佐倉からの話は、夜のうちに大方片が付いていた。
知らない番号からの接触。壊れたカメラを修理に出した時、中に残ってた自撮りの画像から、店員が正体に気づいたんじゃねぇかと言っていた。
学生の身分を隠して細々と続けてた、もうひとつの顔。中学の頃からやってた、アイドル活動。
人前じゃまともに口も利けねえ佐倉が、カメラの前でだけは別人みたいに笑える、その姿だ。バラされりゃ、それだけで済む話じゃねえ。学校中に知れ渡って好奇の目に晒されるだけでも、佐倉にとっちゃ十分すぎる代償だ。データを消させたところで、もう男の頭の中に入っちまってる。金で黙らせられる保証もねえ。こういう手合いが直に会いに来るような真似をされりゃ、もっと悪い方向へ転がりかねない。
指定してきた待ち合わせは、明日の夜、港の貨物用桟橋。
『来なくていい。俺が行く』
それだけ返して、板を伏せ、灯りを落とした。
翌朝、食堂で須藤と鉢合わせた。
「おう、赤木」
「なんだ」
「夜、みんなで鍋パしようっていってんだけど、こねぇか?」
「用がある」
「――珍しく先に言うじゃねえか」
「――気になるなら、一緒に来るか」
「――いや、いい。お前の面倒事に首突っ込む趣味はねえよ」
須藤は、それ以上突っ込んでこなかった。パンを口に運びながら、しばらく黙っていた。
「――お前が、そこまで言うくらいだ。よっぽどのことなんだろうな」
「よっぽどってほどでもねえ」
「なら、そこまで隠さなくてもいいだろ」
「お前に関係ねえ話だ」
「――関係ねえなら、なんで一緒に来るかとか訊いたんだよ」
痛いところを突かれた。答える気はなかった。須藤は、それ以上は深追いしてこなかった。トレーを持って席を立つ間際、一言だけ付け足した。
「佐倉のことは、任せとけ」
それだけ言うと、返事も待たずに歩いていった。頼んだ側が礼を言う暇もねえ、そういう男だ。トレーの上の食器が、遠ざかる足音に合わせてわずかに揺れていた。
午前中は、部屋で静かに過ごした。特にやることもなく、天井を見上げて過ごす時間が長かった。頭の中では、佐倉から届いた文面を何度も反芻していた。窓の外から、夏の蝉の声が絶え間なく響いていた。
昼過ぎ、談話スペースを覗くと、堀北が一人で座っていた。目が合うと、向こうから声をかけてきた。
「――何かあるの?」
「なんでそう思う」
「須藤くんが、朝から妙にそわそわしてたから。あなたのことになると、隠し事が下手なのよ」
「あいつのせいにするのは可哀想だ」
「否定はしないのね」
堀北は、それだけ聞くと小さく息を吐いた。
「深くは訊かない。ただ、何かあったら――」
「言わなくていい。あんたが言おうとしてることくらい分かる」
堀北は、少しだけ目を見開いてから、口の端をわずかに緩めた。
「――随分と、信用されたものね」
「信用の話じゃねえ。分かりやすいだけだ」
「それも、否定はしないでおくわ」
それだけのやり取りだった。堀北は、それ以上踏み込んでこなかった。この女なりの間合いだ。踏み込まれるより、そっちの方が今は都合がいい。窓際の観葉植物の葉が、エアコンの風に小さく揺れていた。
歩き去る背中を見送りながら、少しだけ考えた。この女がいつか、自分の知らねえところで何かを察して動く日が来るかもしれねえ。今はまだ、その時じゃねえ。それだけの話だ。談話スペースには、他に誰の姿もなかった。
食堂で軽く昼を済ませ、寮の周りを一通り歩いた。特に目的があったわけじゃねえ。頭の中を空にしておきたかった、それだけだ。
寮の裏手で、龍園とすれ違った。壁に背を預けて、缶コーヒーを飲んでいる。
缶コーヒーを一口飲んでから、こっちの顔を見るなり、わずかに口の端を上げた。
「ククッ……妙な面してんな、赤木」
「そう見えるか」
「見えるね。何か企んでる奴の面だ」
「そう見えるならそれでいい」
「――そうかい」
龍園は、しばらくの間、値踏みするような目でじっとこっちの顔を見ていた。それ以上、探ってくる気配はなかった。缶を潰して、近くのゴミ箱に放り込む。
「まあいい。面白えもんが見られそうなら、また教えろ」
それだけ言って、先に歩いていった。この男なりの興味の示し方だ。深く探る気はねえ、ただ嗅ぎつけただけ、そういう距離感だった。遠ざかる背中は、いつも通り肩で風を切るように歩いていた。
龍園と話した後、少しだけ足を止めた。ここに来てから、感情を隠す努力なんぞ、ろくにしてこなかった。見抜かれたところで、痛くも痒くもねえ。ただ、隠す気もねえのに簡単に読まれるのは、こっちの側の何かが緩んできてるからかもしれねえ。悪いことじゃねえ。ただ、少しだけ気には留めておいた。空を見上げると、まだ日は高い位置にあった。
午後、廊下の角で櫛田に呼び止められた。
「――赤木くん、少しいい?」
昨日とは、声の調子が違った。あの日の素の色は、もうどこにも見当たらねえ。いつもの、隙のない笑顔に戻っていた。
「――今度は、なんの用だ」
「昨日の言い方、気になっちゃって。何のことか、詳しく聞かせてもらえないかなって」
「詳しくは言わねえよ。言う必要もねえだろ」
櫛田は、そう言うと少しだけ首を傾げた。誰が見ても可愛らしいと思うだろう仕草だった。
「教えてくれたら、こっちも何か返せるかもしれないのに」
「返す物がある時点で、疚しいってことだろ」
櫛田の笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。すぐに、いつもの笑顔に戻る。
「――そう。じゃあ、一つだけ。赤木くんは、私の何が気になったの?」
「――行動が、な」
それだけ返した。名前も、中身も出さねえ。
「――随分と、勿体ぶるんだね」
「――あんたと、同じだ」
櫛田は、それだけ聞くと小さく笑った。作った笑顔じゃねえ、少しだけ本物に近い笑い方だった。
「面白い人だね、赤木くんって」
それだけ言うと、櫛田は軽い足取りで先に歩いていった。振り返らなかった。歩き方だけは、いつもと変わらねえ。廊下の角を曲がるまで、その背中を見送った。この女の話は、まだ終わっちゃいねえ。だが、今夜、片付けなきゃならねえ話は、他にある。
廊下の窓から差し込む午後の光が、遠ざかる背中を白く照らしていた。あの女の勘定がどこまで狂ってるのか、見えるのはまだ先の話だ。今は、それでいい。
夕方、廊下で佐倉とすれ違った。足取りが、いつもより重かった。
目が合うと、小さく頭を下げてくる。何も言わず、頷き返した。今夜のことは、まだ何も伝えちゃいねえ。伝える必要もねえ。結果だけを渡せば、それで十分だ。
すれ違いざま、佐倉が一瞬だけ足を止めた。何か言いたそうな顔をしていたが、結局、何も言わずに歩いていった。それでいい。言葉にできねえもんを、無理に言葉にさせる気はねえ。
背中を見送りながら、ふと思った。この女が笑うところを、ちゃんと見たことがまだ一度もねえ。今夜が終わったら、いつか見れる日が来るかもしれねえ。それだけの話だ。廊下の照明が、夕方特有の橙色に染まり始めていた。
部屋に戻り、そのまま時間を潰した。窓の外は、まだ明るい。日没まで、あと少しだけ間がある。
夕食は軽く済ませた。談話スペースには寄らなかった。今夜だけは、誰かと無駄口を叩く気分にはなれなかった。部屋に戻ってからも、特に何をするでもなく、ベッドに腰掛けたまま時間が過ぎるのを待った。時計の秒針の音が、いつもよりはっきり聞こえた。
板を開いて、佐倉から届いた文面をもう一度だけ読み返した。読んだところで、中身が変わるわけじゃねえ。それでも、指が勝手に画面をなぞってた。画面の光が、薄暗い部屋を淡く照らしていた。
腹の底が、少しだけ疼いた。誰の目もねえ場所で、誰の顔色も窺わねえ勝負だ。相手が何を出してくるかも、こっちが何を賭けさせられるかも、まるで読めねえ。昭和の卓じゃ、そういう夜の方がずっと多かった。上等な卓ばかり回ってきたわけじゃねえ。名前も知らねえ相手と、薄暗い部屋で札を晒し合う、そういう夜のことを、久しぶりに思い出した。
荷物の中から、古びた手拭いを一枚だけ取り出して、首に巻いた。昭和の時分から手放してねえ、数少ねえ私物の一つだ。特に意味のある動作じゃねえ。ただ、そうすると気持ちが落ち着く、それだけのことだった。
昭和の卓じゃ、誰かを脅す側にも脅される側にも、何度となく出くわした。金の切れ目が命の切れ目、そういう理屈で動く連中を、嫌ってほど見てきた。あの頃と今とじゃ、賭かってるものの重さも、周りの空気もまるで違う。それでも、腹の奥で疼くこの感覚だけは、あの頃から何も変わっちゃいねえ。手拭いの端を、もう一度だけ握り直した。
そう思うと、口の端が自然と持ち上がった。
日が落ちるのを待って、部屋を出た。玄関ホールで、須藤と鉢合わせた。談話スペースからの帰りらしい。
「おう、これからか?」
「さあな」
「おい、お前まさか女じゃねぇだろうな!堀北か?この野郎〜」
背中を叩いた須藤の手のひらが、ベルト付近に触れた
何か言いかけて、須藤の目が、こっちの懐の膨らみで止まった。
「――おい、お前そんなもん持ってどこいくんだよ」
声のトーンが、一段低くなった。
「お前には関係ねえ」
「関係ある無しの話じゃねえだろ。あぶねぇことすんなら、俺も行く」
「――いい。お前が来ても、増えるのは面倒だけだ」
須藤は、しばらくこっちの顔を睨みつけていた。それでも、それ以上は止めてこなかった。
「――お前それ、人に使ったらどうなるのか、わかってるよな」
低く、そう念を押してきた。付き合いの長さの分だけ、この男は分かってる。こっちが、加減なんてもんを知らねえ人間だってことを。
「わかってる」
それだけ返した。須藤は、それ以上は何も言わなかった。
「……絶対、無茶すんなよ」
低く、それだけ言った。返事はしなかった。そのまま、須藤の横をすり抜けて玄関を出た。
夏の夜風でも、港はいつも少し肌寒い。街灯の数が減るにつれて、足音だけがやけに響くようになる。潮の匂いが、寮の敷地とは違う濃さで漂ってきた。
歩きながら、頭の中で今夜の相手を想像してみた。実際に会ったことのねえ相手を思い描くのは、昭和の卓でも珍しくなかった。噂だけを頼りに、次に座る相手の型を組み立てる。当たることもあれば、外れることもある。それすらも、悪くねえ暇つぶしだった。夜道を歩く足取りは、自然と軽くなっていった。
佐倉を狙う手合いだ。ただの金目当てとも限らねえ。理屈より先に、感情が暴れる型かもしれねえ。どちらであっても、こっちのやることは変わらねえ。
寮の敷地を出た辺りで、街灯が一つ切れているのに気づいた。誰も直す気配のねえまま、何日もそのままなんだろう。そういう、誰の目にも留まらねえ隙間が、この島の外にはいくらでもある。今夜の相手も、そういう隙間から湧いて出てきた一人だ。夜道には、他に人影一つなかった。
港に近づくにつれ、潮風がはっきりと肌を刺すようになった。停泊中の漁船が、暗闇の中で黒い影のように並んでいる。人の気配は、ほとんどねえ。遠くの防波堤で、釣り人らしき影が一つだけ動いていたが、こっちには気づいてねえようだった。それ以外、動くものは何もなかった。
貨物用の桟橋は、漁船の並ぶ区画からさらに奥、街灯の光もほとんど届かねえ場所にある。案内板の字は、潮風で錆びついてほとんど読めなくなっていた。足元の砂利を踏む音だけが、やけにはっきり響く。遠くで、貨物船のものらしいエンジン音が低く唸っていた。
腕時計に目をやった。指定された時刻まで、あと少し余裕がある。急ぐ理由はねえ。むしろ、少し早めに着いて、向こうの出方を見てやるくらいの余裕は欲しかった。腕時計の針が、暗闇の中でも微かに光っていた。
角を曲がると、桟橋の輪郭が見えてきた。海面に反射する街灯の光が、ゆらゆらと揺れている。波の音以外、何も聞こえねえ。この場所を選んだ相手の頭の中身が、なんとなく想像できた。人目を避けたいだけの、小心者の選び方だ。足を止めて、その輪郭をもう一度だけ確かめた。
桟橋の端に、男が一人立っていた。三十代半ばくらいか。無精髭に、着崩れたシャツ。缶ビールを片手に、こっちを値踏みするような目で見てくる。足元には、吸い殻がいくつも落ちていた。待ちくたびれた分だけ、時間をここで潰してたらしい。
男は、こっちの姿を見て、あからさまに眉をひそめた。想像してた型とは、少し違ったらしい。それでも構わねえ。型が外れた分だけ、この夜は面白くなる。
夜の桟橋に、二人分の気配だけが残った。街灯の光が届かない場所で、男の輪郭だけが黒く浮かんでいる。波が桟橋の脚を叩く音が、規則正しく続いていた。
足を止め、間合いを測った。距離にして、十歩ほど。相手の手の内も、懐の深さも、まだ何一つ見えちゃいねえ。それでいい。見えねえまま踏み込むのが、この手の勝負の常だ。夜風が、桟橋の上を吹き抜けていった。
口の中で、小さく息を吸い込んだ。久しく忘れてた感覚だった。何かが始まる前の、あの張り詰めた静けさだ。喉の奥が、少しだけ渇いていた。
昭和の卓に座ってた頃、こういう静けさを味わう機会は、数え切れねえほどあった。相手の顔を見る前の、あの一瞬の間。今、自分がどんな状態にあるのか、確かめる暇すらねえまま、ただ体だけが自然と前に出る。あの感覚が、今、確かに戻ってきていた。懐かしさすら覚える感覚だった。
首に巻いた手拭いの感触を、指先で一度だけ確かめた。それだけで、十分だった。遠くの防波堤で動いてた釣り人の影も、いつの間にか消えていた。今この場所にいるのは、男とこっち、それだけだ。
男との距離を、もう一歩だけ詰めた。砂利を踏む音が、静かな夜に響いた。
ここから先、アカギの過去について一人に公開していこうと思っています。誰に知って欲しいでしょうか。(続きが気になるからはお手隙の際に高評価もよろしくお願いします)
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須藤
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綾小路
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堀北
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坂柳
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龍園