その夜、俺は寝つけなかった。
積み込みがあるとして、誰が仕込んだのか。
教師か。学校か。もっと上の誰かか。
だが、俺が本当に引っかかっていたのは、そこじゃなかった。
賭場には、必ず二種類の人間がいる。
場を回す人間と、場を守る人間だ。
どれだけ上等な仕掛けを作ろうが、負けた客が暴れれば終わりだ。だから賭場には必ず、腕っぷしで話を終わらせる連中がいる。竜崎のような男が、必ずどこかに座っている。
金と、追い詰められた人間。この二つが揃った場所に、力が要らなかった例しがない。
この学校には、それがあるのか。
……見ていない。
教師は数えるだけで、手を出さない。生徒はまだ、誰かを殴るところまで行っていない。
だが、それは「まだ」の話だ。
退学がかかった連中が、これから三週間、追い詰められていく。
その先で、誰も手を出さないと考える方がどうかしている。
俺は身を起こし、自分の掌を眺めた。
喧嘩で負けた覚えは、ほとんどない。
同じ年頃の連中が相手なら、大抵は先に手を出させて、一発で終わらせてきた。殴り合いというのは、腕っぷしより先に、どこまで踏み込めるかで決まる。相手が「ここまでやったらまずい」と思う線を、こちらが先に越えてしまえばいい。
その線を越えるのに、体格は要らない。
――だが。
この一ヶ月、鏡を見るたびに引っかかっていたことがある。
教室の連中は、俺より頭一つ大きい。須藤のような男に至っては、二回りは違う。
当たり前だ。あいつらは十五で、俺は――
……そういうことになっている、というだけの話だが。
どういう手違いで、俺がこの体のままここに放り込まれているのかは知らない。だが事実として、俺の体は、この学校の誰よりも二つ分ばかり後ろにいる。
度胸で埋まる差と、埋まらない差がある。
相手が一人なら、いい。踏み込みで片がつく。
だが、あの体格の男に上から押さえ込まれて、二人三人で囲まれたら――そこから先は、度胸の話じゃなくなる。純粋に、重さの話になる。
頭は、貸し借りができる。人に読ませることも、人の頭を借りることもできる。
だが体だけは、誰からも借りられない。
卓に着く時、最後に自分の手元に残っている元手は、これ一つだ。
……絞るか。
翌朝、まだ暗いうちに寮を出た。
舗装された道を走る。
息は、そう簡単には上がらなかった。
当然だ。追われて逃げた回数なら、この学校の誰よりも多い。走るというのは、俺にとって遊びじゃなかった。
30分ほど走って、寮に戻った。
部屋に戻って、腕が上がらなくなるまで体を苛めた。
息を整えながら、床に転がったまま自分の腕を見る。
力が足りないわけじゃない。動かない体じゃない。
だが、腕は細いままだ。
当たり前だった。一日や二日で、肉がつくものか。
問題は、そこだった。
この体は、鍛えれば強くなる。だが、大きくなるのには時間がかかる。年が足りない分は、根性では埋まらない。
三週間や一ヶ月で、須藤のような体になれるはずがない。
――なら、別の埋め方を探すしかない。
三日目の朝、体育館の前で声をかけられた。
「お前……何やってんだ、こんな時間に」
須藤だった。
朝練だろう、上下とも運動着姿で、首にタオルをかけている。
「走ってる」
「見りゃわかるわ。……いや、そうじゃなくて。なんで走ってんだ」
「体が小せえんでな」
須藤は、俺を上から下まで眺めた。
「まあ……確かにちっこいけど。つーかお前、けっこう走れてんじゃん。息、全然乱れてねえし」
「走るのは慣れてる」
「なんでだよ」
「追われることが多かった」
「なんだそりゃ」
須藤は笑ってから、途中で真顔になった。
「……冗談だよな?」
俺は答えなかった。
須藤は少し引き気味になって、それから話を変えた。
「まあいいや。……でもよ、走り方は無駄が多いぜ。腕振りすぎだし、上下に跳ねすぎ。あれじゃ距離が伸びねえ」
なるほど。
この男は、こういう場所では俺よりずっと目がいい。
「教えてくれ」
「え? あ、おう……素直だな、お前」
須藤は、少し嬉しそうな顔をした。
「あとさ。お前、体つくりてえならメシだぞ、メシ。走ってばっかじゃ細くなる一方だ」
……なるほど。
考えてもみなかった。
この男は、単純だが、自分の領分では正しいことしか言わない。
それから毎朝、俺は須藤と走った。
あの男は、教室では机に伏せて寝ている。だが、走ることに関しては別人だった。
息の使い方、足の置き方、どこで力を抜くか。
言葉での説明は下手だが、やって見せるものは的確だった。真似をすると、確かに楽になる。
「お前、覚えんの早えな」
「見て覚えるのは、慣れてる」
牌の扱いも、人の癖も、全部それで覚えた。教わったことなど一度もない。
「なあ赤木。お前、部活とか入んねえの? バスケとかどうよ」
「やらねえ」
「即答かよ」
「点を取り合う遊びに、興味がねえ」
「それバスケの悪口じゃねえか!」
須藤が笑った。
こいつは、単純だ。だが単純な人間は、嘘をつかない分だけ読みやすい。
……そして、使いやすい。
俺は、走りながら訊いた。
「一つ訊いていいか」
「おう」
「この学校で、腕っぷしで話をつける奴ってのは、いるのか」
須藤の足が、わずかに乱れた。
「……なんだよ急に」
「そういう奴が一人もいねえ学校ってのを、俺は見たことがねえ」
須藤は、少し黙って走っていた。
「……Cクラスに、ヤバいのがいるって話は聞いた」
「ほう」
「名前は忘れた。けど、なんか……取り巻き連れてて、逆らったやつが痛い目見てるとか、そういう噂。俺も又聞きだけどよ」
「そうかい」
「けど噂だぜ? あんま真に受けんなよ」
俺は頷いた。
噂で十分だ。
こういう噂は、火のないところには立たない。誰かが誰かを痛めつけて、それが伝わったから噂になる。
この学校にも、ちゃんと座っていた。
場を守る側の人間が。
走り込みの帰り、校舎の裏手を通ったとき、俺は足を止めた。
匂いがした。
煙草だ。
この学校に来てから、一度も嗅いでいなかった匂いだった。目を覚ましたあの朝、真っ先に気づいたのが、この匂いが無いことだった。
匂いを辿って角を曲がると、男が三人いた。
制服のネクタイの色が、うちのクラスの連中と違う。上級生らしい。一人が壁にもたれて、指の間に火を挟んでいた。
「……あ?」
目が合った。
「なんだお前。一年か」
「見るな見るな。おい、あっち行けよ」
俺は、動かなかった。
火の先を見ていた。
「……隠さねえんだな」
俺がそう言うと、男は鼻で笑った。
「隠す意味ねえだろ。どうせ全部見られてんだよ、この学校」
「見られてて、平気なのか」
「平気じゃねえよ。点は引かれる」
男は煙を吐いた。
「けどよ、それだけだ。取り上げられもしねえし、呼び出しもねえ。ただ引かれるだけ。……うちのクラスは、それくらい払える」
……ほう。
俺は、その言葉を頭の隅に置いた。
禁じられているわけじゃない。
値段がついているだけだ。
なるほど。この学校が、こういう場所だというなら――話は早い。
「一本くれ」
三人が、間の抜けた顔をした。
「は?」
「一本でいい」
「あのな、一年坊。うちらはまだ払えるからやってんの。お前んとこ、確か0だろ? 引かれる点すら残ってねえんじゃねえの」
男たちが笑った。
悪くない指摘だ。
0からは、引けない。
この学校が罰を「引き算」でしか与えられないなら、既に0の人間には、罰を与える手段がないということになる。
「そうだな。……だから、俺は減らねえ」
男の笑いが、少し止まった。
「まあいい。……ただでとは言わねえ」
俺は続けた。
「賭けよう」
三人の顔つきが、少し変わった。
「賭けるって、お前、何を出すんだよ」
もっともな問いだった。
もっとも、俺には出せるものがない。
金がない、という意味じゃない。
入学の日に配られた分は、そっくりそのまま残っているはずだ。何一つ買っていないんだから、減りようがない。
だが、あの光る板が使えない。
この学校の金は、全部あの板の中にある。板を操れない人間は、いくら持っていようが一銭も動かせない。金庫の鍵を失くしたようなものだ。
持っているのに、出せない。
……それは、持っていないのと同じことだ。少なくとも、この卓の上では。
「体を出す」
「……は?」
「俺が負けたら、一ヶ月、あんたらの言うことを何でも聞く。荷物持ちでも、使い走りでも、好きに使えばいい」
男たちは顔を見合わせた。
「一年坊を一ヶ月……まあ、悪くねえけどよ」
「で、お前が勝ったら?」
「その箱ごともらう」
男が、鼻で笑った。
「釣り合わねえだろ。こっちの分が良すぎる」
「そう思うなら、乗ればいい」
……これで、まず断れない。
賭けというのは、条件が良すぎると思った瞬間に、人は乗る。悪い条件は疑われるが、良すぎる条件は疑われない。
得をすると思っている人間ほど、卓に着くのが早い。
「……いいぜ。何やる」
「簡単なのがいい」
俺は、足元の砂利を一つ拾った。
「これを、あんたが右手か左手に握る。俺が当てる。3回やって、2回当てたら俺の勝ちだ」
「はぁ?」
男が笑い出した。
「当てずっぽうじゃねえか。半々を3回だろ。そんなもん――」
「そうだな」
俺は頷いた。
「運がなけりゃ、負ける」
男は、まだ笑っていた。
俺は笑わなかった。
この賭けは、運の勝負じゃない。
人間は、砂利を握るとき、必ず利き手を使いたがる。そして「利き手だと読まれる」と気づいた瞬間、逆の手に変える。その切り替えの一瞬に、必ず目が動く。
3回もあれば、癖は割れる。
一回目、俺は外した。
二回目と三回目を、当てた。
男は、掌を開いたまま固まっていた。
「……嘘だろ」
「もらっていくぞ」
俺は箱を受け取った。半分ほど残っている。
寮の窓を開けて、一本くわえた。
火をつけて、吸い込む。
……ひどい味だ。
俺の知っている煙草とは、まるで別物だった。軽すぎる。何を吸っているのかわからない。
それでも、煙が肺に入った瞬間、少しだけ落ち着いた。
匂いがある。
この一ヶ月、俺の周りには何の匂いもなかった。清潔な部屋。清潔な廊下。風の匂いすらしない街。
全部が新しくて、全部が薄い。
この学校が薄気味悪いのは、退学だの点数だののせいじゃない。
人間の脂が、どこにも染み付いていないからだ。
俺は窓の外に煙を吐いた。
箱の残りを数える。9本。
毎日吸えば、10日で終わる。
……吸わねえ方がいいな。
俺は火を消して、箱を机の引き出しにしまった。
これは嗜好品じゃない。
落ち着かなきゃならん時が、必ず来る。その時のために取っておく分だ。
元手というのは、そういうふうに使う。
――それにしても。
俺は、机の引き出しを閉めながら考えていた。
あの上級生の言い草が、まだ引っかかっている。
取り上げられもしない。呼び出しもない。ただ点が引かれるだけ。
つまり、この学校には「してはいけないこと」が存在しないということだ。
あるのは、値札だけだ。
殴れば、いくら。盗めば、いくら。煙草なら、いくら。それぞれに金額が貼ってあって、払える人間は買っていい。
……そういう場所を、俺は知っている。
賭場だ。
賭場には禁止がない。あるのは掛け金だけだ。命を賭けたければ賭ければいい。誰も止めない。ただ、負けた分は必ず取り立てられる。
この学校は、それを校舎の形にしただけのものだ。
だとすれば――
金さえ積めば、この学校では何でも手に入る。
煙草が手に入るなら、その先も、同じ理屈で手に入るということになる。
だが、俺にはその金が動かせない。
板が使えない限り、俺の持ち分は、あってないのと同じだ。
……いや。
板が使えるようになるか、板を使える人間を抱き込むか。どちらかが要るというだけの話だ。
急ぐことじゃない。
今日、砂利一つで箱が一つ手に入った。金が動かせなくても、賭けなら打てる。
当分は、それで足りる。
その日の放課後、堀北に呼び止められた。
「探してみたわ。過去問」
「ほう」
「上級生に伝手のある人を当たってみるつもり。……あなたの言う通り、教科書を頭から読むよりは分がいい」
「そうかい」
「礼を言うつもりはないわよ。私が自分で判断したことだから」
「言われる筋合いもねえ」
堀北は、少し満足そうな顔をした。
それから、俺の顔をじっと見た。
「……あなた、少し日に焼けた?」
「走ってる」
「走って点数が上がるのなら、誰も苦労しないわね」
「上がらねえよ」
俺は正直に答えた。
「だが、点数の話が全部終わった後にも、まだ続きがある。……その時に走れねえと、困る」
堀北は、意味がわからないという顔をした。
「試験の後に、何かあるとでも?」
「さあな」
俺は鞄を持って立ち上がった。
「ただ、金の取り合いってのは、いつまでも紙の上じゃ済まねえ」
賭場で、負けた人間が最後に何をするか。
俺は知っている。
寮に戻り、また体を苛めた。
鏡の中の体は、昨日と変わらない。三週間続けたところで、須藤のような体になどならないだろう。
当たり前だ。時間で買うしかないものを、根性で買おうとしても釣りは来ない。
……それでいい。
俺は、誰かを殴り倒すために絞ってるわけじゃない。
賭場で本当に恐ろしいのは、殴られることじゃない。
殴られるのが怖くて、打つ手を変えてしまうことだ。
張れるはずの牌を、握り潰す。通るとわかっている牌を、止めてしまう。
あの夜、南郷が震えていたのも、それだった。
押さえ込まれて、息が詰まって、それでもまだ考えていられるか。
必要なのは、その分だけだ。
殴られても、判断が曇らない程度の元手を。
俺は床に転がったまま、白い天井を見上げた。
三週間後に紙が来て、その先にはもっと面倒なものが来る。
どちらも、まだ手は足りていない。
だが、足りていないと正確にわかっている分だけ、昨日より悪くはない。