【完結】アカギ〜実力至上主義の教室に舞い降りた天才〜   作:GC

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第63話「裏目」

私には、顔が二つある。

 

正確には、二つだと思っていた。

 

教室で笑っている方と、誰も見ていない時の方。使い分けているつもりだった。

 

使い分けは、上手くいっている。

 

この学校に入ってから半年、ほとんどの人には気づかれていない。気づいた人は三人いて、誰も気づいた上で何もしなかった。

 

最近、三つ目の顔ができた。

 

 

 

「櫛田さん、これ分かる?」

 

「どれ? あー、これね。ここ、公式が二つ要るやつ」

 

「えー、二つも?」

 

「大丈夫大丈夫、私も最初間違えたから」

 

嘘。

 

最初から間違えていない。

 

でも、こう言うと相手は安心する。安心した相手は、次も私のところに来る。来た数だけ、私は知られていない人間から、知られている人間になる。

 

情報は、集めるものじゃなくて、集まってくるようにするもの。

 

中学の時に覚えた。

 

覚えた結果どうなったかも、覚えている。

 

 

 

体育祭まで二日になった。

 

教室は、朝から落ち着かない。平田くんが黒板に当日の流れを書いて、須藤くんが「もう覚えたっつーの」と言って、みんなが笑う。

 

私も笑う。

 

笑いながら、教室の隅を見る。

 

堀北さんが座っている。

 

ここ何日か、あの人はほとんど喋らない。話しかけられれば返すけれど、それだけ。

 

前は違った。前は、必要なことは必ず言う人だった。言いすぎるくらい言う人だった。

 

言わなくなった人間は、言えないものを持っている。

 

何を持っているかは、まだ分からない。

 

分からないけれど、それを見ている間、私は自分の中の一番冷たいところが静かに温まるのを感じる。

 

 

 

昼休みに、三組の子から訊かれた。

 

「ねえ櫛田さん。堀北さんって、生徒会長の妹なんでしょ」

 

「うん、そうみたいだよ」

 

「じゃあさ、体育祭の組み合わせとか、ちょっとくらい良くしてもらえるのかな」

 

「どうだろうね。でも、あの会長さんだし」

 

笑ってごまかしながら、私は一つだけ拾った。

 

その子は「妹なんでしょ」と言った。「妹らしいよ」でも「妹なんだって」でもなく、私が知っているかどうかを確かめる形で訊いた。

 

自分が先に知っている人の訊き方だった。

 

 

 

同じ日に、私は四人に同じことを訊かれた。

 

四人とも、最後に「クラスに何かしてもらえるのか」まで付けた。

 

言葉の並びが同じだった。

 

私は、二人に訊き返した。

 

「それ、誰から聞いたの」

 

一人は「誰だっけ、部活の先輩かも」と言った。

 

もう一人は「うーん、なんか気がついたら知ってた」と言った。

 

私は、この学校の噂がどう流れるかを知っている。

 

噂には必ず最初の一人がいて、その一人は自分が最初だと思っていない。誰かにそう思わされている。

 

四人が四人とも同じ形で喋るなら、撒いたのは一人。

 

しかも、撒いた本人の名前が誰の口からも出ない。

 

私は、自分がやる時にそこまでできない。

 

私のやり方は、誰かに「櫛田さんが言ってた」と思われない程度に薄く広げること。名前が残らないようにするだけで精一杯になる。

 

名前が最初から存在しない撒き方は、別の技術だ。

 

誰かいる。

 

私より上手い人が、この学年のどこかにいる。

 

 

 

放課後、平田くんが私のところに来た。

 

「櫛田さん、ちょっといい?」

 

「うん、なあに」

 

「堀北さんのことなんだけど」

 

今日、この名前を何回聞いただろう。

 

「最近、少し元気がないように見えるんだ。僕が訊いても、何も言ってくれなくて」

 

「そっか。心配だよね」

 

「櫛田さんなら、話してくれるかもしれないと思って」

 

私は、困った顔を作った。作るのに一秒もかからない。

 

「うーん。私も、堀北さんとはそこまで仲良くないから」

 

嘘。

 

仲良くないのは本当だけど、話しかけられないわけじゃない。あの人は私を嫌っていない。嫌う対象として認識していない。

 

「でも、気にかけてみるね」

 

「ありがとう。無理はしないで」

 

平田くんは、それだけ言って行ってしまった。

 

 

 

この人は、本当にあれで全部だ。

 

心配だから訊く。訊いて答えが返らなければ、下がる。裏も、次の手も無い。

 

見ていると、時々、殴りたくなる。

 

殴りたくなるのは、羨ましいからだ。それくらいは自分で分かっている。

 

平田くんは、裏の顔を持たなくても、あの位置に立っていられる。

 

私は、裏を持たないとあの位置に立てない。

 

同じ場所に立っているのに、払っているものが違う。

 

それを不公平だと思ったことは、一度もない。

 

不公平だと思った瞬間に、私は自分の払ったものを損だと認めることになる。

 

 

 

赤木くんとの勉強会は、今週いっぱい止めている。

 

止めたのは私。

 

理由は「行事の週だから」と言った。

 

嘘。

 

テストは体育祭の後にある。今週止めれば、来週その分を詰めることになる。私にとって何の得もない。

 

得がないことをしたのは、久しぶりだった。

 

 

 

先週の水曜日のことだった。

 

いつもの時間に、いつも通りチャイムが鳴って、扉を開けたら赤木くんが立っていた。

 

「どうぞ」

 

それだけ。

 

それだけの三秒の間に、私は自分が笑っているのに気づいた。

 

教室で使う方の笑い方じゃなかった。

 

その日の夜、私は自分の部屋の鏡の前に立って、その顔をもう一度作ってみようとした。

 

作れなかった。

 

作れないということは、作った顔じゃないということだ。

 

だから止めた。

 

私は、作っていない顔を持っていてはいけない。

 

それを持った瞬間に、私は嘘をつけなくなる。嘘をつけない私には、価値が無い。

 

 

 

それが、先週の話。

 

 

 

今日の放課後、ケヤキモールに行った。

 

女子三人で行く約束をしていたのが、二人とも家庭科の課題が終わらないと言って、結局私だけになった。

 

こういう時、私は別に困らない。

 

一人でいる姿を誰かに見られたら、その時は「用事があって」と言えばいい。一人でいることを恥ずかしがる子の方が、この学校には多い。

 

小物を並べている店の前を通った時に、見つけた。

 

堀北さんだった。

 

 

 

見つけた瞬間、声をかけようとは思わなかった。

 

私は柱の陰に寄って、少しだけ見ていた。

 

あの人は、男物の並んでいる棚の前にいた。

 

ハンカチ。キーケース。ペンケース。時計。

 

一つ手に取って、置いて、次を取る。ずっとそれを繰り返している。

 

十分近く見ていたけれど、一度もレジに行かなかった。

 

自分のものを買う人は、あんな探し方をしない。

 

自分のものなら、好きなものを取ればいい。迷うのは値段だけ。

 

人のものを買う人は、迷う場所が違う。

 

値段じゃなくて、「これを渡した時にどう見えるか」で迷う。だから何度も置く。置いて、また同じものを取る。

 

私はこの半年で、この学校の女子が誰にどんなものを買っているかを、たぶん誰よりも見ている。

 

堀北さんが持ち上げているのは、全部、男の人が使うものだった。

 

しかも、地味なもの。柄も、色も、名前も入らないもの。

 

渡す相手に、目立つものを持たせたくない人の選び方。

 

私が知っている範囲で、あの人が何かを渡すような相手は一人しかいない。

 

心臓が、ひとつ跳ねた。

 

跳ねた理由を、私は自分で確かめなかった。

 

 

 

「堀北さん」

 

声をかけた。

 

いつもの声で。

 

堀北さんは振り返って、少しだけ驚いた顔をした。手に持っていたものを、そのまま棚に戻した。

 

「櫛田さん」

 

「買い物? 珍しいね、こういうところで会うの」

 

「ええ」

 

「何か探してるの?」

 

「……特には」

 

嘘が下手な人だ。

 

前からそう思っていた。この人は嘘をつかないんじゃなくて、つけないだけ。

 

「ふうん」

 

私は棚をちらっと見た。見たことを、堀北さんに分かるように見た。

 

「男物だね、これ」

 

堀北さんは、何も言わなかった。

 

こういう時、たいていの子は慌てる。慌てて説明する。説明が始まったら、もう私の勝ちになる。

 

堀北さんは、慌てなかった。

 

「そうね」

 

それだけだった。

 

面白くない。

 

私は、少し声を落とした。落とす時の落とし方も、決まっている。内緒話を始める時の距離。

 

「あのさ、堀北さん。関係ない話していい?」

 

「ええ」

 

「赤木くんのことなんだけど」

 

名前を出した瞬間、堀北さんの目が動くのを、私は待っていた。

 

動いた。

 

動いたけれど、方向が違った。

 

私の顔じゃなくて、窓の外を、遠くの方を見た。一秒もない。それから戻ってきた。

 

私の話を、途中から聞いていなかった。そういう動き方だった。

 

「赤木くん、夏休みの終わりからずっと、私の部屋に来てたんだよ」

 

「そうだったの」

 

「毎日。同じ時間に」

 

「……何が言いたいのかしら」

 

「……知ってた?」

 

「いいえ」

 

堀北さんは、私を見ていた。

 

まっすぐに、何の色もなく見ていた。

 

「知らなかったわ」

 

「怒らないの?」

 

「なぜ私が怒るの」

 

「えっ、いや」

 

私は笑った。笑いながら、自分の声が少し高くなったのが分かった。

 

「別に、そういうのじゃないけど。ほら、堀北さんって赤木くんと仲いいでしょ。言われてなかったのかなって」

 

「言われていないわ」

 

「だよね」

 

「彼が私にそんなことを言うわけがないでしょう?」

 

そう訊かれた。

 

訊かれて、私は答えを持っていなかった。

 

前なら、ここで何かが取れた。

 

誰でも、名前を出された瞬間に何かをこぼす。表情でも、声の高さでも、間の取り方でもいい。こぼれたものを拾って、次の日にもう一度使う。それだけで人は動く。

 

この人は、こぼさなかった。

 

隠したんじゃない。

 

隠している人の顔は、私には分かる。隠している人は、隠すことに力を使うから、どこかが固くなる。

 

堀北さんは、固くなっていた。

 

固くなっていたけれど、それは私の話のせいじゃない。

 

私の名前でも、赤木くんの名前でもないところで、この人はもう力を使い切っている。

 

――届いていない。

 

そう気づいた時、背中が冷たくなった。

 

この人は今、赤木くんが誰の部屋に通っていようが、どうでもいいと思っている。

 

どうでもいいのは、興味が無いからじゃない。

 

何か他の問題を抱えているからだ。

 

何を抱えているのかは、分からない。

 

分からないものには、私の手が掛からない。

 

「櫛田さん」

 

「なに?」

 

「訊いていいかしら」

 

堀北さんが、初めてこちらに一歩寄った。

 

「あなたは、赤木くんと何をしているの」

 

「……えっと、勉強だけど」

 

「勉強?」

 

「数学とか、英語とか。あの人、ほんとに何も知らないから。中学の内容からやり直してる」

 

「そういうことね」

 

「……なんで?」

 

「いいえ」

 

堀北さんは、それきり何も言わなかった。

 

言わずに、棚の方をもう一度見た。

 

見て、結局何も取らずに歩き出した。

 

 

 

三歩行ってから、振り返らずに言った。

 

「櫛田さん」

 

「うん」

 

少し間があった。

 

「……頼むわね」

 

何を頼まれたのか、分からなかった。

 

分からないまま、私は「うん」と返していた。

 

私の秘密を握っている堀北さんに、なぜバラさないのか、また聞きそびれた。

 

 

 

姿が見えなくなってから、私は棚の前に行った。

 

さっきまであの人が立っていた場所に立って、同じ高さの段を見た。

 

三つ目の列に、一つだけ前に出ているものがあった。

 

戻す時に、きちんと押し込まれていないもの。

 

黒い革のキーケースだった。値札は三千八百。飾りも、模様も、文字も入っていない。

 

私はそれを手に取って、裏を返して、元の場所に戻した。

 

きちんと押し込んで戻した。

 

こんなことをして何になるのか、自分でも分からなかった。

 

 

 

モールを出て、ベンチに座った。

 

夕方の風が、まだ夏の匂いをしていた。

 

私は、思い出していた。

 

四人が同じ形で喋った噂と、堀北さんの様子と、あの人が誰とも話さなくなった時期。

 

線を引こうとして、引けなかった。

 

引けないのは、真ん中に置く名前を、私が持っていないからだ。

 

Aクラスの誰か。三年の誰か。あるいは、私の知らないところで動いている誰か。

 

どれも思いつくけれど、どれも当たっている気がしない。

 

思いつかないのは、久しぶりだった。

 

一年の中で、私は自分がこの学年の地図を一番よく知っていると思っていた。

 

地図の外側に、誰かがいる。

 

その誰かは、堀北鈴音を狙っている。

 

なら、私は何もしなくていい。

 

そう思って、私は立ち上がった。

 

立ち上がってから、少しの間、動けなかった。

 

 

 

「頼むわね」という言葉の意味を、私はその夜ずっと考えていた。

 

要求じゃなかった。

 

嘆願でもなかった。

 

私にお願いをする人は、毎日いる。ノートを見せてほしい時。相談に乗ってほしい時。誰かと誰かの間を取り持ってほしい時。

 

そのどれも、私が用意した場面だった。用意した場面で言われる依頼は、こちらの数え方では利子でしかない。

 

あの人の依頼は、私が用意していない場所から来た。

 

用意していない場所から来たものを、私はどう受け取ればいいのか知らない。

 

お願いをされて、私は何も返せなかった。

 

返せないということは、こちらの言葉が一つも効かなかったということだ。

 

一つも効かない相手は、今まで一人しかいなかった。

 

二人とも、私の手の届かないところにいる。

 

 

 

寮に帰って、鍵を閉めて、鞄を床に置いた。

 

制服のまま、しばらくベッドに座っていた。

 

赤木くんが座っていた場所が、机の向こう側にある。

 

三日空けただけで、そこは何も無い椅子に戻っていた。

 

来週から、また同じ時間に来る。

 

来たら、私はまた扉を開ける。開けた時に自分がどんな顔をしているかを、今度はちゃんと見ておこうと思った。

 

見ておいて、それでも作れない顔なら、その時に考える。

 

 

 

私は、あの人に全部見られている。

 

中学のことを突きつけられた日から、ずっとそうだ。

 

それでも、あの人は誰にも言わなかった。言うつもりも無さそうだった。

 

潰す気はない、決着をつけるだけだ、と言われた。

 

半年前の私なら、そんな言葉は信じなかった。

 

信じていないふりをして、今も一緒にいる。

 

あの日のことを、私はまだ何度も思い出す。

 

屋上で、私はあの人の手を掴んで、自分の胸に押し当てた。

 

これで指紋がついた、と言った。調べられて困るのはそっちだ、と言った。

 

あの人は、私の手を振り払わなかった。

 

振り払う代わりに、押し当てられたままの手を見て、それから私の顔を見た。

 

――失って困るもんなんぞ、最初から持ち合わせちゃいない

 

それだけ言って、帰っていった。

 

私が今までやってきたことは、全部、相手が何かを持っている前提で出来ている。

 

友達。評判。居場所。それを失いたくない人間だから、こちらの言うことを聞く。

 

持っていない人間に、私は何もできない。

 

そんな人間がこの世にいると、私は知らなかった。

 

 

 

赤木くんに対しては、もう何も無い。

 

潰す方法を思いつかない相手を憎み続けるのは、疲れるだけだ。

 

でも。

 

堀北鈴音は、別だ。

 

あの人がしゃべらなくなったことも、何かを抱えていることも、どうでもいい。

 

どうでもよくないのは、あの人がこの学校にいるという事実だけ。

 

と思っていたのに。

 

今日のやりとりでそれすらどうでもよくなってしまった。

 

 

 

私は制服を脱いで、鏡の前に立った。

 

鏡の中の顔を、教室で使う方に直した。

 

一度で作れた。

 

やっぱり、これが私の顔だ。

決着をつけてほしいのはどれ?

  • 坂柳との再戦
  • 龍園との貸借
  • 綾小路との関係
  • 堀北との距離感
  • 櫛田との停戦
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