帰船翌日、8月16日の朝。寮の前で、須藤はもう準備運動を始めていた。芝の上には、まだ夜露が残っている。
「おせえよ」
「約束した覚えはねえ」
須藤が、怪訝な顔をした。
「――は? じゃあ何しに来たんだよ」
「暇だった、それだけだ」
走らなきゃ、他の暇つぶしを探しに行くところだった。走った方が、まだ後腐れがねえ。
須藤は、きょとんとした顔をしてから、笑った。
「相変わらず、変な理由で走りに来る奴だよな、お前」
「文句あるか」
「ねえよ。行くぞ」
須藤は、それだけ言うと笑って走り出した。追いかける形で、隣に並ぶ。土を踏む感触が、まだ湿って柔らかい。
朝の空気は、まだ湿り気を残していた。船の上とは違う、地に足のついた匂いがする。
息を切らしながら、須藤が口を開いた。
「――なあ。結局、あの試験、何がどうなってたんだよ」
「言ったろ。守り通された、それだけだ」
「守り通されるだけの中身があったから守れたんだろ」
「勘のいい奴には、勘のいい理由がある」
「はぐらかすの、うまくなったよな、お前」
「昔からだ」
「そういうことにしとくか」
須藤は、それ以上突っ込んでこなかった。息が上がって、それきり会話は途切れた。二人分の足音だけが、朝の敷地に規則正しく響く。
三周目に入る頃、須藤の足取りが目に見えて重くなった。それでも、止まろうとはしなかった。
「無理すんなよ」
「うるせえな」
走り終えて、息を整える背中を見ていた。汗が地面に落ちて、小さな染みをいくつも作っていく。深く踏み込まず、離れもしない。須藤なりの間合いだ。
「――また明日も付き合えよ」
「三日に一遍くらいなら考えといてやる」
「ケチくせえな」
須藤は、それだけ言うと笑いながら伸びをした。朝日が、もう完全に昇りきっていた。蟬の声が、もう鳴き始めていた。腫れ物扱いする気配は、今日も微塵もなかった。この距離感が、今の自分にはちょうどいい。
寮に戻り、シャワーを浴びた。水音の下で、須藤の息切れの音がまだ耳の奥に残ってた。夏休み中の寮は、いつもより人の出が緩い。教室に縛られる理由もねえまま、めいめいが好きに時間を潰している。
優待者の一件も、龍園や坂柳とのやり取りも、頭の中じゃもう終わった話だった。同じ盤面を、何度もなぞる気にはなれねえ。
談話スペースを覗くと、堀北が一人、板を眺めていた。目が合ったが、互いに何も言わなかった。一人にしておいたほうがいい、船の上でそう言われたきりだ。それで十分だった。あの女には、あの女の間の取り方がある。
廊下の角で、綾小路が壁に寄りかかっていた。
「昨日は聞いてたのか」
「さあな」
いつも通りの、平坦な返しだった。だが、目だけは違った。この男は、龍園との話の中身くらいは、もう摑んでる。壁に寄りかかったまま、姿勢一つ崩さなかった。中身までは踏み込んでこない。それが、こいつなりの距離の置き方だ。
「船の上で渡した札、片が付いた」
「片付いたのは、お前がやったことだろう」
「札を切ったのはあんただ。切らせたのは、あんたの勘定だ」
綾小路は、何も返さなかった。ただ、いつもより少しだけ長く、こっちの顔を見ていた。この男が誰かを長く見るのは珍しい。何かを勘定してる目だった。
少しの沈黙のあと、こっちから口を開いた。
「――一つ、帳面に付けとくか」
「好きにしろ」
「いずれ、使う」
「ああ」
それだけだった。返す時期も、中身も、決めてねえ。この男との間には、いつもそれで十分だった。取っておく駒を、互いに数えているだけの関係だ。守っているわけでも、守られているわけでもねえ。ただ、いずれ使う時のために、互いを取り置いてる。それだけだ。
綾小路は先に壁から背を離し、廊下の向こうへ歩いていった。足音一つ立てねえ歩き方だ。朝の光が差し込む廊下を、その背中がゆっくりと遠ざかっていく。角を曲がって、姿が完全に見えなくなるまで、その背中を見送った。
伊吹が、目も合わせず黙って通り過ぎた。船の上であれだけ張り詰めてた気配は、もうどこにも残ってねえ。用のねえ相手には、初めから用がねえ。そういう女だ。
佐倉の姿は、どこにも見当たらなかった。部屋にいるのか、それとも別の場所にいるのか。須藤に頼んだ手前、自分の目でも探すくらいはしておきたかった。だが、無理に押しかけて探る真似はしたくねえ。頭の隅に、あいつの分だけ席を空けておく。それくらいのことは、今の自分にもできる。
昼が近づく頃、廊下の角で櫛田とすれ違った。
「――お疲れ様、赤木くん」
いつもの、誰にでも向ける笑顔だった。裏表なんぞ最初から無いような顔だ。この笑顔一つで、クラスの半分は簡単に懐柔されるんだろう。
「次、どこに声かけるつもりだ」
前置きなしに、それだけ訊いた。
一瞬、笑顔が固まった。以前見た「止まる」だけの間とは違った。今度は、目の奥から素の色が覗いた。ほんの一瞬だったが、確かに見た。
「――何の話か、分かんないんだけど」
「分からねえなら、それでいい」
それだけ言って、先に歩き出した。廊下の先の曲がり角まで、振り返らなかった。背中に刺さる視線の強さで、当たったことは分かる。名前も、中身も、まだ何一つ明かしちゃいねえ。それでも、こっちが何かを知ってるってことだけは、もう伝わったはずだ。次の一手は、向こうが打つ。それでいい。
午後は、部屋で時間を潰した。窓の外は、うだるような暑さだった。頭に残ってるのは、昼前の一瞬の顔だけだった。あそこまで揺らいだ顔を、この女がそう易々と見せるとは思えなかった。よっぽど、後がねえんだろう。
それすら、正直どうでもよかった。櫛田も、龍園も、坂柳も、同じ種類の勝負だ。飽きるほど、もう見た。エアコンの効きが悪い部屋で、じっと天井を見上げていた。汗が、シャツの背中に薄く滲んでいる。
廊下で一之瀬とすれ違った。
「須藤たちから聞いたよ、朝練付き合ったんだって?」
「気が向いただけだ」
「らしいね。でも、須藤くん喜んでたよ」
それだけ言うと、一之瀬は軽く手を振って先へ歩いていった。廊下の窓から差す午後の光が、その背中を白く照らしていた。他クラスの人間とすれ違う時のこの女の顔は、いつも同じ温度だ。裏があるようには見えねえ。だが、裏があるように見えねえこと自体を、疑う理由にする気もねえ。
須藤から短い連絡が入った。
『佐倉、食堂で飯食ってた。普通だったぞ』
それだけの一文だった。返信は「分かった」の一言で済ませた。普通に見えるかどうかは、こっちの勘定とは別の話だ。
部屋に戻り、荷物の整理を続けた。無人島から船上まで、この二週間で溜まった雑多な物を、一つずつ片付けていく。砂の付いたままの試験用の腕章、船室で配られたままの乗船証、日焼けで色の変わった帽子。捨てるものと、まだ捨てられねえものを分けていく。単調な作業だったが、嫌いじゃなかった。手を動かしている間は、頭の中も自然と整理される。
夕食を済ませ、談話スペースに一度だけ顔を出した。須藤たちが、テレビの前で他クラスの誰かの噂話に笑っていた。輪に加わる気はねえ。ただ、遠目にその顔ぶれを確かめて、特に用もなく引き上げた。部屋に戻った頃には、外はもうすっかり暗くなっていた。今日一日で仕入れた材料を、頭の中でもう一度並べ直す。朝の一走り、堀北の慎重さ、櫛田の目の奥に覗いた素の色。どれも、まだ結論の出ねえ話ばかりだ。それでいい。急いで結論を出す必要のある夜じゃねえ。
夜、板が短く震えた。佐倉からだった。
『今、少しだけ時間もらえますか。……助けてほしいです』
荷物の整理をしていた手を止めて、画面をもう一度見返した。
飽き飽きしてた頭の中身が、そこで初めて、はっきりと動いた。
無人島に入ってからこっち、佐倉が誰かに自分から頼み事をする姿を、一度も見たことがねえ。無人島の時でさえ、あいつは頼まれる側にしか回らなかった。伊吹を見張れ、と役割を渡した時も、佐倉は黙ってそれを引き受けただけだった。頼む、という動詞そのものが、あいつの中では使い方を忘れた道具みたいなもんだった。
いつか、あんたが俺に頼んでいい。そう伝えたのは、無人島試験が終わった直後だった。あの時は、ただの一言のつもりだった。返ってくる日が本当に来るかどうかまでは、正直、確信もねえまま渡した札だった。渡しっぱなしで終わる札も、この学校じゃ珍しくねえ。
だが、佐倉は違った。渡された札の重みを、律儀に覚えていたらしい。
その佐倉が、今、自分から板を開いて文字を打った。
悪くねえ。むしろ、待ってたと言ってもいい。あの警戒の色が、ようやく言葉になろうとしてる。
『いつでもいい。今からでも構わねえ』
返信は、迷わずに打った。考える時間なんぞいらねえ。あの日から、佐倉には貸しをこしらえるでもなく、ただ役割を渡してきただけだ。あの時渡した札が、今日になって初めて意味を持つ。
少し待つと、また板が震えた。
『――ありがとうございます。実は……』
文字が止まったままの時間が、思ったより長く続いている。それでも、こっちから動く理由はねえ。窓の外の暗さだけが、少しずつ濃くなっていく。
部屋の電気を一つだけ点けた。手元の板の光だけが、やけに白く見える。エアコンの音が低く唸っていて、それ以外は物音一つしねえ。寮の廊下からも、いつもの騒がしさは聞こえてこなかった。カーテンの隙間から、外灯の光が細く一筋だけ差し込んでいる。
窓の外はもう暗い。船の上の夜とは違う。地に足のついた、いつもの寮の夜だ。あの狭い船室の夜とは、空気の重さそのものが、どこか違う気がした。
この二週間、佐倉の周りに何があったのかは、断片でしか知らねえ。無人島で伊吹を見張らせた時、あいつの目には常に何かを警戒してる色があった。あの目の色を、忘れたことは一度もねえ。
昭和の卓なら、こういう話は身内の揉め事として片付けりゃ済んだ。
この学校に来てから、これまでにも、誰かに頼られることは何度かあった。須藤しかり、堀北しかり。だが、佐倉のそれは少し質が違う。あいつらは、それぞれ自分の勘定で動いて、結果として俺のところに転がり込んできただけだ。佐倉は違う。誰にも頼れねえまま、初めて自分から手を伸ばしてきた。その一歩の重さは、須藤や堀北のそれとは比べものにならねえ。
この二週間、佐倉に何を渡してきたか、頭の中で数え直してみた。伊吹を見張れという役割。何かあったら頼っていいという一言。渡した札は、たったそれだけだ。それだけの元手で、ここまで返ってくるとは、正直踏んでなかった。
しばらくして、板が、また短く震えた。続きの文字が、画面に現れ始めた。
船の上で嗅いだのと、同じ匂いがした。外したことのねえ勘だ。
今夜のうちに全部を聞き出す必要もねえ。まずは、佐倉が自分の言葉で語り出すのを、黙って待つ。それだけでいい。焦る理由は、どこにもねえ。
優待者だ、点数だ、正体だと、ここのところずっと同じ盤面を回してきた。飽き飽きしてたのは、多分そのせいだ。だが、これは違う。久しぶりに、腹の底が動いた。
昭和の卓を降りてから、こういう感覚は久しぶりだった。悪くねえ夜だ。
板を握り直して、続きの文字が現れるのを待った。窓の外で、虫の声が一段と強くなった。廊下の向こうで、誰かの部屋のドアが静かに閉まる音がした。それだけで、夜がまた一段と深くなった気がした。
ここから先、アカギの過去について一人に公開していこうと思っています。誰に知って欲しいでしょうか。(続きが気になるからはお手隙の際に高評価もよろしくお願いします)
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須藤
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綾小路
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堀北
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坂柳
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龍園