朝、食堂に入ると、露骨に視線が集まった。
頬の腫れは、まだ引いちゃいねえ。青黒い痣が、昨日よりもはっきりと色を変えていた。噛むたびに、傷口の奥がまだ小さく引き攣れた。頭に巻いたガーゼは、髪で半分隠しても、隠しきれるもんじゃねえ。トレーを持つ手元に、何人分もの目が引っかかっては、慌てて逸らされていく。今日は、頬だけじゃ済まなかった。
窓から差し込む朝の光が、テーブルの並びに長い影を落としていた。夏休みの朝にしちゃ、食堂は思ったより混んでいる。寮生活ってのはそういうもんだ。休みだろうと、飯を食う場所は変わらねえ。食器のぶつかる音が、あちこちで小さく響いていた。
「――ねぇねぇ、あの人何かあったの?」
隣のテーブルから、聞き覚えのねえ女の声が聞こえた。答える気はなかった。トレーを持ったまま、いつもの席に着く。椅子を引く音が、思ったより大きく響いた。周りの雑談が、一瞬だけ止まって、また元通りに戻っていく。
須藤は、頭のガーゼに気づいた瞬間、パンを持つ手が止まった。しばらく黙って見た後、口を開く。
「――派手にやったな。頭までかよ」
低く、そう漏らした。声に、いつもより硬さがあった。
「クク、はしゃぎすぎたな」
冗談まじりに言った。須藤は、一瞬だけこっちの顔をじっと見た。だが、それ以上は突っ込んでこなかった。何かを察してるくせに、黙って飲み込む。この男らしいやり方だった。牛乳パックのストローを咥えたまま、それきり黙り込む。
食堂のざわめきの中で、いくつかの視線がこっちに向いては離れていくのが分かった。誰かが誰かに耳打ちする。噂ってのは、こういう小さな種火から広がっていく。放っておいて構わねえ。種火のうちは、誰の勘定にも影響しねえ。
パンを口に運びながら、須藤がもう一度だけこっちを見た。何か言いかけて、結局は飲み込む。それだけの間があった。訊かねえと決めた分だけ、飲み込む量も増えるらしい。トレーの上の食器が、かちゃりと小さな音を立てた。
朝食を終えて席を立つと、須藤も同じタイミングでトレーを持ち上げた。並んで返却口まで歩く間、須藤は何も言わなかった。
返却口の手前で、ふいに足を止める。
「――今日、体育館空いてるらしいぜ。付き合えよ」
誘う口調じゃねえ。決定事項を告げるみたいな言い方だった。
「その面と頭で、無理はさせねえ。軽く汗流す程度でいい」
前置きなんぞ柄でもねえのに、わざわざそう付け足してきた。
「体力作りにでも付き合えってか」
「そういうことにしとけ」
短くそう返すと、須藤はトレーを返却口に置いて、それ以上は何も言わずに大股で歩いていった。言葉で気にかけるより先に、体を動かす場を用意する。この男らしいやり方だった。
食堂を出たところで、堀北と鉢合わせた。目が合うなり、頬の痣から頭のガーゼへと、視線が動いていく。一瞬だけ、表情が強張るのが分かった。
「――それ、頭も」
声が、途中で一段上ずった。いつもの、一段引いた距離感が崩れる瞬間だった。
「階段から落ちただけだ」
短く答えた。堀北は、疑わしげに目を細めた。階段程度でこの怪我になるとは、欠片も信じてねえ顔だった。それでも、追及はしてこなかった。何か言いかけて、口を噤んだ。ガーゼに伸びかけた手を、途中で止める。触れる資格があるのか、迷ってるみたいな仕草だった。
「――どこまで、無茶するつもりなの」
珍しく、声が尖っていた。
「悪かったな」
それだけ返した。誤魔化すつもりも、はぐらかすつもりもなかった。ただ、それ以上の言葉が見つからなかった。
「危ないところだったんでしょう、それ」
畳みかけるように、そう続けた。手にした水筒を持つ手が、はっきりと震えている。
「――ああ」
短く、認めた。それを聞いて、堀北の顔から少しだけ強張りが抜けた。廊下を行き交う生徒の声が、二人の周りだけ、少し遠く感じられた。
「――もういい。ただ、無事なら、それでいいわ」
それだけ言うと、先に歩いていった。深追いしない距離感は、いつも通りだった。ただ、去り際の一瞬、何かを言いかけて飲み込んだような間があった。気のせいかもしれねえ。それだけの話だ。
昼過ぎ、渡り廊下で龍園とすれ違った。窓枠に肘をかけて、こっちが来るのを待ってたみたいな立ち方だった。
「――おい」
呼び止められた。足を止める。
「その顔、それに頭も。誰にやられた」
「階段から落ちた」
「――階段が、拳の形でもしてたか?」
鼻で笑いながら、そう返してきた。誤魔化す気も失せた。
「言う必要あるか」
「――ねえな」
軽く笑いながら、そう返した。この男は、答えを本気で欲しがってるわけじゃねえ。ただ、こっちの出方を試しただけだ。試して、拒まれることまで含めて、面白がってる。
そう言うと、龍園は値踏みするような目で、頬の痣とガーゼを順に眺めてきた。一瞬だけ、感心とも呆れともつかねえ色が目をよぎる。それから、愉快そうに口の端を上げた。窓枠から離れて、こっちに一歩、近づいてくる。
「ククッ……面白えもんが見られそうなら、また教えろって言ったよな」
「見せるもんは見せた」
それだけ返した。龍園は、しばらく黙ってこっちの顔を見ていた。中身までは訊いてこない。訊いたところで話す気がねえと、もう分かってるらしい。
「――随分と、楽しそうにやってきたじゃねえか」
「楽しんでねえよ」
「顔がそう言ってねえけどな」
軽口を叩くように、そう返された。否定する気にもならなかった。廊下を行き交う生徒の何人かが、龍園と話し込むこっちの姿にちらりと目をやっては、すぐに視線を逸らしていく。関わりたくねえ、そういう顔だった。
短い沈黙が挟まった。龍園は、窓の外に目をやったまま、しばらく何も言わなかった。
「――一つ、貸しを返してもらいてえ」
前置きなく、そう切り出した。龍園の眉が、わずかに動く。
「貸し、ね。心当たりが多すぎて、どれのことだか分からねえな」
「船の夜だ。名簿と引き換えに、Dの分は丸ごとあんたに譲った」
「――ああ、あれか」
龍園は、思い出したように口の端を上げた。
「あれは取引だろ。貸し借りの話じゃねえと思ってたが」
「あんたがそう思ってても、こっちの勘定は別だ。あの時、こっちの取り分をもっと欲張ることもできた。しなかった。それだけの話だ」
「――随分と、都合のいい理屈だな」
そう言いながらも、断る気配は無かった。値踏みするような目で、しばらくこっちの顔を見ている。
「で、何をさせる気だ」
――――
――――――
――――――――――
「......わからねぇな」
「詳しい中身は、まだ言う気はねえ。ただ、あんたを間に挟みてえ用件が、近いうちにできる」
「随分と曖昧な頼み方だな」
「曖昧なままで受けるかどうかは、あんたが決めることだ」
龍園は、値踏みするような目でこっちを見ていた。それから、愉快そうに笑った。
「ククッ……いいぜ。貸しの返済がそれで済むなら、安いもんだ」
「助かる」
「礼はいらねえ、俺らにも利はある内容だ。ただ、受けてやるからには面白えもんを見せろ。それが利子だ」
それだけ言って、龍園は先に歩いていった。振り返らなかった。遠ざかる背中は、いつも通り肩で風を切るように歩いている。
理由まで詮索する気はねえ。だが、龍園という男は、退屈しのぎの匂いを嗅ぎ分ける嗅覚だけは、誰よりも鋭い。
午後、廊下の角で櫛田に呼び止められた。人気の少ない時間を選んだらしい。周囲に他の生徒の姿は無かった。用意周到なのは、この女らしいやり方だった。
「――ちょっといい?」
昨日より、声のトーンが一段低かった。笑顔は変わらず張り付いているが、目の奥だけが違う。昨日には無かった硬さが、そこに沈んでいた。視線が、頬の痣と頭のガーゼを一往復する。
「――酷い怪我だね。大丈夫?」
「大した怪我じゃねえ」
「階段から落ちたって聞いたけど、本当なの?」
労りの言葉の下に、値踏みするような響きが透けていた。
「そう言ったはずだ」
「――ふうん。ま、いっか」
それ以上は深追いせず、あっさりと話を切り替えてきた。
「まだ、何か用か」
「昨日の続き。まだ答えてもらってないよ!」
「言う気はねえって言ったはずだ」
「――そっか」
櫛田は、そこで初めて笑顔を崩さないまま、少しだけ距離を詰めてきた。
「じゃあ、質問を変える。赤木くんは、私の何が『気になった』の。良い方?悪い方?」
「――両方だ」
「両方って、便利な答えだね」
「便利じゃねえ。事実だ」
櫛田の笑顔が、ほんの一瞬だけ、揺れた。誰にでも分かるほどの揺れじゃねえ。だが、確かに揺れた。
「――赤木くんって、本当に変わってるよね。普通の人は、私にそんな返し方しないよ」
「普通じゃねえのは、お互い様だろ」
櫛田の指先が、髪の毛先を弄ぶように動いた。無意識の仕草には見えなかった。誰かに見せるための仕草だ。
「私が、何か隠してるとでも言うのかな?」
「言ったつもりはねえよ。あんたが勝手に答えを探してるだけだ」
「――ふうん」
短く、そう呟いた。声のトーンが、また一段落ちる。笑顔の角度は変わらないままだった。それが、かえって不気味だった。
「私、答えの分からないものが、一番嫌いなんだよね」
「そうか」
「――他人事みたいな返事」
苛立ちの色が、初めて表情の端ににじんだ。すぐに、いつもの笑顔で塗り直される。塗り直す速さそのものが、この女の場数を物語っていた。付き合いの浅い相手が見たら、瞬きの間の出来事にしか映らなかったはずだ。
しばらく、櫛田は何も言わなかった。値踏みするような視線が、こっちの顔をなぞる。龍園のそれとよく似た目つきだった。違うのは、その奥に張り付いてる笑顔の分厚さだけだ。
普段なら、この手の視線一つで、大抵の相手は勝手に喋り出す。愛想でも、脅しでも、大体のことは笑顔一つでどうにでもなる――そう信じてる目だった。だが、こっちには、そのどれも刺さってねえ。刺さらねえ相手を前にした時、この女の笑顔がどんな形に崩れるのか。まだ見えちゃいねえが、今日の間だけで、崩れる予兆くらいは十分に見えた。
「――いつか、ちゃんと教えてねっ!」
それだけ言うと、櫛田は軽い足取りで歩いていった。振り返らない歩き方だけは、いつも通りだった。だが、今日の背中は、昨日よりわずかに硬かった。
廊下の窓から、午後の光が差し込んでいた。埃が、光の筋の中で緩やかに舞っている。あの女の勘定が、今どこまで狂ってるのか。まだ、見えるとこまでは来ちゃいねえ。
夕方前、体育館に顔を出した。須藤は既にシューズを履き替え、一人でボールを追っていた。
「――来たか」
そう言うと、須藤はボールを寄越しかけて、途中で止めた。頭のガーゼに、もう一度目をやる。
「――いや、いい。そこ立ってろ」
無理に走らせる気はねえらしい。ゴール下に立たせたまま、須藤は自分だけがコートを動き回り、フリースローを繰り返した。時折、緩い山なりのパスがこっちに転がってくる。それを拾って返すだけの、ただそれだけの時間だった。汗をかいてるのは、須藤の方だけだった。
一時間近く、ろくに口も利かずに、そんな時間が続いた。須藤は最後まで、昨夜のことを一言も訊いてこなかった。ボールを追う足音と、床を擦る靴の音だけが、体育館に響き続けていた。動かねえまま眺めてるだけでも、何かが片付いていくような感覚が、確かにあった。
体育館を出ると、日が傾き始めていた。西日が、床に長く伸びた二人分の影を作っている。汗を拭いながら、須藤が一言だけ付け足した。
「――また付き合えよ」
「気が向いたらな」
短く返すと、須藤は満足げに口の端を上げた。それだけで、十分な会話だったらしい。汗の匂いのする体育館を出て、須藤とは途中で別れた。
夕方、廊下を歩いていると、正面から小走りに近づいてくる佐倉の姿が見えた。手には、小さな紙袋が提げられている。
「――あ、赤木くん! ちょっと、いいですか」
いつになく、弾んだ声だった。
「これ、昨日の……お礼です。作ってみました」
差し出された紙袋の中身は、形の不揃いなクッキーだった。手作りだと、一目で分かる出来だった。
「――甘いもんは、そんなに食わねえ」
「そんなこと言わないで、食べてください! お願いします!」
いつになく強引な、押しの強さだった。断る隙を、最初から与える気がねえらしい。受け取ると、佐倉は花が咲いたみてえに笑った。頬が、夕日だけのせいとも言い切れねえ赤さに染まっていた。見上げてくる目には、見たことがない熱がこもっていた。鈍い自覚はあったが、深く考える気にはならなかった。
「頭、まだ痛みますか」
昨夜と同じ問いだったが、声はもう震えちゃいなかった。一度確かめたことを、もう一度なぞってるだけの、落ち着いた声だった。
「もう平気だ」
短く返すと、佐倉は、それでも心配そうな顔を崩さなかった。それから、ふと思い出したように、小さく笑う。作った笑顔じゃねえ、素の笑い方だった。
その様子を、少し離れた場所から、堀北が見ていた。目が合うと、すぐに逸らされた。
近づいてきた堀北の目が、佐倉の手にした紙袋に、一瞬だけ留まった。
「……随分、仲がいいのね、その怪我はもしかして佐倉さんに関係してるのかしら」
声のトーンは平静を装ってたが、腕を組む指先に、いつもよりわずかに力がこもっていた。
「そういうんじゃねえ」
「――別に、否定しなくていいわ。私には関係ないことだもの」
それだけ言うと、堀北はいつもより心持ち早い足取りで踵を返した。去り際、一度だけ振り返った目に、隠しきれねえ何かが滲んでいた。
佐倉は、堀北とのやり取りには気づいていない様子だった。紙袋を渡し終えた満足感だけで、頭がいっぱいらしい。
「――カメラ、また使い始めたのか」
ふと訊いてみた。佐倉は、少しだけ驚いた顔をしてから、小さく頷いた。
「うん、少しずつです」
夕焼けの光が、佐倉の横顔を橙色に染めていた。少し前まで、こんな風に光の下で立ち止まることすらできなかった女だった。
「――悪くねえな」
それだけ返した。それ以上、深く訊く気はなかった。佐倉も、それ以上は語らなかった。互いに、それでいいと分かってる距離だった。昨夜の、あの一瞬の近さを、どちらも口には出さなかった。
「――また、作りますね」
それだけ言うと、佐倉は軽い足取りで去っていった。夕暮れの廊下を、また別の生徒が通り過ぎていく。
部屋に戻り、天井を見上げながら、今日一日を頭の中で並べ直した。龍園に落とした一粒の種。櫛田の笑顔の下で揺れた何か。どちらもまだ、勝負にすらなってねえ小さな牌だ。だが、卓の上に置いた以上、いつか誰かがそれを拾う。
坂柳との一局は、結局、肩透かしのまま終わった。踏み込んでくるかと思ったところで、手前で引かれた。あの物足りなさが、腹の底にまだ小さく残ってる。手応えのねえ卓に、何度も座らされてきたような気がした。櫛田の笑顔の下にあるもんが、あれを埋めてくれる代物かどうかは、まだ分からねえ。分からねえから、面白え。
昭和の卓でも、こういう日はあった。誰かを直接動かすんじゃなく、ただ一言だけ場に置いて、後は放っておく。育つ牌もあれば、腐って消える牌もある。どっちに転ぶかを見届けるのも、卓に着いた者の仕事のうちだった。急いで結果を求める奴ほど、育つはずの牌を自分の手で潰しちまう。
龍園を間に挟んだことが、吉と出るか凶と出るかは、まだ読めねえ。だが、曖昧なまま渡した頼み事を、あの男がどう転がすつもりなのか、そこだけは見ものだった。手駒を一枚、盤上に置いた。あとは転がり方を見届けるだけだ。
夏はまだ、あと二週間ほど残っていた。夏が明けるまでの、その先に何が転がってくるのか。今はまだ、読めねえ。人の目が少ねえ今のうちに、動いておくべきことも、いくつかある。
首に巻いたままの手拭いを、指先で軽く撫でた。まだ、この島に来て何ヶ月も経っちゃいねえ。それでも、卓の匂いがする夜が、少しずつ増えてきている気がした。嫌いな流れじゃねえ。
窓の外では、夏の蝉がまだ鳴き続けていた。その声を聞きながら、しばらく目を閉じていた。日が完全に落ちるまで、まだ少しだけ時間があった。部屋の中は、その分だけ薄暗いままだった。ベッドに横になったまま、しばらくの間、体の力を抜いていた。
ここから先、アカギの過去について一人に公開していこうと思っています。誰に知って欲しいでしょうか。(続きが気になるからはお手隙の際に高評価もよろしくお願いします)
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須藤
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綾小路
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堀北
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坂柳
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龍園