8月15日。下船の朝。
目が覚めた時、船はもう穏やかに揺れているだけだった。荒れる予感も、慌ただしい足音も、部屋の外からは聞こえてこねえ。
窓の外に、陸地の影が見えた。
布団を出て、荷物をまとめた。急ぐ理由はねえ。
食堂に降りると、一之瀬たちが結果の話で盛り上がっていた。
「AとB、150ずつマイナスって、結構でかいよね」
「Cは100プラスで、うちが200。今回、うちが一番デカいってことだろ」
須藤が、数字を嚙み締めるみてえな声で言った。
一之瀬は、少しだけ困ったように笑った。
「うん。数字だけ見たらそう。でも、正直、なんでうちとAクラスだけこんなに減点されたのか、私にもよく分からなくて」
誰も、それに答えなかった。
「無人島の分と合わせりゃ、うちの持ち点、結構な数字になってるはずだよね」
「314に200足して、514ってとこか」
須藤が、指折り数えるように言った。0まで落ちたところから積み上げてきた数字だ。悪くねえ伸び方だった。
「昨日の放送、めちゃくちゃだったよね」
「結局、堀北のおかげだったんだろ? いまだに実感ねえけど」
池が、頭の後ろで手を組みながら言った。
「まあいいだろ、勝ちゃ勝ちだ」
「単純ね」
篠原が、呆れたように笑った。それでも、その場の空気は決して悪くなかった。
理由なんぞ、誰も本気じゃ知りたがっちゃいねえ。数字が動いた事実だけで、皆、十分に満たされてる。
朝食を終える頃には、食堂のあちこちで同じ話が繰り返されていた。他クラスの連中の顔にも、それぞれの感情がはっきり出ていた。Aクラスの奴らは、誰もが押し黙ったまま俯いている。Bクラスは、Aほどではねえが、どこか気まずそうな空気だ。Cクラスだけが、妙に静かだった。喜ぶでも悔しがるでもねえ、値踏みするような落ち着きが、あのクラス全体に漂っている。何かを既に知っている連中の顔だ。龍園の顔が、頭の中を掠めた。
朝食の後、甲板の隅で龍園を捜した。
一人で座っていた。
「クックック……で、どうだった」
「別に、たいした結果でもねぇだろ」
五十音で名簿を並べ、干支の順番に当たる人間が優待者。子組には手を出すな。渡す時に付けた条件は、それだけだった。
「強がりやがって。独り占めもできたはずだぜ。堀北を通しゃ、Dだけで丸ごと食えた」
「うちが一人勝ちすりゃ、残り三クラス全部から恨みを買う。恨みの次は、詮索だ。だからあんたを使った」
「面倒臭え性分だな」
「面倒でも、そっちの方が高くつく」
「子組は手つかずにしたんだな、あんたなら無視して俺を吊し上げてもおかしくない」
「クックック、どうせ坂柳と決闘でもするつもりなんだろうから潰し合いしてくれたら儲けもんと思っただけだ」
肩の力が抜けるのが、自分でも分かった。他の勝負事なら、結果一つで済む話だ。だが、これだけは違った。子組を無傷のまま残しておいたのは、優待者だと知られたくなかったからじゃない。誰かがこの正体に、正面から辿り着く瞬間のために、あえて手をつけずに残しておいた札だった。
結果、誰も辿り着けなかった。
龍園は、懐から板を取り出して眺めた。
「無人島の分と合わせりゃ、A1089、B708、C642、D514ってとこだな」
「マシにはなったが、通算じゃまだ最下位のままだ」
「地道な話だな」
「地道で結構」
数字の話は、それで終わった。順位も、勝ち負けも、それ以上こっちから触る気はねえ。龍園も、追ってはこなかった。
「葛城、随分としょげてるらしいぜ」
「あんたが仕組んだんだろ」
「さあな。俺は来るもの拒まずなだけだぜ、赤木」
白々しい言い草だったが、咎める気にもならなかった。坂柳が本気で狙ってたのは、案外こっちだったのかもしれねえ。葛城を沈めることが最初から本命で、俺の正体を暴くのはついでの余禄だったとしたら、あの女はもう、とっくに目的を達成してる。
龍園は、ひとしきり笑うと、真顔に戻った。
「楽しませてもらった土産だ、もう一つ、教えといてやる」
「Dクラスに爆弾がいるって話か?」
「そうだ、自分の目で探せ」
教える気がねえというより、こっちを試してる目だった。この男は、そういう手合いだ。
「探す気はねえ」
龍園の目つきが、変わった。
「――あ?」
「知ったところで、やることは変わらねえ。寄越すなら受け取る。寄越さねえなら、それでいい。俺は隠れちゃいねえ」
「探しもしねえで、見つける自信でもあんのか」
「自信の話じゃねえ。見つかりたきゃ、見つかりに来る。それだけだ」
龍園は、しばらく黙ってこっちの顔を見ていた。値踏みするような、確かめるような目だった。
「なあ、赤木。てめえ、金にも点にも興味ねえ癖に、なんでそこまで踏み込む」
「賭ける価値があるかどうか、それだけだ」
龍園は、それだけ呟くと黙り込んだ。
「――今回は、借りにしとくぜ。次はもっと面白え札を寄越しな」
「気が向いたらな」
「須藤の一件の時も思ったが、てめえは怖がるべきところで一切怖がらねえ。この学校の連中とは、根本から違う勘定で生きてやがる」
「クク、褒め言葉として受け取っとく」
「褒めちゃいねえよ。ただの感想だ」
龍園は、それだけ言うと笑いを引っ込めた。値踏みの目に戻っている。この男が本気で相手を測る時の顔だ。無人島の時も、この目を向けられた。
立ち上がって、甲板を歩き出した。
通路の陰から、くぐもった声が漏れていた。
角を覗くと、櫛田がいた。
いつもの愛想笑いはどこにもねえ。壁を思い切り蹴りつけて、肩で息をしていた。
「――は? ふざけんな。なんなのよ、あいつ」
吐き捨てるような声だった。誰かに聞かれてるなんぞ、考えてもいねえ顔だ。
龍園の話を聞いた後だと、その苛立ちの意味くらいは分かる。だが、それだけだ。ここで声をかける気も起きなかった。
見なかったことにする、とは少し違う。見た上で、動かねえだけだ。
声はかけなかった。踵を返した。
甲板の手すりに寄りかかった。堀北に目で合図を送ると、歩いてきた。
「――全部、片付いたのかしら」
「ああ。世話になった」
堀北は、少しだけ驚いたような顔をした。素直に礼を言われるとは思っていなかったのかもしれねえ。
「理由は、まだ聞かせてもらえないのね」
「別に大した理由じゃねえ。保険だ」
「......分かった。次に何かある時は、また言って」
それだけ言うと、堀北は歩きかけて、足を止めた。
「――一つだけ。あなたを共有網から外した理由、あなたは一人にしておいたほうがいい、そう思っただけよ」
「そうかい」
堀北の表情は変わらない。
「結果、Dクラスは勝てた」
「そうかい」
「あなたは、満足した?」
堀北の表情は変わらない。
「さあな」
「そう」
堀北の表情は悲しげに見えた。
今度こそ先に歩いていった。理由も聞かずに俺を野放しにした女の背中を、少しの間だけ見ていた。
甲板を後にして食堂へ向かう途中、坂柳に呼び止められた。
「――昨夜のうちに、少しは種明かしをしていただけるのかと思っていましたが」
「気付いてんだろ、気付いた上で動かなかった」
坂柳は、少し意外そうに眉を上げた。すぐに、いつもの落ち着いた笑みに戻る。
「あの時、伊吹さんの落ち着きぶりで気づきました。それに、朝方、あなたが龍園くんと二人きりで話し込んでいるところも見ています」
「あんたの読みどおりだったわけだ」
「――今回は、私の負けということにしておきます」
それだけだった。名乗り出るでも、探りを入れるでもねえ。この女らしくない、あっさりした引き際だった。
数字が動いた理由を、あの女はもう摑んでる。だが、それだけだ。摑んだところで、何が変わるわけでもねえ。
誰が優待者だったかなんぞ、命のやり取りに比べりゃ、指先で弾ける埃みてえなもんだ。
それでも、坂柳という女が心を満たしてくれることを期待した。
この女の神域をみたいと思った。
「一つ、伺ってもよろしいですか。あなたは、勝つこと自体には、大して興味がないように見えます。それなのに、ここまでの手間をかけた。何のために?」
「賭ける価値があるかどうか、それだけだ」
「――龍園くんにも、同じことを仰ったんじゃありませんか」
坂柳は、小さく笑った。図星を突かれた顔をする気はねえが、隠す気もねえ。
「聞いてたのか」
「いいえ。ただ、あなたという人は、誰に対しても同じ物差ししか持っていないだけのことです」
言われてみりゃ、その通りかもしれねえ。誰を相手にしようが、こっちの勘定は変わらねえ。相手が龍園だろうが坂柳だろうが、この物差し一本で勝負してきた。今更、変えるつもりもねえ。
坂柳は、微かに笑って背を向けた。
杖の音が遠ざかっていく。
引き止めなかった。話す中身なんぞ、もう残っちゃいなかった。
この学校の連中は、点数一つで一喜一憂する。命を賭けたことのねえ人間の顔だ。
悪いことじゃねえ。ただ、目盛りが違う。優待者だと隠し通したと知られたままに戻れば、これまでとは違う目で見られる日も来るはずだ。歓迎する連中もいれば、値踏みする連中もいるだろう。どっちに転んだところで、何も変わることなどありはしねえ。
そのまま食堂へ向かう途中、須藤とすれ違った。
「おう、赤木。荷物、もうまとめたのかよ」
「大方はもう終わってる」
「早えな。俺の方は、まだ半分も終わってねえや」
須藤は、頭をかきながら笑った。相変わらず、荷造り一つ取っても要領が良くねえ男だ。だが、そういう不器用さが嫌いじゃねえ。
「――なあ、須藤」
「あ?」
「佐倉から、しばらく目を離すな」
「え、なんだよ急に」
「理由はうまく言えねえ。ただ、あいつの周りだけ、卓の空気が濁って見える」
「珍しいな、お前がそこまで言うの」
「気になっただけだ」
「佐倉? 了解。何かあったら教える」
須藤は、それ以上深く追及せずに頷いた。訊いたところで、こっちもまだ明確な答えを持っちゃいねえのを、分かってるのかもしれねえ。理由を求めずに動く、こういうところが、この男の一番信用できるところだ。
佐倉のことも、櫛田の一件も、下船したら確かめる理由がある。佐倉も櫛田も死の匂いがする、こういうときの勘はいつも当たっていた。
甲板にもう一度だけ出た。
海はもう、朝の色をしている。
堀北、綾小路、龍園、坂柳、須藤、佐倉。この2ヶ月で、随分と顔ぶれが増えた。数えるほどしかいなかった昭和の卓の記憶と比べても、悪くねえ面子だ。
龍園との勝負は、これで終わったわけじゃねえ。あの男が今日渡した札一枚をどう使うかは、まだ見えねえ。坂柳の方も、次はもっと踏み込んでくるだろう。読めねえ相手が二人、まだ卓の向こうに座ったままだ。悪くねえ景色だった。
須藤は変わらず声をかけてきたし、堀北は理由も聞かずに動いてく。それだけで、この2ヶ月の間合いが間違っちゃいなかったと分かる。
それだけで、賭けは十分に元が取れてる。
......とは思えなかった
命を張ったことのねえ人間が、命を張ったつもりで遊んでる。
こんな勝負じゃ、腹の底までは満たされねえ。
昭和の卓を降りた時も、似たような朝があった。負けた手の後始末をつけて、次の卓へ移る。それだけの繰り返しだった。今回も、結果大して変わらなかった。優待者だと知られて、要らぬ詮索を招く隙を作った。それでも誰も俺を見限らなかった。
海風を一つ大きく、胸の奥まで吸い込んで、甲板を後にした。
下船の列に並んでいる時、佐倉の姿が見えた。
誰とも連れ立たず、一人で立っている。声をかけようとした矢先、佐倉は列の流れに紛れて見えなくなった。
この2ヶ月、あいつが表立って動く姿を見た覚えがねえ。それが、かえって引っかかる。
何もねえなら、それでいい。だが、何かがある予感はしている。須藤に頼んでおいたのも、そのためだ。自分の目だけじゃ見えねえところは、他の誰かの目を借りればいい。それだけの話だ。
下船したら、また新しい卓が待っている。
ここから先、アカギの過去について一人に公開していこうと思っています。誰に知って欲しいでしょうか。(続きが気になるからはお手隙の際に高評価もよろしくお願いします)
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須藤
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綾小路
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堀北
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坂柳
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龍園