九月も終わりが近づくと、日差しの色が変わる。それでも砂の上に三十分立っていれば、汗は出た。
「赤組、綱引き。一回戦の並びで入れ」
放送係の声が、校庭の端から飛んできた。
AクラスとDクラスが、同じ縄の両側に分かれて並ぶ。本番で引く相手はBとCだが、練習では味方同士で引き合うしかない。
俺は列の一番後ろだ。縄の端を腰に回して、踏ん張っているだけの役だ。
坂柳が決めた配置だった。
半月ほど前、大教室で紙を配られた時に決まっている。文句が出なかったわけじゃない。平田が人数の偏りを訊いたし、俺も須藤の位置に口を出した。全部、数字で返された。
文句が出なかったんじゃない。通らなかっただけだ。
「せーの」
平田の声で、縄が張る。
土の匂いが上がった。前の連中の背中が一斉に沈む。手のひらの皮が焼けるように熱くなって、それから何も感じなくなった。
縄というのは、引いている間じゅう同じ重さではない。どこかで誰かの足が滑れば、その分が一瞬で腰に来る。来た分だけ、こっちが残せばいい。残せなければ前に持っていかれる。
前の方で誰かが声を上げて、重さが半分抜けた。かと思うと、次の瞬間に倍になって戻ってきた。
先頭は須藤だった。
紙が配られた時、俺はあの位置に口を出している。力のある奴を先頭に置けば、序盤で一気に持っていけます——坂柳はそう答えた。
実際、出だしは持っていった。五秒か六秒、向こうの列が総崩れになりかけた。
そこから戻された。
先頭が出しきった後の重さは、全部こっちに来る。今まさに腰に来ているのがそれだった。
坂柳の言ったことは、嘘じゃない。嘘じゃないが、全部でもない。
こういうのは嫌いじゃない。何も考えなくていい。
三十秒ほどで笛が鳴った。
「はい、交代。次、Aの二班」
縄を放して、腰を伸ばした。
Aクラスの列が入れ替わる。その中に葛城がいた。手にした紙を見ながら、自分の班の人間に何か言っている。
すれ違いざま、向こうが先に口を開いた。
「アンカーは重い役だ」
「そうかい」
「前が崩れれば、最後に全部来る。踏ん張れなければ、そこで終わる」
「知ってる」
葛城は頷いて、それから一言足した。
「言っておいた」
それだけ言って、行ってしまった。
言っておいた、という言葉に、この男の全部が入っていた。後で誰かに問われた時に、自分は言ったと答えられる。そのために言いに来ている。
「赤木、水」
須藤がペットボトルを放ってきた。片手で受けた。
「おう、悪いな」
「いや。お前さ、綱引きの時、全然顔変わんねえのな」
「そうかい」
「怖えよ。普通もっと歯食いしばるだろ」
蓋を回しながら、須藤の顔を見た。日に焼けて、首から上だけが赤い。
「勝ってどうなる」
「いや、そりゃ……勝ちゃクラスポイントだろ」
「組で勝っても、クラスの並びは別に出る。四つのうちのどこに落ちるかは、まだ誰も数えちゃいねえ」
須藤が水を飲む手を止めた。
「……それ、どういう意味だよ」
「言葉の通りだ」
須藤はしばらく考える顔をして、それからやめた。この男はこういう時、深追いをしない。
校庭の反対側では、白組が同じことをやっていた。BとCの合同だ。
列の前の方で、一之瀬が両手を叩いて何か言っている。声は届かないが、周りの顔つきが変わるのは見えた。あの女は、ああいうことが上手い。
その列の端に、見覚えのある顔があった。伊吹だ。
こっちを見ていた。目が合うと、縄を放してこっちへ歩いてきた。
「ちょっと」
「なんだ」
「あんたんとこ、何かあったの」
「なんの話だ」
「堀北よ。さっきから一回もこっち向かないじゃない。あの女、いつもなら他所の組の並びくらい見てるでしょ」
そう言って、伊吹は顎で日陰の方をさした。
坂柳が座っている方角だった。
「見てねえのは、そっちだけだ」
「……は?」
「こっちの列は見てる。あんたのことも見てた。見てねえのは、そっちの方角だけだ」
伊吹の眉が寄った。
「何それ。気持ち悪い」
「だろうな」
伊吹が踵を返しかけたので、一つだけ訊いた。
「龍園はどうした」
足が止まった。
「……来てないけど」
「一度もか」
「知らないわよ。私が見てる時はいない」
そう言って、今度こそ自分の列へ戻っていった。
本番は全員出る。種目を選ぶ余地は無い。
だが、練習に出ろと言う人間は誰もいない。
あの女は分かりやすい。知りたいことがあると、隠さずに訊きに来る。
列を外れたところで、後ろから声をかけられた。
「あ、赤木くん」
佐倉だった。両手にタオルを何枚か抱えている。
「これ、余ってるので……使ってください」
「悪いな」
一枚受け取った。汗を拭いてから返そうとしたら、もらってくださいと言って首を振った。
「あの、私……走るの、遅いので。こういうことくらいしか」
「出るのは全員だ。遅くても、いるのといねえのとじゃ違う」
佐倉は少し黙って、それから小さく頷いた。
「……はい」
タオルを抱え直して、女子の方へ戻っていった。
笛が二度鳴って、女子の綱引きに切り替わった。
綱引きは男女別だ。男子が引いている間、女子は列の脇で待たされる。その逆も同じで、こっちは縄を放して見ているしかない。
堀北は前から四番目にいた。
引き始めると、この女は悪くなかった。腰を落とすのが早いし、隣と歩調を合わせるのも早い。運動ができるとは聞いていないが、言われた通りのことを言われた通りにやる人間は、それだけで頭数の一つ分より働く。
一本目を取った。
列が崩れて、女子が息を切らしながら散っていく。堀北は肩で息をしながら、髪を耳にかけて、それから顔を上げた。
上げた先に、日陰があった。
顔がそのまま、横を向いた。
見た、と言うには短すぎる。見なかった、と言うには一度こっちを向きすぎている。
そういう向き方だった。
日陰の方で、杖が動いた。
坂柳が立ち上がって、こっちへ歩いてくる。
「赤木くん」
「なんだ」
「その位置、お気に召しましたか」
「縄を持つだけの役だ。好きも嫌いもねえ」
「ふふっ」
坂柳は、紙を胸の前で揃えた。
「アンカーというのは、前が見えない位置なのですよ。誰がどう引いているのか、どこで崩れかけているのか、一番後ろからでは何も見えません。見えるのは、腰に来る重さだけです」
「だろうな」
「この間の答えを、まだいただいていませんでした」
「何の話だ」
「綾小路くんです。何かに本気になったことがあるか、と伺いました」
「知らねえと答えたはずだ」
「ええ。ですから、その後で何か思い出されたかと」
「思い出すも何も、ねえもんはねえ」
「そうですか」
坂柳は、少しだけ首を傾けた。
「……堀北さんは、お変わりありませんか」
紙を揃える手は止まっていなかった。ついでに思い出した、という間の置き方だった。
「さあな」
「最近、お疲れのご様子でしたので」
「見てんのか」
「同じ組ですから。目には入ります」
四十人からの人間が動いている中で、目に入った一人が堀北だった、という話をしている。
「そうかい」
「ええ」
こっちの顔を見ていた。答えの中身ではなく、答える時の顔の方を見ている目つきだった。
「一つ訊いていいか」
「どうぞ」
「あんた、さっきから俺を見てるな」
坂柳の指が、紙の上で止まった。
「縄を見てるんじゃねえ。俺を見てる」
しばらく、返事がなかった。
やがて、坂柳は紙を下ろした。
「ふふっ。……失礼いたしました」
「構わねえよ。見るのは勝手だ」
坂柳はもう何も言わずに、杖を突いて列の方へ戻っていった。
雑談のつもりなら、ずいぶん長い雑談だった。
練習の後、廊下で堀北と会った。
向こうから歩いてきて、俺の前で足を止めた。
「赤木くん」
「ああ」
それから、二秒ほど何も言わなかった。
「……平田くんから、確認が回ってくると思うけれど」
「そうか」
「見ておいて」
「分かった」
それだけ言って、行ってしまった。
平田からの確認なら、平田が言えば済む話だった。
わざわざ止まって、わざわざ名前を呼んで、それを言った。
教室へ戻ると、平田が名簿を抱えて待っていた。
「赤木くん。ちょっといい?」
「なんだ」
「堀北さんのことなんだけど」
紙束を抱えたまま、少し言いよどんだ。
「昨日、同じことを二回訊かれたんだ。彼女、そういう間違いをする人じゃないから」
「そうかい」
「僕が訊いても、疲れてるだけって返ってくると思う。実際そう言われたし」
「だろうな」
「赤木くんは、何か聞いてない?」
「聞いてねえな」
「そっか」
平田はそれ以上訊かなかった。
訊けないんじゃない。訊いて相手が困る顔をするのが、この男には耐えられないだけだ。
「何かあったら言ってね。僕にできることなら」
そう言って、紙束を抱え直して出ていった。
寮へ戻る道で、堀北に追いついた。
前を歩いていたのが、足音で分かったらしい。振り向いて、そこで止まった。
一度、口が開いた。
開いて、閉じた。
「……何でもないわ」
「そうかい」
俺は何も訊かなかった。
訊けば、この女は答える。答えて、それで何かが終わる。終わったものは、もう卓に戻ってこない。
先週の夜、特別棟へ向かう綾小路を見ている。
どこへ行くと訊いて、用事だと返された。それ以上は訊かなかった。あの男は嘘をつかない代わりに、答えない。黙るという形で返してくるだけだ。
その後で、向こうから言ってきた。
体育祭がこのまま何も起きずに終わると思っているのか、と。
お前はオレの秤では量れない、とも言った。
オレは、お前が何者なのか見極めたい。
はっきりそう言って、暗がりへ歩いていった。
勝手にしろ、と返してある。
そこまでは、俺とあの男の間の話だ。
口を利かなくなったのは堀北だ。
兄貴絡みか、とは考えた。あの女が兄の名前で動かなくなるのは、今に始まったことじゃない。
だが、それなら日陰の方を見ない理由が無い。
あの女が見なかったのは、縄でも、白組でも、俺でもない。坂柳だけだ。
その坂柳が、ついでのような顔で堀北の名前を出した。
中身までは知らねぇが、つまり、そういうことだった。
その夜も、櫛田の部屋にいた。
机の上に数学の問題集が開いてある。図形だった。同じ形が出たら同じ手順を書く。それだけの作業だ。
「そこ、違う」
櫛田が鉛筆の先で、俺の書いた線を指した。
「補助線はこっち。三角形が二つできるでしょ」
「見えねえな」
「見えるまで書いて。十回書けば覚えるから」
この女は教えるのが上手い。感情を一切入れないからだ。何度間違えても顔色一つ変えずに、同じことを同じ声で言う。
教室では口も利かない。廊下ですれ違っても、向こうは誰にでも向ける顔でこっちを見るだけだ。
指紋の一件も、退学の話も、まだ何一つ消えちゃいない。この机の上だけ、手を出さないと決めてある。それだけの話だ。
中間テストは体育祭の後にある。赤点を一つ取れば、それで終わる学校だ。俺がここに座っている理由は、その線を踏まないためだけのものだった。
一時間ほどして、櫛田が鉛筆を置いた。
「ねえ」
「なんだ」
「堀北さん、最近どうかしたの」
手を止めて、顔を上げた。
櫛田は問題集を見たままだった。
「教室でちょっと変だから。誰かが話しかけても、返事が遅いのよ」
「気づいてんのか」
「気づくわよ。私はみんなのこと見てるからね」
そう言って、いつもの顔でこっちを見た。教室で作る方の顔だった。この部屋でその顔を出す時は、たいてい何かを探っている時だ。
「知らねえな」
「聞いてないの」
「聞いてねえ」
「訊けばいいのに」
鉛筆を転がして、問題集の角を揃えた。
「気にならないの?」
「気にはなるさ」
「じゃあ」
「だから、放っとくんだ」と、俺は続けた。
櫛田の指が、止まった。
「突っついたら、逃げるかもしれねえだろ」
しばらく、返事がなかった。
櫛田は俺の顔を見て、それから問題集に目を戻した。
「……意味が分かんないんだけど」
「そうか」
「次、二十三ページ」
それきり、その話は終わった。
帰り際、玄関で靴を履いている俺の背中に、櫛田が言った。
「別に、心配で訊いたわけじゃないから」
「フフ、だろうな」
「……感じ悪いんだけど」
ドアが閉まった。
部屋に戻って、窓を開けた。
煙草の箱を出して、一本抜いて、火はつけずに指の間で回した。
坂柳が、堀北に何かを持たせている。
綾小路が、俺を見たいと言っている。
その二つが繋がっているのかどうかは、まだ分からない。
分からなくていい。
煙草を箱に戻した。
体育祭まで、あと一週間ほどだ。
向こうが組んだ形なら、向こうが動かすしかねえ。動けば、必ずこっちに届く。
届いた時に、受ければいい。
決着をつけてほしいのはどれ?
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坂柳との再戦
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龍園との貸借
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綾小路との関係
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堀北との距離感
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櫛田との停戦