残りの数歩を、迷いなく詰めた。砂利の音が、波の音に混じって消えていく。夜の匂いが、一段と濃くなった。
間合いが、あと数歩まで縮まった。相手の顔の輪郭が、街灯の切れ端の光でようやく判別できるようになった。缶ビールを握る手の甲に、汗が滲んでいる。夏の夜だってのに、涼しい潮風の中でその汗だ。息遣いが、こっちにまで届くくらいの距離になっていた。酒とタバコの匂いが、潮の匂いに混じって漂ってくる。
男は、眉間の皺を深くしたまま、こっちを睨みつけてきた。缶ビールを持つ手の甲に、街灯の届かない闇の中でも分かるくらい、太い血管が浮いていた。染みの浮いた作業ズボンに、踵の潰れたサンダル。まともな身なりに構う余裕すら、とうに無くしてる格好だった。それに比べて、こっちは、制服のままだった。手拭い一本、首に巻いてるだけの、ただの学生にしか見えなかったはずだ。
「――誰だよ、お前」
低く尖った声だった。声に、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。想像してた相手と違う、そう言いたげな顔だった。
答える気はなかった。黙ったまま、間合いをもう一歩詰めた。桟橋の板が、体重を移すたびに小さく軋む。潮の匂いが、じっとりと肌にまとわりついてくる。係留索の軋む音が、どこか近くから低く響いていた。どこかで、虫の声が途切れ途切れに聞こえていた。潮風に混じって、かろうじて届く程度の音量だった。
しばらくすると、目が暗さに慣れてきた。輪郭の中の表情の動きまで、うっすらと読み取れるようになっていた。遠くの貨物船の灯りが、水面に長く伸びて揺れている。それ以外の光は、もうどこにもねえ。
しばらく、どちらも動かなかった。波が桟橋の脚を叩く音だけが、間を埋めていた。男の視線が、頭のてっぺんから足元まで、値踏みするように往復する。何を測ってるのか、こっちには興味もねえことだった。
「代わりに来た」
「代わり……?」
男は、缶ビールを口元で止めたまま、しばらく固まっていた。表情の変化が、ひどく鈍かった。瞬きの回数だけが、やけに多くなっていた。潮風が、二人の間を吹き抜けていった。
「――雫ちゃん、逃げやがったのか」
低い声で、そう吐き捨てた。缶ビールを持つ手に、また力がこもる。頭のてっぺんから足元まで、もう一度値踏みするような目でこっちを眺め回した。学生服の襟元、細い手足、まだ十代の顔つき。値踏みが終わると、口元にわずかな余裕が戻ってきた。餓鬼が一人で来た、それだけの理解らしい。肩の力が抜けて、猫背気味だった背筋が、わずかに反り返る。
「逃げたわけじゃねえ。俺が来ただけだ」
その言い方に、男は一瞬、言葉を失った。佐倉が来るとばかり思ってたんだろう。代わりの人間が現れる、という筋書きは、頭になかったらしい。
「んで、お前、雫ちゃんの何なんだよ」
急に、声のトーンが変わった。誰かに横から獲物を掻っ攫われた、そういう顔だった。
答える義理はなかった。黙ったまま見返しただけだった。
「――彼氏かよ。彼氏なんか作りやがって……殺してやる」
低く、そう吐き捨てた。本気とも冗談ともつかねえ、据わった目だった。
男は、周囲に素早く目をやった。物陰、街灯の裏、漁船の並ぶ区画。誰の気配もないと分かると、少しだけ肩の力を抜いた。詰めていた息を、大きく吐き出す音がした。夜風が、二人の間を静かに通り抜けていった。
「意味わかんねえよ。雫ちゃんは、僕のもんだ。言うこと聞く気になったのか、なってねえのか、それだけ言え」
急かすような口調だった。缶ビールの表面を、指先がせわしなく叩いていた。乾いた音が、桟橋に響く波音の合間に混じる。声だけが、やけに大きかった。夜の静けさに、その大声だけが不釣り合いに響く。誰かに聞かれるのを恐れてたはずの声が、苛立ちのせいで抑えが利かなくなってきてるらしい。
佐倉から届いた文面には、要求の中身まで書いてあった。金じゃねえ。言うことを聞け、それだけだったらしい。中身を具体的には書いてこなかったが、それだけで十分だった。中学の頃からのファンだと言ってた男の言い分にしちゃ、随分と歪んだ形をしていた。今、目の前の男が同じことを言い出すかどうか、それ自体も確かめる材料の一つだった。
「その話は、後でいい。まず、あんたの持ってる話を聞かせろ」
話を遮るように、そう告げた。男の眉間の皺が、さらに深くなった。缶ビールを持つ手の力が、一瞬強くなって、表面が軽く歪んだ。
「――は?」
不審げな声だった。
「あいつの何を知ってるのか、まず聞かせろって言ってんだ」
男は、片方の眉を上げた。少しの間を置いてから、口を開いた。喋る理由が、ようやく見つかったような顔だった。
「アイドルだよ、雫ちゃん。中学の頃から、ずっと応援してきた」
男の口調に、勢いが戻ってきていた。喋りながら、片手を大げさに振り回している。声の大きさも、さっきより一段上がっていた。口の端に、緩んだ笑みが浮かんでいた。人に自慢したくて仕方なかった、そういう緩み方だった。
「一目見た瞬間、分かったね。僕が何年、雫ちゃんを見てきたと思ってんだ」
どうやって気づいたかは、決して言わなかった。得意げに喋ってる割に、そこだけは器用に避けて通っている。
「それで」
先を促した。
「それでって……知られたくねえだろ、そんなこと。学校では、猫かぶって大人しくしてるくせによ」
男は、そこで初めて表情を緩めた。肩の強張りが解けて、立ち姿までだらしなく崩れていく。缶ビールを一口飲んで、大きく息を吐く。
「――で、お前はあとでぶっ殺すとして、雫はどこだ」
粘つくような目つきだった。
「その話は、まだ早い」
低く、そう遮った。
「――は?さっきからそればっかりだな」
苛立った声だった。缶ビールをもう一口、あおるように飲んだ。足元の吸い殻を、意味もなく踏みにじる仕草が続いていた。
「あんたが握ってるのは、何だ」
「――見たんだよ、俺が。この目で」
男の声が、少しだけ大きくなった。
「見たって、どこで」
軽く、探りを入れるようにそう訊いた。
「――そんなの、どこだっていいだろ」
はぐらかす口ぶりだった。だが、目だけが、一瞬泳いだ。
「けやきモールの、家電量販店だったか。カメラの修理も受け付けてる店だ」
畳みかけるように、そう続けた。
男の顔から、表情が完全に消えた。缶ビールを持つ手が、ぴたりと止まる。
「――は? 何の話だよ」
平静を装った声だったが、遅すぎた。声のトーンが、一段跳ね上がっていた。喉仏が、大きく上下に動く。
その反応だけで、十分だった。修理に持ち込まれたカメラの中身を、勝手に覗き見た。それだけの、しみったれた発端だったんだろう。運が良かっただけの男が、随分と調子に乗ったもんだった。
「早く雫出せっていってんだろ」
追い詰められた分だけ、声に苛立ちが滲んでいた。
「......」
「お前の前で、雫犯してやろうか」
声を荒らげて、威嚇するように言った。
「――クク、まるで白痴だな」
低く、そう返した。男の顔が、屈辱と怒りの入り混じった色に変わった。
苛立ちの質が、変わっていた。さっきまでの余裕は、もうどこにもなかった。男は、無意識に一歩、後ろに下がった。額に浮いた汗の粒が、目の慣れた闇の中でもはっきりと分かった。血の気が、みるみる引いていくのが、薄暗い中でも見て取れた。
男が、半歩だけ体の向きを変えかけた。それに合わせて、こっちも同じだけ間合いを詰めた。逃げ場なんぞ、最初から用意しちゃいねえ。桟橋の奥は、行き止まりの海だ。
「――ファンの連中にバラまいてやれば、雫ちゃんは終わりだ! いつだってそうしてやれるんだからな!」
裏返った声だった。
遠くで、船の警笛が一つ、低く鳴った。それきり、また静かになった。夜の底が、一段深くなったような感覚があった。
「今すぐ、ファンにでもどこにでもバラしてみろ。店の連中にも、ついでに教えといてやりゃいい」
挑発するでもなく、ただ事実を確かめるような口調だった。
それが、かえって不気味だったんだろう。男の口元が、わなわなと震え始めていた。バラす側だったはずが、いつの間にかバラされる側に回ってた、そのことにようやく気づいたらしい。
「――な、なめやがって」
震える声に、精一杯の虚勢を乗せてそう言った。目だけが、辺りを忙しなく探っている。頼れる誰かの影を、必死に探してる目だった。
「で、どうすんだ」
短く、それだけ返した。挑む響きも、脅す響きも、そこには無かった。ただの確認として、そう告げただけだった。
「くそが!!」
苛立ちに任せて、胸ぐらを掴んできた。振り払う気にもならなかった。至近距離で睨み合う形になっても、表情一つ変わらなかった。掴んだ手の方が、先に小刻みに震え出していた。
やがて、その手が力なく離れていった。掴む意味そのものを、見失ったような離し方だった。男は、一歩、後ろによろけた。その拍子に、ポケットから何かが零れ落ちた。拾い上げる余裕もねえまま、皺だらけの紙切れは風に攫われ、暗い水面の方へ消えていった。
しばらく、誰も何も言わなかった。波の音と、遠い貨物船のエンジン音だけが、その静けさを埋めていた。男の呼吸だけが、荒く乱れたまま治まらねえ。街灯の光さえ届かねえこの場所で、二人分の気配だけが向き合っていた。男の目つきが、また変わっていた。品定めでも、苛立ちでもねえ、もっと剥き出しの色が滲み始めていた。
「なんだ、やらねぇのか」
「――てめえ……何が目的だよ」
男の声が、震えていた。怒りと、それ以上の何かがない交ぜになった震え方だった。夜風が、二人の間を吹き抜けていった。波の音だけが、いつも通り規則正しく続いていた。
「フフ...お前の本気を見せてくれ」
それだけ答えた。男の顔が、一瞬で強張った。その強張りは、次第に別の何かへと変わっていった。恐怖が行き場を失って、怒りという形に成り代わっていく、そういう変わり方だった。呼吸だけが、荒く速くなっていく。額の血管が、はっきりと浮き上がっていた。
男の右手が、ゆっくりと拳の形に変わっていくのが見えた。指の関節が、白く浮き上がっている。もう片方の手も、遅れて同じ形になっていく。両方とも、震えたままだった。歯を食いしばる音が、微かに聞こえた。
半歩も、下がらなかった。両腕は、だらりと下げたままだった。避ける気も、構える気も、最初からなかった。
夜風が、また一つ強く吹いた。手拭いの端が、はためく音を立てた。
波が、桟橋の脚を一つ、大きく叩いた。しぶきが、暗い水面から跳ねる音がした。男の拳が、震えたまま止まっている。振り上げるでもなく、下ろすでもなく、そのままの形で固まっていた。額から流れ落ちた汗が、顎の先から一滴、桟橋の板に落ちた。
肩の力を抜いたまま、ただそこに立っていた。逃げる気も、退く気も、最初から無かった。喉の奥が、また少しだけ渇いていた。心臓の音だけが、いつもよりわずかに速い。悪くねえ速さだった。
男の拳の震えが、少しずつ大きくなっていく。振り下ろす瞬間を、何度も頭の中で思い描いてるような震え方だった。それでも、まだ動かない。踏ん切りだけが、足りねえらしい。肌が、ぴりつくような感覚があった。こういう夜を、どこかでずっと待ってたのかもしれねえ。
「――ほら。こいよ、凍り付かせてやる」
低く、静かに、そう言った。夜の桟橋に、その声だけが染み込んでいった。波の音さえ、一瞬止まったような気がした。
ここから先、アカギの過去について一人に公開していこうと思っています。誰に知って欲しいでしょうか。(続きが気になるからはお手隙の際に高評価もよろしくお願いします)
-
須藤
-
綾小路
-
堀北
-
坂柳
-
龍園