朝の空は、面白くないほど晴れていた。
校庭に四つの列ができて、その前に天幕が張られている。赤と白の旗が、昨日と同じ音で鳴っていた。
開会の挨拶は、生徒会長だった。
堀北学は、紙を持たずに喋った。
短かった。勝てとも、楽しめとも言わなかった。ただ、進行と、怪我をした時の手順だけを言って降りた。
降りる時に、一度だけこちらを見た。
見ただけで、何もしなかった。
順番を狂わせたくないと言った男が、順番通りに喋って、順番通りに降りた。
俺は、それを見ていた。
「赤木くん、整列だよ」
平田に呼ばれて、列に入った。
Dクラスの列は、思ったより静かだった。
須藤が拳を握ったり開いたりしている。平田が全員の顔を順番に見ている。堀北は、いつもの位置に立っていた。
昨日と同じ顔をしていた。
午前の一つ目は、百メートル走だった。
須藤が出て、Aの誰かを半身抜いて一位を取った。
「っしゃあ!」
戻ってきた時の顔は、この一年で一番まともだった。
こいつは、走っている時だけは何も計算していない。計算していない人間の顔は、たいてい見られる顔をしている。
二つ目はハードルで、これはBの女子が持っていった。
三つ目が棒倒しだった。
赤組は、AとDの合同で組む。葛城が前衛に立って、指示を出していた。指示は正確だった。誰がどこに立つか、誰が誰を支えるかまで決まっていた。
決まりすぎていた。
俺は後衛に入れられた。
笛が鳴って、白がぶつかってきた。
白の先頭はCの連中だった。龍園がいた。その後ろにBが続いた。列の形は崩れていて、どこに誰がいるのか分からなかった。
葛城の組んだ形は、最初の十秒は保った。
十秒の後で、白の一人が左の端から横に走った。
そこは、葛城の図に無い場所だった。
図に無い場所に人が来ると、図の通りに立っている人間は動けない。動くと図が崩れるからだ。
崩れた。
棒が倒れる音がして、笛が鳴った。
倒された側の連中が、地面に座り込んでいる。
葛城は立っていた。立って、倒れた棒を見ていた。
その顔を、俺は覚えておくことにした。
決めた人間が現場にいない卓では、必ずこうなる。
責める相手がいないからだ。
騎馬戦は、相手の身体を直接掴める唯一の種目だった。
俺は騎手に乗せられた。下は須藤と、Dの男子が二人だった。
「落ちんなよ」
「落ちたら落ちたで終わりだろ」
「終わりだって言ってんだよ!」
笛が鳴った。
白の中に、見覚えのある鉢巻があった。
龍園だった。向こうも騎手に乗っている。
真っ直ぐ来た。
周りの騎馬を避けもせずに、押しのけて来た。
「よぉ」
「よう」
「昨日の続きだ」
手が伸びてきた。
鉢巻ではなく、こちらの腕を掴もうとしていた。
俺は掴ませた。
掴ませて、そのまま体重を前へ預けた。
龍園の顔が、一瞬だけ変わった。
掴んだ方が引く力を、掴まれた方が押し返さずに預けると、どうなるかを知らなかったらしい。
二つの騎馬が、同時に傾いた。
「っ、てめ……!」
下の須藤が踏ん張った。向こうの三人は、踏ん張らなかった。
崩れたのは白だった。
地面に落ちる寸前で、龍園がこちらを見上げた。
笑っていた。
「クハハ……こういうことしやがるから、お前は」
言い終わる前に、砂埃が上がった。
俺の鉢巻は、まだ頭にあった。
須藤が「うおおお」と叫んだ。
下の三人が、勝手に盛り上がっている。
俺は、自分が何かをしたとは思っていなかった。
掴まれた腕を引かなかっただけだ。
引かないことを、あの男は選択肢に入れていない。
入れていないところから、いつも崩れる。
午後に入って、玉入れと綱引きがあった。
玉入れは女子だけだ。俺は出られない。
綱引きは出た。Dは一勝一敗だった。
障害物競走で、堀北が走った。
網をくぐるところで少し遅れて、平均台のところで詰めた。三位で戻ってきた。
戻ってきて、息を整えながら、誰とも喋らなかった。
平田が「ナイス」と声をかけて、堀北は頷いた。
それだけだった。
二百メートル走は、全員が走る。
俺の組は、Bの男子が二人と、Cが一人と、Aが一人だった。
号砲が鳴って、走った。
四位だった。
前を走っていた三人は、最後まで前にいた。抜こうとしなかったわけではない。抜けなかった。
こういう勝負は、分かりやすくていい。
足の速い奴が前に出て、遅い奴が後ろに残る。嘘のつきようがない。
戻ってくると、須藤が待っていた。
「おせーよ」
「そうだな」
「そうだなって、お前……悔しくねえのかよ」
「抜けなかった」
言い終わる前に、須藤が黙った。
「……なんだよ、それ」
「抜けなかった。それだけだ」
「いや、そうだけどよ」
須藤は、頭を掻いた。
「お前がそういうこと言うと、調子狂うんだよ」
「そうかい」
俺は水を飲んだ。
足の速さは、生まれた時に配られている。配られたもので走って負けるのは、負けのうちに入らない。
入らないが、悔しくないわけではない。
そこを分けない人間が、たいてい卓で死ぬ。
借り物競争は、推薦の種目だった。
Dからは平田と、なぜか俺が出された。
「赤木くん、あれ、走るより探す方が大事だから」
「そうかい」
「無理そうだったら、札を置いて戻ってきていいからね」
置いて戻る、という選択肢を先に教える男だった。
号砲が鳴って、二十メートル先の机まで走った。
札を一枚取って、開いた。
――負けを認めた人
妙な札だった。
顔の無い言葉だ。誰の名前も書いていないのに、連れてくる相手は一人に決まる。
俺は、観覧の列の方を見た。
D、C、B、Aの順に、生徒が座っている。
今日、負けた側は二クラスだ。
負けた側の人間は、たくさんいた。
認めた人間は、そんなにいなかった。
俺は歩いた。
走るのをやめたので、他の連中に抜かれた。
赤組の待機列の端に、葛城がいた。
次の招集までの間、砂を払いもせずに座っていた。
「葛城」
「……何だ」
「付き合え」
「理由を聞かせてもらおう」
「札だ」
葛城は、俺の手元の札を見ようとした。見せなかった。
「見せぬのか」
「見せたら、来ねえだろ」
しばらく、葛城は動かなかった。
それから、膝に手をついて立ち上がった。
「言っておくが、俺はまだ負けたとは言っていない」
「言ったろ」
「いつだ」
「棒が倒れた時、あんたは動かなかった」
葛城の足が止まりかけた。
止まりかけて、また動いた。
二人で、ゴールまで歩いた。
最下位だった。
係の生徒が札を確認して、少し困った顔をした。
「……有効にします」
有効にされたところで、順位は変わらない。最下位には罰が付く。千を引かれる。
千で買えるものは、この学校では大してない。
葛城は、札を横から覗いた。
覗いて、何も言わなかった。
言わずに、自分の席へ戻っていった。
赤組の列が、一度だけざわついた。
Aクラスの誰かが何か言いかけて、隣に止められていた。
背中が、来た時より真っ直ぐだった。
認めた人間は、そこから先は速い。
認めない人間の方が、ずっと長く転んでいる。
二人三脚があった。
組み合わせはクラスで決めてあった。俺の相手は、名前だけ知っている女子だった。
途中で、隣のレーンに綾小路がいるのに気づいた。
軽井沢と組んでいた。
速くはなかった。遅くもなかった。
ちょうど、真ん中あたりで走っていた。
転びもしないし、抜きもしない。足の合わせ方だけが妙に綺麗で、それ以外は全部平凡だった。
平凡というのは、作るのが一番難しい。
速い奴は速く走ればいい。遅い奴は遅く走るしかない。
真ん中を、毎回、同じ幅で走るには、自分の全力がどこにあるかを正確に知っていないとできない。
ゴールした後、綾小路がこちらを見た。
目が合った。
何も言わなかった。俺も言わなかった。
天幕の端に、椅子が一つ置いてあった。
坂柳が座っていた。
競技には一つも出ていない。出られない身体だ。出ない人間の席が、あそこに一つだけ用意されている。
膝の上に杖を横にして、校庭を見ていた。
応援もしていなければ、記録も取っていなかった。
ただ見ていた。
赤が棒倒しで崩れた時も、同じ顔で見ていた。
自分が組んだ配置が、自分のいない場所で崩れていくのを、最後まで座って見ている。
痛いだろうな、と思った。
思ったが、同情はしなかった。
座ると決めたのは、あの女自身だ。
最後の種目は、三学年合同の千二百メートルリレーだった。
推薦で出る。一年からは、白組は一之瀬が出た。
第二走者だった。
受け取った時、白は三番手だった。
一之瀬は、直線でも曲線でも、抜き方を変えなかった。同じ速さで、同じ幅で、外から順番に抜いていった。
二人抜いて、先頭で渡した。
渡した後、膝に手をついて、それから顔を上げて、次の走者を見た。
見ていた顔が、走っていた時と同じだった。
自分が抜いたことより、渡した先がどうなるかだけを見ている顔だった。
白が、そのまま一位で入った。
歓声が、白組の席から上がった。
一之瀬は、その中にいなかった。
トラックの脇で、第三走者の三年生に何か言っていた。
言われた方が笑って、一之瀬の背中を叩いた。叩かれて、一之瀬もやっと笑った。
自分が二人抜いたことは、たぶんもう終わった話になっている。
こういう人間が一人いる組は、最後の一本で必ず伸びる。
伸びるのは、本人の足のせいではない。
渡す相手を見ている人間の前では、渡される方も手を抜けなくなるからだ。
今日一日で、白が赤を上回った分の多くは、たぶんあの一本で作られた。
作った本人だけが、それを数えていない。
結果の発表は、夕方だった。
天幕の前に全校が集まって、生徒会が読み上げた。
組の勝敗は、白組の勝ち。
負けた組は、クラスポイントを引かれる。
学年ごとの順位が、その後に出た。
一年は、一位がB、二位がC、三位がA、四位がD。
最下位はもう百引かれる。
Dは、合わせて二百だった。
個人の分も読み上げられた。
種目ごとに、一番に五千。二番に三千、三番に千。ポイントの代わりに、中間テストの加点を選んでもいい。
その後に、もう一つ付いた。
総合の下位十名は、二学期の中間テストで十点引かれる。
名前は読まれなかった。後日、個別に通知される。
読み上げている間、Dの列は静かだった。
誰も何も言わなかった。
5月に千を失って、夏で戻して、今日、二百を落とした。
五百十四あった数字が、三百十四になる。
計算は、聞いていた全員ができた。
「……くそっ」
須藤の声だった。
小さかった。
「三百十四って、来月いくらだよ」
池だった。
「三万千四百だ」
答えたのは山内だった。指を折っていた。
「先月から二万減るぞ」
「言うなよ」
池が続けた。
「言うだろ。俺、今月もう」
「言うなって」
平田が二人の間に入った。
入られて、二人は黙った。
黙ったが、計算は止まっていない。
数字が減ると、まず財布の話になる。財布の話になっている間は、まだ誰も本気で痛んじゃいない。
堀北は、顔を上げていた。
上げたまま、最後まで聞いていた。
兄に、最下位は避けますと言ってから、まだ一週間も経っていない。
その顔を、俺は横から見ていた。
泣いてはいなかった。悔しがってもいなかった。
聞いた数字を、頭の中のどこかに置いて、そのまま蓋をした顔だった。
置く場所が、もう一つ先にあるからだ。
解散になって、列が崩れた。
平田が「お疲れさま」と言って回っている。
須藤が地面を蹴った。
堀北は、真っ直ぐ寮の方へ歩いていった。
一度も振り返らなかった。
茶柱が、天幕の片付けの脇に立っていた。
「赤木」
「なんだ」
「二百だ」
「聞いてた」
「聞いていて、その顔か」
「どういう顔をすりゃいい」
茶柱は、煙草を出しかけて、やめた。
「お前のクラスは、今年もう一度落ちたら、戻し方が無い」
「そうかい」
「そうかい、じゃない」
「あんたは、数字の話をしてるのか」
「他に何の話がある」
俺は、片付けられていく白線を見た。
昼の間、あれだけの人数が走った跡が、もう消えかけている。
「今日、何人が本気で走ったと思う」
「……回りくどい言い方をするな」
「走らされた奴は、負けても何も失わねえ。最初から自分のもんじゃねえからだ」
茶柱が、こちらを見た。
「二百落ちたのは痛い。だが、痛がってる奴が何人いる」
「……必ず戻せ」
茶柱は、それだけ言った。
煙草の箱を握り直して、去っていった。
校門へ向かう途中の渡り廊下で、堀北学とすれ違った。
生徒会の腕章をまだ外していなかった。
すれ違いざま、足が止まった。
止まったのは向こうだった。
「赤木」
「よう」
「四位だったな」
「そうらしいな」
「二百だ」
「聞いてた」
学は、それ以上その話をしなかった。
窓の外を見ていた。片付けの途中の校庭に、まだ何人か残っている。
「鈴音の走りを見たか」
「障害物か」
「二百メートルもだ」
「見てねえ」
「……そうか」
学は、少し黙った。
訊きたいことがあるのは、顔に出ていた。
出ていたが、訊かなかった。
訊けば答えが出る。答えが出れば、動かないという決め方ができなくなる。
この男は、まだそれを守っていた。
「言っておく」
「なんだ」
「今日、あれは俺のところへ報告に来なかった」
「そうかい」
「今までは、必ず来た。悪い数字ほど、先に来た」
学は、腕章を外した。
外して、きちんと畳んだ。
「来なくなったのは、お前のせいか」
「知らねえよ」
「知らない、か」
「あんたが訊きたいのは、そこじゃねえだろ」
学が、こちらを見た。
俺は、それ以上言わなかった。
言えば、この男は動く。
動かないと決めた人間を動かすのは、簡単すぎてつまらない。
「……行け」
「ああ」
歩き出した背中に、もう一度声がかかった。
「赤木」
「なんだ」
「使いどころは決まったか」
俺は振り返らなかった。
「さあな」
「使う時は、早い方がいい」
「期限があんのか」
学は、答えなかった。
答えなかった。それで足りた。
3月まで、と本人は言った。
3月まで会長でいるつもりの人間は、早い方がいいとは言わない。
「今使う」
学の足が止まった。
夜、部屋に戻って、板が鳴った。
坂柳からだった。
短かった。
土曜日、午後一時。特別棟三階、第三会議室。
それだけだった。
種目は書いていない。
返事を求める文面でもなかった。
来るなら来い、という形だけが残してある。
断る余地を残さない連絡は、たいてい断られたことがある人間が書く。
あの女は、昨日、想定の外を食らったばかりだ。
俺は板を閉じて、窓を開けた。
向かいの棟の、二つ下の階の窓に、また灯りが点いていた。
今日、堀北は三位で走って、二百を落として、それから部屋に戻った。
戻って、まだ起きている。
明日からの五日間で、何がどこまで変わるのかは、俺には分からない。
分からないから、面白い。
引き出しから箱を出して、一本抜いた。
指の間で一度回して、そのまま戻した。
中身は8本のまま動いていない。
……まだだ。
窓を閉めた。
決着をつけてほしいのはどれ?
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坂柳との再戦
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龍園との貸借
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綾小路との関係
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堀北との距離感
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櫛田との停戦