杖を拾うことができなかった。
床に落ちた音は聞こえていた。手を伸ばせば届く場所にあることも分かっていた。
それでも、私はしばらく動けなかった。
驚きは、もう盤の途中で済ませてある。
動けなかったのは、目の前の男が今言ったことが、私の持っている言葉のどれにも当てはまらなかったからだ。
賭けを吊り上げる人間なら、見たことがある。
積み増すのは、勝ちが見えている時だけだ。見えていない時に積む人間を、賭け事では愚か者と呼ぶ。
赤木くんは、勝ちが手の中にある場所で、勝った分を全部手放した。
手放した上に、自分自身をさらに置いた。
愚か者の形をしている。
けれど、この人は愚か者ではない。
それを、私は八月の船の上で確かめてしまっている。
「綾小路くん」
自分の声が、思ったより静かに出た。
「……何か、おっしゃることはありませんか」
綾小路くんは、座ったまま答えた。
「構わない」
会議室の中に、その一言だけが残った。
堀北さんが、綾小路くんの方を向いた。
「……今、なんて」
「受けると言った」
「あなた、自分が何を受けたか分かっているの」
「退学だろう」
「だから――」
「負ければ、だ」
綾小路くんは、立ち上がらなかった。
座ったまま、赤木くんの方だけを見ていた。
「赤木。お前が負ければ堀北の兄は予定通り失脚し、お前は退学する。オレたちが負ければ、オレと坂柳が退学する。それで合っているか」
「そういうこった」
それで、確認は終わった。
三秒も使わなかった。
「綾小路くん」
堀北さんが、綾小路くんの前まで行った。
「あなた、まさか」
「まさか、なんだ」
「今日ここへ来たのは、これのためなの」
綾小路くんは、堀北さんを見上げた。
答えなかった。
「答えないまま、退学を受けるの」
「受けた」
「……あなたは、いつもそうね。何を訊いても、訊いたことにだけ答える」
「訊かれたことに答えている」
堀北さんは、それ以上言わなかった。
言わないまま、机の方へ戻った。
戻る途中で、一度だけ振り返った。
振り返った顔を、私は見ていた。
怒っている顔だった。
そして、怒りをどこにも置けないでいる顔だった。
私は、綾小路くんの顔を見ていた。
驚いていない。
赤木くんが自分の退学を乗せたことにも、取りに行く先に自分の名前が入っていたことにも、驚いていない。
こうなることを、この人は知っていた。
いや、待っていた。
知っていて、壁際の椅子に座って、盤が終わるのを待っていた。
私は、その理由を一つも持っていなかった。
今朝、部屋を出る前に、真澄さんが来た。
「今日、どこ行くの」
「用事です」
「ふうん」
彼女は、それ以上訊かなかった。
訊かない人だ。訊かないことで、私の側の線を守ってくれている。
出ていく時に、一言だけ言われた。
「あんた、最近笑い方が変わったよ」
「そうですか」
「前は、笑う前に一回考えてた」
扉が閉まってから、私はしばらくその場に立っていた。
笑う前に考えなくなったのが、いつからなのか。
思い出せたけれど、認めたくなかった。
「坂柳」
赤木くんが、私を見ていた。
「あんたが残ってる」
「……はい」
「どうする」
私は、床の杖を見た。
拾わなければ、立てない。
立てないまま、答えなければならない。
「お尋ねします」
「なんだ」
「あなたは、私に退学してほしいのですか」
「いや」
返事に間が無かった。
「では、なぜ」
「フフ、その方が面白えだろ」
息を止めていたことに、自分で気づいた。
「……趣味が悪いですね」
「そうかい」
九月の初め、私は綾小路くんと取引をした。
綾小路くんが差し出したのは、5月8日の件。
その対価として求めたのは、赤木くんが降りられない場所を用意することだけだった。
ひと月あまりかけて、私は空の卓を作った。
赤木くんには、何も懸けさせない。そうすれば、赤木くんなら断って帰ると予想した。
断って帰れば、堀北さんだけが潰れる。堀北会長も落ちる。赤木くんが助けなかったという事実が残る。
私は卓に座ってすらいないのだから、失うものが一つもない。
受けたなら、その時は赤木くんが自分で中身を入れるしかない。空のままでは勝負にならないからだ。
どちらに転んでも、私は取れるはずだった。
そして、どちらに転んでも、あの綾小路くんが何をするかが見える。
ホワイトルームで何を身につけ、どう振る舞うのか。
それが、8年ぶりに会話をし、一番見たかったものだった。
その空の卓に、赤木くんが中身を入れた。
入れた中身の中に、私の名前がある。
私が見たかったものとは、違っていた。
受ければ、負けた時に全てを失う。学校も、Aクラスも、この半年で積み上げたものも。
断れば、何も失わない。
勝った分は赤木くんのものになり、私は今日この部屋を出て、明日からいつも通りにAクラスへ戻る。
損得で言えば、断る一択だった。
分かっているのに、口が動かなかった。
「坂柳さん」
堀北さんの声だった。
「あなたが断れば、この話は終わるわ」
「……ええ」
「お願い、終わらせて」
私は、堀北さんを見た。
堀北さんは、今日負けた。負けて、兄が終わることが決まった。
その上で、私に終わらせろと言っている。
自分の負けを確定させたまま、赤木くんの退学を止めようとしている。
「……堀北さん」
「なに」
「先ほどは失礼いたしました。あなたは強い」
「今その話をしないで」
私は、答えを出せなかった。
受けるとも、断るとも言えなかった。
言えないまま時間が過ぎていく感覚を、私は知らなかった。
「……赤木くん。私が断ったら、どうなさいますか」
「フフ、断れねぇよ」
言われて、私は口を閉じた。
断れる。断れるはずだった。損得で言えば、断る一択だった。
その一択を、この人は笑って否定した。
「……少し、お時間をいただけますか」
赤木くんは、何も言わなかった。
言わない代わりに、扉の方を見た。
扉が、鳴った。
ノックだった。
二回。
扉が開いた。
制服の上に、生徒会の腕章を着けた人が立っていた。
堀北会長。
堀北さんが、立ち上がった。
椅子が倒れた。
倒れた音にも気づいていない顔だった。
「兄さん――」
「座っていろ」
短かった。
堀北さんは、座らなかった。座らないまま、立っていた。
堀北会長は、部屋の中をゆっくり見た。
盤。机の端に並んだ四枚の駒。床の杖。壁際の綾小路くん。
そして、机に手をついたままの赤木くん。
「赤木」
「よう」
「要請どおりだ」
「フフ、待たせたな」
「待ってはいない」
堀北会長は、部屋に入ってきた。
入って、扉を閉めた。
「一年Aクラス、坂柳有栖」
名前を呼ばれて、私は顔を上げた。
「この部屋で行われる勝負を、生徒会長として、公認試合として扱う」
空気が、変わった。
「……お待ちください」
私は言った。
「これは私事です。生徒会が関与する話では」
「関与するかどうかは、俺が決める」
「根拠は」
「無い。前例を作る」
堀北会長は、手帳を出した。
「日付、場所、参加者、懸けたもの。学校の書式ではない。生徒会長名義で残す」
指が、冷たくなっていくのが分かった。
記録が残る。
この場で交わされた全てが、後から読める形になる。
断ったという事実も、残る。
「辞退した場合、記録には何と」
「辞退した、とだけ書く」
「理由は」
「書かない。理由を書けば、読んだ人間がそれで納得する」
堀北会長は、ページを一枚めくった。
「納得させる義理は、俺には無い」
一年Aクラス坂柳有栖は、退学を賭けた勝負を辞退した。
それだけが書かれた紙が、この学校のどこかに残る。
誰が読むかは問題ではない。
私自身が、それを一生知っている。
そして、その記録を残す人は、私が落とそうとした人だった。
5月8日の件で、この人の立場を失わせる。そのために、私はひと月を使った。
その相手が、今、私の卓の見届け人として立っている。
赤木くんは、驚いていなかった。
生徒会長がノックをして入ってきて、公式戦だと宣言した。
驚かない理由は一つしかない。
最初からこの札を持っていた。
この人と赤木くんの間で、何かが先に交わされている。
いつ交わされたのかは、分からない。
私は、一週間前の校舎裏を思い出していた。
あの時、赤木くんは、私が何を話しても、何も動かさなかった。
動かす必要が無かったのだ。
堀北さんが、会長の方を見ていた。
「兄さん」
「なんだ」
「今日のことを、ご存じだったんですか」
「要請があった。それだけだ」
「いつ」
「お前に答える義理は無い」
堀北さんは、兄の顔を見ていた。
兄は、妹の顔を見なかった。
「兄さん、待ってください。これは私が――」
「鈴音」
「私の失態です。兄さんが出てくる話ではありません」
「その結果、失うものがあるのは俺だ」
「なんとかします」
「敗者にできることなどない」
「でも、これは私が受け、私が始めた勝負です」
「お前が始めた話なら、なぜお前は座っていない」
堀北さんが、言葉に詰まった。
「負けたからだ」
「……はい」
「負けた人間は、客席に戻る。そういうものだと、お前は思っている」
「違います」
「違わない」
堀北会長は、妹を見なかった。
手帳を開きながら、言った。
「俺は、その戻り方を認めない。認めない、と言うために今日ここへ来た」
「……どういう」
「次の勝負に、お前も座れ」
部屋の中が、静かになった。
堀北さんが、口を開いて、何も言えずに閉じた。
「兄さん、私は今日、負けたんです」
「知っている」
「知っていて、座れと言うんですか」
「言っている」
堀北さんは、長い間、立っていた。
倒れた椅子を、ゆっくり起こした。
起こしてから、赤木くんの方を見た。
「赤木くん」
「なんだ」
「私が座ったら、あなたの負けは私の負けになるのね」
「そうなるな」
「あなたの退学が、私のせいで決まることもあるということ」
「そうだな」
「私のせいで、兄さんは立場を失い、赤木くんも席を失う」
「クク、そういうこともあるかもな」
隠さなかった。
「……分かったわ」
「降りる手もあるぞ」
「降りないわ」
即答だった。
「今日、私は負けた。覚えたものは一つも使えなかった。それでも、客席には戻らない」
「そうかい」
赤木くんは、それだけ言った。
堀北会長は、手帳の上で万年筆を止めていた。
止めたまま、妹の横顔を見ていた。
見ている時間が、少しだけ長かった。
それから、何も書かずにページをめくった。
私は、床を見た。
杖が、まだそこにある。
拾わなければならなかった。
手を伸ばした。
指先が届かない。少しだけ、足りない。
椅子から身体を前に出したところで、身体が傾いた。
誰も、手を貸さなかった。
赤木くんも、動かなかった。
堀北会長は、万年筆を持ったまま、こちらを見ていた。
見届ける人の目だった。
私は、椅子の縁を掴んで、もう一度身体を前に出した。
指先が、杖に届いた。
拾い上げて、杖を床につけた。
つけて、立った。
自分の足で立った。
「受けます」
その言葉が、部屋の中に落ちた。
「坂柳さん――」
「堀北さん。私も、座ります」
私は、赤木くんの方を向いた。
「あなたの退学と、私の退学と、綾小路くんの退学。そして、堀北会長の立場。全て場に出ています。よろしいですね」
「ああ」
「組は、懸けた者同士。私と綾小路くん。赤木くんと堀北さん」
「それでいい」
「赤木」
堀北会長が言った。
「お前から付ける条件は」
「無え」
「何も無いのか」
「乗せるもんは乗せた。あとは座るだけだ」
堀北会長は、それを一行で書き留めた。
書き留めながら、一度だけ堀北さんの方を見た。
堀北さんは、堀北会長を見ていなかった。
堀北会長が、万年筆の蓋を開け直した。
「種目は」
誰も、すぐには答えなかった。
赤木くんが、壁際を見た。
「ククク、卓は整ったぜ。綾小路」
私には、何のことか分からなかった。
分からないまま、赤木くんの視線の先を見た。
綾小路くんが、立ち上がるところだった。
「このために、失うものを持つ四人を集めた」
「そうかい」
「お前の本気を見るならば、これしかない」
「フフ」
「麻雀だ」
麻雀。
ルールは知っている。四人で打つ。牌を並べて、役を作る。
盤の上のものなら、私は一通り得意と自負している。チェスも、将棋も、囲碁も私に勝てる人間のほうが少ない。麻雀はそこまで嗜んではなかったが、点数の数え方を覚えるのに、一晩あれば足りる。
「堀北さん」
私は、訊いた。
「ご存じですか。麻雀を」
堀北さんは、答えなかった。
答えずに、赤木くんの方を見た。
赤木くんは、何も言わなかった。
私は、その沈黙を、知らないという意味に数えた。
堀北さんは、たぶん打てない。
赤木くんは、分からない。
運が入る。配られる。
さっき、私はそれを嫌ってガイスターを選んだ。
嫌だと言う権利が、今の私にあるだろうか。
この卓を作ったのは私だ。堀北さんを呼び、会長の名前を懸け、赤木くんを座らせ、ひと月をかけて周りを巻き込んだ。
その卓で、組んだ相手が選んだものに、どの口で異を唱えるのか。
「異存はありません」
私は、そう言った。
「決まりだ」
堀北会長が、万年筆を走らせた。
走らせる音だけが、しばらく部屋に残った。
赤木くんは、机から手を離した。
離して、窓の外を見た。
野球部の声が、まだ続いていた。
「フフ」
誰に向けたのでもない笑い方だった。
私は、綾小路くんの横顔を見ていた。
見ても、何も読めなかった。
ということで、本編はもうあと決着のち、完結の予定です。
いろいろ伏線を散りばめつつ、三年生編まで構想をしていましたが、皆さんの評価、感想も鑑み、確かにアカギである必要のない展開も多く、どちらの結末になったとしても今回の話以上の場を作ることは不可能だろうと判断しました。
駄筆ながらご精読いただいた皆様、ありがとうございました!