七月のあの日、私は生徒に頼み事をした。今にして思えば、あれが全ての始まりだった。
私は教師としての一線を越えた。
Dクラスを引き上げろ。平田や堀北には言えない頼み方だった。正しい人間には、正しくない仕事は頼めない。
やつは、その場で断らなかった。代わりに、借りにしておけと言った私の言葉を、黙って受け取った。教師が生徒に頭を下げた瞬間、上下が入れ替わる。あの時、私はそれを承知の上で頭を下げた。承知していたつもりだったが、その借りがどんな形で返済を求められるのか、正直なところ、深く考えていなかった。
夏休みに入ってから、やつのクラスでの立ち位置は、表向き大きくは変わらなかった。
だが、無人島以降、届く報告――クラスメイトとの距離感、坂柳との均衡、綾小路との暗躍、龍園との共闘――を眺めるたびに、あの日の判断が正しかったのかどうか、確信が持てないまま夏が過ぎていった。
あの取引の後、Dクラスの夏の成績は、確かに上向いた。表向きは、平田と堀北の指導の成果ということになっている。だが、あの二人の性分では説明のつかない場面が、いくつか報告に混じっていた。
借りを作った側として、詳細を詮索する権利は自分にはない――そう自分に言い聞かせながら、それでも時折、この判断が本当に正しかったのかと考えることがあった。
夏休みの朝のことだった。保健医から一枚の報告書が回ってきた。
やつの頬に、殴打の痕。側頭部に、縫合こそ要さないが幅のある裂傷。生徒本人は「階段から落ちた」と説明しているが、傷の形状から見て、階段の踏み外しでは到底説明のつかない類の負傷だという所見が添えられていた。
担任として、放置できる話ではなかった。ただの生徒の怪我であれば、まだ様子を見るという選択肢もある。だが、この報告書には、看過できない一文が添えられていた。生徒本人の説明と、実際の負傷の性質が、明らかに食い違っている――保健医の所見は、そう指摘していた。頬の腫れだけならまだしも、側頭部の裂傷は、階段からの転倒で説明のつく形状ではないという。
呼び出しに応じて現れた本人は、いつも通りの顔をしていた。傷の分だけ、いつもより青黒く腫れていた点を除けば。動揺の色は、微塵も見当たらなかった。呼び出された理由に、既に見当がついているような落ち着き方だった。教室の扉を開けて入ってきた足取りにも、迷いは無かった。
「階段から落ちたと聞いているが」
「ちがいねえ」
「保健医は、そうは見ていない」
やつは、しばらく黙っていた。それから、短く言った。
「クク、なんだてっきり監視してるもんだと思ってたが、掴んでねぇのか」
「詳しくはお前から聞く」
「そうかい。桟橋で、揉め事があった。相手は、生徒じゃねえ」
それだけだった。詳しい経緯を語る気配は、最初から無かった。
生徒でない相手との揉め事。生徒同士の暴力沙汰であれば、目撃証言や審議を経て処分を決める前例が、この学校にはいくつもある。だが、相手が生徒でない大人となると、話は別だ。学校の規定は、生徒同士の争いを前提に作られている。前例を探しても、参考になる資料はほとんど見当たらなかった。
手がかりは、赤木自身の口から出た「桟橋」「相手は生徒じゃねえ」という一言だけだった。桟橋を使う用事のある生徒は限られる。夏休み中の巡回記録と照らし合わせ、けやきモールの防犯記録の閲覧を申請した結果、数日前から同じ従業員が閉店後に何度も桟橋方面へ足を運んでいたことが分かった。そこから、その従業員の勤務先を洗い、担当していた修理受付の記録を辿った先に、佐倉愛里の名前があった。
本人を呼んで、事情を確かめた。呼び出しを受けた佐倉は、最初、ひどく怯えた様子で、うまく言葉が出てこなかった。無理もない。この生徒が、自分から進んで誰かに事情を話すところを、これまで一度も見た覚えがなかった。
それでも、時間をかけて話を聞くうちに、少しずつ言葉が出てきた。中学時代から続けていたグラビアアイドルとしての活動。学校での自分とはかけ離れたその顔を、けやきモールの店舗従業員に知られてしまったこと。相手からの脅迫めいた接触が、夏休みに入ってから続いていたこと。震える声で、それでも佐倉ははっきりと証言した。相手が先に手を出したこと、赤木は自分を助けるために動いたこと。
「――怖かったです。でも、赤木くんが、助けてくれたから」
それだけ言うと、佐倉はしばらく俯いたまま、何も続けなかった。この生徒にとって、それだけの言葉を絞り出すこと自体が、相当な負担だったんだろう。普段、教師とまともに目も合わせない生徒が、途切れ途切れであっても、これだけの説明をしたこと自体が、証言としての重みを持っていた。
生徒同士の暴力沙汰であれば、目撃証言一つで処分の可否が左右される前例を、これまでにいくつも見てきた。今回は、相手も状況も普段の前例とは違ったが、根っこにあるものは同じだった。誰かが誰かのために、危険を承知で動いた結果の傷だ。
加えて、正当防衛と呼ぶには、少々踏み込みすぎている面もあった。相手の負傷の程度を聞く限り、単に身を守っただけとは言い切れない部分がある。だが、先に手を出したのは相手であり、被害者は明確に佐倉の側のようだった。生徒でない大人との間で起きた出来事を、生徒同士を前提にした校則の枠組みでどこまで裁けるのか、そもそも疑問が残る。
理事長への報告義務がある事案かどうかも、迷いどころだった。相手方が、警察にも学校にも一切の申し立てをしてこないことも、判断材料の一つになった。表沙汰にすれば、自分の身の潔白まで説明しなければならなくなる。そういう計算が働いているんだろう。向こうから何も言ってこない以上、こちらから積極的に事を荒立てる理由もなかった。
結論として、私は不問に付すことに決めた。処分の対象としない。上への報告は、生徒間の暴力ではなく、危機状況にともなう正当防衛という一点をもって、簡潔なものに留めた。担任としての裁量の範囲内で処理できる話だ。
似たような判断を下した記憶を、頭の中で辿り直した。暴力そのものは事実として存在し、証言によって処分の可否が変わる――今回は暴力の事実は動かないが、その性質が違う。誰かを守るために踏み込んだ結果の暴力と、そうでない暴力とを、同じ物差しで測ることはできない。
教師としての職務は、規則を機械的に適用することではなく、その線引きを見極めることにある――そう自分に言い聞かせながら、書類を纏めた。
その判断を伝えに、夕方、再度指定した空き教室に赤木を呼んだ。
「今回の件は、これ以上追及しない。処分もしない」
「――そうかい」
短く、それだけ返ってきた。安堵の色は、欠片も見えなかった。処分される可能性そのものを、端から気にしていなかったんだろう。
「随分と、涼しい顔だな」
「気にする理由がねえ」
「普通の生徒は、退学の可能性がある話をされれば、多少は顔色を変えるものだが」
「あんたも、それを見越して不問にしたんじゃねえのか」
図星だった。この生徒が退学を恐れて態度を変えるような人間ではないことは、あの日の時点で嫌というほど分かっていた。脅しが利かない相手に、脅しのカードを切る意味はない。
用件はそれで終わるはずだった。伝えるべきことは、それで全て伝え終えたはずだった。だが、赤木は席を立たなかった。窓際に立ったまま、こちらの様子を、しばらく黙って窺っていた。何かを待っているような、そういう間の置き方だった。
「一つ、もらう」
前置きなく、そう切り出された。
「――今、この話の流れで」
苦い笑いが、思わず漏れた。
「都合がいい。今なら、あんたも断りにくいだろ」
たしかに、その通りだった。処分を見送った直後という状況は、こちらの心理的な立場を、いつも以上に弱くしている。この生徒は、そういう間合いの計り方を、決して間違えない。あの日から、この生徒の観察眼だけは、一貫して過小評価しないよう心掛けてきたつもりだった。それでも、まだ見誤る。
「随分と、寝かせたものだな」
「使い時を、選んでただけだ」
「――それで、何を望む」
「櫛田桔梗」
名前だけを、まず口にされた。私の表情が動いたのが、自分でも分かった。
「――櫛田?なぜお前が」
「理由はどうでもいい。あんたが知ってることを聞きたい」
「要領をつかめない、なんのことだ」
「フフフ、櫛田の個人情報をもらいにきたってことだ」
「......馬鹿か、教師には、守秘義務というものがある」
そう告げると、赤木は短く返してきた。
「そんなもん知ったこっちゃねえ」
取り合う気配すら無い返し方だった。
「――私が個人として知ってる話ということでいいのか」
掴む糸を探すように、そう訊き返した。せめて職務の外側、私的な範囲に留めてもらえるなら、まだ折り合いようがある――そういう望みが滲んだ声だったように思う。
「知ってることを全部だ。線引きなんぞ、あんたが勝手に引いてるだけだろ」
突き放すように、そう返された。逃げ道のつもりで差し出した区切りが、端から相手にされていなかった。
「――具体的に、櫛田の何を知りたいという話だ」
「櫛田の過去だ。何があった」
「そんな個人情報の塊を、みすみす教えるわけがないだろう」
突っぱねるように、そう返した。
「――大事な話か」
「大事かどうかは、お前の値付け次第だ」
淡々と、そう返した。少しの間を置いて、こっちから続けて切り出した。
「――もしかして、夏休みの特別試験の結果の借りを返せと言う話か」
「......」
「ふざけるのも大概にしろ。いくら点数が伸びたとはいえ、まだDクラスは最下位だ」
もう一段、突き放すように付け加えた。それでも、赤木の表情は変わらなかった。
「――中間試験の一点も、無人島も、優待者当ても、実質お前の力で乗り越えてきたことは認めよう。だが、それでも釣り合わない。教師が、一生徒の過去を勝手に他言するなど有り得ない」
「......フフフ」
短く、笑い声が漏れた。
「――何がおかしい」
「寝ぼけてんのか、茶柱。誰が借りを返せなんて言ったんだよ」
「な、に――」
「本来、先に払うのは、あんたの方だ。先に払わせておいて同じ分で済むと思うなよ」
「――どういうことだ」
「あんたが俺に頼んだんだ。今更驚くこっちゃねえだろ」
軽い調子で、そう返された。
言われて、初めて腑に落ちた。
あの日、頼んだのはこっちだった。本来なら、先に動くべきは私の側だ。それが道理のはずだった。だが、頼まれた側であるはずのこの生徒が、先に動いた。中間テストの一点も、無人島を乗り切ったのも、優待者当てを一人でやってのけたのも、全部この生徒が自分の手で先に差し出してきた結果だ。頼まれる側でありながら、頼んだ側より先に払い切ってみせた。だからこそ、その分以上を寄越せと言われても、こっちには拒む理屈が無かった。今更同じ額を返すだけで済ませようなんて、虫が良すぎる話だった。
「お前、教師を何だと――」
私は苦し紛れに、教師としての立場を使った。
「フフフ、生徒に頭を下げたんだ。あんたはもう教師じゃねぇだろ」
言葉に詰まった。何と返せばいいのか、すぐには出てこなかった。
「……クラスをAまで上げてぇんだろ。今のクラスポイントはどうだ」
淡々と、そう続けられた。答える必要すら感じなかったが、答えられなかった。以前よりずっと近い場所にいることだけは、嫌でも分かった。この生徒がこのまま稼ぎ続ければ、Aクラスは決して手の届かない数字じゃない。そして、その先を稼がせ続けるための対価が、今まさに目の前に積まれている。教師の一線を越えるかどうかは、もうAクラスを諦めるかどうかと、ほとんど同じ意味になっていた。
「死ねば助かるのに」
「――ッ」
背筋に、冷たいものが走った。
「踏み抜けよ、茶柱」
それでも、すぐには口を開かなかった。櫛田の暗い過去に触れる話になる。話していい理由と、話してはいけない理由を、頭の中で何度も計りにかけた。
「――何に使う気だ」
「言う必要があるか」
「無いだろうな。だが、訊かずにはいられない」
赤木は、それ以上は何も答えなかった。答える気が無いというより、答えたところで私の判断が変わるわけじゃない、そう見切られている沈黙だった。
「一つ、約束しろ」
「――中身によるな」
「潰すためだけに使うなら、私はこの話をしない。それだけは、譲れない」
赤木は、しばらく黙って私の顔を見ていた。それから、短く頷いた。
「潰す気はねえ。決着をつけるだけだ」
その言い方に、嘘の色は無かった。少なくとも、この生徒が嘘をつく時の目とは、違って見えた。それを信じる根拠は、正直、心許ないものでしかなかったが、他に判断材料も無かった。
長い沈黙の後、私は教師としての一線を越えた。
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「一つ、確認しておく。お前に頼んだのは、私の判断だった。返済に文句をつける気は無い。ただ――」
言葉を切って、赤木の目を、まっすぐ見た。
「お前という生徒を、私はまだ半分も理解できていない。今日、それを思い知らされた」
「何度も言わせんな、これは返済じゃねえ。あんたが自分との約束を守るだけだ」
「ああ、そうだったな」
「クク、それに俺を本気で理解しようとなんてしてねえだろ」
「そうかもしれない。教師としては、失格な感想だが」
聞きたいことを聞けたのか、赤木はそれ以上何も言わずに部屋を出ていった。振り返ることも、礼を言うこともなかった。最初からそういうやり取りを求めていなかったんだろう。扉が閉まる音だけが、静かに響いた。西日の中に、埃だけが緩やかに舞っていた。
一つだけ、言い忘れたことがあった。
桟橋の一件、本当に正当防衛だったのだろうか。
こうなることを見越して、わざと大怪我を負ったのではないか。
答えは、でなかった。
あの日の頼み事が、夏の終わりに、こういう形で帳尻を合わせてくることになるとは、正直、想像していなかった。
貸しを作るという行為が、これほど不利に働く相手が、この学校にいるとは思わなかった。次に何かを頼む時は、もう少し慎重にならなければならない。そう思いながら、私は資料をまとめて、空き教室を後にした。
廊下を歩きながら、自分の判断を、改めて振り返った。正しくない仕事を頼める相手が必要だった、それは間違いではなかった。だが、その相手が、これほど読みにくい人間になるとは、正直、計算の外だった。普通の生徒であれば、借りを盾に何かを要求してくるとしても、金銭か、成績への口利きか、その程度が関の山だ。この生徒が求めたのは、そのどちらでもなかった。
私自身を賭けさせること、やつの狙いはそこだったのだろう。
その意図がどこにあるのか、私には見当もつかない。だが、意味もなく動く生徒でないことだけは、この半年足らずで嫌というほど分かっていた。何かが、また動き出そうとしている。それだけは、確かだった。
底の見えない場所に、自分から足を踏み入れてしまったのかもしれない。あの日は、まだ引き返せる範囲の話だと思っていた。だが今は、その先がどこまで続いているのか、自分の目では見通せない深さだと分かる。それでも、今更足を引くという選択肢は、もう残っていなかった。
職員室に戻る道すがら、窓の外に目をやった。校庭では、まだ何人かの生徒が部活動に励んでいる。夏休みも、残りわずかだ。二学期が始まれば、また別の問題が持ち上がるんだろう。この学校で担任を続ける限り、それは避けられない摂理のようなものだった。
だが、赤木という生徒に関しては、これまでの誰とも違う種類の不安が付きまとう。規則で縛れず、損得で動かず、恐怖では制御できない生徒。教師という職業が本来持っているはずの抑止力の、そのどれもが機能しない。あの日、借りという形で繋がりを作ったことが、果たして正しい判断だったのか。今もなお、確信は持てないままだった。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。この生徒が動く時、その先には必ず何かが起きる。それが誰にとって良い結末になるのか、悪い結末になるのか、担任である自分にすら読み切れない。読み切れないまま、ただ見守るしかない立場に、自分は既に立たされている。
窓の外では、夏の蝉が、まだ鳴き続けていた。二学期の始まりまで、もう幾日も残っていない。
ここから先、アカギの過去について一人に公開していこうと思っています。誰に知って欲しいでしょうか。(続きが気になるからはお手隙の際に高評価もよろしくお願いします)
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須藤
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綾小路
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堀北
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坂柳
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龍園