北も、綾小路も、坂柳も、それぞれの理屈でこっちを測っている。測られること自体は、どうでもいい。測った先に何を見つけるかは、そいつらの仕事だ。
布団に横になり、目を閉じる。明日、あの女がどんな顔でこの一日を受け止めるかも、綾小路が何を考えているのかも、今はまだ分からねえ。分からねえままでいい。答えは、いつも卓の上に出てから数えれば済む話だ。
眠りは、いつもすぐに来る。今夜も、それはきっと同じだ。
ここから先、アカギの過去について一人に公開していこうと思っています。誰に知って欲しいでしょうか。(続きが気になるからはお手隙の際に高評価もよろしくお願いします)
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須藤
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綾小路
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堀北
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坂柳
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龍園