9月4日。体育祭に向けた事前測定の日だった。
校庭と体育館の両方を使い、学年ごとに時間を区切って回していく。
校庭の隅には、腕章を付けた上級生が何人か立っていた。体育祭の運営には生徒会が噛んでいるらしく、測定の進行にも口を出している。教員が仕切っているようで、実際に人を動かしているのは、あの腕章の方だった。
「生徒会って、こういうのも全部やんのか」
須藤が、並びながらそう言った。
「知らねえよ」
「...あれ、会長の堀北さんって堀北の兄貴か?」
「そうだろうさ」
「マジかよ。聞いてねえぞ」
「お前くらいだろ」
前の方の列で、堀北が一度だけこっちを見た。それから、また前を向いた。それだけだった。
「この測定そのものに点数は付かない。ただし、ここで出た数字は各自の端末に届き、教員側にも残る」
真嶋の声が、拡声器も通さずに校庭の端まで届いていた。
「誰をどの種目に置くか、参考にするクラスもあるだろう。使うかどうかは各自で決めろ。以上だ」
使うかどうかは各自で決めろ。この学校らしい言い方だった。測定に値打ちは無い、ただし使う奴は使う。そう言ってるのと変わらねえ。
列が動き出す。四十人が順番に並んで、数字を一つずつ置いていく。そういう作業だった。
校庭の向こう側には、他のクラスの列も見えた。Aクラスの列は、測定が始まる前から並ぶ順番が決まっているようだった。誰かが割り振ったんだろう。反対にCクラスの列は、半分が寝そべったまま順番を待っている。どちらも、やる気の話じゃない。この行事をどう使うつもりかの差が、列の形にそのまま出ているだけだ。
数字を揃えて配るのは学校の仕事で、その数字を何に使うかは各自の仕事だ。真嶋が言ったのは、つまりそういうことだった。
測定の途中で、平田が名簿を持って回ってきた。
「みんな、測り終わったら記録を教えてね。まとめてAクラスに渡すことになってるから」
「Aに?」
池が顔を上げた。
「赤組は合同でしょ。団体戦の割り振りは、二クラスまとめて決めることになってる。向こうがもう案を作ってくれてるみたいなんだ」
「もうそんな取り決めできてんのかよ、気が早えな」
「坂柳さんから打診があってね、堀北さんとも話し合って決めさせてもらったよ」
平田はそれ以上言わなかった。名簿を抱えて、次の列へ移っていく。
こっちの四十人分の数字が、そのまま向こうに渡る。誰が速くて、誰が遅いか。どの種目に誰を置けば形になるか。組んだ以上は当たり前の手続きで、断る理由もねえ。
ただ、渡した数字が何に使われるかを決めるのは、渡した側じゃない。
「うおおっしゃ、見たかよ今の」
須藤が握力計を掲げて振り返った。数字は見えなかったが、周りの反応で大体の見当はついた。
「お前さ、そういうの気にならねえの」
「ならねえ」
「つまんねえ男だな、ほんと」
「お前はどこを希望する気だ」
「どこも出るに決まってんだろ。どうせ全員参加だ。俺は前の方の戦に入れてもらう」
「欲張りだな」
「勝てるもんは全部獲る。当たり前だろ」
迷いのねえ言い方だった。この男は、自分が何で勝てるかを正確に知っている。知っている人間は強い。
そう言いながら、須藤はまた列の先頭の方へ戻っていった。記録を出すのが楽しくて仕方ねえ、という顔をしていた。ああいうのは、羨ましいとかそういう話じゃなく、単に別の生き物を見ている感覚に近い。
堀北は、前の方の列にいた。測定そのものは淡々とこなしていたが、終わった後で自分の数字を端末に打ち込み直しているのが見えた。配られた記録を、もう一度自分の手で並べ直している。あの女らしいやり方だった。
順番が回ってきた。
握力。反復横跳び。立ち幅跳び。順番に測って、順番に終わった。
問題は、初めてやらされる反復横跳びとかいう代物だった。
床に引かれた三本の線を、ひたすら跨いでは戻る。実戦では何の役にも立たねえ、不自然極まりない反復運動だった。ただ決められた枠の中でステップを踏む。そんな窮屈な動きは、どうにも体に馴染みがねえ。結果としてひどく大振りな、ぎこちないステップを踏む羽目になった。
「おい赤木、お前、運動神経は悪くねぇくせに、なんで反復横跳びだけあんなぎこちないんだよ! ロボットかよ!」
測定を終えて列に戻ると、須藤が腹を抱えて突っ込んできた。
「――さあな。どうもこういう、枠の中で踊らされるような動きは性に合わねえ」
「お前にも苦手なもんあんだな。なんかちょっと安心したぜ」
呆れたように息を吐き、視線を前に戻す。
それ以外の数字は、どれも真ん中だった。上から数えても下から数えても、同じくらいの位置に落ちる。四十人並べたら、どこにいるか探すのに少し手間がかかる。そういう数字だ。
こちらに来てから畳の匂いも、徹夜も、安酒も知らねえ体だ。よく眠って、三食食って、無理をしていない。だから平凡に育っている。当たり前の話だった。
前は、これよりずっと痩せていた。飯を抜くのが当たり前で、夜も寝ていなかった。そのくせ、走る速さだの握る力だのを測られたことは、一度もなかった。
測る側にとっちゃ、この欄に並ぶ数字が全部だ。それで足りるなら、それでいい。
「赤木くん、50m走の記録、ここに書いてもらえるかな」
平田が用紙を差し出してきた。書き込んで、返す。それだけだった。
「ありがとう。……あんまり、興味ない感じかな」
「ねえな」
「そっか」
平田はそれ以上突っ込んでこなかった。こういう時に引き際を間違えねえ男だ。
持久走の列に移ると、女子の側から歓声が上がっていた。誰かが記録を更新したらしい。数字が一つ動いただけで、あれだけの声が出る。悪くはねえ。ただ、俺には響かねえというだけだ。
列の外れに、佐倉がいた。首からカメラを提げたまま、測定ではなく、走っている連中の方にレンズを向けていた。
「撮ってんのか」
「あ、……はい。委員会の人に、記録用にって頼まれて」
「そうか」
「赤木くんのも、撮りましょうか」
「やめとけ。写しても面白いもんは写らねえ」
佐倉は少しだけ笑って、カメラを下ろした。それから、また別の方へレンズを向け直した。誰かが転んで、その周りで笑い声が上がっている。そういう方を撮っていた。
「赤木くん、次、持久走だって」
櫛田が、通りすがりに教えてきた。周りに何人か連れている、いつもの形だった。
「ああ」
「頑張ってね」
「やるときはやるさ」
「あはは、赤木くんらしい」
それだけ言って、櫛田は連れの方へ戻っていった。教室でのやり取りと、何も変わらねえ。夏休みの間に交わした約束の形が、そのまま二学期に持ち越されているだけだった。
「なあ、下から10人ってやつ、あれマジなのかな」
昼前、校庭の隅で座り込んでいた池が、誰にともなく言った。
「下から10人って話か。学年の話じゃねえらしいぜ、全学年まとめてだと」
山内が答える。
「中間で10点引かれんだよな。10点だぞ10点」
山内が続ける。
「やべえって。俺、持久走ガチで死ぬんだけど」
池が頭を抱えた。
似たような会話が、あちこちで起きていた。四十人のうち、何人かは本気で顔色を変えている。この学校の生徒は、点が引かれるという話には慣れているが、慣れているからこそ、どの程度痛いかも正確にわかる。
「赤木は平気なのか?真ん中くらいか?」
池がこっちに聞いてきた。
「真ん中は、下から10番目より下にはならねえ」
「そりゃそうだけどよ。お前、赤点ギリギリだっただろ」
「そうだな」
あっさり認めると、池が妙な顔をした。
「いや、そこに10点引かれたら本当に――」
そこで言葉が止まった。言いかけた先の話を、自分で飲み込んだらしい。
「引かれたら、どうなる」
「……いや」
「言えよ」
池は答えなかった。代わりに、少し離れたところで話を聞いていた堀北が、こっちを向いた。
「あなた、わかっていて測定に手を抜いているの」
「抜いてねえよ。この体で出る数字が、これだけだって話だ」
「測定に点が付かないことと、本番で下位に沈まないことは別の話でしょう。ここで手を抜く人が、当日だけ違う走り方をするとは思えないのだけれど」
正しい忠告だった。この女の言うことは、いつも正しい。
「入ったら入った時だ」
「――そういう問題ではないでしょう」
「落ちる時に困るのは、落ちたくねえ奴だけだ」
堀北が黙った。池も、山内も黙った。
別に気の利いたことを言ったつもりはなかった。ただ、事実を言っただけだ。退学が怖いというのは、学校に残りたい人間の理屈で、俺はその理屈を最初から持ち合わせていない。持っていないものを勘定に入れる方がおかしい。
しばらくして、堀北が短く息を吐いた。
「……あなたと話していると、時々、自分の方がおかしいのかと思うわ」
「そりゃあんたが正しいからだろ」
会話はそこで終わった。
少し離れた場所では、平田が数人を集めて団体戦の相談を始めていた。綱引きは人数が要る、騎馬戦は組む相手の背丈が揃っていた方がいい、そういう実務的な話だ。輪の中で、何人かが自分の測定結果を見せ合っている。数字を出して、並べて、誰をどこに置くかを決めていく。
体育祭ってのは、こういう時間の方が長いんだろう。本番の一日より、その手前で何をどう配るかの方に、余程手間がかかる。
俺はその輪には入らなかった。呼ばれもしなかった。平田は一度こっちを見たが、声はかけてこなかった。あれはあれで、正しい判断だ。
午後、校庭の反対側では、他クラスの測定が並行して行われていた。
Bクラスの列が、こちらから見て一番近い場所にあった。列の作り方が、Dクラスとは違う。誰も急かされていないのに、順番が滞っていない。そういう並び方だった。
その中心に、一之瀬帆波がいた。
記録を取り終えた生徒が戻ってくるたび、一之瀬が何か声をかけている。数字を覗き込んで、笑って、相手の肩を叩く。良い記録が出た奴だけじゃなかった。むしろ、うつむいて戻ってくる奴の方に、長く時間を割いていた。
「ちゃんと伸びてると思うよ!」
「いや、でも下から数えた方が早いし……」
「去年の自分より速くなってるんでしょ?それは伸びてるって言うんだよ」
言われた方が、少しだけ顔を上げた。
同じやり取りが、何度も繰り返されていた。それが二十回も三十回も続いて、一之瀬の顔からは一度も笑いが抜けなかった。
妙なもんだ。
人が人に何かをしてやる時、そこには必ず理由がある。見返りか、義理か、体裁か、後でまとめて払わせるための貸しか。そのどれかが混じっていれば、勘定は読める。読めれば、相手がいつ手を引くかもわかる。
この女の場合、その勘定がどこにも見当たらなかった。
貸しを作ってる風でもねえ。人気を買ってる風でもねえ。票が欲しいなら、下位の連中に時間を割くより、目立つ奴の隣にいた方が早い。それをやっていない。
勘定に乗らねえ善意ってのは、一番読みにくい。
いつ降りるかが読めねえからだ。折れる場所が見えねえ相手ってのは、卓では一番厄介な種類に入る。
坂柳も龍園も、読める。あの二人は、欲しいものがはっきりしていて、そのために何を捨てるかも決まっている。だから厄介ではない。欲しいものが見えている相手は、いつか必ずそこに手を伸ばす。伸ばした瞬間が、こっちの番だ。
一之瀬帆波には、それが無い。
「――あれ、赤木くん」
気づいたら、向こうがこっちに気づいていた。
「久しぶりだね。船の時以来かな」
「そうだな」
一之瀬が、少しだけ列を離れてこっちに来た。
「記録、どうだった?」
「平凡だ」
「そっか。平凡っていいと思うけどな、私は」
「そうか」
それだけで終わると思っていたが、一之瀬はまだそこにいた。
「あのね、変なこと訊いてもいい?」
「なんだ」
「赤木くんって、体育祭、楽しみじゃないよね」
「楽しみにする理由がねえ」
「うん、そんな感じがした」
一之瀬は少し笑って、それから自分のクラスの列を見た。
「うちのクラス、下位10人のことでちょっと沈んじゃってる子もいてさ。だから、できるだけ一緒にいようと思って」
「一緒にいれば、記録が伸びんのか」
「伸びないよ」
「じゃあ、なんでやる」
一之瀬は、少しの間だけ考える顔をした。
「うーん……伸びないけど、一人で沈むのと、みんなで沈むのは、違うと思うから」
答えになっていなかった。だが、この女は嘘をついていなかった。それだけはわかった。
「変わってんな、あんた」
「よく言われる。赤木くんにだけは言われたくないけどね」
「一つ訊きたい」
「うん?」
「あんたのクラスは、体育祭で勝つ気があるのか」
一之瀬は、今度は迷わなかった。
「あるよ。勝ちたい」
「さっきの連中を抱えたままでか」
「うん。抱えたままで勝ちたい」
捨てる気がねえらしい。勝ちたいなら、遅い奴を切って速い奴を並べた方が早い。それを知らねえわけでもねえだろうに、この女は知った上で捨てない方を選んでいる。
重い荷物を背負ったまま走る、と本人が決めている。それ自体は勝手だが、卓に着く相手としては、こっちの方が余程読みにくい。
一之瀬は軽く手を上げて、列の方へ戻っていった。
背中を見送りながら、さっきの答えをもう一度頭の中で転がした。伸びないけど、一緒にいる。
損も得もねえ。代わりに、失うものもねえ。あの女は、まだ一度も張っていない。
夕方、端末に測定結果が届いた。
一覧を開いて、自分の欄を一度だけ見た。どの項目も、真ん中の少し下に固まっていた。下から10番目に入るほどではないが、上から数えて楽しくなる数字でもない。
閉じて、そのまま鞄に放り込んだ。
配置希望の用紙の締切は、今週中だった。用紙は、まだ鞄の底で折り目もついていない。
種目は選べない。選べるのは、どの戦に入るか、どの位置に立つか。要するに、どこで人に見られるかを決めろということだ。
それで構わなかった。
端末の通知が、もう一件届いていた。差出人は平田で、宛先はクラス全員。明日の放課後、Aクラスとの合同の打ち合わせがある、出られる者は出てほしい、という内容だった。場所は特別棟の大教室。
出る気は無かった。だが、向こうがこっちの数字を全部持った上で何を出してくるかは、一応見ておく価値がある。
体育祭まで、まだ一月近くある。並べられた数字を眺めて浮かれたり沈んだりできるのは、それ自体が平和な話だ。
俺の方は、まだ何も張っていない。張るための卓すら、どこにも立っちゃいなかった。
決着をつけてほしいのはどれ?
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坂柳との再戦
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龍園との貸借
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綾小路との関係
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堀北との距離感
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櫛田との停戦