一週間が過ぎた。
教室の空気は、あの日から明らかに変わっていた。
誰も遅刻しなくなった。授業中に喋る者もいない。板を机の下で触っている連中も、きれいに消えた。
――遅すぎる。
引かれた点は戻らない。今さら行儀よくしたところで、0は0のままだ。
それでも連中が態度を改めたのは、クラスポイントのためじゃない。
自分の首が惜しいからだ。
三週間後に、一教科でも赤点を取れば退学。あれを聞かされてから、この教室の全員が、初めて自分の話として物事を考え始めた。
人間ってのは、そういうものだ。クラスがどうなろうと動かない連中が、自分の首がかかった途端に別人になる。
悪いとは思わない。だが、覚えておく価値はある。
「みんな、少しだけいいかな」
放課後、平田が教室の前に立った。
「勉強会をやろうと思うんだ。試験まであと二週間しかない。僕たちは全員で乗り切らないといけないと思う。一人でやるより、教え合った方が絶対にいい」
教室のあちこちで、頷く顔があった。
「賛成! 俺、正直やべえんだよ」
「私も。数学とか全然わかんない」
「よかった。じゃあ、明日の放課後から始めよう。場所は――」
「あたし、手伝うよ!」
明るい声を上げたのは、櫛田という女子だった。誰にでも笑いかける女で、この一週間、沈んだ教室の中で一番よく喋っていた。
「教えるの得意な人と、苦手な人でうまく組めるように、あたし声かけてみるね」
「ありがとう、櫛田さん。助かるよ」
滞りなく話が決まっていく。
俺はその様子を、後ろの席から眺めていた。
悪い相談じゃない。少なくとも、何もしないよりはましだ。
だが――
こいつらは、一つも疑っていない。
試験そのものを、だ。
どんな問題が出るのか。誰が作っているのか。去年も同じことをやったのか。そういう話は一言も出ていない。
ただ「勉強する」とだけ言っている。
教科書を読んで、覚えて、当日に備える。それが正しい手順だと、全員が信じ切っている。
正しい手順を踏んでいる限り、負けても仕方がないと思える。だから、疑わない。
疑わない方が、楽だからだ。
……卓に着く前に、牌を検めない打ち手が、どうなるか。
俺は、それを何度も見てきた。
雀荘みどりで初めて卓を囲んだ夜、俺は麻雀の役一つ知らなかった。それでも南郷が沈んでいく理由だけは、座って三巡で見当がついた。
あの男は、配られた牌の中でどう打つかしか考えていなかった。誰がその牌を配ったのか、一度も見なかった。
この教室は、そっくり同じことをしている。
「赤木くんは、来る?」
声をかけてきたのは堀北だった。
「何にだ」
「勉強会よ。……あなた、一番危ないのだけど」
「わかってるさ」
「わかっていて、なぜそんなに落ち着いていられるの」
俺は、鞄を肩にかけながら答えた。
「あんたに一つ訊きたい」
「……なに」
「この試験は、去年もあったのか」
堀北が、少し眉を寄せた。
「中間試験でしょう。毎年あるに決まっているじゃない」
「じゃあ、去年の問題はどこにある」
堀北の動きが止まった。
「……過去の問題、ということ?」
「そうだ」
俺は続けた。
「毎年やってるってことは、毎年誰かが作ってる。同じ人間が作ってりゃ、癖が出る。癖が出るなら、去年の紙を見りゃ半分は読める」
「……」
「教科書ってのは、この世の全部が書いてある。だが試験に出るのは、そのうちのごく一部だろ。全部を覚えるのと、出るところだけ覚えるのじゃ、手間が違いすぎる」
堀北は、しばらく黙っていた。
それから、悔しそうに口を開いた。
「……考えていなかったわ」
「そうかい」
「でも、そんなものが手に入るとは限らない」
「そりゃそうだ」
俺は肩をすくめた。
「だが、探しもしないで教科書を頭から読むってのは、盆の上で目を瞑ってるようなもんだ。……そっちの方が、よっぽど分の悪い賭けだと思うがね」
堀北は、何か言い返そうとして、やめた。
代わりに、こう言った。
「……あなた、勉強はできないくせに」
「だから言ってんだ」
俺は少し笑った。
「まともにやって勝てねえ人間は、まともじゃないところを探すしかねえ」
翌日の勉強会は、開始して10分で崩れた。
須藤が来なかった。池と山内は来たが、机に伏せて寝ていた。教える側に回ったはずの生徒が、教えられる側の態度に苛立ち始め、そこかしこで小さな諍いが起きた。
「なんで俺がこいつに教えなきゃいけねえんだよ」
「じゃあいいよ、自分でやるから」
「ま、待って! みんな落ち着いて!」
平田が必死に取り持とうとしていたが、一度ばらけた場は戻らなかった。
櫛田が笑顔のまま、あちこちに声をかけて回っている。
俺は、教室の後ろでその全部を眺めていた。
当然の結果だ。
全員が同じだけ困っているように見えて、実は違う。
赤点になりそうな人間は必死だが、そうでない人間は、他人のために時間を使う理由がない。この教室にはもう、他人に配る余裕がない。全部使い切っちまったからな。
庇い合う余裕を奪ってから、首の話を持ち出す。
あの女――茶柱の言った順番が、そのまま効いている。
崩れるべくして崩れた。
帰り際、廊下で須藤とすれ違った。
勉強会をすっぽかした男が、ばつの悪そうな顔で立ち止まる。
「……なんだよ」
「何も言ってねえよ」
「言いてえことがあんだろ。真面目にやれとか、そういうやつ」
「言わねえよ」
俺は正直に答えた。
「あんたが落ちようが、俺には関係ねえ」
須藤は、面食らったような顔をした。
「……はっきり言うな、お前」
「その代わり、俺が落ちてもあんたには関係ねえ。……お互い様だ」
「なんだそりゃ」
須藤は笑いかけて、途中でやめた。
「……お前も、やべえんだよな。この前の12点」
「ああ」
「なんで平気そうにしてんだよ」
俺は少し考えてから、答えた。
「平気じゃねえさ。……ただ、慌てて教科書を頭から読んだところで、間に合わねえのはわかってる」
「じゃあどうすんだよ」
「間に合う道を探す」
須藤は、しばらく俺を見ていた。
「……よくわかんねえけど」
それから、頭を掻いた。
「明日は行くわ、勉強会」
「そうかい」
悪い男じゃない。
ただ、まだ自分が何を賭けているのかを、正確には理解していない。それだけだ。
その帰り道、俺は妙なものを見た。
昇降口の掲示板の前で、他のクラスの連中が数人、紙を覗き込んでいた。
制服は同じだが、顔ぶれは知らない。うちのクラスの人間じゃない。
そのうちの一人が言った。
「まじかよ、範囲変わってんじゃん」
「うわ、やり直しだわ」
範囲。
俺は足を止めた。
掲示板の前まで歩いて、貼られている紙を眺める。行事の予定、部活の連絡、落とし物。試験の範囲らしきものは、どこにも貼られていなかった。
連中は、紙を見ていたんじゃない。手元の光る板を見ていた。
……ほう。
あの板に、何かが届いたということか。
俺は自分の板を出した。相変わらず、俺の指には応えない。何も浮かばない。
だが、仮に応えたとしても――
うちのクラスの誰かが、そんな知らせを受け取っていたなら、この一週間のうちに必ず話題になっていたはずだ。
試験の範囲が変わった。そんな話は、教室で一度も出ていない。
平田も、堀北も、櫛田も、誰も。
……なるほど。
俺は、掲示板の前でしばらく立っていた。
これが本当なら、うちのクラスだけが、古い範囲を必死に覚えていることになる。
嘘をつかれたわけじゃない。
ただ、伝えられていないだけだ。
――どこかで聞いた話だな。
あの女は、遅刻も私語も一件残らず数えていながら、一言も言わなかった。言う義務はなかったからだ。
今度も同じ形だ。
誰も嘘をついていない。誰も規則を破っていない。
それでいて、こちらの手だけが、確実に悪くなっていく。
俺は、掲示板を離れて歩き出した。
行く先は決まっていた。
寮の入口の前で、綾小路は一人で立っていた。
誰かを待っているようにも、ただ突っ立っているようにも見える。この男は、いつもそういう立ち方をしている。
「一つ訊きたい」
俺が声をかけると、綾小路はこちらを見た。
「なんだ」
「試験の範囲ってのは、変わることがあるのか」
わずかな間があった。
ほんの一拍。あの日の放課後、この男が鞄を持ち上げるまでに空けたのと、同じ長さの間だ。
「……なぜ、そう思う」
「他のクラスの連中が、そう言ってた。範囲が変わったから、やり直しだと」
綾小路は、何も言わなかった。
「うちの教室じゃ、そんな話は一度も出てねえ」
「……そうだな」
「あんたのところには、来たか」
綾小路は、少しの間、俺の顔を見ていた。
「来ていない」
「そうかい」
答えとしては、それで十分だった。
この男は嘘をつかない。つく必要のない立場に、常に自分を置いている。
その男が「来ていない」と言った。
つまり、うちのクラスには本当に届いていない。
「……赤木」
歩き出そうとした俺を、綾小路が呼び止めた。
「仮に、範囲が変わっていたとして」
「ああ」
「お前は、それを知ってどうするつもりだ」
妙な訊き方だった。
どうにかしたいのか、と訊いているんじゃない。どうする道があると思っているのか、と訊いている。
「さあな」
俺は答えた。
「だが、知らねえまま卓に着くのだけは、御免だ」
綾小路は、それ以上何も言わなかった。
少し歩いてから、俺は思い出したように付け足した。
「あんたは、もう気づいてたんだろ」
返事はなかった。
振り返らずに、俺はそのまま寮に入った。
返事がないというのは、一番わかりやすい返事だ。
寮に戻り、俺は天井を眺めていた。
積み込み、という技がある。
卓に着く前に、牌を仕込んでおく。勝負が始まった時点で、もう結果は決まっている。
厄介なのは、これをやられている側は、まず気づかないことだ。
自分の手が悪いのを、運のせいだと思う。次こそ来ると思って、張り続ける。
気づいた時には、席を立てないところまで来ている。
この学校の連中は、今まさにそれをやられている。
教科書を頭から読み直して、間に合わないと嘆いて、自分の頭が悪いせいだと思い込む。
誰も、卓の下を覗こうとしない。
覗こうとしないのは、覗いて何も無かった時が怖いからでもある。
仕込みが見つからなければ、負けたのは自分の力不足だということになる。それを認めるくらいなら、最初から疑わずに真面目にやっていた方が、傷が浅い。
――そうやって、みんな沈んでいく。
……もっとも。
俺は寝返りを打った。
積み込みってのは、一度気づいてしまえば、これほど扱いやすいものもない。
仕込んだ側は、自分の仕込みを信じ切っている。そこに全部を賭けている。
だから――仕込みが読めた瞬間、こっちが盆を返せる。
三週間で教科書を覚えるのは無理だ。
だが、卓の下を覗くのに、学力は要らない。