アカギ〜実力至上主義の教室に舞い降りた天才〜   作:GC

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第57話「待ち」

九月も終わりが近づくと、日差しの色が変わる。それでも砂の上に三十分立っていれば、汗は出た。

 

「赤組、綱引き。一回戦の並びで入れ」

 

放送係の声が、校庭の端から飛んできた。

 

AクラスとDクラスが、同じ縄の両側に分かれて並ぶ。本番で引く相手はBとCだが、練習では味方同士で引き合うしかない。

 

俺は列の一番後ろだ。縄の端を腰に回して、踏ん張っているだけの役だ。

 

坂柳が決めた配置だった。

 

半月ほど前、大教室で紙を配られた時に決まっている。文句が出なかったわけじゃない。平田が人数の偏りを訊いたし、俺も須藤の位置に口を出した。全部、数字で返された。

 

文句が出なかったんじゃない。通らなかっただけだ。

 

 

 

 

 

「せーの」

 

平田の声で、縄が張る。

 

土の匂いが上がった。前の連中の背中が一斉に沈む。手のひらの皮が焼けるように熱くなって、それから何も感じなくなった。

 

縄というのは、引いている間じゅう同じ重さではない。どこかで誰かの足が滑れば、その分が一瞬で腰に来る。来た分だけ、こっちが残せばいい。残せなければ前に持っていかれる。

 

前の方で誰かが声を上げて、重さが半分抜けた。かと思うと、次の瞬間に倍になって戻ってきた。

 

先頭は須藤だった。

 

紙が配られた時、俺はあの位置に口を出している。力のある奴を先頭に置けば、序盤で一気に持っていけます——坂柳はそう答えた。

 

実際、出だしは持っていった。五秒か六秒、向こうの列が総崩れになりかけた。

 

そこから戻された。

 

先頭が出しきった後の重さは、全部こっちに来る。今まさに腰に来ているのがそれだった。

 

坂柳の言ったことは、嘘じゃない。嘘じゃないが、全部でもない。

 

こういうのは嫌いじゃない。何も考えなくていい。

 

三十秒ほどで笛が鳴った。

 

「はい、交代。次、Aの二班」

 

縄を放して、腰を伸ばした。

 

Aクラスの列が入れ替わる。その中に葛城がいた。手にした紙を見ながら、自分の班の人間に何か言っている。

 

 

 

すれ違いざま、向こうが先に口を開いた。

 

「アンカーは重い役だ」

 

「そうかい」

 

「前が崩れれば、最後に全部来る。踏ん張れなければ、そこで終わる」

 

「知ってる」

 

葛城は頷いて、それから一言足した。

 

「言っておいた」

 

それだけ言って、行ってしまった。

 

言っておいた、という言葉に、この男の全部が入っていた。後で誰かに問われた時に、自分は言ったと答えられる。そのために言いに来ている。

 

 

 

 

 

「赤木、水」

 

須藤がペットボトルを放ってきた。片手で受けた。

 

「おう、悪いな」

 

「いや。お前さ、綱引きの時、全然顔変わんねえのな」

 

「そうかい」

 

「怖えよ。普通もっと歯食いしばるだろ」

 

蓋を回しながら、須藤の顔を見た。日に焼けて、首から上だけが赤い。

 

「勝ってどうなる」

 

「いや、そりゃ……勝ちゃクラスポイントだろ」

 

「組で勝っても、クラスの並びは別に出る。四つのうちのどこに落ちるかは、まだ誰も数えちゃいねえ」

 

須藤が水を飲む手を止めた。

 

「……それ、どういう意味だよ」

 

「言葉の通りだ」

 

須藤はしばらく考える顔をして、それからやめた。この男はこういう時、深追いをしない。

 

校庭の反対側では、白組が同じことをやっていた。BとCの合同だ。

 

列の前の方で、一之瀬が両手を叩いて何か言っている。声は届かないが、周りの顔つきが変わるのは見えた。あの女は、ああいうことが上手い。

 

その列の端に、見覚えのある顔があった。伊吹だ。

 

こっちを見ていた。目が合うと、縄を放してこっちへ歩いてきた。

 

「ちょっと」

 

「なんだ」

 

「あんたんとこ、何かあったの」

 

「なんの話だ」

 

「堀北よ。さっきから一回もこっち向かないじゃない。あの女、いつもなら他所の組の並びくらい見てるでしょ」

 

そう言って、伊吹は顎で日陰の方をさした。

 

坂柳が座っている方角だった。

 

「見てねえのは、そっちだけだ」

 

「……は?」

 

「こっちの列は見てる。あんたのことも見てた。見てねえのは、そっちの方角だけだ」

 

伊吹の眉が寄った。

 

「何それ。気持ち悪い」

 

「だろうな」

 

伊吹が踵を返しかけたので、一つだけ訊いた。

 

「龍園はどうした」

 

足が止まった。

 

「……来てないけど」

 

「一度もか」

 

「知らないわよ。私が見てる時はいない」

 

そう言って、今度こそ自分の列へ戻っていった。

 

本番は全員出る。種目を選ぶ余地は無い。

 

だが、練習に出ろと言う人間は誰もいない。

 

あの女は分かりやすい。知りたいことがあると、隠さずに訊きに来る。

 

 

 

 

 

列を外れたところで、後ろから声をかけられた。

 

「あ、赤木くん」

 

佐倉だった。両手にタオルを何枚か抱えている。

 

「これ、余ってるので……使ってください」

 

「悪いな」

 

一枚受け取った。汗を拭いてから返そうとしたら、もらってくださいと言って首を振った。

 

「あの、私……走るの、遅いので。こういうことくらいしか」

 

「出るのは全員だ。遅くても、いるのといねえのとじゃ違う」

 

佐倉は少し黙って、それから小さく頷いた。

 

「……はい」

 

タオルを抱え直して、女子の方へ戻っていった。

 

笛が二度鳴って、女子の綱引きに切り替わった。

 

綱引きは男女別だ。男子が引いている間、女子は列の脇で待たされる。その逆も同じで、こっちは縄を放して見ているしかない。

 

堀北は前から四番目にいた。

 

引き始めると、この女は悪くなかった。腰を落とすのが早いし、隣と歩調を合わせるのも早い。運動ができるとは聞いていないが、言われた通りのことを言われた通りにやる人間は、それだけで頭数の一つ分より働く。

 

一本目を取った。

 

列が崩れて、女子が息を切らしながら散っていく。堀北は肩で息をしながら、髪を耳にかけて、それから顔を上げた。

 

上げた先に、日陰があった。

 

顔がそのまま、横を向いた。

 

見た、と言うには短すぎる。見なかった、と言うには一度こっちを向きすぎている。

 

そういう向き方だった。

 

 

 

 

 

日陰の方で、杖が動いた。

 

坂柳が立ち上がって、こっちへ歩いてくる。

 

「赤木くん」

 

「なんだ」

 

「その位置、お気に召しましたか」

 

「縄を持つだけの役だ。好きも嫌いもねえ」

 

「ふふっ」

 

坂柳は、紙を胸の前で揃えた。

 

「アンカーというのは、前が見えない位置なのですよ。誰がどう引いているのか、どこで崩れかけているのか、一番後ろからでは何も見えません。見えるのは、腰に来る重さだけです」

 

「だろうな」

 

「この間の答えを、まだいただいていませんでした」

 

「何の話だ」

 

「綾小路くんです。何かに本気になったことがあるか、と伺いました」

 

「知らねえと答えたはずだ」

 

「ええ。ですから、その後で何か思い出されたかと」

 

「思い出すも何も、ねえもんはねえ」

 

「そうですか」

 

坂柳は、少しだけ首を傾けた。

 

「……堀北さんは、お変わりありませんか」

 

紙を揃える手は止まっていなかった。ついでに思い出した、という間の置き方だった。

 

「さあな」

 

「最近、お疲れのご様子でしたので」

 

「見てんのか」

 

「同じ組ですから。目には入ります」

 

四十人からの人間が動いている中で、目に入った一人が堀北だった、という話をしている。

 

「そうかい」

 

「ええ」

 

こっちの顔を見ていた。答えの中身ではなく、答える時の顔の方を見ている目つきだった。

 

「一つ訊いていいか」

 

「どうぞ」

 

「あんた、さっきから俺を見てるな」

 

坂柳の指が、紙の上で止まった。

 

「縄を見てるんじゃねえ。俺を見てる」

 

しばらく、返事がなかった。

 

やがて、坂柳は紙を下ろした。

 

「ふふっ。……失礼いたしました」

 

「構わねえよ。見るのは勝手だ」

 

坂柳はもう何も言わずに、杖を突いて列の方へ戻っていった。

 

雑談のつもりなら、ずいぶん長い雑談だった。

 

 

 

 

 

練習の後、廊下で堀北と会った。

 

向こうから歩いてきて、俺の前で足を止めた。

 

「赤木くん」

 

「ああ」

 

それから、二秒ほど何も言わなかった。

 

「……平田くんから、確認が回ってくると思うけれど」

 

「そうか」

 

「見ておいて」

 

「分かった」

 

それだけ言って、行ってしまった。

 

平田からの確認なら、平田が言えば済む話だった。

 

わざわざ止まって、わざわざ名前を呼んで、それを言った。

 

教室へ戻ると、平田が名簿を抱えて待っていた。

 

「赤木くん。ちょっといい?」

 

「なんだ」

 

「堀北さんのことなんだけど」

 

紙束を抱えたまま、少し言いよどんだ。

 

「昨日、同じことを二回訊かれたんだ。彼女、そういう間違いをする人じゃないから」

 

「そうかい」

 

「僕が訊いても、疲れてるだけって返ってくると思う。実際そう言われたし」

 

「だろうな」

 

「赤木くんは、何か聞いてない?」

 

「聞いてねえな」

 

「そっか」

 

平田はそれ以上訊かなかった。

 

訊けないんじゃない。訊いて相手が困る顔をするのが、この男には耐えられないだけだ。

 

「何かあったら言ってね。僕にできることなら」

 

そう言って、紙束を抱え直して出ていった。

 

 

 

 

 

寮へ戻る道で、堀北に追いついた。

 

前を歩いていたのが、足音で分かったらしい。振り向いて、そこで止まった。

 

一度、口が開いた。

 

開いて、閉じた。

 

「……何でもないわ」

 

「そうかい」

 

俺は何も訊かなかった。

 

訊けば、この女は答える。答えて、それで何かが終わる。終わったものは、もう卓に戻ってこない。

 

 

 

 

 

先週の夜、特別棟へ向かう綾小路を見ている。

 

どこへ行くと訊いて、用事だと返された。それ以上は訊かなかった。あの男は嘘をつかない代わりに、答えない。黙るという形で返してくるだけだ。

 

その後で、向こうから言ってきた。

 

体育祭がこのまま何も起きずに終わると思っているのか、と。

 

お前はオレの秤では量れない、とも言った。

 

オレは、お前が何者なのか見極めたい。

 

はっきりそう言って、暗がりへ歩いていった。

 

勝手にしろ、と返してある。

 

そこまでは、俺とあの男の間の話だ。

 

口を利かなくなったのは堀北だ。

 

兄貴絡みか、とは考えた。あの女が兄の名前で動かなくなるのは、今に始まったことじゃない。

 

だが、それなら日陰の方を見ない理由が無い。

 

あの女が見なかったのは、縄でも、白組でも、俺でもない。坂柳だけだ。

 

その坂柳が、ついでのような顔で堀北の名前を出した。

 

中身までは知らねぇが、つまり、そういうことだった。

 

 

 

 

 

その夜も、櫛田の部屋にいた。

 

机の上に数学の問題集が開いてある。図形だった。同じ形が出たら同じ手順を書く。それだけの作業だ。

 

「そこ、違う」

 

櫛田が鉛筆の先で、俺の書いた線を指した。

 

「補助線はこっち。三角形が二つできるでしょ」

 

「見えねえな」

 

「見えるまで書いて。十回書けば覚えるから」

 

この女は教えるのが上手い。感情を一切入れないからだ。何度間違えても顔色一つ変えずに、同じことを同じ声で言う。

 

教室では口も利かない。廊下ですれ違っても、向こうは誰にでも向ける顔でこっちを見るだけだ。

 

指紋の一件も、退学の話も、まだ何一つ消えちゃいない。この机の上だけ、手を出さないと決めてある。それだけの話だ。

 

中間テストは体育祭の後にある。赤点を一つ取れば、それで終わる学校だ。俺がここに座っている理由は、その線を踏まないためだけのものだった。

 

一時間ほどして、櫛田が鉛筆を置いた。

 

「ねえ」

 

「なんだ」

 

「堀北さん、最近どうかしたの」

 

手を止めて、顔を上げた。

 

櫛田は問題集を見たままだった。

 

「教室でちょっと変だから。誰かが話しかけても、返事が遅いのよ」

 

「気づいてんのか」

 

「気づくわよ。私はみんなのこと見てるからね」

 

そう言って、いつもの顔でこっちを見た。教室で作る方の顔だった。この部屋でその顔を出す時は、たいてい何かを探っている時だ。

 

「知らねえな」

 

「聞いてないの」

 

「聞いてねえ」

 

「訊けばいいのに」

 

鉛筆を転がして、問題集の角を揃えた。

 

「気にならないの?」

 

「気にはなるさ」

 

「じゃあ」

 

 

 

「だから、放っとくんだ」と、俺は続けた。

 

 

 

櫛田の指が、止まった。

 

「突っついたら、逃げるかもしれねえだろ」

 

しばらく、返事がなかった。

 

櫛田は俺の顔を見て、それから問題集に目を戻した。

 

「……意味が分かんないんだけど」

 

「そうか」

 

「次、二十三ページ」

 

それきり、その話は終わった。

 

帰り際、玄関で靴を履いている俺の背中に、櫛田が言った。

 

「別に、心配で訊いたわけじゃないから」

 

「フフ、だろうな」

 

「……感じ悪いんだけど」

 

ドアが閉まった。

 

 

 

 

 

部屋に戻って、窓を開けた。

 

煙草の箱を出して、一本抜いて、火はつけずに指の間で回した。

 

坂柳が、堀北に何かを持たせている。

 

綾小路が、俺を見たいと言っている。

 

その二つが繋がっているのかどうかは、まだ分からない。

 

分からなくていい。

 

煙草を箱に戻した。

 

体育祭まで、あと一週間ほどだ。

 

向こうが組んだ形なら、向こうが動かすしかねえ。動けば、必ずこっちに届く。

 

届いた時に、受ければいい。

決着をつけてほしいのはどれ?

  • 坂柳との再戦
  • 龍園との貸借
  • 綾小路との関係
  • 堀北との距離感
  • 櫛田との停戦
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