体育祭の前日、校庭は別の場所になっていた。
白線が引き直されて、テントが四つ立った。赤と白の旗が、朝からずっと風に鳴っている。
午前で授業が終わって、午後は全員が駆り出された。俺は折り畳みの長机を運ぶ組に入れられて、校舎の裏から校庭の端まで、七往復した。
「赤木、そっち持て」
「ああ」
須藤が反対側を持った。この男は、黙って物を運んでいる時だけは、まともに見える。
「なあ」
「なんだ」
「お前、明日どうすんだよ」
「走るんだろ」
「そうじゃねえよ。棒倒しだよ。お前、あれ出んだろ」
「出るらしいな」
「らしいなって、お前」
須藤が机を下ろして、腰を伸ばした。
「相手Aだぞ。向こう、体格でかいのばっか前に出してくるって話だ」
「そうかい」
「そうかいじゃねえって。……まあ、お前は倒されねえだろうけどよ」
そう言って、自分で笑った。
俺は何も言わなかった。
倒されるか倒されないかで人が動くと思っている間は、こいつはまだ楽なところにいる。
机を並べ終えた先に、白組のテントがあった。
Bクラスの連中が集まっていて、その真ん中に一之瀬がいた。
一人ひとりに何か言っては、肩を叩いている。叩かれた方が、笑って何か返す。それが順番に回っていた。
聞こえたのは、一言だけだった。
「勝ち負けより、転んだ人を置いていかない。それだけは守ろうね」
言われた連中の顔が、揃って緩んだ。
同じ組の人間を、あそこまで本気で勘定に入れる奴は珍しい。
嘘が無い。嘘の無い言葉は、聞いた方が勝手に力を出す。
明日、あの組は伸びる。
一之瀬が、こちらに気づいた。
「あ、赤木くん」
「よう」
「明日、敵同士だね」
「そうらしいな」
「手加減はしないよ」
「されても困る」
呼ばれて、一之瀬はテントの方へ戻っていった。
戻る足が速かった。
待っている人間が多い奴は、歩き方が変わる。
赤組の側では、Aクラスが几帳面に整列していた。
列の間隔が揃いすぎていて、遠目には人間の集まりに見えなかった。一つの道具のように見えた。
そこに、杖はいなかった。
俺は、それを数に入れておいた。
机を運び終えて戻る途中、校庭の中ほどで足を止められた。
「よぉ」
龍園だった。白い鉢巻を首に引っ掛けている。Cは白組だ。
「ククク、明日はせいぜい頑張ろうぜ?」
「勝手にしろ」
「潰しといてやるよ」
「好きにしろ」
「つまんねえ返事すんじゃねえ」
龍園は笑った。笑ってから、鉢巻を指で回した。
「ま、どうせ明日の話なんざ、お前の中じゃ何番目かも分からねえんだろ」
「そうでもねえ」
「ほう」
「明日で何かが決まる奴が、この学校には何百人もいる。俺の何番目かとは関係ねえ話だ」
龍園が、少しだけ目を細めた。
「……相変わらず、間尺に合わねえことを言う」
「そうかい」
「一つ言っとくぞ、赤木」
指が止まった。
「お前、俺にまだ払ってねえもんがある」
「あるな」
「認めんのかよ」
「無いと言ったら、あんたが困るだろ」
龍園は数秒黙って、それから声を出して笑った。
「ククッ、覚えとけよ」
そう言って、白組のテントの方へ歩いていった。
払っていないものがあるのは、本当だ。
取りに来るかどうかも、あの男が決める。取り立てを待っている間だけ、人は妙に律儀になる。
赤組のテントの前で、名を呼ばれた。
「赤木」
葛城だった。手に進行表を持っている。角が折れるほど何度も繰った跡がついていた。
「明日の棒倒しだが、赤組は合同で組む。Dの前衛は、そちらで決めてあるか」
「知らねえ」
「知らない、で済む話ではない」
「決めた奴に訊いてくれ」
葛城は、少しの間こちらを見ていた。
怒っている顔ではなかった。処理すべき項目が一つ片付かない、という顔だった。
「……平田に確認する」
「そうしろ」
行きかけて、葛城が止まった。
「訊きたいことがある。お前のクラスは、明日どこを狙っている」
「知らねえよ」
「二度目だ」
「二度訊いたのはあんただろ」
葛城が、短く息を吐いた。
「俺は、渡された図の通りに並べただけだ。図を引いた人間が現場にいないのでは、途中で変えることもできん」
俺は、Aの整列の方を見た。
やはり、杖はいない。
「あんたの上は、来ねえのか」
葛城の顔が、一度だけ動いた。
「……体調の管理は、本人の裁量だ」
「そうかい」
「俺が言えるのは、そこまでだ」
そう言って、葛城は進行表を持ち直して歩いていった。
折れた角が、そのままになっていた。
現場に出てこない人間が組んだ配置を、出てきた人間が守る。
守っている間は、負けても誰のせいにもならない。
そういう形にしてある卓を、俺は何度か見たことがある。
たいてい、途中で誰かが降りる。
片付けが終わったのは、日が傾き始めた頃だった。
水を飲みに、校舎の裏の自販機まで歩いた。
人気の無い場所だった。壁の影が長く落ちていて、風が通らない。
小銭を入れて、缶を一つ落とした。
その音の後ろから、別の音が近づいてきた。
コツ、と。
コツ、と。
一定の間隔で、硬いものが地面を突く音だった。
俺は缶を取り出してから、振り返った。
「こんにちは、赤木くん」
坂柳有栖が立っていた。
一人だった。神室も、他の誰も連れていない。
「よう」
「お一人になるのを待っていました。校庭は、人が多すぎますから」
「待った、か」
「ええ。少しだけ」
杖の先が、地面の上で小さく円を描いた。
「明日が本番ですね」
「そうらしいな」
「あなたは、楽しみにしているようには見えません」
「楽しみにするもんでもねえだろ」
「ふふっ。そうでしょうね」
坂柳は笑った。笑って、すぐに消した。
消すのが早かった。
「堀北さんから、ご連絡をいただきました」
「そうかい」
「勝負を、お受けすると」
「そうだな」
「私は、断られると思っていました」
缶のタブを起こした。
小さな音がした。
「誰に断られると思ってた」
「堀北さんにではありません。あなたにです」
「俺か」
「あの形では、あなたの側に何も懸かりません。懸からない勝負を受ける理由が、あなたには無いはずです。ですから、堀北さんは断られて帰ってくるだろうと」
「断ったぜ」
坂柳の目が、わずかに広がった。
「堀北が頼んできた。勝負を受けた上で、負けてくれとな。断った」
「……そうですか」
「その上で、勝負は受けた」
「順番が逆です」
「そうかい」
「頼みを断って、勝負だけ受ける。その形は、私の想定にありませんでした」
声は落ち着いていた。
ただ、杖を握る指が、一度だけ握り直された。
想定に無かったものが出てきた時、人の顔は決まった動き方をする。
強がるか、黙るか、話を変えるかだ。
こいつの場合は、少し楽しそうになった。
「一つ、確認をさせてください」
「言ってみな」
「堀北さんは、私の出した条件を、全てあなたに話しましたか」
「五つ、全部な」
「では、五つ目も」
「俺には何も懸からねえ、ってやつか」
「ええ」
坂柳が一歩、近づいた。
杖の音は変わらなかった。
「あなたをお呼びしたのは、私個人の都合だけではありません。ですが、あなたの側に賭け金を積ませれば、卓につく前に降りてしまうかもしれません。あなたは、降りることを厭わない人ですから」
「厭わねえな」
「ですから、何も懸けなくていい形にしました」
「親切だな」
「本気でそう思っています」
「フフ、あんたが、か」
「ええ」
嘘は言っていないようだった。
言っていないから、質が悪い。
「一つ、言っとく」
「どうぞ」
「懸かってねえ、ってのが違う」
缶を口に運んで、一口だけ飲んだ。
冷たかった。
「俺が参加するってことは、いつだって卓の上にそれ相応のものが乗ってる。あんたが積まなくても、最初から乗ってる」
坂柳は、黙った。
返事を探している顔ではなかった。
言われた言葉を、頭の中でもう一度並べ直している顔だった。
「……あなたにとっては、そうなのでしょうね」
「他の奴は違うのか」
「ほとんどの人は、乗っていることに気づかないまま降りていきます」
「なら、気づいてる奴の方が、いい席に座れるってことだ」
「ふふっ」
今度は、笑いが消えなかった。
その笑いを残したまま、坂柳は続けた。
「もう一つ、お伝えしておきたいことがあります」
「まだあるのか」
「このところ、学年の中で、面白い話が流れているようです」
「話」
「堀北さんが、生徒会長の妹だという話です」
俺は缶を持ったまま、坂柳を見た。
坂柳は、こちらを見ていた。
視線を外さない。外さないで、俺の顔のどこかが動くのを待っていた。
「事実だろ」
「ええ。ですが、流れる形が綺麗すぎます」
坂柳は、杖の先で地面を一度だけ叩いた。
「同じ日に、同じ言い方で、四人が同じことを口にする。そういう流れ方は、自然には起きません」
「撒いた奴がいるってことか」
「一人いますね」
「あんたか」
坂柳は、答えなかった。
「だからなんだってんだよ」
缶を振って、中身の残りを確かめた。
「噂ってのは、知らねえ奴の口から広がるもんだ。誰が撒いたかは、流れ始めた後じゃ誰も勘定しねえ」
「そうですね」
坂柳は、あっさり引いた。
引いたが、それで終わりではなかった。
「では、もう一つだけ。あの夜のことが、私の耳に入った経路について」
杖が、地面の上で止まった。
「堀北さんは、お気づきでした。お兄様から聞いたのでも、あなたから聞いたのでもない。四人しか知らないのであれば、消去法で一人だけ残ります」
「ああ」
「あなたも、同じ答えに行き着いているのでは」
「綾小路だろ?」
坂柳の指が、動かなかった。
動かなかったのが、答えだった。
「フフ、あいつらしいな」
「……らしい、ですか」
「他人の手札は、金に換えるもんだ。そういう奴だろ、あいつは」
「お怒りにならないのですね」
「何を怒る」
「あなたの知らないところで、あなたと堀北さんの立場が売られたのですよ」
「売られて困るもんは、最初から持ってねえよ」
坂柳は、しばらく何も言わなかった。
風の通らない日陰に、杖を突く音だけが、時々混じった。
「私は」
「なんだ」
「綾小路くんが、あなたにとって大切な方だと考えていました」
「そう見えるか」
「見えます」
「クク、なら、あんたの目は悪くねえ」
「否定なさらないのですね」
「否定する理由もねえ」
大切かどうかを、口に出す気は無かった。
出さなくても、こいつは持ち帰る。
持ち帰って、自分の勘定に入れる。
それでいい。
入れさせるために、口を開けている。
「一つ、伺っても」
「まだあるのか」
「あなたは、堀北さんに何かを教えましたか」
缶を持ち直した。
「教えたな」
「何を」
「言わねえよ」
「なぜです」
「あんたが対策する」
坂柳が、口を閉じた。
閉じてから、笑った。今度は、消さなかった。
「……お返しですか」
「取引ってのは、そういうもんだろ」
「では、こう伺いましょう。それは、明日までに間に合うものですか」
「間に合わねえ」
即答した。
「間に合わねえもんを教えた」
「……なぜ、間に合わないものを」
「間に合うもんは、教える値打ちがねえからだ」
坂柳は、しばらく杖の先を見ていた。
「あなたは、堀北さんに勝ってほしいのですか」
「勝つ方には賭けてねえ」
「では、なぜ教えたのです」
「訊かれたからだ」
「それだけですか」
「それだけだ」
「もう一つ、伺っても」
「まだあるのか」
「あなたは、堀北さんが勝てるとお考えですか」
「さあな」
「なぜ受けたのです」
「勝てると確信できる勝負は、受ける値打ちがねえからだ」
坂柳が、杖を持ち替えた。
「……それは、堀北さんの話ですか。それとも、あなたの話ですか」
「どっちでもいい」
「違うでしょう」
初めて、この女が食い下がった。
「勝てる勝負を受けるのは、あなたです。堀北さんは、受けさせられた側です」
「そうだな」
「同じに扱うのは、彼女に失礼ではありませんか」
俺は、缶を握り潰した。
音がした。
「失礼なのは、勝てねえと決めてやることだ」
坂柳は、口を閉じた。
「日取りをお伝えします」
坂柳が、杖を持ち直した。
「体育祭の次の週末。土曜日の午後一時に、特別棟の三階でお待ちしています」
「そうかい」
「それに、明日は全校が動く日です。誰も見ていない日ではありません」
「見られちゃまずいのか」
「まずくはありません。ただ、見せる相手を選びたいだけです」
「種目は」
「当日、その場で」
「言わねえのか」
「言えば、対策をなさるでしょう」
「フフ、しねえよ」
「あなたはなさらないでしょうね」
坂柳は背を向けた。
杖が、また一定の音を刻んだ。
コツ、と。
コツ、と。
三歩行ったところで、足が止まった。
「赤木くん」
「なんだ」
「堀北さんは、負けますよ」
「かもな」
「あなたは、それで構わないのですか」
「構わねえなんて、言った覚えはねえ」
坂柳は、振り返らなかった。
杖の音が、また続いた。
日陰から日向へ出た背中が、一度だけ小さく揺れた。
笑ったのかもしれなかった。
寮の前で、堀北とすれ違った。
ジャージのままだった。手にビニール袋を提げている。中身は見えなかった。
「赤木くん」
「よう」
立ち止まった。すれ違ったまま行くつもりだったが、向こうが止まった。
「一つだけ、訊いていいかしら」
「なんだ」
「降りるな、と言ったわよね」
「言ったな」
「あれは、どこで降りることを言っているの。始まる前なのか、途中なのか」
思ったより、まともな問いだった。
「両方だ」
「両方」
「始まる前に降りる奴が一番多い。座ったのに、座ってねえふりをする」
堀北は、袋を持ち直した。
「……私は、どっちに見える」
「今日はまだ、どっちでもねえ」
「答えになっていないわ」
「座ってねえ奴は、どっちにも見えねえってことだ」
堀北は、少し考える顔をした。
「明日、走るのよね」
「出ろって言われてる」
「二百メートル」
「らしいな」
「私も出るわ」
「そうかい」
それだけ言って、堀北は寮の中へ入っていった。
ビニール袋が、歩くたびに一度だけ鳴った。
夜、部屋の窓を開けた。
明日は、白か赤かのどちらかが勝つ。
どちらが勝っても、俺には大した違いはない。
ただ、勝つ組の側に立っていない方が、坂柳の気分は悪くなるだろう。
その程度のことだった。
向かいの棟の、二つ下の階の窓に、灯りが点いていた。
三日で全部詰め込めとは、一度も言っていない。
言っていないのに、あの灯りは消えない。
缶の底に残った冷たいものを、最後まで飲み干した。
窓を閉めた。
決着をつけてほしいのはどれ?
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坂柳との再戦
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龍園との貸借
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綾小路との関係
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堀北との距離感
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櫛田との停戦