アカギ〜実力至上主義の教室に舞い降りた天才〜   作:GC

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第51話「理牌」

二学期の教材を、机の上に並べ終えた。

 

窓を細く開けると、虫の声だけが規則正しく続いていた。蝉はもう鳴いていない。今日で、夏が終わる。

 

机の上の予定表を見るともなしに眺めながら、頭の中では別のことを数えていた。

 

明日からまた、同じ教室に赤木くんがいる。そう考えて、手を止めた。

 

 

 

 

 

最初に言葉を交わした日のことは、正直、あまり覚えていない。

 

「凡庸だな」

 

そう言われて、頭にきたことだけは覚えている。

 

「覚えておく」

 

それだけ返して、背を向けられた。あの時は、使える駒かどうかを値踏みしているだけの相手だと思っていた。実際、その通りだったと思う。

 

そのはずだった。

 

もっとも、今にして思えば、あの時からもう歯車が狂い始めていたのかもしれない。値踏みのつもりで見ていたはずが、いつの間にか、値踏みだけでは説明のつかない位置に、彼を置いていた。

 

 

 

 

 

Aクラスを目指す理由を、誰にも話したことがない。話す必要もないと思っていた。

 

「なんでそんなに必死なんだ」

 

「必死になる理由が、あなたにわかるとは思えないわ」

 

「別に、わかろうとも思わねえよ」

 

素っ気ない返事だったのに、なぜか、それ以上追及されないことに安堵していた。

 

 

 

 

 

クラスポイントが、気づけば千点まるごと消えていた日、私は言った。

 

「言っておくけれど、あなたが退学になったら、それはクラスにとっても損失よ」

 

赤木くんは、椅子から立ち上がっただけだった。

 

「安心しろ。首を差し出すつもりはねえよ」

 

それだけ言って、鞄を持って出ていった。安心させるつもりの言葉のはずなのに、こちらの方が落ち着かなかった。何を根拠に、そう言い切れるのか。

 

 

 

 

 

五月八日の夜のことを、思い出す。

 

寮の裏で、兄に手首を掴まれていた。地面に叩きつけられかけた、その時だった。

 

振り返ると、赤木くんが、暗闇の中に立っていた。

 

「妹に置いていかれるのが、怖えんだ」

 

兄は、手を離した。かわりに、赤木くんの胸倉を掴み上げた。殴られる。そう思った。だが、赤木くんの目は、瞬き一つしなかった。掴まれたことが、まるで出来事として成立していないみたいだった。

 

「上のクラスに上がりたかったら、死に物狂いで足掻け」

 

それだけ言い残して、兄は去っていった。

 

私は、赤木くんに聞いた。

 

「……なぜ、あんなことを言ったの」

 

「言ってやれば、手が止まると思ったからだ」

 

「あなた、兄さんのことを何も知らないでしょう」

 

「知らねえよ」

 

「なら、なぜ」

 

「知らなくていい」

 

それだけ言うと、赤木くんは背を向けて歩き出した。

 

「――余裕のある人間は、確かめねえんだ」

 

振り返りもせず、そう言い残して去っていった。

 

あの瞬間覚えているのは、感謝でも安堵でもない。掴まれても瞬き一つしない、あの目の据わり方だ。人間は、痛みや恐怖を覚える生き物のはずだった。赤木くんには、それが欠けている。そう思うと、寒気に似た何かが背筋を上った。

 

怖い、というのとは少し違う。もっと、底が見えないことへの落ち着かなさだった。

 

あの日以来、赤木くんを見る目が変わったのは確かだ。だが、それがなんなのか、当時の私にはまだ判別がつかなかった。

 

 

 

 

 

赤木くんが英語の問題を前に固まっていたことがある。

 

「――読めねえんだ」

 

正直に、そう言った。

 

「これが何を訊いてるのか、俺にはわからん」

 

冗談かと思って、笑おうとして、やめた。目が本気だった。この学校に来て、教科書の英文が一文字も読めない生徒に会ったのは、後にも先にもこれきりだった。

 

誰かに言いふらす気には、なぜかならなかった。弱みを握ったという感覚より、見てはいけないものを見た、という感覚の方が強かったからかもしれない。理由を言葉にできたのは、もっと後になってからだ。

 

 

 

 

 

放課後、赤木くんに呼び止められたことがあった。

 

「一つ頼みがある」

 

「……珍しいわね。なに」

 

「この板の使い方を教えてくれ」

 

差し出されたのは、誰でも持っているはずのスマートフォンだった。

 

「金の残りを見る方法と、物を買う方法。それだけでいい」

 

「……信じられない。じゃあ、あなた今まで何を食べていたの」

 

「山菜定食だ」

 

呆れながらも、一つずつ教えた。教えている間、赤木くんは意外なほど素直に頷いていた。物覚えの悪い人間ではない。当たり前に知っているべきことを知らなすぎることに、あの時気づいた。

 

 

 

 

 

須藤くんの点数を、赤木くんに肩代わりしてもらうよう、自分から頼みに行ったことがある。「あなたのポイントを、須藤くんに使ってほしいの」赤木くんは、その場で頷いた。理由を尋ねると、あいつのためでも学校のためでもない、気に入らないからだ、とだけ返ってきた。

 

「……あなた、本当に嘘が下手ね」

 

「上手いつもりだったんだがな」

 

残高が0になったと、平然と言った顔を、今でも時々思い出す。

 

損得で説明できる範囲を、あの頃からもう、少しずつはみ出していた。はみ出していると気づいていながら、指摘せずにいたのは、私の方だった。

 

 

 

 

 

Cクラスへ単身乗り込むと言い出した時は、止めた。

 

「約束したはずよ。動くときは相談する、と」

 

「今、聞いてるだろ」

 

「事後じゃないの、それ」

 

無駄なのは分かっていた。それでも、続けた。

 

「……止めても、行くのでしょうね」

 

「ああ」

 

「理由を聞かせて」

 

「須藤が保たねえ」

 

それ以上、止める言葉が出なかった。代わりに、一つだけ約束させた。

 

「終わったら、何があったか私に話すこと。……黙って一人で終わらせるのは、なし」

 

「いいだろう」

 

止められないなら、せめて後で確かめられるようにしておきたかった。それが本音のどこまでかは、自分でもうまく整理がつかない。

 

律儀に守られたことは、その後も一度もなかった。それでも、次からは話す、というその場しのぎの約束を、赤木くんは毎回同じ真剣さで口にした。

 

危ないことをするたびに引き止める役目を、いつの間にか自分から引き受けていた。頼まれたわけでもないのに。

 

 

 

 

 

無人島の試験で、崖に近い斜面を渡らせたことがある。足を滑らせれば、ただでは済まない高さだった。

 

「落ちたらどうするの」

 

「落ちたら、それまでだろ」

 

事も無げに言うと、赤木くんは斜面を渡り切った。振り返りもせず、先を急いだ。

 

命の値段を、あの人は最初から勘定に入れていない。そのことに気づくたび、寒々しいものが胸の奥を通り過ぎた。頼りにしている自分が、どこか間違っているような気さえした。

 

無人島の刻限を、いつも早めに切り上げるのが私のやり方だった。

 

「あなたは、ぎりぎりを狙いすぎるわ」

 

「安全策だろ」

 

「安全とは言わないわね、それ」

 

それでも、前倒しで動く私のやり方に、赤木くんが口を挟んできたことは一度もなかった。

 

その夜、焚き火の傍で、柄にもないことを漏らしたことがある。

 

「――正直、しんどいわね、こういうの」

 

赤木くんは何も言わず、火を一本くべただけだった。慰めの言葉も、説教もなかった。

 

それが、案外悪くなかった。慰めてほしかったわけではないのに、慰められなかったことに安堵している自分が、少し奇妙だった。

 

 

 

 

 

そういう瞬間が、少しずつ増えていった。最初は、駒の性能を確かめているだけのつもりだった。いつからか、確かめる理由が、勘定から外れ始めていた。認めるのは、癪だったけれど。

 

クラスの順位が上向くたび、素直に喜べばいいものを、真っ先に赤木くんの顔を探している自分に気づくことがあった。気づくたびに、視線を逸らした。

 

体調を崩して自習室を休んだ日、赤木くんが代わりにノートを取って寄越してきたことがある。

 

「頼んでいないけど」

 

「ついでだ」

 

普段は頼まなければ何もしない男が、頼まれてもいないことをした。その意味を、深く考えないようにした。

 

一度だけ、赤木くんが窓の外を眺めたまま、こちらの声に気づかなかったことがある。

 

「――聞いてる?」

 

「悪い」

 

いつもなら聞き逃さない男が、聞き逃した。理由は聞かなかった。聞けば、何かが壊れる気がした。

 

 

 

 

 

船上試験の夜、甲板で二人になったことがある。用件はとうに済んでいたのに、私は柵の傍を離れなかった。

 

「――何か、まだあるのか」

 

「別に。夜の海も、たまには悪くないと思っただけ」

 

嘘だった。理由なんて、自分でも説明できなかった。ただ、隣に赤木くんがいる時間を、もう少しだけ引き延ばしたかった。それだけだった。

 

 

 

 

 

一緒に下校したことも、数えるほどしかない。

 

「送らなくていいわよ」

 

「送ってねえよ、帰る方向が同じなだけだ」

 

「そう」

 

方向が同じなのは、本当だった。それでも、いつもより少しだけ、歩調が合っていた気がする。

 

赤木くんが、珍しく質問してきたことがある。

 

「――あんたは、なんでいつも一人で突っ走るんだよ」

 

「誰かに頼る発想がないだけよ」

 

「それ、俺に言えた義理か」

 

言い返せなかった。似た者同士だと言われている気がして、無性に腹が立った。腹が立った、というだけで済ませていいのかどうかは、自分でもよくわからない。

 

 

 

 

 

龍園くんとの妙な取り決めについても、詳しくは聞いていない。

 

「龍園くんと、何を話し合ったの」

 

「休戦だ、しばらくの間」

 

「信じているの?」

 

「信じてねえよ。ただ、都合がいいだけだ」

 

そう言い切れるところが、赤木くんらしいといえば、らしかった。

 

信じていないと言い切れる強さが、少し羨ましくもあり、同じくらい、少し寂しくもあった。矛盾した感情だということは、自分でもわかっている。

 

 

 

 

 

 

夏休みに入る少し前、赤木くんが妙に静かな時期があった。

 

「今日は、やけに大人しいのね」

 

「別に、いつも通りだろ」

 

いつも通りではなかった。目の奥に、何か大きなものが抜け落ちたような色があった。それが何かは、聞いても答えないと分かっていたから、聞かなかった。

 

 

 

 

 

ある朝、赤木くんは頭にガーゼを巻いて現れた。

 

「――それ、頭も」

 

声が、思わず一段上ずった。

 

「階段から落ちただけだ」

 

嘘だと分かっていた。それでも、そこで終わらせるつもりだったのに、口が勝手に動いた。

 

「――どこまで、無茶するつもりなの」

 

珍しく、声が尖った。手にしていたものを持つ手が、震えているのに、自分で気づいた。

 

 

 

 

 

佐倉さんと二人で話し込んでいるところを、少し離れたところから見てしまった。

 

「――随分、仲がいいのね」

 

「そういうんじゃねえ」

 

「――別に、否定しなくていいわ。私には関係ないことだもの」

 

言った後で、自分の声が、思ったより低く出たことに気づいた。それだけ言うと、いつもより早足でその場を離れた。

 

それだけだった。胸の奥で一瞬だけ波立った何かは、すぐに凪いだ。数え直すほどのものでもない。そう自分に言い聞かせて、次の日はいつも通りに接した。

 

もっとも、凪いだ後も、しばらくは他のことが手につかなかった。この程度で動揺する自分を、誰にも見られなかったのが救いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――今日は、何か収穫があったのかしら」

 

「......特にないな」

 

「そう」

 

「――なんだ、元気がないな」

 

「気にしないで。こっちのことよ」

 

「そうか」

 

それで済む話のはずだった。だが、こちらの方が済ませられなかった。

 

「――ねえ、赤木くんの怪我って、佐倉さんと関係してるの」

 

「している」

 

「即答なのね」

 

「ああ」

 

「……そう」

 

「オレも、現場にいたからな」

 

「……」

 

「悪いな。言うのを忘れていた」

 

「嘘をつかないで」

 

「嘘だ」

 

悪びれもせず、あっさり認めた。

 

「なぜ言わなかったの」

 

「先に、はっきりさせたいことがあった」

 

「どういうこと」

 

「もう、解決した」

 

「勿体ぶらずに教えなさい」

 

「これはオレの取り分だ。自分で見つけろ」

 

それきり、それ以上は渡してこなかった。

先に沈黙を破ったのは、綾小路くんの方だった。

 

「――もう用は済んだか」

 

「済んだわ」

 

「じゃあ、オレも戻るぞ」

 

綾小路くんは、先に階段を下りていった。一度も振り向かなかった。

 

一人になって、しばらく手すりにもたれていた。

 

 

 

 

 

最初に声をかけてきたのは、綾小路くんの方だった。兄から助けられた日の、ちょっとしたあとだった。それまで、彼のことなど意識したこともなかった。教室の隅で、誰の輪にも入らず、誰の邪魔もしない。それだけの生徒だと思っていた。

 

 

 

「――お前は、赤木と仲がいいのか」

 

不意に、そう言われた。人目のない場所を、わざわざ選んでのことだった。

 

「……何の関係があるの、あなたに」

 

「関係はない。ただ、悪かったなと思ってな」

 

「何のこと」

 

 

 

「――お前を、助けられなかった」

 

「え」

 

「正確には、助ける前に、赤木の方が先に助けた」

 

「――見てたの」

 

「ああ」

 

「……見苦しいところを見せたわね」

 

「お前は、赤木をどう思う」

 

「どうって……変な人ね」

 

「そうか」

 

「あなたは、何か思うところがあるの」

 

「あいつは、普通じゃない」

 

 

 

 

 

それだけだった。理由らしい理由も、説明もなかった。だが、それで十分だった気がする。誰かを読み違えたことなど一度もなさそうな、あの目をした男が、あの夜、赤木くんの方を先に見ていた――それだけの話だ。

 

一度きりで終わると思っていた。そうはならなかった。

 

似たようなことを、あれから何度か聞かされている。中身までは、一度も渡してこない。貰う情報は、いつも断片だけだ。渡す方も同じだった。

 

そのうち、綾小路くんについても、少しずつわかってきたことがある。成績の妙な波、点数の均し方――彼自身の違和感にも、とうに気づいている。だが、口には出さない。

 

赤木くんがそれを表に出さない以上、こちらから先に足を引っ張る理由もなかった。それに、指摘したところで、この取引が終わるだけだ。

 

会う場所は、決まっていない。特別棟の空き教室、寮の非常階段、購買の裏。人目のない時間と場所、それだけが条件だった。互いに、赤木くんについて見聞きしたことを教え合う、それだけの関係だ。

 

呼び出し方も、決まっていない。メモが挟まっていることもあれば、こちらから連絡を入れることもある。証拠は、その場で処分する。

 

 

 

 

 

船上試験の甲板で、一度だけすれ違ったことがある。綾小路くんが船室に戻るのと入れ替わりに、こちらが出ていった。互いに、目も合わせなかった。あの日、赤木くんが近くにいたのを知っていたからだ。気づかれるわけにはいかなかった。

 

つまるところ、全部、赤木くんが好きに動けるようにするためだった。船上で、あえて踏み込まずに黙って隣にいただけの夜も、同じ理由だったのかもしれない。

 

誰にも言えないことを抱えるたび、体の中に、小さな重石が積まれていく感覚がある。それでも、やめようと思ったことは一度もない。

 

知れば知るほど、楽になるかと思っていた。逆だった。今夜も、そうだ。

 

いつか終わる日が来るのか、と考えることがある。まだ、想像がつかない。

 

このやり取りのことは、誰にも話していない。赤木くんにも、綾小路くんの名前を出したことすら一度もない。

 

 

 

 

 

明日、いつもの顔をして、また小言ばかり言う女に戻るのだろう。表向きは、それでいい。

 

だが、この夏だけで、彼がよく言う勘定に入れなければならない項目が、随分と増えてしまった。説明する日が本当に来るのかどうかも、今の私にはわからない。

 

灯りを消して、目を閉じた。窓の外の虫の声だけが、いつまでも規則正しく続いていた。

決着をつけてほしいのはどれ?

  • 坂柳との再戦
  • 龍園との貸借
  • 綾小路との関係
  • 堀北との距離感
  • 櫛田との停戦
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