第三会議室は、思ったより狭い部屋だった。
長机が一つと、椅子が四脚。南西向きの窓から、午後の光が入っている。壁際に、使われていない椅子が積まれていた。
坂柳さんは、先に来ていた。
奥の椅子に座って、杖を膝の上に横にしている。机の上に、布をかけた箱が一つ置いてあった。
赤木くんも、もう座っていた。
「坂柳さん」
「よくいらしてくださいました、堀北さん」
「赤木くん」
「よう」
私は、赤木くんの向かいに座った。
鞄を椅子の脇に置いた時、中で紙の擦れる音がした。
持ってくる理由は、一つも無かった。
「一つ訊く」
「何かしら」
「準備したか」
私は、机の上で手を止めた。
訊かれると思っていなかった。
「したわ」
「そうかい」
「何に使うのかは、分からないままだけれど」
「それでいい」
それ以上は訊かれなかった。
訊かれたら、私は五日間の中身を並べ始めていた。並べれば、どれだけ足りていないかを自分で数えることになる。
「言っておくわ」
「なんだ」
「この前、あなたが言ったこと」
「降りるなってやつか」
「それだけは守るつもりよ」
「そうかい」
「私が負けたら、兄は終わる」
「そうだ、あんたが終わらせるんだ」
それで、この人は黙った。
「ふふ、主催者が遅れてますね」
坂柳さんがそう言った時、扉が開いた。
ノックは無かった。
「遅れた」
綾小路くんだった。
「遅かったですね」
坂柳さんは、それだけ言った。
驚いた顔ではなかった。
綾小路くんは、壁際の椅子から一脚取って、少し離れた位置に置いた。
置いて、座った。
「見てる。邪魔はしない」
「どうぞ」
坂柳さんは、それ以上何も訊かなかった。
「......せめて私に一言ないのかしら」
棘を刺すように言った。
「悪かったな、怒ってるか」
「通り越して呆れてるわ」
心の底からそう思っている、実際顔を突き合わせて出てくるのは怒りでも、悲しみでもなく、呆れだった。
「いい勝負を期待している」
「同じクラスで今後どんな顔で過ごす気かしら」
「オレは気にしない」
「そう言うだろうと思ってたわ」
「お前が勝って、無事教室に来れればの話だがな」
教室に冷たい風が吹いた。
赤木くんが笑った。
「フフ、呼んでねえ客が一番早く来るってのは、どこの卓でも同じだな」
「一番遅く来たつもりだが」
「来るつもりのねえ奴は、遅れもしねえよ」
綾小路くんは、答えなかった。
「久しぶりだな、赤木」
「そうでもねえだろ。先週も見た」
「二人三脚のことか」
「真ん中で走ってた」
「速くも遅くもない位置を選んだだけだ」
「ククク、真ん中で走るのが一番疲れるんだ」
綾小路くんは、すぐには答えなかった。
この二人が話すのを、私は初めて見た。
言葉の数は少ない。少ないのに、間が空かない。
先に何を言われるか分かっている人間同士の間だった。
坂柳さんからの連絡の、最後の一行を思い出していた。
赤木くんの他に、どなたもお連れにならないでください。
私は誰も連れてこなかった。
それでも、一人増えている。
増えたことに、坂柳さんは何も言わなかった。
連れてくるなと書いた本人が、何も言わない。
坂柳さんが布を取った。
出てきたのは、小さな盤と木の駒だった。
盤は六マス四方しかない。駒は二色に分かれていて、こちらの側は一色で八枚。
駒の片面に、印が押してある。
「今回の勝負はガイスターです」
聞いたことのない名前だった。
「八枚のうち、四枚が良い駒。四枚が悪い駒です。印はこちら側にしか見えません。相手からは、どれがどれか分からない」
「見えねえのか」
「ええ。最後まで」
私は、盤に目を落とした。
五日間で私が覚えたものは、この盤の上に一つも無い。
「なぜ、これを」
「運が入らないからです」
坂柳さんは、駒を戻した。
「札の遊びには、配るという工程があります。配られた時点で、勝ち負けの半分は決まっている。負けた方が、配りのせいにできてしまう」
「それがいけねえのか」
「言い訳の余地は、どちらにも残したくありません」
坂柳さんは、盤の縁を指でなぞった。
「それに、これは覚える量がありません。三分で終わります。五日でも五年でも、変わらない」
私は、顔を上げた。
言い返す言葉を探して、探すのをやめた。
五日でも五年でも変わらないのなら、私が使った五日は、この部屋では最初から無かったのと同じだ。
「読む以外に、やることが一つもない勝負です」
説明は、本当に三分で終わった。
駒は一マスずつ、縦か横に動く。斜めは無し。相手の駒に乗れば取れる。取った時に、初めてその駒の印が見える。
勝ち方は三つあった。
自分の良い駒を一枚、相手の陣の奥の角から盤の外へ出せば勝ち。
相手の良い駒を四枚とも取れば勝ち。
自分の悪い駒を、四枚とも相手に取らせれば勝ち。
「三つ目を、もう一度言ってくれ」
赤木くんだった。
坂柳さんが、少しだけ目を上げた。
「自分の悪い駒を、四枚とも相手に取らせれば勝ちです」
「取らせれば」
「はい」
「取られて勝つのか」
「そうなります」
赤木くんは、盤を見た。
見て、もう一度訊いた。
「四枚とも、か」
「四枚ともです」
他のルールは一度で済ませた人が、そこだけ二度訊いた。
意味があるのだろうと思った。
何の意味なのかは、分からなかった。
「並べろ」
「それで、よろしいのですか」
「くどい、聞いたろ」
駒は、互いに見えないように伏せて並べた。
自陣の手前二列、真ん中の四マスに四枚ずつ。両端の角は空ける。相手の陣の角が、こちらの出口になるからだ。
私は長く迷った。
奥に良い駒を置けば守りやすい。前に出せば早く着く。どちらにも理屈があって、どちらを選んでも相手には見えない。
見えないなら、理屈の通る方を選ぶしかない。
私は、良い駒を奥の列に寄せた。
顔を上げると、赤木くんはもう並べ終えていた。
十秒もかかっていなかった。
迷った跡が、どこにも無かった。
「では。先手は堀北さん」
私は、中央の一枚を前に出した。
決めていた。攻める。
八枚のうち四枚は取っていい駒で、外れても情報が残る。
分からないものを分からないまま置いておくと、最後に一番高い値を払う。五日間で覚えたのは、それだけだった。
五手目で、一枚取れた。
印を見た。
悪い駒だった。
八手目で、もう一枚。
悪い駒だった。
十手目で、三枚目。
悪い駒だった。
指が止まった。
三枚。
あと一枚取れば、この人の三つ目の勝ち筋が揃う。
顔を上げた。
赤木くんは、盤を見ていた。
三枚取られた側の顔ではなかった。
「フフ、取らねえのか」
「取らないわ」
「まだ表しかみれねえか」
「エスパーじゃないのよ」
私は、自分の駒を一つ横に引いて、道を塞いだ。
そこから先が、この勝負だった。
この人は、駒を前に出し続けた。
出した駒を、私の駒が利いている場所へ、わざわざ入れてくる。
取れば四枚目かもしれない。取らなければ、その駒が奥へ進む。奥の角に着けば、一つ目の勝ち方で終わる。
どちらも選べない。
「あなたの駒、さっきから取られてばかりよ」
言えば何か返ってきて、返ってきたものから何か読めると思った。
「取られてるんじゃねえ」
赤木くんは、次の駒を前に置いた。
「渡してるんだ」
指が止まった。
「……どうして、渡すの」
「フフ、この勝負はあんたが決めんだ」
私は、何も言えなかった。
言われていることの意味は分かる。分かるのに、それを盤の上で自分の手に置き換えることができない。
坂柳さんが、首を傾げた。
「堀北さん、あなたわかってますよね」
声に出たのは、その一度きりだった。
以後、坂柳さんは一度も口を出さなかった。
一度だけ、仕掛けた。
一枚を大きく前に出した。赤木くんの駒が二つ利いている場所へ、自分から入れた。
取らせるために置いた。
取ってくれれば分かる。良い駒なら、この人の二つ目の勝ち筋が一枚進む。悪い駒なら、私の三つ目が一枚進む。どちらにしても、次の一手で何を考えているかが読める。
取らなかった。
「取らないのね」
「とらねぇよ」
「なぜ」
「俺がとったら、俺が勝ったになるだろ」
顔が動いたと思う。
「覚悟決めろよ、堀北」
私は、その駒を引かなかった。
引けば、考えて置いたと認めることになる。
置いたままにした。
全ての不利益は当人の能力不足。それくらいは、もうわかってる。
そこから十二手かかった。
塞いだ。塞いだ先をまた塞いだ。駒を削られても引いて、引けなくなるまで引いた。
途中で一度、手が震えた。
震えたが、止めなかった。
最後の局面で、道が二本残った。
一本は、私の駒が塞いでいる。
もう一本は、空いている。
空いた方に、この人の駒が一枚。塞いでいる方の手前にも、一枚。
空いた方を塞げば、手前の駒が奥へ入る。
手前の駒を取れば、四枚目かもしれない。
取らなければ、空いた方から出られる。
どちらでも終わる。
私は長く考えた。
考えても、二本のうちどちらが良い駒なのかは分からなかった。
手前の駒を取った。
指で持ち上げて、印を見た。
悪い駒だった。
四枚目だった。
「……私の負けね」
坂柳さんが立ち上がった。
「堀北さん、正直なところ拍子抜けしました」
「頑張った方よ」
「この勝負に負けたら、あなたは兄を失う。本当に理解していますか」
「理解しているわ」
十分理解している。私の能力不足がこの結果を招いた。それ以上でもそれ以下でもない。
「……あなたのことを買い被りすぎたかもしれません」
「そうね」
「綾小路くん、こんなものを見たくてわざわざこんな場を設定したのですか」
綾小路くんは何も言わなかった。
「よくわかりませんね。綾小路くん、あなたのことも買い被りすぎていたのかもしれません」
「フフ、ごちゃごちゃ外野からうるせぇな」
赤木くんが笑った。
「......失礼いたしました。改めて、赤木くんの勝ちです」
坂柳さんの声が、そのあとに入った。
盤を見ていた。
顔を上げられなかった。
泣きはしなかった。声も震えなかった。
ただ、そこに座っていた。
兄が終わった。私のせいで終わった。
それを、私はこの部屋に来る前に一度飲み込んでいる。
飲み込んだものを、もう一度飲み込んだ。
一度目より重かった。
覚えたものは一つも使えなかった。使う場面が来ないまま、負けた。
必死に堪えていた涙が込み上げてきた。
ただ一つ、言えることはあった。
「......言っていいかしら」
「なんだ」
「降りなかったわ」
それだけだった。
それ以上は言わなかった。
言えば、言い訳の形になる。
壁際で、綾小路くんが立ち上がった。
盤の横まで来て、上から見下ろした。
見ただけで、何も動かさなかった。
「確認させてくれ」
「なんだ」
「最後の一枚、取られると思っていたか」
「フフ、どっちでも変わらねぇ」
綾小路くんの目線が盤面を見た。
それだけだった。
説明は無かった。
綾小路くんは、それ以上訊かなかった。
訊かずに、私の方を一度見た。
見てから、壁際の椅子に戻った。
坂柳さんが、盤の上の駒を集め始めた。
集めながら、言った。
「では、赤木くんが勝ったということで、5月8日の件は外に出ます」
「そうかい」
「堀北さんの負けにより、あの夜のことは私の手元に残ります」
「そうかい」
「よろしいですね」
「よくねえよ」
坂柳さんの手が、止まった。
「なんであんたの手元に残るんだ」
「……何を」
「俺の勝ち分だ。あんたのもんじゃねえ」
「……堀北さんが負けた以上、そういう取り決めです」
「ククク、ふざけたことを言ってんじゃねぇぞ。あんたは打ってねえ」
赤木くんが、机に手をついた。
「打ったのは俺だ。座らなかった奴が勝ち分を持って帰る卓は、卓じゃねえ」
坂柳さんは、しばらく赤木くんを見ていた。
それから、駒を置いた。
「……差し上げます」
「いいのか」
「差し上げると言いました」
「フフ、ずいぶんあっさりだな」
「ただ、安くはありません」
坂柳さんは、杖を持ち直した。
「条件を付けます」
「なんだ」
「使ってください」
杖の先が、床を一度突いた。
「渡した以上、どう使うかは私の口出しするところではありません。ですが、放棄は認めません」
「放棄か」
「そのまま何もしない、というのが一番安い使い方です。あなたが黙っていれば、5月8日のことは誰の口からも出ない。生徒会長の立場は無事に残り、堀北さんも助かる」
声が、少しだけ硬くなった。
「まさか、そのおつもりではありませんね」
「捨てたら、どうする」
「捨てたのなら、私が拾います」
即座に返ってきた。
「拾って、私が使います。ひと月あまり、この場を作るために使いました。使われないのであれば、渡した意味がありません」
「フフ」
赤木くんが笑った。
「安心しろ」
「……安心、ですか」
「捨てやしねえよ」
赤木くんは、椅子から立った。
立って、机に手をついたまま言った。
「さらに賭け金を上げて続行する。倍プッシュだ」
坂柳さんが、まばたきを一つした。
「今、俺が受け取ったもんがある。5月8日の件と、その周りで転がってる話の始末だ。全部、俺のもんだ」
「……それは構いませんが」
「それを、丸ごと乗せる」
私は、顔を上げた。
「赤木くん、何を」
「乗せた上で、もう一つ乗せる」
赤木くんは、坂柳さんを見たまま言った。
「俺の退学だ」
部屋の音が、止まった。
野球部の声だけが、遠くで続いていた。
「待って」
立ち上がった。椅子が後ろに鳴った。
「何を言っているの。あなたは勝ったのよ。勝った人が、なぜもう一度」
「勝ったからだ」
「意味が分からないわ」
「勝った分を持って帰ったら、そこで終わりだろ」
「終わっていいでしょう」
声が大きくなりかけて、止めた。
「私が負けて、兄が終わる。それで済む話なのよ。あなたが退学する理由なんて、どこにも」
「あんたの兄貴は」
言葉が切れた。
「まだ終わっちゃいねえ」
止まった。
「乗せたってことは、まだ場に出てるってことだ。決まっちまったもんは乗せられねえ」
「……それは」
「勝ちゃ、戻ってくる。負けりゃ、兄貴と一緒に俺も消える」
血が引くのが、自分で分かった。
たった今、私は兄が終わることを二度飲み込んだ。
飲み込んだものを、この人が机の上に戻した。
「そんな取引、私は頼んでいないわ」
「頼まれてねえよ」
赤木くんは座らなかった。
「これは俺の勝負だ、あんたは負けた」
「……勝手だわ」
「そうだな」
「……お待ちを」
坂柳さんの声が、初めて低くなった。
「あなたには、何も懸からない形にしたはずです」
「あんたが懸けなかっただけだ」
「私が懸けなかったものを、あなたが勝手に」
「勝手に乗せる」
言い切った。
「受け取った分と、俺の退学。二つ積む。それで取りに行くのは――」
指が、二人に向いた。
一人は、机の向こうにいる。
一人は、壁際に座っている。
「あんたと、綾小路の退学だ」
坂柳さんの杖が、膝の上から滑って、床に落ちた。
乾いた音が鳴った。
誰も拾わなかった。
壁際で、綾小路くんが足を組み替えた。
決着をつけてほしいのはどれ?
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坂柳との再戦
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龍園との貸借
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綾小路との関係
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堀北との距離感
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櫛田との停戦