【完結】アカギ〜実力至上主義の教室に舞い降りた天才〜   作:GC

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第66話「形式聴牌」

私の兄は、一度も私を褒めたことがない。

 

それを恨んだことはない。褒められて伸びる人間と、褒められないことで伸びる人間がいて、私は後者だと自分で決めていた。

 

決めていた、というのが正しい。

 

決めなければ、続けられなかったから。

 

 

 

 

 

教わった日から数えて、今夜で8日目になる。

 

体育祭までの三日は、準備で一度も端末を開けなかった。開けなかったことを、私は今も言い訳にしている。

 

 

 

 

 

持っていかれるたびに、私は自分が何を間違えたのかを探した。

 

探しても、たいてい見つからなかった。

 

見つからないというのは、答えが無いということではない。

 

答えがあるのに、私にはまだ読めないということだ。

 

その違いが分かるようになったのが、この五日間で唯一の収穫だった。

 

赤木くんが教えたのは、これだった。

 

種目がこれになる保証は無い、と最初に言われた。

 

保証の無いものに五日を使うくらいなら、盤上の遊びを一通りさらった方が確率は高かったはずだ。

 

そう考えて、私は一度だけ、他のものに手を出しかけた。

 

出しかけて、やめた。

 

あの人は、一番きついものを知っている人間は、それより下のものに困らないと言った。

 

その言葉を信じたわけではない。

 

ただ、五日で二つを覚えるより、一つを覚えられない方がましだと思っただけだ。

 

 

 

あの人は、勝てないと思っている人間は必ず負けると言った。

 

言われた通りだと思う。

 

思うけれど、思っただけで勝てるようになるなら、世の中に負ける人間は一人もいない。

 

 

 

 

 

体育祭の翌日、クラスで反省会があった。

 

平田くんが前に立って、良かった点と悪かった点を順番に挙げていった。悪かった点の方が多かったのに、彼の言い方だと、そう聞こえなかった。

 

「堀北さん、何かある?」

 

名前を呼ばれて、私は顔を上げた。

 

全員がこちらを見ていた。

 

四月からの半年で、私はこの場面で必ず何かを言ってきた。言うべきことがあったからではない。言わなければ、誰も言わないからだった。

 

「……特には無いわ」

 

平田くんが、少しだけ間を置いた。

 

「そっか。分かった」

 

それだけで、次へ進んだ。

 

追及されなかったことに、私は安堵した。

 

安堵したことに、後から腹が立った。

 

反省会が終わった後、須藤くんが近づいてきた。

 

「おい堀北」

 

「何かしら」

 

「お前、走り遅かったろ。障害物」

 

「三位よ」

 

「三位は三位だけどよ。網んとこ、あれ引っかかってただろ」

 

「……ええ」

 

「教えてやろうか。網は頭から入るんじゃねえんだよ。肩からだ」

 

私は、彼の顔を見た。

 

半年前なら、この人がこんなことを言いに来るとは思わなかった。

 

「もう終わった競技よ」

 

「来年もあんだろ」

 

来年。

 

その言葉が、うまく入ってこなかった。

 

来年があるかどうかを、私は今、数えていない。

 

「……覚えておくわ」

 

「おう」

 

須藤くんは満足して、行ってしまった。

 

クラスの数字は三百十四になった。

 

その事実を、私は今日一日、一度も真剣に考えていない。

 

考えるべきだと分かっている。

 

分かっていて、できない。

 

私は、クラスのことを一時的に手放している。

 

手放していることを、誰にも言っていない。

 

 

 

 

 

日付は、だいぶ前から知っている。

 

その日、私は何も用意していなかった。

 

用意しようとして、何を渡せばいいのかが分からなかったからだ。

 

体育祭の準備の真っ只中で、放課後はクラス全員が校庭に出ていた。渡す時間も無かった。

 

体育祭の二日前になって、私はようやくケヤキモールへ行った。

 

男物の並んでいる棚の前に、三十分近く立っていた。

 

ハンカチ。キーケース。ペンケース。時計。

 

一つ手に取って、置いて、次を取る。それを何度も繰り返した。

 

何を迷っていたのか、今は思い出せる。

 

あの人に、目立つものを持たせたくなかった。

 

理由は自分でも分からない。分からないまま、地味なものばかりを手に取っていた。

 

結局、その日は何も買わなかった。

 

買えなかった、と言う方が正しい。

 

櫛田さんに見られたのも、その時だ。

 

彼女は、私が誰かのために選んでいることに気づいていた。気づいた上で、赤木くんの名前を出してきた。

 

出された時、私は何も感じなかった。

 

感じなかったことに、後から驚いた。

 

少し前の私なら、たぶん何かを言い返していた。言い返す言葉を探して、探している間に彼女に取られていた。

 

今は、探す場所が無い。

 

私の中で一番大きな場所を、別のものが全部使っている。

 

翌日、私はもう一度同じ棚の前に行って、黒い革のキーケースを買った。

 

飾りも模様も無いものだった。値札は三千八百。

 

買ってから、渡す理由を自分で説明できなくなった。

 

紙袋は、机の一番下の引き出しに入れたままになっている。

 

別れ際に、私は彼女に「頼むわね」と言った。

 

言ってから、自分でも何を頼んだのか分からなかった。

 

たぶん、クラスのことだ。

 

私が負けた後、いう言葉が続きかけて、そこで止めた。

 

止めたけれど、止める前に考えたのは確かだった。

 

 

 

 

 

私が髪を伸ばし始めたのは、十四の時だった。

 

きっかけは、兄の一言だった。

 

「髪は、長い方がいい」

 

それだけだった。誰の話とも言わなかったし、私に向かって言ったのかどうかも、今になってみれば分からない。

 

私は、その日から切るのをやめた。

 

美容院で、どこまで切りますかと訊かれるたびに、毛先だけと答えるようになった。

 

三年経って、今の長さになった。

 

一度も、なぜ伸ばしているのかを自分に訊かなかった。

 

訊けば、答えが一つしか出ないからだ。

 

兄は、伸びた髪について何も言わなかった。

 

一度も、だ。

 

何も言われないことを、私は肯定だと受け取った。

 

受け取ると、自分で決めた。

 

そうやって、私は兄の言葉を一つずつ拾って、自分の形にしてきた。

 

拾ったものが本当に落とされたものなのか、私は確かめたことがない。

 

 

 

 

 

体育祭の結果は、生徒会が読み上げた。兄は、自分の口でDが四位だと言った。

 

読み上げながら、こちらを見なかった。

 

私は、報告に行かなかった。

 

正確には、一度だけ行きかけた。

 

前の日の放課後、私は四階まで上がった。

 

生徒会室の扉の前に立って、ノックの形に手を上げた。

 

上げたところで、中から声が聞こえた。

 

兄の声だった。

 

何かの手続きについて、誰かに指示を出していた。内容は聞き取れなかった。

 

聞き取れなくても、声の高さで分かる。

 

兄は、何も変わっていなかった。

 

三年間積み上げたものを、いつも通りの声で、いつも通りに回している。

 

その中に入っていって、私は何を言うつもりだったのだろう。

 

四位でした、と言う。

 

最下位は避けますと言ったのに避けられませんでした、と言う。

 

そこまでは言える。

 

その次に、兄は必ず訊く。

 

――それで、お前はなにをしにきた。

 

訊かれたら、私は答えられない。

 

私は手を下ろした。

 

下ろして、階段を降りた。

 

降りながら、自分が逃げたのかどうかを考えた。

 

考えても、答えは出なかった。

 

赤木くんなら、降りたと言うだろう。

 

一年生の四月から、私は数字が出るたびに兄のところへ行った。悪い数字ほど、先に行った。

 

叱られるのが目的ではない。

 

叱られに行ける自分でいることが、私の形だった。

 

今回は、行けなかった。

 

最下位は避けます、と言った。

 

避けられなかった。

 

それだけの話なら、行ける。

 

行けないのは、その数字より重いものを、私が今、兄に隠しているからだ。

 

隠しているものは、兄自身のことだ。

 

 

 

 

 

五日の間に、赤木くんとは一度しか会っていない。

 

水曜日の昼休み、階段のところですれ違った。

 

「赤木くん」

 

「よう」

 

それだけだった。

 

止まりもしなかった。

 

私は、訊きたいことをいくつも用意していた。用意していたものが、一つも出てこなかった。

 

出てこないまま、赤木くんは階段を降りていった。

 

降りていく背中を見ながら、私は自分が何を期待していたのかを考えた。

 

励ましではない。赤木くんはそんなものを持っていない。

 

たぶん私は、種目が何かを知っていると言ってほしかった。

 

知っていると言われれば、私は五日間を使った理由を、自分の外に置ける。

 

置けなかった。

 

置けなかったから、私は夜、また画面を開いた。

 

 

 

 

 

体育祭の夜、坂柳さんから連絡が来た。

 

日時と場所だけだった。

 

文面の最後に、一行だけ付いていた。

 

『当日は、赤木くんの他に、どなたもお連れにならないでください』

 

その一行に、私はしばらく引っかかっていた。

 

赤木くんが来ることは、坂柳さんも私も知っている。書く必要のない一行だ。

 

書いたということは、それ以外に誰かを連れてくると思われているということになる。

 

誰を連れていくと思われているのか、私には分からなかった。

 

私は、その一行に返信しなかった。

 

わかったわ、とだけ返せばいい場面だった。

 

返さなかった理由は、自分でも分からない。

 

当日の朝、私は六時に目が覚めた。

 

眠っていたのかどうかも曖昧だった。

 

カーテンを開けると、雲が薄く広がっていた。晴れでも雨でもない空だった。

 

約束は午後一時。特別棟の三階、第三会議室。

 

坂柳さんからの連絡には、種目が書かれていなかった。

 

読み合いの勝負、とだけ。

 

五日間で覚えたものが役に立つ保証は、どこにも無い。

 

役に立たない可能性の方がずっと高い。

 

赤木くんは、一番きついものを教えると言った。それが出るとは限らないとも言った。

 

出るとは限らないものに、私は五日間を使った。

 

使ったことを、後悔はしていない。

 

他に使いようが無かったからだ。

 

 

 

 

 

十一時には、何もすることが無くなった。

 

何もすることが無くなると、考える。

 

考えても仕方のないことばかりが、順番に出てくる。

 

負けたら、兄は立場を失う。

 

三年間、兄が積み上げたものが、私のせいで最後の半年で崩れる。

 

崩れた後、兄は私に何も言わないだろう。

 

何も言わない人だから、私はずっと後ろを歩いてきた。

 

 

 

 

 

十二時に、部屋を出る前に、引き出しを開けた。

 

紙袋が入っている。

 

黒い革のキーケース。渡せなかったものだ。

 

今日持っていく理由は、一つも無い。

 

勝負の場に贈り物を持っていく人間はいない。

 

それでも、私はそれを鞄に入れた。

 

理由は考えなかった。

 

考えれば、置いていく理由の方が必ず多くなる。

 

多い方を選んできた結果が、今の私だ。

 

鏡の前で、制服の襟を直した。

 

髪を、一度だけ後ろで束ねてみた。

 

体育祭の日と同じ結び方だった。走る時は、こうしないと邪魔になる。

 

今日は走らない。

 

それでも束ねようとしたのは、邪魔だと思ったからではない。

 

短く見えるからだ。

 

束ねたまま、しばらく鏡を見ていた。

 

見ていて、結局ほどいた。

 

ほどいた理由も、自分では説明できなかった。

 

今日の勝負に、髪の長さは何の関係も無い。

 

関係の無いものを、私は十四の時から三年間、毎日確かめている。

 

 

 

 

 

私は、まだ勝てるとは思えていない。

 

ただ、それを、口に出すつもりも無い。

 

赤木くんは、勝てるわけがないと思っている人間は負けると言った。

 

だから私は、今日、それを一度も言わない。

 

言わないことと、思わないことは違う。

 

違うけれど、今の私に用意できるのは、そこまでだった。

 

上がれない手でも、形だけは張っておく。

 

張っていた人間と、降りた人間とでは、終わった後の扱いが違う。

 

 

 

 

 

寮を出ると、風が冷たかった。

 

10月に入っていた。

 

ケヤキの並木が、先の方から色を変え始めている。

 

特別棟までは、歩いて十分かからない。

 

歩きながら、私は一つだけ決めた。

 

今日、私は兄を守る。

 

それ以外のことは、何も決めない。

 

決められるだけの材料を、私は持っていない。

 

持っていないまま座る人間を、あの人は何と呼んだだろうか。

 

素人、と言った気がする。

 

訳も分からないまま死ぬのはつまらない、とも言った。

 

つまらなくないように死ね、という意味ではなかったはずだ。

 

たぶん、あれは、そういう意味ではない。

 

特別棟の入口で、私は一度だけ立ち止まった。

 

鞄の中で、紙袋が乾いた音を立てた。

 

音を確かめてから、扉を押した。

決着をつけてほしいのはどれ?

  • 坂柳との再戦
  • 龍園との貸借
  • 綾小路との関係
  • 堀北との距離感
  • 櫛田との停戦
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