【完結】アカギ〜実力至上主義の教室に舞い降りた天才〜   作:GC

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第68話「立会」

杖を拾うことができなかった。

 

床に落ちた音は聞こえていた。手を伸ばせば届く場所にあることも分かっていた。

 

それでも、私はしばらく動けなかった。

 

驚きは、もう盤の途中で済ませてある。

 

動けなかったのは、目の前の男が今言ったことが、私の持っている言葉のどれにも当てはまらなかったからだ。

 

 

 

 

 

賭けを吊り上げる人間なら、見たことがある。

 

積み増すのは、勝ちが見えている時だけだ。見えていない時に積む人間を、賭け事では愚か者と呼ぶ。

 

赤木くんは、勝ちが手の中にある場所で、勝った分を全部手放した。

 

手放した上に、自分自身をさらに置いた。

 

愚か者の形をしている。

 

けれど、この人は愚か者ではない。

 

それを、私は八月の船の上で確かめてしまっている。

 

「綾小路くん」

 

自分の声が、思ったより静かに出た。

 

「……何か、おっしゃることはありませんか」

 

綾小路くんは、座ったまま答えた。

 

 

 

 

 

「構わない」

 

 

 

 

 

会議室の中に、その一言だけが残った。

 

堀北さんが、綾小路くんの方を向いた。

 

「……今、なんて」

 

「受けると言った」

 

「あなた、自分が何を受けたか分かっているの」

 

「退学だろう」

 

「だから――」

 

「負ければ、だ」

 

綾小路くんは、立ち上がらなかった。

 

座ったまま、赤木くんの方だけを見ていた。

 

「赤木。お前が負ければ堀北の兄は予定通り失脚し、お前は退学する。オレたちが負ければ、オレと坂柳が退学する。それで合っているか」

 

「そういうこった」

 

それで、確認は終わった。

 

三秒も使わなかった。

 

「綾小路くん」

 

堀北さんが、綾小路くんの前まで行った。

 

「あなた、まさか」

 

「まさか、なんだ」

 

 

 

「今日ここへ来たのは、これのためなの」

 

 

 

綾小路くんは、堀北さんを見上げた。

 

答えなかった。

 

「答えないまま、退学を受けるの」

 

「受けた」

 

「……あなたは、いつもそうね。何を訊いても、訊いたことにだけ答える」

 

「訊かれたことに答えている」

 

堀北さんは、それ以上言わなかった。

 

言わないまま、机の方へ戻った。

 

戻る途中で、一度だけ振り返った。

 

振り返った顔を、私は見ていた。

 

怒っている顔だった。

 

そして、怒りをどこにも置けないでいる顔だった。

 

私は、綾小路くんの顔を見ていた。

 

驚いていない。

 

赤木くんが自分の退学を乗せたことにも、取りに行く先に自分の名前が入っていたことにも、驚いていない。

 

こうなることを、この人は知っていた。

 

いや、待っていた。

 

知っていて、壁際の椅子に座って、盤が終わるのを待っていた。

 

私は、その理由を一つも持っていなかった。

 

 

 

 

 

今朝、部屋を出る前に、真澄さんが来た。

 

「今日、どこ行くの」

 

「用事です」

 

「ふうん」

 

彼女は、それ以上訊かなかった。

 

訊かない人だ。訊かないことで、私の側の線を守ってくれている。

 

出ていく時に、一言だけ言われた。

 

「あんた、最近笑い方が変わったよ」

 

「そうですか」

 

「前は、笑う前に一回考えてた」

 

扉が閉まってから、私はしばらくその場に立っていた。

 

笑う前に考えなくなったのが、いつからなのか。

 

思い出せたけれど、認めたくなかった。

 

 

 

 

 

「坂柳」

 

赤木くんが、私を見ていた。

 

「あんたが残ってる」

 

「……はい」

 

「どうする」

 

私は、床の杖を見た。

 

拾わなければ、立てない。

 

立てないまま、答えなければならない。

 

「お尋ねします」

 

「なんだ」

 

「あなたは、私に退学してほしいのですか」

 

「いや」

 

返事に間が無かった。

 

「では、なぜ」

 

「フフ、その方が面白えだろ」

 

息を止めていたことに、自分で気づいた。

 

「……趣味が悪いですね」

 

「そうかい」

 

九月の初め、私は綾小路くんと取引をした。

 

綾小路くんが差し出したのは、5月8日の件。

 

その対価として求めたのは、赤木くんが降りられない場所を用意することだけだった。

 

ひと月あまりかけて、私は空の卓を作った。

 

赤木くんには、何も懸けさせない。そうすれば、赤木くんなら断って帰ると予想した。

 

断って帰れば、堀北さんだけが潰れる。堀北会長も落ちる。赤木くんが助けなかったという事実が残る。

 

私は卓に座ってすらいないのだから、失うものが一つもない。

 

受けたなら、その時は赤木くんが自分で中身を入れるしかない。空のままでは勝負にならないからだ。

 

どちらに転んでも、私は取れるはずだった。

 

そして、どちらに転んでも、あの綾小路くんが何をするかが見える。

 

ホワイトルームで何を身につけ、どう振る舞うのか。

 

それが、8年ぶりに会話をし、一番見たかったものだった。

 

その空の卓に、赤木くんが中身を入れた。

 

入れた中身の中に、私の名前がある。

 

私が見たかったものとは、違っていた。

 

 

 

 

 

受ければ、負けた時に全てを失う。学校も、Aクラスも、この半年で積み上げたものも。

 

断れば、何も失わない。

 

勝った分は赤木くんのものになり、私は今日この部屋を出て、明日からいつも通りにAクラスへ戻る。

 

損得で言えば、断る一択だった。

 

分かっているのに、口が動かなかった。

 

「坂柳さん」

 

堀北さんの声だった。

 

「あなたが断れば、この話は終わるわ」

 

「……ええ」

 

「お願い、終わらせて」

 

私は、堀北さんを見た。

 

堀北さんは、今日負けた。負けて、兄が終わることが決まった。

 

その上で、私に終わらせろと言っている。

 

自分の負けを確定させたまま、赤木くんの退学を止めようとしている。

 

「……堀北さん」

 

「なに」

 

「先ほどは失礼いたしました。あなたは強い」

 

「今その話をしないで」

 

私は、答えを出せなかった。

 

受けるとも、断るとも言えなかった。

 

言えないまま時間が過ぎていく感覚を、私は知らなかった。

 

 

 

 

 

「……赤木くん。私が断ったら、どうなさいますか」

 

「フフ、断れねぇよ」

 

言われて、私は口を閉じた。

 

断れる。断れるはずだった。損得で言えば、断る一択だった。

 

その一択を、この人は笑って否定した。

 

「……少し、お時間をいただけますか」

 

赤木くんは、何も言わなかった。

 

言わない代わりに、扉の方を見た。

 

扉が、鳴った。

 

ノックだった。

 

二回。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

扉が開いた。

 

制服の上に、生徒会の腕章を着けた人が立っていた。

 

堀北会長。

 

堀北さんが、立ち上がった。

 

椅子が倒れた。

 

倒れた音にも気づいていない顔だった。

 

「兄さん――」

 

「座っていろ」

 

短かった。

 

堀北さんは、座らなかった。座らないまま、立っていた。

 

堀北会長は、部屋の中をゆっくり見た。

 

盤。机の端に並んだ四枚の駒。床の杖。壁際の綾小路くん。

 

そして、机に手をついたままの赤木くん。

 

「赤木」

 

「よう」

 

「要請どおりだ」

 

「フフ、待たせたな」

 

「待ってはいない」

 

堀北会長は、部屋に入ってきた。

 

入って、扉を閉めた。

 

「一年Aクラス、坂柳有栖」

 

名前を呼ばれて、私は顔を上げた。

 

 

 

「この部屋で行われる勝負を、生徒会長として、公認試合として扱う」

 

 

 

空気が、変わった。

 

「……お待ちください」

 

私は言った。

 

「これは私事です。生徒会が関与する話では」

 

「関与するかどうかは、俺が決める」

 

「根拠は」

 

「無い。前例を作る」

 

堀北会長は、手帳を出した。

 

「日付、場所、参加者、懸けたもの。学校の書式ではない。生徒会長名義で残す」

 

指が、冷たくなっていくのが分かった。

 

記録が残る。

 

この場で交わされた全てが、後から読める形になる。

 

断ったという事実も、残る。

 

「辞退した場合、記録には何と」

 

「辞退した、とだけ書く」

 

「理由は」

 

「書かない。理由を書けば、読んだ人間がそれで納得する」

 

堀北会長は、ページを一枚めくった。

 

「納得させる義理は、俺には無い」

 

一年Aクラス坂柳有栖は、退学を賭けた勝負を辞退した。

 

それだけが書かれた紙が、この学校のどこかに残る。

 

誰が読むかは問題ではない。

 

私自身が、それを一生知っている。

 

そして、その記録を残す人は、私が落とそうとした人だった。

 

5月8日の件で、この人の立場を失わせる。そのために、私はひと月を使った。

 

その相手が、今、私の卓の見届け人として立っている。

 

赤木くんは、驚いていなかった。

 

生徒会長がノックをして入ってきて、公式戦だと宣言した。

 

驚かない理由は一つしかない。

 

最初からこの札を持っていた。

 

この人と赤木くんの間で、何かが先に交わされている。

 

いつ交わされたのかは、分からない。

 

私は、一週間前の校舎裏を思い出していた。

 

あの時、赤木くんは、私が何を話しても、何も動かさなかった。

 

動かす必要が無かったのだ。

 

 

 

 

 

堀北さんが、会長の方を見ていた。

 

「兄さん」

 

「なんだ」

 

「今日のことを、ご存じだったんですか」

 

「要請があった。それだけだ」

 

「いつ」

 

「お前に答える義理は無い」

 

堀北さんは、兄の顔を見ていた。

 

兄は、妹の顔を見なかった。

 

「兄さん、待ってください。これは私が――」

 

「鈴音」

 

「私の失態です。兄さんが出てくる話ではありません」

 

「その結果、失うものがあるのは俺だ」

 

「なんとかします」

 

「敗者にできることなどない」

 

「でも、これは私が受け、私が始めた勝負です」

 

「お前が始めた話なら、なぜお前は座っていない」

 

堀北さんが、言葉に詰まった。

 

「負けたからだ」

 

「……はい」

 

「負けた人間は、客席に戻る。そういうものだと、お前は思っている」

 

「違います」

 

「違わない」

 

堀北会長は、妹を見なかった。

 

手帳を開きながら、言った。

 

「俺は、その戻り方を認めない。認めない、と言うために今日ここへ来た」

 

「……どういう」

 

「次の勝負に、お前も座れ」

 

部屋の中が、静かになった。

 

堀北さんが、口を開いて、何も言えずに閉じた。

 

「兄さん、私は今日、負けたんです」

 

「知っている」

 

「知っていて、座れと言うんですか」

 

「言っている」

 

 

 

 

 

堀北さんは、長い間、立っていた。

 

倒れた椅子を、ゆっくり起こした。

 

起こしてから、赤木くんの方を見た。

 

「赤木くん」

 

「なんだ」

 

「私が座ったら、あなたの負けは私の負けになるのね」

 

「そうなるな」

 

「あなたの退学が、私のせいで決まることもあるということ」

 

「そうだな」

 

「私のせいで、兄さんは立場を失い、赤木くんも席を失う」

 

「クク、そういうこともあるかもな」

 

隠さなかった。

 

「……分かったわ」

 

「降りる手もあるぞ」

 

 

 

「降りないわ」

 

 

 

即答だった。

 

「今日、私は負けた。覚えたものは一つも使えなかった。それでも、客席には戻らない」

 

「そうかい」

 

赤木くんは、それだけ言った。

 

堀北会長は、手帳の上で万年筆を止めていた。

 

止めたまま、妹の横顔を見ていた。

 

見ている時間が、少しだけ長かった。

 

それから、何も書かずにページをめくった。

 

 

 

 

 

私は、床を見た。

 

杖が、まだそこにある。

 

拾わなければならなかった。

 

手を伸ばした。

 

指先が届かない。少しだけ、足りない。

 

椅子から身体を前に出したところで、身体が傾いた。

 

誰も、手を貸さなかった。

 

赤木くんも、動かなかった。

 

堀北会長は、万年筆を持ったまま、こちらを見ていた。

 

見届ける人の目だった。

 

私は、椅子の縁を掴んで、もう一度身体を前に出した。

 

指先が、杖に届いた。

 

拾い上げて、杖を床につけた。

 

つけて、立った。

 

自分の足で立った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「受けます」

 

その言葉が、部屋の中に落ちた。

 

 

 

 

 

「坂柳さん――」

 

「堀北さん。私も、座ります」

 

私は、赤木くんの方を向いた。

 

「あなたの退学と、私の退学と、綾小路くんの退学。そして、堀北会長の立場。全て場に出ています。よろしいですね」

 

「ああ」

 

「組は、懸けた者同士。私と綾小路くん。赤木くんと堀北さん」

 

「それでいい」

 

「赤木」

 

堀北会長が言った。

 

「お前から付ける条件は」

 

「無え」

 

「何も無いのか」

 

「乗せるもんは乗せた。あとは座るだけだ」

 

堀北会長は、それを一行で書き留めた。

 

書き留めながら、一度だけ堀北さんの方を見た。

 

堀北さんは、堀北会長を見ていなかった。

 

堀北会長が、万年筆の蓋を開け直した。

 

「種目は」

 

誰も、すぐには答えなかった。

 

赤木くんが、壁際を見た。

 

「ククク、卓は整ったぜ。綾小路」

 

私には、何のことか分からなかった。

 

分からないまま、赤木くんの視線の先を見た。

 

綾小路くんが、立ち上がるところだった。

 

 

 

「このために、失うものを持つ四人を集めた」

 

「そうかい」

 

「お前の本気を見るならば、これしかない」

 

「フフ」

 

 

 

「麻雀だ」

 

 

 

 

 

麻雀。

 

ルールは知っている。四人で打つ。牌を並べて、役を作る。

 

盤の上のものなら、私は一通り得意と自負している。チェスも、将棋も、囲碁も私に勝てる人間のほうが少ない。麻雀はそこまで嗜んではなかったが、点数の数え方を覚えるのに、一晩あれば足りる。

 

「堀北さん」

 

私は、訊いた。

 

「ご存じですか。麻雀を」

 

堀北さんは、答えなかった。

 

答えずに、赤木くんの方を見た。

 

赤木くんは、何も言わなかった。

 

私は、その沈黙を、知らないという意味に数えた。

 

堀北さんは、たぶん打てない。

 

赤木くんは、分からない。

 

運が入る。配られる。

 

さっき、私はそれを嫌ってガイスターを選んだ。

 

嫌だと言う権利が、今の私にあるだろうか。

 

この卓を作ったのは私だ。堀北さんを呼び、会長の名前を懸け、赤木くんを座らせ、ひと月をかけて周りを巻き込んだ。

 

その卓で、組んだ相手が選んだものに、どの口で異を唱えるのか。

 

「異存はありません」

 

私は、そう言った。

 

「決まりだ」

 

堀北会長が、万年筆を走らせた。

 

走らせる音だけが、しばらく部屋に残った。

 

赤木くんは、机から手を離した。

 

離して、窓の外を見た。

 

野球部の声が、まだ続いていた。

 

「フフ」

 

誰に向けたのでもない笑い方だった。

 

私は、綾小路くんの横顔を見ていた。

 

見ても、何も読めなかった。

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