その朝は、いつもより教室が静かだった。
静かといっても、落ち着いているわけじゃない。全員が同じものを見ていて、誰も声を出せずにいる。そういう静けさだ。
机の上に置かれた光る板を、皆が食い入るように覗き込んでいる。
「……なあ、これ壊れてねえか」
最初に声を出したのは、須藤だった。
「俺のとこ、0になってんだけど」
「え、俺も」
「俺もっすよ。振り込まれてないっす」
池と山内が、青い顔で板を突き合わせている。
教室のあちこちで、同じ言葉が上がり始めた。ゼロ。ゼロ。俺のもゼロだ。
誰かが誰かに訊き、訊かれた方も同じ顔をしていて、それが波紋のように広がっていく。
俺は自分の板を出そうともしなかった。出したところで、俺の指には応えない。
だが、確かめるまでもなかった。
これが、勘定だ。
教室の顔を、順に眺めていく。
池は、何度も同じ場所を指で叩いていた。叩けば数字が戻るとでも思っているような手つきだった。
山内は、隣の生徒の板を覗き込んでいる。自分だけじゃないと確かめて、少し安心した顔になった。人と同じなら大丈夫だと思える人間は、こういう時に一番使いやすい。
平田は、周りに声をかけて回っていた。落ち着こう、何かの手違いかもしれない、と。
手違いであってくれ、と願う顔だ。
堀北だけが、板を見ていなかった。
まっすぐ教壇の方を、まだ誰も立っていない場所を見ている。
あの女は、もう理由の方を考えている。
チャイムが鳴り、茶柱が入ってきた。
教室が静まるのを待つ必要もなかった。全員がもう、この女の言葉を待っていた。
「先生! ポイントが振り込まれてないんですけど!」
誰かが叫ぶ。他の何人かが続いた。
茶柱は教壇に立ち、名簿を置いた。
「振り込まれていないのではない。0だから振り込まれなかった。それだけのことだ」
声に、慰めも詫びもなかった。
「先月、お前たちのクラスポイントは1000だった。今月、それが0になった。だから支給額も0だ」
「なっ……ちょ、待ってくださいよ! なんで0なんですか!」
「説明しよう」
茶柱は、手元の紙を持ち上げた。
「遅刻。欠席。授業中の私語。携帯電話の使用。この一ヶ月で、このクラスが積み上げた分だ。すべて数値化され、その都度、クラスポイントから引かれている」
教室が、しん、とした。
「一件ごとの減点は大きくない。だが、お前たちは一ヶ月の間、それを止めなかった。誰一人としてな」
「須藤。お前の遅刻は、この一ヶ月で8回」
名指しされた須藤が、びくりと肩を揺らした。
「池、山内。授業中の携帯使用、それぞれ30回を超えている。他にも該当者は多い。……読み上げるか?」
誰も、返事をしなかった。
全部、数えられていた。
あの女が一度も口を開かなかった一ヶ月、こちらのやったことは一件残らず数えられていた。数えていないふりをして、ただ数えていた。
俺は、教壇のあの女の顔を見ていた。
表情はほとんど動いていない。困ってもいないし、怒ってもいない。
当然だ。この女は、初めからこうなることを知っていた。
「先生、なんで言ってくれなかったんですか!」
平田が、初めて強い声を出した。
「注意してくれれば、僕たちだって――」
「なぜ、私が言わなければならない?」
茶柱は、平田を見た。
「入学式で説明したはずだ。生活態度、協調性、規律。それらすべてが評価されると。聞いていなかったのか」
「それは……聞いてました。でも」
「聞いた上で、守らなかった。それだけの話だろう」
平田が言葉に詰まった。
その通りだ。この女は嘘を一つもついていない。全部、最初に言ってある。
言った上で、黙って見ていただけだ。
俺は思わず、小さく息を吐いた。
……悪くねえ。
「もう一つ、伝えておくことがある」
茶柱は、名簿を閉じた。
「この学校は、優秀な生徒を育成する機関だ。そして、AからDまでのクラスは、入学時点での評価によって振り分けられている」
嫌な間だった。
「Dクラスというのは――お前たちのような、欠陥のある生徒を集めた場所だ」
誰かが息を呑む音がした。
「学力、素行、協調性、その他。何かしらの問題を抱えていると判断された者が、このクラスにいる。学校がお前たちに期待しているのは、そう多くない」
「そんな……」
「ふざけんなよ!」
須藤が机を叩いて立ち上がった。
「じゃあ何か! 俺たちは最初っから捨てられてんのかよ!」
「捨てているのなら、入学させていない」
茶柱の声は、少しも揺れなかった。
「AからDまでのクラスは固定ではない。学年末に、クラスポイントによって入れ替わる。這い上がる道は用意されている。……ただし、そこまで辿り着ける者がいれば、の話だがな」
須藤は、拳を握ったまま座り込んだ。
教室の空気は、もう完全に沈んでいた。
さっきまで、来月また10万入ると信じていた連中だ。その前提が、たった数分で消えた。
俺はその顔を、一つ一つ眺めていた。
賭場で、負けが確定した瞬間の人間の顔を、何度も見てきた。
似ている。だが、まだ甘い。
こいつらの顔には、まだ「何かの間違いじゃないか」という色が残っている。本当に終わった人間の顔は、もっと静かになる。
――だから、まだ終わっちゃいねえということでもある。
「……あんた」
俺は、手を挙げずに口を開いた。
教室中の視線が、こちらに集まった。
「赤木か。何だ」
「一つ訊きたい」
「言ってみろ」
「ポイントが0のまま、月が変わったらどうなる」
茶柱の眉が、わずかに動いた。
「……どういう意味だ」
「そのままだ。0が続いて、その先に何がある。0より下はねえんだろ? それとも、あるのか」
教室が、また静かになった。
誰も、そんなことは訊いていなかった。皆が訊いていたのは「どうすれば戻るのか」だ。
だが、そっちは後でいい。
卓に着いて最初に確かめるのは、どうやって勝つかじゃない。どうなったら終わりか、だ。それを知らずに張るのは、素人のやることだ。
茶柱は、少しの間、俺を見ていた。
それから、口を開いた。
「クラスポイントは0を下回らない。だが――」
一拍。
「退学は、クラスポイントとは別に存在する」
「ほう」
「三週間後、中間試験がある。一教科でも赤点――規定の点数を下回れば、その時点で退学だ。クラスの状況とは関係なくな」
教室が、爆発したように騒がしくなった。
「た、退学って!」
「嘘だろ!?」
「先生、それ本当なんですか!」
俺は、その騒ぎの中で、一人静かにしていた。
……なるほど。
そういう形か。
クラスの点はいくら削られても、席を立たされることはない。だが、個人の点が足りなければ、その場で首を切られる。
クラス全体を沈めておいて、最後に個人を吊るす。
よく出来ている。
なぜなら――クラスが沈んでいるほど、個人は自分の首のことしか考えられなくなるからだ。
もし点が潤沢に残っていれば、こいつらはまず「金でどうにかならないか」を考えたはずだ。実際、この学校のポイントとやらは、あらゆる便宜と交換できると言っていた。
だが、今この教室に、一人分の首を買い戻せる額を持っている人間はいない。
全部使わせた後で、首の話を持ち出す。
順番が、完璧だ。
誰が誰を庇う余裕もなくなる。
俺は、懐にしまってある四つ折りの紙を思い出した。
赤い字で、12。
この教室で一番先に首を切られるのは、間違いなく俺だ。
放課後の教室には、誰も残りたがらなかった。
皆、逃げるように出ていく。顔を突き合わせていると、自分の点数のことを考えてしまうからだろう。
その中で、堀北が俺の机の前に立った。
「……あなたの言った通りだったわね」
「そうかい」
「注意されないのは、注意する気がないからだと。……最後まで言われない、とも」
堀北の顔は、青いというより、強張っていた。
「認めるわ。私が凡庸だった」
「別に、あんたの話をしてたわけじゃねえ」
俺は椅子の背にもたれた。
「あんた一人が真面目にやっても点は戻らねえ、と言っただけだ。……そいつは今も変わらねえよ」
「……ええ。よくわかった」
堀北は、教室を見回した。誰もいない机の列を。
「このクラス全体を上げないと、意味がないということでしょう。私一人が完璧でも、引き算は止まらない」
「わかってんじゃねえか」
「言われたことを、そのまま繰り返しているだけよ」
堀北はそう言って、少しだけ悔しそうな顔をした。
悪くない。この女は、負けを認めるのが早い。それは弱さじゃない。
「……ところで、赤木くん」
「なんだ」
「あなた、中間試験は大丈夫なの」
俺は答えなかった。
答える必要もなかったらしい。堀北は、俺の顔を見て、露骨に眉を寄せた。
「12点だったわね、この間」
「よく覚えてんな」
「……忘れられるわけがないでしょう」
堀北は、深く息を吐いた。
「言っておくけれど、あなたが退学になったら、それはクラスにとっても損失よ。人数が減るということは、それだけで――」
「安心しろ」
俺は、椅子から立ち上がった。
「首を差し出すつもりは、ねえよ」
鞄を持って、教室を出る。
廊下の途中、窓際に一人立っている男がいた。
綾小路だ。
こちらを見ようともしていない。だが、俺が通り過ぎるとき、そいつは口を開いた。
「いい質問だった」
足を止めずに、俺は答えた。
「何がだ」
「0より下があるか、と訊いたことだ。……あの場で、それを訊いた奴は他にいない」
「そりゃそうだろ」
俺は少し笑った。
「他の連中は、まだ助かる気でいるからな」
綾小路は、それには答えなかった。
少し歩いてから、俺は足を止めた。
「あんたは、いつから知ってた」
「何をだ」
「先月のうちに、こうなるってことをだ」
窓の外を見たまま、綾小路は少し黙った。
「……知っていたなら、何か変わったのか」
「いや」
俺は正直に答えた。
「あんたが止めても、あいつらは聞かなかった。平田が止めても駄目だったんだ。あんたじゃなおさらだろ」
「そうだな」
平坦な声だった。同意しているようにも、聞き流しているようにも聞こえる。
「だが――」
俺は続けた。
「知ってて黙ってたなら、あんたも同じ側だ」
初めて、綾小路がこちらを見た。
表情はない。だが、視線がこちらに向いたこと自体が、答えのようなものだった。
「……教師と同じ、という意味か」
「見てて、何も言わなかった。それだけは同じだ」
しばらく、返事はなかった。
「否定はしない」
それだけ言って、綾小路はまた窓の外に目を戻した。
俺は、そのまま歩き出した。
悪くない男だ。
嘘をつかない人間は、扱いやすい。……嘘をつく必要のない立場に、常に自分を置いているという意味でだが。
寮に戻る道すがら、俺は考えていた。
三週間。
その間に、俺は読めもしない紙の上で、点を取らなければならない。
まともにやれば、まず無理だ。
この学校の連中が何年もかけて積み上げてきたものを、三週間で追いつける道理がない。
だが――
勝負というのは、いつだって条件が悪い側から始まる。
持ち点1300から始めた夜もあった。誰もが、もう終わりだと言った夜だ。
あの時、俺がやったのは、勉強でも根性でもない。
卓の形そのものを、変えたんだ。
俺は空を見上げた。
三週間後、この学校は俺の首を取りに来る。
……上等だ。
取りに来るということは、向こうもようやく卓に座るということだ。
一ヶ月、姿を見せずに数えているだけだった相手が、初めてこちらへ手を伸ばしてくる。
その手が伸びてきた時が、一番読める。