8月13日。試験本番は昨日までで2日、明日でまた1日ある。間に挟まったこの1日は、丸々自由日らしい。話し合いに呼ばれる心配がねえってだけで、こんなに気が抜けるもんかと思った。
自由日っつっても、やることなんざそうねえ。走り込みくらいはやりたかったが、船の甲板は狭くて、まともに走れる距離もありゃしねえ。甲板で日を浴びながら寝転がってると、隣に軽井沢が座って、その向こうで綾小路が海を見てた。
同じ組になったのは初日に知った時、正直戸惑った。あいつと同じ班とか、何を話せばいいんだって思ってたが、蓋を開けりゃ楽なもんだった。綾小路は必要以上に喋らねえし、こっちに気を遣えとも言わねえ。話し合いの時間も、あいつが余計な口を挟まねえおかげで、案外まとまりやすい。
「須藤くん、また日焼け止め忘れたでしょ」
軽井沢が呆れた声で言う。
「んなもん、いちいち塗ってられるかよ」
「後で真っ赤になっても、知らないからね」
軽井沢は、こういう時だけ妙に世話焼きだ。普段はクラスの派手な連中と一緒にいることが多くて、正直あんまり喋ったことなかったが、同じ組になってからは、こういうやり取りが増えた。悪い気はしねえ。人付き合いの幅が、島試験の頃より少しは広くなった気がする。
自由日だからって、試験自体が休みになるわけじゃねえってのは、この2日で分かってる。話し合いが無いだけで、優待者を名指しする権利はいつでも使える。今日みてえな穏やかな空気の裏で、どこかの組が動いてても、こっちには分かりゃしねえ。
うちの組の話し合いは、噂に聞く他の組ほど殺伐としてねえ。優待者が誰かって話も一応出るが、決を急ぐ空気は薄い。俺の目から見りゃ、他人の腹を探るより自分の走り込みのタイムを気にしてる方が性に合ってる。だが、この試験が終わるまで大人しく座ってりゃそれでいいってわけでもねえのは、分かってる。
無人島の時も思ったが、こういう試験の間、赤木はいつも一人で動いてる。誰かとつるんでる姿をほとんど見ねえ。それでいて、いつの間にか話の中心に食い込んでる。俺には真似できねえやり方だ。俺は俺で、自分の走りと、自分の周りの奴らのことしか考えられねえ。器用さで敵う気はしねえが、それでいいと思ってる。得意なことで信用を稼ぐしかねえ人間だっている。
中間テストで英語が一点足りなくて、退学寸前まで行った六月から、もう2ヶ月だ。あの頃は、自分のことしか見えてなかった。バスケの推薦だけを頼りにして、勉強も他人の面倒も、ずっと後回しにしてた。あの一点が足りてなかったら、今頃この船にすら乗ってねえ。単純な話だ。
結果発表の朝、あと一点足りず退学だと知らされた時、頭が真っ白になった。バスケしか能がねえと自分でも分かってたから、それすら取り上げられたら何も残らねえと思った。次の日、俺の退学が取り消された連絡を見た時は、正直、何が起きたのか分からなかった。誰かに聞くのも怖くて、しばらくの間は一人で画面の数字を睨んでいただけだった。
今は少しだけ違う。同じ組の奴らの動きくらいは、日頃から気にするようになった。誰かに教わったわけじゃねえ。ただ、あの時助けられた分、次は自分が誰かを助ける番だってのは、頭のどこかに残ってる。バスケの推薦一本で高を括ってた頃の自分とは、もう違う。俺は俺なりに、この2ヶ月で少しは変わったつもりだ。
昨日の話し合いの噂は、もうこっちの組にも回ってきてた。子組で名指し事件があったらしいと、誰かが飯の席で話してるのを小耳に挟んだ。詳しい中身は知らねえが、赤木の名前が出てたのは覚えてる。
「そういや、赤木の組で何かあったんだろ」
軽井沢に聞かせるつもりで、なんとなく言った台詞に、綾小路が答えた。
「らしいな」
「詳しく知ってんのか」
「噂程度だ」
いつもの、あの平坦な声だった。それで話が終わるはずだったが、俺は、前々から聞きたかったことを思い出した。誰かに聞くタイミングがなかっただけで、疑い自体は六月から抱えてたやつだ。
「なあ、綾小路。ずっと気になってたんだけどよ」
「なんだ」
「六月、龍園がうちのクラス漁ってた時期があっただろ。あれ、急に収まったよな」
「――ああ、そうだな」
「あの後、赤木がしばらく龍園と睨み合ってたって話、聞いたことある。あれ、繋がってんのか」
俺の一点を、あいつが10万で買った。それは分かってた。誰が出したかなんて、聞かなくても分かる話だ。だが、龍園がぴたりと動きを止めた理由までは、ずっと想像でしかなかった。あいつが何かやったんだろうとは思ってた。ただ、確かめる術がなかっただけだ。
「赤木が、龍園のところへ一人で行った。それだけだ」
軽井沢が「へえ」と小さく声を上げた。俺は、しばらく言葉が出なかった。想像が、そのまま裏を取れた感覚だった。
「――やっぱりか」
「やっぱり、とは」
「あいつなら、そのくらいやるだろうなとは思ってた。確信はなかったけどな」
「そうなのか」
「そうなのかって...お前の考えてることよくわかんねえな。てかなんで、お前がそれ知ってる」
綾小路は、それには答えなかった。海風に目を細めているだけだった。
「――なんで、今更になって赤木のことを俺に教えてくれたんだ?」
これにも、答えは返ってこなかった。
礼の一つも、まだ言ってねえ。言おうとした時が何度かあった。清算の日、部屋の前まで行って、結局言えなかった。今更、なんて顔をされるか。
想像でしかなかったものが、今日、確信に変わった。あいつは、俺が知らねえところで、俺の想像以上のことをやってたわけだ。
礼を言うタイミングを、また逃してた気がする。今度こそ、逃さねえ。
そう決めた。理由なんざ、後からついてくればいい。
昼まで、そのまま甲板でだらだらと過ごした。綾小路は途中で席を立ち、何も言わずにどこかへ消えた。行き先を聞いても、どうせ答えねえ。軽井沢とは、他クラスの走り込み仲間の話や、明日の試験がどう転ぶかで少し盛り上がった。軽井沢は軽井沢で、この試験に妙な緊張感を持っているらしい。「早く終わってほしいような、まだ終わってほしくないような」と、よく分からねえことを言っていた。
昼過ぎ、食堂の列で赤木と会った。トレイを持ったまま、こっちから声をかけた。
「よお」
「――なんだ」
「今日、暇だろ。少し付き合え」
断る理由もねえのか、赤木はそのまま隅の席に並んで座った。何から切り出すか、少し迷った。こういう時、綾小路みたいにさらっと本題に入れりゃいいんだが、そういう器用さは持ち合わせてねえ。しばらく黙って飯を食いながら、頭の中で言葉を組み立て直した。組み立て直しても、結局はうまくいかねえのが分かってるから、余計に迷った。
「なあ、赤木」
「なんだ」
「お前、六月、龍園のとこ、一人で行ったんだろ」
赤木の箸が、一瞬だけ止まった。
「――誰から聞いた」
「綾小路。よくわかんねぇけど、知ってたみたいだぜ」
即答した。隠す気は最初からなかった。
「――あいつが、なんでそんな話をお前にする」
俺が訊くと、赤木はそう返した。
「知らねえよ。理由も一応聞いたけど、教えてくれなかった」
赤木は、それだけ聞くと、また飯を食い始めた。理由を追及する気配もねえ。赤木が誰かの動きに驚かねえのは、いつものことだ。
「昔から薄々、そうじゃねえかとは思ってた」
自分の声が、少し低くなったのが分かった。続けて言った。
「金のことは、俺自身が気づいてた。だが、龍園と話をつけたことまでは、想像でしかなかった」
赤木は黙って聞いていた。
「ああ。今日、それが確信に変わった」
赤木の目が、まっすぐこっちを向いていた。誤魔化す気も逃げる気もねえ、いつも通りの目だった。
「――礼の一つも、言ってなかったな。お前が否定するからよ」
自分に言い訳を言い聞かせるように言った。
「言われる筋合いはねえ」
「筋合いとか、そういう話じゃねえだろうが」
いつもとは違う声が出た。自分でも低いと分かる声だった。考えるより先に、腹の底から出てきた感じだ。普段なら苛立ちや悔しさにぶつける熱が、今日はこっちへ真っ直ぐ向いていた。
「赤木、いつもありがとな」
箸を置いた。
礼を言う時は、いつも物だった。差し入れの菓子、飯の誘い、言葉にしないやり方でしか返せなかった。今、箸を置いたのは、それとは違う。今日は、ちゃんと言葉で渡すつもりだった。
「あの時、お前がいなかったら、俺は退学してた。それだけは、はっきりしてる」
言いながら、自分の声が震えてねえか気になった。震えてたかもしれねえが、今更止められねえ。中学の頃から、こういう場面で言葉に詰まる質だった。バスケでキャプテンに何か言われても言い返せず、後で一人で悔しがるタイプだ。それでも、今日は最後まで言い切った。
「金だけの話じゃねえ。あの後、龍園がうちのクラスに手を出してこなくなった。あれも全部、お前のおかげだった」
それだけ言って、黙った。それ以上の言葉を探したが、結局、何も出てこなかった。不器用だってのは自分でも分かってる。だが、いつもの逃げ道を使わず、初めて言葉そのもので渡せた。それで十分だった。
「気に入らねえから手を出しただけだ。礼はいらねえ」
「それでも、言わせろ」
それだけ返すと、赤木はそれ以上何も言わなかった。
バスケ部の連中には、この借りのことはまだ話してねえ。話したところで、金の話だと勘違いされるのが目に見えてる。中身はもっと単純だ。誰かが自分の首を懸けて、こっちの首を繋いだ。それだけの話を、うまく言葉にできる自信がねえだけだ。誰かに説明できるようになる日が来るかどうかも、今は分からねえ。
「明後日から、また朝の走り込み付き合えよ。試験が終われば、また普通の日に戻る」
「気が向いたらな」
「気が向けよ。お前、他クラスの奴らと走ってた時、随分速かったって噂になってたぞ」
この船の中、噂の流れる速さだけは、教室の中とそう変わらねえ。船に乗ってもクラスの垣根なんざ関係ねえってことなんだろう。
「――須藤、綾小路には、聞くなよ」
思い出したように言った。
「聞いても、教えてくれねえと思うけどな」
「まあ、そうだな」
今回、なんでそこまで教えてくれたのか、正直まだよく分かってねえ。
だが、分からなくてもいい。教えてもらえたっていう事実だけで、十分だった。理由まで全部知りたいなんて、贅沢な話だ。
「もう試験も潮時だ」
赤木が、それだけ言った。
「俺にはまださっぱりだけどな。まぁ体力を温存しとけ。走り込みの相手くらい、いつでも受けてやる」
「気が向いたらな」
軽口みてえに聞こえるが、この男が口にする以上、社交辞令とは違う気がした。少なくとも、最初から断る前提の誘い方じゃねえ。
相変わらずの、感情の読めねえ顔だった。だが、その一言には、こっちを見放してねえ温度があった。
礼を言い終えた分だけ、こわばってた肩の力が抜けた気がした。得を考えて動く奴も、理由なしには動かねえ奴も、この試験でいろいろ見てきた。だが、こんな飯の誘いに、こっちの方が救われる日が来るとは思ってなかった。
だからこそ、柄にもねえが、口出ししておきたかった。腹の底に引っかかってる違和感を、そのままにしておくのはどうにも座りが悪かった。
「あとそうだ。お礼ついでじゃねえけどよ……」
言い淀む俺を、赤木は急かすこともなく、ただ静かに見返してきた。
「堀北と、喧嘩でもしてるのか?」
「……どういうことだ」
声に驚きはなかった。ただ、事実を確認するだけの淡々とした響きだった。
「あ、いや。クラスの集まり、お前だけ呼ばれてないから。みんな気遣ってお前に話しかけてなかっただろ」
「なんで俺だけ呼ばれてないんだ?」
「堀北が、赤木くんは呼ばなくていいって」
言った直後、俺は少しだけ身構えた。仲間外れにされたと知って、いい気分のする奴はいねえ。特に堀北みたいな、クラスを取り仕切ってる女からの意図的なハブりだ。不機嫌になるか、理由を問い詰められるかと思った。
だが。
「……そうか。まあ気にすんな、喧嘩なんかしてねぇよ」
赤木は、つまらなそうに息を吐いただけだった。
そこに強がりや、隠しきれねえ苛立ちみたいなもんは、微塵もなかった。本当に「どうでもいい」とでも言いたげな、ただの確認作業を終えただけの顔。
クラスから弾かれることすら、こいつにとっては痛くも痒くもねえらしかった。
「そうか? ならいいけどよ。なんかあったら相談乗るぜ」
「……」
返事はなかった。無視されたわけじゃねえ。俺の言葉を受け取った上で、返す言葉がねえって顔だった。
赤木と堀北。あの二人の間に何があるのか、俺にはさっぱり読めねえ。だが、ただの仲違いじゃないことだけは、その沈黙だけで十分に伝わってきた。
食堂を出た後、赤木はまたどこかへふらっと消えた。
誰かに合わせて動く男じゃねえのは、前々から分かってる。この試験で、あいつが何を考えてるのか、今も俺には分からねえ。
ただ、分からねえままでいい気もしてる。分かったところで、俺のやることは変わらねえ。俺にできるのは、張られた恩を腕力や体力で返すことだけだ。
夕方、部屋に戻って窓の外を見た。
海はもう暗い。明日で、この試験もようやく終わる。
明後日の朝練は、たぶん顔を出す。気が向いたらな、なんて格好つけてたが、本当は照れてるだけだろ。俺のペースについていけるかどうかは、また別の話だがな!
礼を言えたことだけが、今日の収穫だ。それで十分だった。明日は明日で、また別の一日が待ってる。試験が終わったら、走り込みでは遅れを取らねえようにしとかねえとな!
ここから先、アカギの過去について一人に公開していこうと思っています。誰に知って欲しいでしょうか。(続きが気になるからはお手隙の際に高評価もよろしくお願いします)
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須藤
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綾小路
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堀北
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坂柳
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龍園