二学期の教材を、机の上に並べ終えた。
窓を細く開けると、虫の声だけが規則正しく続いていた。蝉はもう鳴いていない。今日で、夏が終わる。
机の上の予定表を見るともなしに眺めながら、頭の中では別のことを数えていた。
明日からまた、同じ教室に赤木くんがいる。そう考えて、手を止めた。
最初に言葉を交わした日のことは、正直、あまり覚えていない。
「凡庸だな」
そう言われて、頭にきたことだけは覚えている。
「覚えておく」
それだけ返して、背を向けられた。あの時は、使える駒かどうかを値踏みしているだけの相手だと思っていた。実際、その通りだったと思う。
そのはずだった。
もっとも、今にして思えば、あの時からもう歯車が狂い始めていたのかもしれない。値踏みのつもりで見ていたはずが、いつの間にか、値踏みだけでは説明のつかない位置に、彼を置いていた。
Aクラスを目指す理由を、誰にも話したことがない。話す必要もないと思っていた。
「なんでそんなに必死なんだ」
「必死になる理由が、あなたにわかるとは思えないわ」
「別に、わかろうとも思わねえよ」
素っ気ない返事だったのに、なぜか、それ以上追及されないことに安堵していた。
クラスポイントが、気づけば千点まるごと消えていた日、私は言った。
「言っておくけれど、あなたが退学になったら、それはクラスにとっても損失よ」
赤木くんは、椅子から立ち上がっただけだった。
「安心しろ。首を差し出すつもりはねえよ」
それだけ言って、鞄を持って出ていった。安心させるつもりの言葉のはずなのに、こちらの方が落ち着かなかった。何を根拠に、そう言い切れるのか。
五月八日の夜のことを、思い出す。
寮の裏で、兄に手首を掴まれていた。地面に叩きつけられかけた、その時だった。
振り返ると、赤木くんが、暗闇の中に立っていた。
「妹に置いていかれるのが、怖えんだ」
兄は、手を離した。かわりに、赤木くんの胸倉を掴み上げた。殴られる。そう思った。だが、赤木くんの目は、瞬き一つしなかった。掴まれたことが、まるで出来事として成立していないみたいだった。
「上のクラスに上がりたかったら、死に物狂いで足掻け」
それだけ言い残して、兄は去っていった。
私は、赤木くんに聞いた。
「……なぜ、あんなことを言ったの」
「言ってやれば、手が止まると思ったからだ」
「あなた、兄さんのことを何も知らないでしょう」
「知らねえよ」
「なら、なぜ」
「知らなくていい」
それだけ言うと、赤木くんは背を向けて歩き出した。
「――余裕のある人間は、確かめねえんだ」
振り返りもせず、そう言い残して去っていった。
あの瞬間覚えているのは、感謝でも安堵でもない。掴まれても瞬き一つしない、あの目の据わり方だ。人間は、痛みや恐怖を覚える生き物のはずだった。赤木くんには、それが欠けている。そう思うと、寒気に似た何かが背筋を上った。
怖い、というのとは少し違う。もっと、底が見えないことへの落ち着かなさだった。
あの日以来、赤木くんを見る目が変わったのは確かだ。だが、それがなんなのか、当時の私にはまだ判別がつかなかった。
赤木くんが英語の問題を前に固まっていたことがある。
「――読めねえんだ」
正直に、そう言った。
「これが何を訊いてるのか、俺にはわからん」
冗談かと思って、笑おうとして、やめた。目が本気だった。この学校に来て、教科書の英文が一文字も読めない生徒に会ったのは、後にも先にもこれきりだった。
誰かに言いふらす気には、なぜかならなかった。弱みを握ったという感覚より、見てはいけないものを見た、という感覚の方が強かったからかもしれない。理由を言葉にできたのは、もっと後になってからだ。
放課後、赤木くんに呼び止められたことがあった。
「一つ頼みがある」
「……珍しいわね。なに」
「この板の使い方を教えてくれ」
差し出されたのは、誰でも持っているはずのスマートフォンだった。
「金の残りを見る方法と、物を買う方法。それだけでいい」
「……信じられない。じゃあ、あなた今まで何を食べていたの」
「山菜定食だ」
呆れながらも、一つずつ教えた。教えている間、赤木くんは意外なほど素直に頷いていた。物覚えの悪い人間ではない。当たり前に知っているべきことを知らなすぎることに、あの時気づいた。
須藤くんの点数を、赤木くんに肩代わりしてもらうよう、自分から頼みに行ったことがある。「あなたのポイントを、須藤くんに使ってほしいの」赤木くんは、その場で頷いた。理由を尋ねると、あいつのためでも学校のためでもない、気に入らないからだ、とだけ返ってきた。
「……あなた、本当に嘘が下手ね」
「上手いつもりだったんだがな」
残高が0になったと、平然と言った顔を、今でも時々思い出す。
損得で説明できる範囲を、あの頃からもう、少しずつはみ出していた。はみ出していると気づいていながら、指摘せずにいたのは、私の方だった。
Cクラスへ単身乗り込むと言い出した時は、止めた。
「約束したはずよ。動くときは相談する、と」
「今、聞いてるだろ」
「事後じゃないの、それ」
無駄なのは分かっていた。それでも、続けた。
「……止めても、行くのでしょうね」
「ああ」
「理由を聞かせて」
「須藤が保たねえ」
それ以上、止める言葉が出なかった。代わりに、一つだけ約束させた。
「終わったら、何があったか私に話すこと。……黙って一人で終わらせるのは、なし」
「いいだろう」
止められないなら、せめて後で確かめられるようにしておきたかった。それが本音のどこまでかは、自分でもうまく整理がつかない。
律儀に守られたことは、その後も一度もなかった。それでも、次からは話す、というその場しのぎの約束を、赤木くんは毎回同じ真剣さで口にした。
危ないことをするたびに引き止める役目を、いつの間にか自分から引き受けていた。頼まれたわけでもないのに。
無人島の試験で、崖に近い斜面を渡らせたことがある。足を滑らせれば、ただでは済まない高さだった。
「落ちたらどうするの」
「落ちたら、それまでだろ」
事も無げに言うと、赤木くんは斜面を渡り切った。振り返りもせず、先を急いだ。
命の値段を、あの人は最初から勘定に入れていない。そのことに気づくたび、寒々しいものが胸の奥を通り過ぎた。頼りにしている自分が、どこか間違っているような気さえした。
無人島の刻限を、いつも早めに切り上げるのが私のやり方だった。
「あなたは、ぎりぎりを狙いすぎるわ」
「安全策だろ」
「安全とは言わないわね、それ」
それでも、前倒しで動く私のやり方に、赤木くんが口を挟んできたことは一度もなかった。
その夜、焚き火の傍で、柄にもないことを漏らしたことがある。
「――正直、しんどいわね、こういうの」
赤木くんは何も言わず、火を一本くべただけだった。慰めの言葉も、説教もなかった。
それが、案外悪くなかった。慰めてほしかったわけではないのに、慰められなかったことに安堵している自分が、少し奇妙だった。
そういう瞬間が、少しずつ増えていった。最初は、駒の性能を確かめているだけのつもりだった。いつからか、確かめる理由が、勘定から外れ始めていた。認めるのは、癪だったけれど。
クラスの順位が上向くたび、素直に喜べばいいものを、真っ先に赤木くんの顔を探している自分に気づくことがあった。気づくたびに、視線を逸らした。
体調を崩して自習室を休んだ日、赤木くんが代わりにノートを取って寄越してきたことがある。
「頼んでいないけど」
「ついでだ」
普段は頼まなければ何もしない男が、頼まれてもいないことをした。その意味を、深く考えないようにした。
一度だけ、赤木くんが窓の外を眺めたまま、こちらの声に気づかなかったことがある。
「――聞いてる?」
「悪い」
いつもなら聞き逃さない男が、聞き逃した。理由は聞かなかった。聞けば、何かが壊れる気がした。
船上試験の夜、甲板で二人になったことがある。用件はとうに済んでいたのに、私は柵の傍を離れなかった。
「――何か、まだあるのか」
「別に。夜の海も、たまには悪くないと思っただけ」
嘘だった。理由なんて、自分でも説明できなかった。ただ、隣に赤木くんがいる時間を、もう少しだけ引き延ばしたかった。それだけだった。
一緒に下校したことも、数えるほどしかない。
「送らなくていいわよ」
「送ってねえよ、帰る方向が同じなだけだ」
「そう」
方向が同じなのは、本当だった。それでも、いつもより少しだけ、歩調が合っていた気がする。
赤木くんが、珍しく質問してきたことがある。
「――あんたは、なんでいつも一人で突っ走るんだよ」
「誰かに頼る発想がないだけよ」
「それ、俺に言えた義理か」
言い返せなかった。似た者同士だと言われている気がして、無性に腹が立った。腹が立った、というだけで済ませていいのかどうかは、自分でもよくわからない。
龍園くんとの妙な取り決めについても、詳しくは聞いていない。
「龍園くんと、何を話し合ったの」
「休戦だ、しばらくの間」
「信じているの?」
「信じてねえよ。ただ、都合がいいだけだ」
そう言い切れるところが、赤木くんらしいといえば、らしかった。
信じていないと言い切れる強さが、少し羨ましくもあり、同じくらい、少し寂しくもあった。矛盾した感情だということは、自分でもわかっている。
夏休みに入る少し前、赤木くんが妙に静かな時期があった。
「今日は、やけに大人しいのね」
「別に、いつも通りだろ」
いつも通りではなかった。目の奥に、何か大きなものが抜け落ちたような色があった。それが何かは、聞いても答えないと分かっていたから、聞かなかった。
ある朝、赤木くんは頭にガーゼを巻いて現れた。
「――それ、頭も」
声が、思わず一段上ずった。
「階段から落ちただけだ」
嘘だと分かっていた。それでも、そこで終わらせるつもりだったのに、口が勝手に動いた。
「――どこまで、無茶するつもりなの」
珍しく、声が尖った。手にしていたものを持つ手が、震えているのに、自分で気づいた。
佐倉さんと二人で話し込んでいるところを、少し離れたところから見てしまった。
「――随分、仲がいいのね」
「そういうんじゃねえ」
「――別に、否定しなくていいわ。私には関係ないことだもの」
言った後で、自分の声が、思ったより低く出たことに気づいた。それだけ言うと、いつもより早足でその場を離れた。
それだけだった。胸の奥で一瞬だけ波立った何かは、すぐに凪いだ。数え直すほどのものでもない。そう自分に言い聞かせて、次の日はいつも通りに接した。
もっとも、凪いだ後も、しばらくは他のことが手につかなかった。この程度で動揺する自分を、誰にも見られなかったのが救いだった。
「――今日は、何か収穫があったのかしら」
「......特にないな」
「そう」
「――なんだ、元気がないな」
「気にしないで。こっちのことよ」
「そうか」
それで済む話のはずだった。だが、こちらの方が済ませられなかった。
「――ねえ、赤木くんの怪我って、佐倉さんと関係してるの」
「している」
「即答なのね」
「ああ」
「……そう」
「オレも、現場にいたからな」
「……」
「悪いな。言うのを忘れていた」
「嘘をつかないで」
「嘘だ」
悪びれもせず、あっさり認めた。
「なぜ言わなかったの」
「先に、はっきりさせたいことがあった」
「どういうこと」
「もう、解決した」
「勿体ぶらずに教えなさい」
「これはオレの取り分だ。自分で見つけろ」
それきり、それ以上は渡してこなかった。
先に沈黙を破ったのは、綾小路くんの方だった。
「――もう用は済んだか」
「済んだわ」
「じゃあ、オレも戻るぞ」
綾小路くんは、先に階段を下りていった。一度も振り向かなかった。
一人になって、しばらく手すりにもたれていた。
最初に声をかけてきたのは、綾小路くんの方だった。兄から助けられた日の、ちょっとしたあとだった。それまで、彼のことなど意識したこともなかった。教室の隅で、誰の輪にも入らず、誰の邪魔もしない。それだけの生徒だと思っていた。
「――お前は、赤木と仲がいいのか」
不意に、そう言われた。人目のない場所を、わざわざ選んでのことだった。
「……何の関係があるの、あなたに」
「関係はない。ただ、悪かったなと思ってな」
「何のこと」
「――お前を、助けられなかった」
「え」
「正確には、助ける前に、赤木の方が先に助けた」
「――見てたの」
「ああ」
「……見苦しいところを見せたわね」
「お前は、赤木をどう思う」
「どうって……変な人ね」
「そうか」
「あなたは、何か思うところがあるの」
「あいつは、普通じゃない」
それだけだった。理由らしい理由も、説明もなかった。だが、それで十分だった気がする。誰かを読み違えたことなど一度もなさそうな、あの目をした男が、あの夜、赤木くんの方を先に見ていた――それだけの話だ。
一度きりで終わると思っていた。そうはならなかった。
似たようなことを、あれから何度か聞かされている。中身までは、一度も渡してこない。貰う情報は、いつも断片だけだ。渡す方も同じだった。
そのうち、綾小路くんについても、少しずつわかってきたことがある。成績の妙な波、点数の均し方――彼自身の違和感にも、とうに気づいている。だが、口には出さない。
赤木くんがそれを表に出さない以上、こちらから先に足を引っ張る理由もなかった。それに、指摘したところで、この取引が終わるだけだ。
会う場所は、決まっていない。特別棟の空き教室、寮の非常階段、購買の裏。人目のない時間と場所、それだけが条件だった。互いに、赤木くんについて見聞きしたことを教え合う、それだけの関係だ。
呼び出し方も、決まっていない。メモが挟まっていることもあれば、こちらから連絡を入れることもある。証拠は、その場で処分する。
船上試験の甲板で、一度だけすれ違ったことがある。綾小路くんが船室に戻るのと入れ替わりに、こちらが出ていった。互いに、目も合わせなかった。あの日、赤木くんが近くにいたのを知っていたからだ。気づかれるわけにはいかなかった。
つまるところ、全部、赤木くんが好きに動けるようにするためだった。船上で、あえて踏み込まずに黙って隣にいただけの夜も、同じ理由だったのかもしれない。
誰にも言えないことを抱えるたび、体の中に、小さな重石が積まれていく感覚がある。それでも、やめようと思ったことは一度もない。
知れば知るほど、楽になるかと思っていた。逆だった。今夜も、そうだ。
いつか終わる日が来るのか、と考えることがある。まだ、想像がつかない。
このやり取りのことは、誰にも話していない。赤木くんにも、綾小路くんの名前を出したことすら一度もない。
明日、いつもの顔をして、また小言ばかり言う女に戻るのだろう。表向きは、それでいい。
だが、この夏だけで、彼がよく言う勘定に入れなければならない項目が、随分と増えてしまった。説明する日が本当に来るのかどうかも、今の私にはわからない。
灯りを消して、目を閉じた。窓の外の虫の声だけが、いつまでも規則正しく続いていた。
決着をつけてほしいのはどれ?
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坂柳との再戦
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龍園との貸借
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綾小路との関係
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堀北との距離感
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櫛田との停戦