私の兄は、一度も私を褒めたことがない。
それを恨んだことはない。褒められて伸びる人間と、褒められないことで伸びる人間がいて、私は後者だと自分で決めていた。
決めていた、というのが正しい。
決めなければ、続けられなかったから。
教わった日から数えて、今夜で8日目になる。
体育祭までの三日は、準備で一度も端末を開けなかった。開けなかったことを、私は今も言い訳にしている。
持っていかれるたびに、私は自分が何を間違えたのかを探した。
探しても、たいてい見つからなかった。
見つからないというのは、答えが無いということではない。
答えがあるのに、私にはまだ読めないということだ。
その違いが分かるようになったのが、この五日間で唯一の収穫だった。
赤木くんが教えたのは、これだった。
種目がこれになる保証は無い、と最初に言われた。
保証の無いものに五日を使うくらいなら、盤上の遊びを一通りさらった方が確率は高かったはずだ。
そう考えて、私は一度だけ、他のものに手を出しかけた。
出しかけて、やめた。
あの人は、一番きついものを知っている人間は、それより下のものに困らないと言った。
その言葉を信じたわけではない。
ただ、五日で二つを覚えるより、一つを覚えられない方がましだと思っただけだ。
あの人は、勝てないと思っている人間は必ず負けると言った。
言われた通りだと思う。
思うけれど、思っただけで勝てるようになるなら、世の中に負ける人間は一人もいない。
体育祭の翌日、クラスで反省会があった。
平田くんが前に立って、良かった点と悪かった点を順番に挙げていった。悪かった点の方が多かったのに、彼の言い方だと、そう聞こえなかった。
「堀北さん、何かある?」
名前を呼ばれて、私は顔を上げた。
全員がこちらを見ていた。
四月からの半年で、私はこの場面で必ず何かを言ってきた。言うべきことがあったからではない。言わなければ、誰も言わないからだった。
「……特には無いわ」
平田くんが、少しだけ間を置いた。
「そっか。分かった」
それだけで、次へ進んだ。
追及されなかったことに、私は安堵した。
安堵したことに、後から腹が立った。
反省会が終わった後、須藤くんが近づいてきた。
「おい堀北」
「何かしら」
「お前、走り遅かったろ。障害物」
「三位よ」
「三位は三位だけどよ。網んとこ、あれ引っかかってただろ」
「……ええ」
「教えてやろうか。網は頭から入るんじゃねえんだよ。肩からだ」
私は、彼の顔を見た。
半年前なら、この人がこんなことを言いに来るとは思わなかった。
「もう終わった競技よ」
「来年もあんだろ」
来年。
その言葉が、うまく入ってこなかった。
来年があるかどうかを、私は今、数えていない。
「……覚えておくわ」
「おう」
須藤くんは満足して、行ってしまった。
クラスの数字は三百十四になった。
その事実を、私は今日一日、一度も真剣に考えていない。
考えるべきだと分かっている。
分かっていて、できない。
私は、クラスのことを一時的に手放している。
手放していることを、誰にも言っていない。
日付は、だいぶ前から知っている。
その日、私は何も用意していなかった。
用意しようとして、何を渡せばいいのかが分からなかったからだ。
体育祭の準備の真っ只中で、放課後はクラス全員が校庭に出ていた。渡す時間も無かった。
体育祭の二日前になって、私はようやくケヤキモールへ行った。
男物の並んでいる棚の前に、三十分近く立っていた。
ハンカチ。キーケース。ペンケース。時計。
一つ手に取って、置いて、次を取る。それを何度も繰り返した。
何を迷っていたのか、今は思い出せる。
あの人に、目立つものを持たせたくなかった。
理由は自分でも分からない。分からないまま、地味なものばかりを手に取っていた。
結局、その日は何も買わなかった。
買えなかった、と言う方が正しい。
櫛田さんに見られたのも、その時だ。
彼女は、私が誰かのために選んでいることに気づいていた。気づいた上で、赤木くんの名前を出してきた。
出された時、私は何も感じなかった。
感じなかったことに、後から驚いた。
少し前の私なら、たぶん何かを言い返していた。言い返す言葉を探して、探している間に彼女に取られていた。
今は、探す場所が無い。
私の中で一番大きな場所を、別のものが全部使っている。
翌日、私はもう一度同じ棚の前に行って、黒い革のキーケースを買った。
飾りも模様も無いものだった。値札は三千八百。
買ってから、渡す理由を自分で説明できなくなった。
紙袋は、机の一番下の引き出しに入れたままになっている。
別れ際に、私は彼女に「頼むわね」と言った。
言ってから、自分でも何を頼んだのか分からなかった。
たぶん、クラスのことだ。
私が負けた後、いう言葉が続きかけて、そこで止めた。
止めたけれど、止める前に考えたのは確かだった。
私が髪を伸ばし始めたのは、十四の時だった。
きっかけは、兄の一言だった。
「髪は、長い方がいい」
それだけだった。誰の話とも言わなかったし、私に向かって言ったのかどうかも、今になってみれば分からない。
私は、その日から切るのをやめた。
美容院で、どこまで切りますかと訊かれるたびに、毛先だけと答えるようになった。
三年経って、今の長さになった。
一度も、なぜ伸ばしているのかを自分に訊かなかった。
訊けば、答えが一つしか出ないからだ。
兄は、伸びた髪について何も言わなかった。
一度も、だ。
何も言われないことを、私は肯定だと受け取った。
受け取ると、自分で決めた。
そうやって、私は兄の言葉を一つずつ拾って、自分の形にしてきた。
拾ったものが本当に落とされたものなのか、私は確かめたことがない。
体育祭の結果は、生徒会が読み上げた。兄は、自分の口でDが四位だと言った。
読み上げながら、こちらを見なかった。
私は、報告に行かなかった。
正確には、一度だけ行きかけた。
前の日の放課後、私は四階まで上がった。
生徒会室の扉の前に立って、ノックの形に手を上げた。
上げたところで、中から声が聞こえた。
兄の声だった。
何かの手続きについて、誰かに指示を出していた。内容は聞き取れなかった。
聞き取れなくても、声の高さで分かる。
兄は、何も変わっていなかった。
三年間積み上げたものを、いつも通りの声で、いつも通りに回している。
その中に入っていって、私は何を言うつもりだったのだろう。
四位でした、と言う。
最下位は避けますと言ったのに避けられませんでした、と言う。
そこまでは言える。
その次に、兄は必ず訊く。
――それで、お前はなにをしにきた。
訊かれたら、私は答えられない。
私は手を下ろした。
下ろして、階段を降りた。
降りながら、自分が逃げたのかどうかを考えた。
考えても、答えは出なかった。
赤木くんなら、降りたと言うだろう。
一年生の四月から、私は数字が出るたびに兄のところへ行った。悪い数字ほど、先に行った。
叱られるのが目的ではない。
叱られに行ける自分でいることが、私の形だった。
今回は、行けなかった。
最下位は避けます、と言った。
避けられなかった。
それだけの話なら、行ける。
行けないのは、その数字より重いものを、私が今、兄に隠しているからだ。
隠しているものは、兄自身のことだ。
五日の間に、赤木くんとは一度しか会っていない。
水曜日の昼休み、階段のところですれ違った。
「赤木くん」
「よう」
それだけだった。
止まりもしなかった。
私は、訊きたいことをいくつも用意していた。用意していたものが、一つも出てこなかった。
出てこないまま、その人は階段を降りていった。
降りていく背中を見ながら、私は自分が何を期待していたのかを考えた。
励ましではない。あの人はそんなものを持っていない。
たぶん私は、種目が何かを知っていると言ってほしかった。
知っていると言われれば、私は五日間を使った理由を、自分の外に置ける。
置けなかった。
置けなかったから、私は夜、また画面を開いた。
体育祭の夜、坂柳さんから連絡が来た。
日時と場所だけだった。
文面の最後に、一行だけ付いていた。
『当日は、赤木くんの他に、どなたもお連れにならないでください』
その一行に、私はしばらく引っかかっていた。
赤木くんが来ることは、坂柳さんも私も知っている。書く必要のない一行だ。
書いたということは、それ以外に誰かを連れてくると思われているということになる。
誰を連れていくと思われているのか、私には分からなかった。
私は、その一行に返信しなかった。
わかったわ、とだけ返せばいい場面だった。
返さなかった理由は、自分でも分からない。
当日の朝、私は六時に目が覚めた。
眠っていたのかどうかも曖昧だった。
カーテンを開けると、雲が薄く広がっていた。晴れでも雨でもない空だった。
約束は午後一時。特別棟の三階、第三会議室。
坂柳さんからの連絡には、種目が書かれていなかった。
読み合いの勝負、とだけ。
五日間で覚えたものが役に立つ保証は、どこにも無い。
役に立たない可能性の方がずっと高い。
赤木くんは、一番きついものを教えると言った。それが出るとは限らないとも言った。
出るとは限らないものに、私は五日間を使った。
使ったことを、後悔はしていない。
他に使いようが無かったからだ。
十一時には、何もすることが無くなった。
何もすることが無くなると、考える。
考えても仕方のないことばかりが、順番に出てくる。
負けたら、兄は立場を失う。
三年間、兄が積み上げたものが、私のせいで最後の半年で崩れる。
崩れた後、兄は私に何も言わないだろう。
何も言わない人だから、私はずっと後ろを歩いてきた。
十二時に、部屋を出る前に、引き出しを開けた。
紙袋が入っている。
黒い革のキーケース。渡せなかったものだ。
今日持っていく理由は、一つも無い。
勝負の場に贈り物を持っていく人間はいない。
それでも、私はそれを鞄に入れた。
理由は考えなかった。
考えれば、置いていく理由の方が必ず多くなる。
多い方を選んできた結果が、今の私だ。
鏡の前で、制服の襟を直した。
髪を、一度だけ後ろで束ねてみた。
体育祭の日と同じ結び方だった。走る時は、こうしないと邪魔になる。
今日は走らない。
それでも束ねようとしたのは、邪魔だと思ったからではない。
短く見えるからだ。
束ねたまま、しばらく鏡を見ていた。
見ていて、結局ほどいた。
ほどいた理由も、自分では説明できなかった。
今日の勝負に、髪の長さは何の関係も無い。
関係の無いものを、私は十四の時から三年間、毎日確かめている。
私は、まだ勝てるとは思えていない。
ただ、それを、口に出すつもりも無い。
赤木くんは、勝てるわけがないと思っている人間は負けると言った。
だから私は、今日、それを一度も言わない。
言わないことと、思わないことは違う。
違うけれど、今の私に用意できるのは、そこまでだった。
上がれない手でも、形だけは張っておく。
張っていた人間と、降りた人間とでは、終わった後の扱いが違う。
寮を出ると、風が冷たかった。
10月に入っていた。
ケヤキの並木が、先の方から色を変え始めている。
特別棟までは、歩いて十分かからない。
歩きながら、私は一つだけ決めた。
今日、私は兄を守る。
それ以外のことは、何も決めない。
決められるだけの材料を、私は持っていない。
持っていないまま座る人間を、あの人は何と呼んだだろうか。
素人、と言った気がする。
訳も分からないまま死ぬのはつまらない、とも言った。
つまらなくないように死ね、という意味ではなかったはずだ。
たぶん、あれは、そういう意味ではない。
特別棟の入口で、私は一度だけ立ち止まった。
鞄の中で、紙袋が乾いた音を立てた。
音を確かめてから、扉を押した。
決着をつけてほしいのはどれ?
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坂柳との再戦
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龍園との貸借
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綾小路との関係
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堀北との距離感
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櫛田との停戦