私には、顔が二つある。
正確には、二つだと思っていた。
教室で笑っている方と、誰も見ていない時の方。使い分けているつもりだった。
使い分けは、上手くいっている。
この学校に入ってから半年、ほとんどの人には気づかれていない。気づいた人は三人いて、誰も気づいた上で何もしなかった。
最近、三つ目の顔ができた。
「櫛田さん、これ分かる?」
「どれ? あー、これね。ここ、公式が二つ要るやつ」
「えー、二つも?」
「大丈夫大丈夫、私も最初間違えたから」
嘘。
最初から間違えていない。
でも、こう言うと相手は安心する。安心した相手は、次も私のところに来る。来た数だけ、私は知られていない人間から、知られている人間になる。
情報は、集めるものじゃなくて、集まってくるようにするもの。
中学の時に覚えた。
覚えた結果どうなったかも、覚えている。
体育祭まで二日日になった。
教室は、朝から落ち着かない。平田くんが黒板に当日の流れを書いて、須藤くんが「もう覚えたっつーの」と言って、みんなが笑う。
私も笑う。
笑いながら、教室の隅を見る。
堀北さんが座っている。
ここ何日か、あの人はほとんど喋らない。話しかけられれば返すけれど、それだけ。
前は違った。前は、必要なことは必ず言う人だった。言いすぎるくらい言う人だった。
言わなくなった人間は、言えないものを持っている。
何を持っているかは、まだ分からない。
分からないけれど、それを見ている間、私は自分の中の一番冷たいところが静かに温まるのを感じる。
昼休みに、三組の子から訊かれた。
「ねえ櫛田さん。堀北さんって、生徒会長の妹なんでしょ」
「うん、そうみたいだよ」
「じゃあさ、体育祭の組み合わせとか、ちょっとくらい良くしてもらえるのかな」
「どうだろうね。でも、あの会長さんだし」
笑ってごまかしながら、私は一つだけ拾った。
その子は「妹なんでしょ」と言った。「妹らしいよ」でも「妹なんだって」でもなく、私が知っているかどうかを確かめる形で訊いた。
自分が先に知っている人の訊き方だった。
同じ日に、私は四人に同じことを訊かれた。
四人とも、最後に「クラスに何かしてもらえるのか」まで付けた。
言葉の並びが同じだった。
私は、二人に訊き返した。
「それ、誰から聞いたの」
一人は「誰だっけ、部活の先輩かも」と言った。
もう一人は「うーん、なんか気がついたら知ってた」と言った。
私は、この学校の噂がどう流れるかを知っている。
噂には必ず最初の一人がいて、その一人は自分が最初だと思っていない。誰かにそう思わされている。
四人が四人とも同じ形で喋るなら、撒いたのは一人。
しかも、撒いた本人の名前が誰の口からも出ない。
私は、自分がやる時にそこまでできない。
私のやり方は、誰かに「櫛田さんが言ってた」と思われない程度に薄く広げること。名前が残らないようにするだけで精一杯になる。
名前が最初から存在しない撒き方は、別の技術だ。
誰かいる。
私より上手い人が、この学年のどこかにいる。
放課後、平田くんが私のところに来た。
「櫛田さん、ちょっといい?」
「うん、なあに」
「堀北さんのことなんだけど」
今日、この名前を何回聞いただろう。
「最近、少し元気がないように見えるんだ。僕が訊いても、何も言ってくれなくて」
「そっか。心配だよね」
「櫛田さんなら、話してくれるかもしれないと思って」
私は、困った顔を作った。作るのに一秒もかからない。
「うーん。私も、堀北さんとはそこまで仲良くないから」
嘘。
仲良くないのは本当だけど、話しかけられないわけじゃない。あの人は私を嫌っていない。嫌う対象として認識していない。
「でも、気にかけてみるね」
「ありがとう。無理はしないで」
平田くんは、それだけ言って行ってしまった。
この人は、本当にあれで全部だ。
心配だから訊く。訊いて答えが返らなければ、下がる。裏も、次の手も無い。
見ていると、時々、殴りたくなる。
殴りたくなるのは、羨ましいからだ。それくらいは自分で分かっている。
平田くんは、裏の顔を持たなくても、あの位置に立っていられる。
私は、裏を持たないとあの位置に立てない。
同じ場所に立っているのに、払っているものが違う。
それを不公平だと思ったことは、一度もない。
不公平だと思った瞬間に、私は自分の払ったものを損だと認めることになる。
赤木くんとの勉強会は、今週いっぱい止めている。
止めたのは私。
理由は「行事の週だから」と言った。
嘘。
テストは体育祭の後にある。今週止めれば、来週その分を詰めることになる。私にとって何の得もない。
得がないことをしたのは、久しぶりだった。
先週の水曜日のことだった。
いつもの時間に、いつも通りチャイムが鳴って、扉を開けたら赤木くんが立っていた。
「どうぞ」
それだけ。
それだけの三秒の間に、私は自分が笑っているのに気づいた。
教室で使う方の笑い方じゃなかった。
その日の夜、私は自分の部屋の鏡の前に立って、その顔をもう一度作ってみようとした。
作れなかった。
作れないということは、作った顔じゃないということだ。
だから止めた。
私は、作っていない顔を持っていてはいけない。
それを持った瞬間に、私は嘘をつけなくなる。嘘をつけない私には、価値が無い。
それが、先週の話。
今日の放課後、ケヤキモールに行った。
女子三人で行く約束をしていたのが、二人とも家庭科の課題が終わらないと言って、結局私だけになった。
こういう時、私は別に困らない。
一人でいる姿を誰かに見られたら、その時は「用事があって」と言えばいい。一人でいることを恥ずかしがる子の方が、この学校には多い。
小物を並べている店の前を通った時に、見つけた。
堀北さんだった。
見つけた瞬間、声をかけようとは思わなかった。
私は柱の陰に寄って、少しだけ見ていた。
あの人は、男物の並んでいる棚の前にいた。
ハンカチ。キーケース。ペンケース。時計。
一つ手に取って、置いて、次を取る。ずっとそれを繰り返している。
十分近く見ていたけれど、一度もレジに行かなかった。
自分のものを買う人は、あんな探し方をしない。
自分のものなら、好きなものを取ればいい。迷うのは値段だけ。
人のものを買う人は、迷う場所が違う。
値段じゃなくて、「これを渡した時にどう見えるか」で迷う。だから何度も置く。置いて、また同じものを取る。
私はこの半年で、この学校の女子が誰にどんなものを買っているかを、たぶん誰よりも見ている。
堀北さんが持ち上げているのは、全部、男の人が使うものだった。
しかも、地味なもの。柄も、色も、名前も入らないもの。
渡す相手に、目立つものを持たせたくない人の選び方。
私が知っている範囲で、あの人が何かを渡すような相手は一人しかいない。
心臓が、ひとつ跳ねた。
跳ねた理由を、私は自分で確かめなかった。
「堀北さん」
声をかけた。
いつもの声で。
堀北さんは振り返って、少しだけ驚いた顔をした。手に持っていたものを、そのまま棚に戻した。
「櫛田さん」
「買い物? 珍しいね、こういうところで会うの」
「ええ」
「何か探してるの?」
「……特には」
嘘が下手な人だ。
前からそう思っていた。この人は嘘をつかないんじゃなくて、つけないだけ。
「ふうん」
私は棚をちらっと見た。見たことを、堀北さんに分かるように見た。
「男物だね、これ」
堀北さんは、何も言わなかった。
こういう時、たいていの子は慌てる。慌てて説明する。説明が始まったら、もう私の勝ちになる。
堀北さんは、慌てなかった。
「そうね」
それだけだった。
面白くない。
私は、少し声を落とした。落とす時の落とし方も、決まっている。内緒話を始める時の距離。
「あのさ、堀北さん。関係ない話していい?」
「ええ」
「赤木くんのことなんだけど」
名前を出した瞬間、堀北さんの目が動くのを、私は待っていた。
動いた。
動いたけれど、方向が違った。
私の顔じゃなくて、窓の外を、遠くの方を見た。一秒もない。それから戻ってきた。
私の話を、途中から聞いていなかった。そういう動き方だった。
「赤木くん、夏休みの終わりからずっと、私の部屋に来てたんだよ」
「そうだったの」
「毎日。同じ時間に」
「……何が言いたいのかしら」
「……知ってた?」
「いいえ」
堀北さんは、私を見ていた。
まっすぐに、何の色もなく見ていた。
「知らなかったわ」
「怒らないの?」
「なぜ私が怒るの」
「えっ、いや」
私は笑った。笑いながら、自分の声が少し高くなったのが分かった。
「別に、そういうのじゃないけど。ほら、堀北さんって赤木くんと仲いいでしょ。言われてなかったのかなって」
「言われていないわ」
「だよね」
「彼が私にそんなことを言うわけがないでしょう?」
そう訊かれた。
訊かれて、私は答えを持っていなかった。
前なら、ここで何かが取れた。
誰でも、名前を出された瞬間に何かをこぼす。表情でも、声の高さでも、間の取り方でもいい。こぼれたものを拾って、次の日にもう一度使う。それだけで人は動く。
この人は、こぼさなかった。
隠したんじゃない。
隠している人の顔は、私には分かる。隠している人は、隠すことに力を使うから、どこかが固くなる。
堀北さんは、固くなっていた。
固くなっていたけれど、それは私の話のせいじゃない。
私の名前でも、赤木くんの名前でもないところで、この人はもう力を使い切っている。
――届いていない。
そう気づいた時、背中が冷たくなった。
この人は今、赤木くんが誰の部屋に通っていようが、どうでもいいと思っている。
どうでもいいのは、興味が無いからじゃない。
何か他の問題を抱えているからだ。
何を抱えているのかは、分からない。
分からないものには、私の手が掛からない。
「櫛田さん」
「なに?」
「一つ、訊いていいかしら」
堀北さんが、初めてこちらに一歩寄った。
「あなたは、赤木くんと何をしているの」
「……えっと、勉強だけど」
「勉強?」
「数学とか、英語とか。あの人、ほんとに何も知らないから。中学の内容からやり直してる」
「そういうことね」
「……なんで?」
「いいえ」
堀北さんは、それきり何も言わなかった。
言わずに、棚の方をもう一度見た。
見て、結局何も取らずに歩き出した。
三歩行ってから、振り返らずに言った。
「櫛田さん」
「うん」
少し間があった。
「……頼むわね」
何を頼まれたのか、分からなかった。
分からないまま、私は「うん」と返していた。
私の秘密を握っている堀北さんに、なぜバラさないのか、また聞きそびれた。
姿が見えなくなってから、私は棚の前に行った。
さっきまであの人が立っていた場所に立って、同じ高さの段を見た。
三つ目の列に、一つだけ前に出ているものがあった。
戻す時に、きちんと押し込まれていないもの。
黒い革のキーケースだった。値札は三千八百。飾りも、模様も、文字も入っていない。
私はそれを手に取って、裏を返して、元の場所に戻した。
きちんと押し込んで戻した。
こんなことをして何になるのか、自分でも分からなかった。
モールを出て、ベンチに座った。
夕方の風が、まだ夏の匂いをしていた。
私は、思い出していた。
四人が同じ形で喋った噂と、堀北さんの様子と、あの人が誰とも話さなくなった時期。
線を引こうとして、引けなかった。
引けないのは、真ん中に置く名前を、私が持っていないからだ。
Aクラスの誰か。三年の誰か。あるいは、私の知らないところで動いている誰か。
どれも思いつくけれど、どれも当たっている気がしない。
思いつかないのは、久しぶりだった。
一年の中で、私は自分がこの学年の地図を一番よく知っていると思っていた。
地図の外側に、誰かがいる。
その誰かは、堀北鈴音を狙っている。
なら、私は何もしなくていい。
そう思って、私は立ち上がった。
立ち上がってから、少しの間、動けなかった。
「頼むわね」という言葉の意味を、私はその夜ずっと考えていた。
要求じゃなかった。
嘆願でもなかった。
私にお願いをする人は、毎日いる。ノートを見せてほしい時。相談に乗ってほしい時。誰かと誰かの間を取り持ってほしい時。
そのどれも、私が用意した場面だった。用意した場面で言われる依頼は、こちらの数え方では利子でしかない。
あの人の依頼は、私が用意していない場所から来た。
用意していない場所から来たものを、私はどう受け取ればいいのか知らない。
お願いをされて、私は何も返せなかった。
返せないということは、こちらの言葉が一つも効かなかったということだ。
一つも効かない相手は、今まで一人しかいなかった。
二人とも、私の手の届かないところにいる。
寮に帰って、鍵を閉めて、鞄を床に置いた。
制服のまま、しばらくベッドに座っていた。
赤木くんが座っていた場所が、机の向こう側にある。
三日空けただけで、そこは何も無い椅子に戻っていた。
来週から、また同じ時間に来る。
来たら、私はまた扉を開ける。開けた時に自分がどんな顔をしているかを、今度はちゃんと見ておこうと思った。
見ておいて、それでも作れない顔なら、その時に考える。
私は、あの人に全部見られている。
中学のことを突きつけられた日から、ずっとそうだ。
それでも、あの人は誰にも言わなかった。言うつもりも無さそうだった。
潰す気はない、決着をつけるだけだ、と言われた。
半年前の私なら、そんな言葉は信じなかった。
信じていないふりをして、今も一緒にいる。
あの日のことを、私はまだ何度も思い出す。
屋上で、私はあの人の手を掴んで、自分の胸に押し当てた。
これで指紋がついた、と言った。ば困るのはそっちだ、と言った。
あの人は、私の手を振り払わなかった。
振り払う代わりに、押し当てられたままの手を見て、それから私の顔を見た。
――失って困るもんなんぞ、最初から持ち合わせちゃいない
それだけ言って、帰っていった。
私が今までやってきたことは、全部、相手が何かを持っている前提で出来ている。
友達。評判。居場所。それを失いたくない人間だから、こちらの言うことを聞く。
持っていない人間に、私は何もできない。
そんな人間がこの世にいると、私は知らなかった。
赤木くんに対しては、もう何も無い。
潰す方法を思いつかない相手を憎み続けるのは、疲れるだけだ。
でも。
堀北鈴音は、別だ。
あの人がしゃべらなくなったことも、何かを抱えていることも、どうでもいい。
どうでもよくないのは、あの人がこの学校にいるという事実だけ。
と思っていたのに。
今日のやりとりでそれすらどうでもよくなってしまった。
私は制服を脱いで、鏡の前に立った。
鏡の中の顔を、教室で使う方に直した。
一度で作れた。
やっぱり、これが私の顔だ。
決着をつけてほしいのはどれ?
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坂柳との再戦
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龍園との貸借
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綾小路との関係
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堀北との距離感
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櫛田との停戦