朝、目を覚ましてすぐ、昨日須藤から聞いた話を頭の中でもう一度並べ直した。
龍園がうちのクラスから手を引いた理由。須藤自身がずっと想像でしか持っていなかったその答えを、綾小路が寄越した。金を出したことも、龍園と話をつけたことも、元はといえば見返りなんぞ勘定に入れずにやったことだ。あの時、須藤の一点を買ったのも、龍園と話をつけたのも、後で何かが返ってくるなんて考えちゃいなかった。ただ、気に入らねえと思ったから動いただけだ。
あの頃はまだ、須藤のことなんか碌に知らなかった。ただ、あと一点足りずに退学が決まった男が、教室の隅で誰にも気づかれねえよう俯いてる姿を見た。それだけだ。損得の勘定なんぞ、頭のどこにもなかった。財布の中身が空になることも、後で誰かに恩を売る形にもならねえことも、あの時点じゃどうでもよかった。
あの男は、麻雀の点を数える術も、卓の理屈も、何一つ知らなかった。それでも、退学が決まった瞬間の目だけは、昭和の卓で何度も見た目とそっくりだった。負けを受け入れきれず、自分の手の中身をもう一度数え直そうとする目。数え直したところで、出てくる答えは変わらねえのに、それでも数える。震える指先で、何度も同じ点数を確かめる姿だった。
ただ、こいつはまだ負けちゃいない、足りてないだけだと感じた。
あの目を見た瞬間、体が勝手に動いていた。金を出す理由を、その場で考えたわけじゃねえ。考える前に、財布はもう手の中にあった。理屈は、後から勝手についてきた。
昭和の卓でも、そういう手はいくつも打った。誰かを助けて、それが後でどう転がるかなんて、考えたこともねえ。助けた瞬間に、もう終わった話だと思っていた。だが、終わったはずの話が、こうしてまた卓の上に戻ってくることがある。
裏ドラ牌は、誰かが上がるまで誰の得にもならねえ。須藤を助けたあの一手は、当人にも気づかれねえまま、何ヶ月も裏のまま伏せられていた。今日、それが表になった。
須藤を助けてなけりゃ、綾小路がこの話を寄越すこともなかった。綾小路が動いた本当の理由はまだ読めねえが、動く先に須藤がいて、須藤の先に俺がいた。この繋がりだけは、誰かが仕組んだもんじゃ決してねえ。
巡り合わせにしちゃ、出来すぎている。だが、出来すぎた巡り合わせこそが、昔から俺の性に合ってる。理屈で説明のつく幸運なんぞ、幸運とは呼べねえ。
役満を3回続けて打ち込んだ夜もあった。狙って引き寄せた牌なんぞ、一枚もねえ。ただ、卓の前に座って、迷わず切っていっただけだ。理屈は後から誰かが勝手に付けてくれる。運が向いてるかどうかを、自分で計算しようとした瞬間、それはもう運じゃなくなる。俺はそれを神域と呼んでいる。
須藤の一点も、あの晩の思いつきに過ぎねえ。だが、思いつきで動いた分だけ、後になって化けるものがある。狙って撒いた種は、狙った通りにしか育たねえ。狙わずに撒いた種だけが、時々とんでもなく育つ。
俺は、この学校の点だのクラスだの、そんなもんに一切興味はねえ。それは今も大して変わっちゃいねえ。それでも、須藤という一人の男の退学だけは、見過ごせなかった。理由なんぞ、後になっても言葉にできねえ。ただ、気に入らなかった。それだけの、単純な話だ。
単純な話が、こうして巡り巡って戻ってくる。誰かに感謝されようが憎まれようが、あの晩の自分の判断そのものは、今振り返っても間違っちゃいなかったと思える。須藤は、綾小路から聞いた話を律儀に礼として渡しに来た。損得より先に何かが動くタイプだ。器用な奴らばかりが揃ってるこの学校で、そういう不器用さが一番信用できる。
8月14日。船上試験、最終日の朝が始まった。
須藤の話には、もう一つ続きがあった。うちのクラスは、俺の組を除いて、互いの優待者事情を緩く共有し合っているという話だ。堀北が音頭を取って、俺にだけは声をかけていない。理由は須藤も知らなかった。
誰かが誰かに漏らせば、そこから崩れる。緩い共有網なんぞ、守り切れる保証はどこにもねえ。堀北がどういうつもりで俺を外したのかは知らねえが、結果として、その判断が今の俺には都合がいい。守り切れると信じたまま油断してる分、いざ崩れた時の傷は深くなる。俺が最初からその輪に入っていなかったのは、皮肉にも一番安全な位置だったわけだ。
俺自身が優待者だという事実は、いずれ誰かに割れる。守り通せるという前提の上に立つのは、性に合わねえ。だったら、割れ方をこっちで選ぶ方がいい。
昭和の卓でも、隠し通した手なんぞ一度もねえ。隠れて生き延びる勝負より、開いて叩き合う勝負の方が、性に合ってる。開いた上でどう転がるかを見届ける方が、よほど楽しみが持てる。誰にいつ晒すかを自分で選べるなら、それはもう守りじゃねえ。攻めだ。
話し合いまではまだ十分に間がある。その間に、片付けておきたい札があった。
部屋を出たところで、堀北とすれ違った。
「今日で、いよいよ最終日になるわね」
「ああ、そうだな」
堀北は、しばらくの間、黙って俺の顔を見ていた。何かを切り出す前の、いつもの間だった。
「――何か聞いたのかしら」
鎌をかけるような目じゃなかった。ただ、事実だけを静かに確かめようとする目だった。
「聞いた。あんたが、俺だけを共有網から外したこともな」
隠すつもりも、遠回しに探るつもりもなかった。ただ、知った事実を、そのまま口にしただけだ。
堀北の肩が、ほんのわずかに強張ったのが、はっきりと分かった。
堀北は、一瞬だけ目を伏せた。それから、視線を海の方へ流した。
「その理由を聞かせろ」
「今は、まだ言わないでおく」
「今更になって、それを隠したところで大した意味があるとも思えねえが」
「意味は、私の中にちゃんとあるの。今は、それだけ分かってもらえれば十分」
堀北の声は、いつになく硬かった。突き放すような口調ではなかったが、これ以上は踏み込ませねえという線だけは、はっきり引かれていた。押し問答をする気は、こっちにもねえ。
「あんたが何を隠してようが、こっちが困ることは一つもねえよ。ただ、それを覚えておく」
「――覚えておいて、それでどうする気」
「どうもしねえよ。ただ、忘れねえだけだ」
堀北は、少しだけ意外そうな顔をした。追及されると思っていたのかもしれねえ。だが、こっちに追及する材料も理由もねえ。あいつが何を隠していようと、こっちの手が変わるわけじゃねえ。
この女は、いつも一番厄介なところにだけ手を突っ込んでくる。今回も、俺自身のことを、俺の知らないところで調べ回ってたんだろう。腹立たしいと思わねえのは、こいつの動機がいつも損得抜きだと知っているからだ。損得抜きで動く人間を、俺は嫌いにはなれねえ。須藤がそうだったように、堀北もそうだ。この学校に来てから出会った人間の中で、その手合いだけは、数えるほどしかいねえ。
「あんたは俺の弱みを見ている。俺も、あんたの一番見せたくねえところを見た。それで釣り合ってる」
あの5月の夜のことは、堀北も俺も、これまで一度も誰にも話していない。話す必要もねえ。互いに一番みっともねえところを一つずつ握り合っている、それだけの関係だ。今日みたいに、片方が片方の秘密を知って、知らないままでいる。そういう非対称も、この関係の中じゃ珍しくねえ。
「――それとこれとは、別の話でしょう」
「別でも同じでも、俺の勘定は変わらねえ」
堀北は、それ以上言葉を継がなかった。ただ、何かを確かめるような目で、しばらくこっちを見ていた。
「――一つ訊いていいか。これまでの話し合い、進展はあったのか」
「随分と話が飛ぶのね」
「隠し事はそっちに預けとく。だが、それとは別に訊きてえことがある」
堀北は、少しの間考えるように黙った。それから、いつもの整理された口調に戻って言った。
「――正直に言うと、特に何も。昨日なんて、池くんが『テレビもないしつまんねえ』って騒ぎ出して、それで流れ解散になったくらい」
「テレビ、ね」
「ええ。くだらない話よ。ただ、そのやり取りを見てて少し思ったの。誰も本気で候補を絞ろうとしない。避けてるみたいに見える人が、毎回同じ顔ぶれな気がして」
「――法則でもあるってのか」
「私にはまだ判断がつかない。ただ、そう思ってる自分がいる、それだけ」
それだけ言うと、堀北はそのまま歩き出した。呼び止める理由は、こっちにもねえ。この女なりの筋があるなら、それでいい。理由が明かされる日は、いずれ来る。急ぐ話じゃねえ。堀北の後ろ姿が、廊下の角を静かに曲がって見えなくなるまで、少しの間だけ見送った。
テレビ、その一言が、耳の奥に引っかかったまま離れなかった。ふと、古い記憶が疼いた。
昭和の正月、テレビの前で寝転がってた頃だ。特番か何かで、干支の順に何かを割り振っていく企画をやっていた。子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥、何番目が誰、という数え方は、あの頃はどこでも普通に使われてた。当時は他人事として眺めていただけの、暇つぶし程度の記憶でしかねえ。だが今、堀北の話と重ね合わせりゃ、干支の順に名簿の位置をずらす、そういう仕掛けがこの試験のグループ分けの裏にも仕込まれていてもおかしくねえ、という直感だけが残った。理由は後からついてくればいい。先に、そういうもんだという確信の方が来た。
「子」組の答えは、最初から分かってる。自分自身だ。他の組がいまだに話し合いで揉めてるってことは、答えに辿り着く材料が、まだ全員の手元に揃っちゃいねえってことだ。材料さえ揃えば、後は直感で十分埋まる。
俺の手元にあるのは「子」組の名簿だけだ。他の11組ぶんを集められる人間に、心当たりが一人いた。龍園だ。
あいつが喉から手が出るほど欲しがるものと、こっちが差し出しても惜しくねえもの。頭の中で、取引の形がもう勝手に組み上がっていく。
細かい札の並べ方まで詰める前に、答えはとっくに出ていた。
誰かに秘密を持たれるのは、この学校に来てから初めてじゃねえ。茶柱にも、綾小路にも、それぞれ抱えたまま渡してこねえものがある。抱えたものの重さを、いちいち量って歩く趣味もねえ。渡す気になった時に渡す。それだけの話だ。
だが、堀北のそれは、少しだけ質が違う気がした。あいつらが抱えてるのは、自分の手札の話だ。堀北が抱えてるのは、俺自身のことだ。俺のために何かを隠してる人間が、この学校に一人いる。それだけは、今日はっきりした。
悪くねえ。むしろ、こういう巡り合わせは嫌いじゃねえ。
誰にも守られる気はねえが、勝手に守ろうとする奴を止める義理もねえ。堀北の勘定は堀北の勘定だ。こっちはこっちの勘定で動く。それだけのことだ。この学校に来てから、勝手にこっちの側に立とうとする人間に出会ったのは、堀北が初めてじゃねえ。だが、理由を求めずに動く人間は、そう多くねえ。
この学校に来てから、退学の二文字を突きつけられたことは何度かある。その度に、周りの連中は震え上がった顔を見せた。震える理由が、俺には最後まで分からなかった。退学したところで、命を取られるわけじゃねえ。命さえ取られなけりゃ、また別の卓に座り直せばいい。それだけの話を、この学校の連中はやけに大袈裟に扱う。
昭和の卓じゃ、負けは命の勘定と直結していた。それでも、震えて手を縮めた人間から順に食われていった。震えなかった人間だけが、次の卓にも座れた。今も、その理屈は変わらねえ。退学だろうが何だろうが、震えた瞬間に、もうその勝負は負けが決まってる。
優待者だと割れてクラスに迷惑をかけるかもしれねえ、なんて話は、震える理由にはならねえ。ただの結果の一つだ。結果に怯えて動けなくなるようじゃ、最初から座る側の人間じゃねえ。今日、俺が選ぼうとしてるのは、その結果を誰の手で、いつ引かせるかってだけの話だ。
昼が近づくにつれ、甲板を行き交う人の数が少しずつ増えてきた。最終日を前にした、いつもより少しだけ張り詰めた空気が甲板全体に漂っている。誰かに割られる側で終わるか、割らせる側に回るか。この二つは、傍から見りゃ大した違いに見えねえかもしれねえ。だが、卓の内側にいる人間には、天と地ほどの差がある。割られる側は、いつどこで牌が倒れるか分からねえまま、ただ待ち続けるしかねえ。割らせる側は、その瞬間を自分の手で選べる。
誰にどう見えるかなんぞ、本来は取るに足らねえ話だ。だが、選べるってことが、この試験で唯一、俺自身が握れる主導権だ。優待者だと知られること自体は、もう避けようがねえ。避けようのないもんを避けようとするのは、負け方の下手な打ち手のやることだ。避けられねえなら、どう負けるかを選ぶ方に頭を使う。それが、昭和の卓で染み付いた作法だ。
勝つか負けるかは、いつだって最後の最後まで分からねえ。だが、負け方だけは、いつだって自分で選べる。震えて縮こまって負けるか、開き直って堂々と負けるか。どっちを選んだところで、負けは負けだ。だが、選び方一つで、次の卓に座る時の顔つきが変わる。顔つきが変われば、周りの人間の見る目も変わる。それだけの違いが、次の勝負を決めることだって珍しくねえ。
誰を相手に、いつ、どう切るか。それを自分で決められる立場に立てただけで、今日という日はもう十分な収穫だ。使う駒は、もう頭の中で決まっている。あとは、当人に頼み込むだけだ。
話し合いになる前に、はっきりと腹を決めた。割れるのを待つより、割らせる方を選ぶ。それが、今の俺にとって一番割の合う勝負手だ。腰を上げて、甲板の方へゆっくり向かった。
潮の匂いがいつもより強く感じられた。試験が終わりに近づいてる証拠なのか、単に今日の風向きのせいなのか、そんなことはどうでもいい。今日、卓の上に新しい牌が一枚増える。それだけの話だ。歩き出す足取りに、迷いはなかった。
坂柳のことも、頭の片隅にずっとあった。あの女がこの一手をどう受け止めるかは、まだこっちにも想像がつかねえ。だが、想像がつかねえこと自体が、今は悪くねえと思えた。読み切れねえ相手の反応を楽しみに待てるうちは、まだこの卓を降りる気にはなれねえ。
「クックック、待ちくたびれたぜ。赤木」
甲板の隅、他クラスの連中から少し離れた場所に、龍園が一人で待っているのが見えた。
ここから先、アカギの過去について一人に公開していこうと思っています。誰に知って欲しいでしょうか。(続きが気になるからはお手隙の際に高評価もよろしくお願いします)
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須藤
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綾小路
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堀北
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坂柳
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龍園