言ってから、オレは坂柳の返事を待った。
返事は、思っていたより早く来た。
「異存はありません」
生徒会長の万年筆が、紙の上で一度だけ止まって、また動いた。
種目の欄に、二文字が書き込まれた。
赤木しげるは、普通ではない。
この男はこの現代で端末の触り方を知らなかった。知らないことを隠そうともしなかった。
言い回しの一つ一つが、オレの知っているどの世代の大人とも違う。ただ、どれも、口に馴染んだ人間の使い方をしている。
点が減る話をしている時だけ、あの男は楽しそうな顔をする。
一つずつなら、ただの癖だ。
全部を並べると、一つの形になる。
ありえないことが起きていることは理解している。
どういう経緯でここにいるのかは、知らない。知る必要も無い。
必要なのは、その男が本気で座る場所がどこか、ということだけだった。
この男が一番長く座ってきた卓は、あれしかないだろう。
そこで打たせなければ、オレは一度も本当の赤木と向き合わないまま、この学校を出ることになる。
オレはそれでも負けるとは思っていない。
四人で打つものには、四人分の席が要る。
席があるだけでは足りない。座る四人が、それぞれ失うものを持っていなければならない。
赤木は、自分に何も懸かっていない卓には座らない。
座ったとしても、本気では打たない。
だから、坂柳に卓を作らせた。
5月8日の件を渡して、赤木が降りられない場所を用意しろとだけ言った。
「お前なら、赤木を降りられない場所に置ける。それだけだ」
九月の初めに、オレは坂柳にそう言った。
「随分と、私を買ってくださるのですね」
「そうだ」
坂柳は、それで値段をつけた。
どう置くかは、訊かれなかった。訊かれても答えなかった。
坂柳は、自分で答えを探しに行って、自分で卓を組んだ。
組み方は、オレが考えていたものとほとんど変わらなかった。
坂柳は、堀北を選んだ。堀北の兄を懸けた。赤木には何も懸けない形にした。
何も懸けない形にすれば、赤木は自分で中身を入れる。
中身を入れる時、あの男は必ず取りに来る。取りに来る先は、卓を作った側だ。
それで四人になる。
赤木は、ここまで読むだろう。
読んだ上で、座るだろう。
そして、座るなら、堀北を何もできないまま卓に着かせたりはしないだろう。
「綾小路くんは打てるのですか」
坂柳が訊いた。
「基本は知っている」
「フフ、基本ねえ」
赤木が、机に手をついたまま笑った。
「役と点数は覚えている。打てると言っていい」
赤木は、それ以上何も言わなかった。
どこで覚えたかも、何回打ったかも、訊いてこなかった。
どこで覚えたかを説明する気は無い。説明すれば、坂柳以外にも、オレの来歴を一段深く知らせることになる。
赤木は、その一段を取りに来なかった。
「坂柳さんは」
堀北が訊いた。
「盤の上のものは、一通り。チェスも、将棋も、囲碁も。麻雀は、名前と大まかな仕組みだけです」
坂柳は、杖に手を置いたまま答えた。
「点数の勘定は、今夜覚えます。ふふっ、一晩あれば足ります」
「フフ、大した自信だ」
「事実を申し上げたまでです」
坂柳は、笑わなかった。
笑わずに、こちらを見た。
「綾小路くん。確認させてください」
「なんだ」
「あなたは、私を勝たせるつもりで組んでいますか」
部屋の空気が、少し動いた。
「二人で一つの点だ。お前が負ければオレも負ける」
「それは、答えになっていますか」
「なっている」
坂柳は、それで納得した顔をしなかった。
しなかったが、それ以上訊かなかった。
「取り決めを確認する」
生徒会長が言った。
「点はペアで一組。どちらかが零になった時点で終わる」
「二対二であれば、当然そうなります」
坂柳が応じた。
「ひとつ、足しとく」
赤木だった。
机に手をついたまま、まだ座っていない。
「味方から和了っても構わねえ」
坂柳の指が、止まった。
「……味方から」
「ああ」
「同じ財布を持っている二人の間で、点を移す意味はありません」
赤木は、答えなかった。
坂柳が、こちらを見た。説明を引き取れという顔だった。
オレは引き取らなかった。
「……構いません」
坂柳が言った。
「どのみち、同じ財布です。移しても減りません」
生徒会長が、書き込んだ。
「赤木くん」
堀北が言った。
「こうなることがわかっていたの?」
「フフ、さあな」
「答えるつもりはないのね」
堀北は、それ以上訊かなかった。
坂柳が、赤木の横顔を見ていた。
「細かい取り決めは」
坂柳が訊いた。
「積み棒、流れた時の扱い。そういうものです」
「普通でいいさ」
赤木が言った。
「普通、とは」
「今夜覚えるんだろ。覚えた通りでいいじゃねえか」
坂柳は、少しの間だけ赤木を見て、頷いた。
「もう一点、はっきりさせておく」
生徒会長は、顔を上げた。
「俺には、誰かを退学させる権限は無い。この紙に書いたことで、学校が動くわけでもない」
「では、負けた側の退学は」
坂柳が訊いた。
「自分で出せ。退学届は、本人が出せば受理される。誰にも止められない」
「自主退学、ということですね」
「そうだ。懸けたものの払いは、懸けた本人がやる。俺は、払われたかどうかを見届けるだけだ」
坂柳は、少しの間だけ黙った。
「……承知しました」
「綾小路」
「構いません」
「赤木」
「ああ」
「鈴音」
堀北は、兄の方を見ずに答えた。
「私が負けたら兄さんが背負い、兄さんが払うということですか」
「そうなる」
「……分かりました」
「卓と牌はあるの?」
堀北が訊いた。
「用意する」
生徒会長だった。
「寮の談話室に一式ある。館内の備品だ。生徒会の名前で借り出して、明日の朝までにこの部屋へ入れておく」
「借り出した記録が残りますが」
坂柳が言った。
「残す。何に使ったかも書く」
「……徹底していらっしゃいますね」
「記録に残らない場は、後で無かったことにされる」
生徒会長は、手帳を一枚破った。
破った紙を四つに裂いて、それぞれに一文字ずつ書いた。
東。南。西。北。
裂いた紙を伏せて、机の上で混ぜた。
「席は今決めておけ。明日、揉める時間は取らない」
赤木が先に一枚取った。
東。
堀北が二枚目を取った。
南。
オレが三枚目を取った。
西。
坂柳の手元に、北が残った。
東家が赤木。南家が堀北。西家がオレ。北家が坂柳。
「日時は、明日の午前十時。同じこの部屋だ。俺が立ち会う」
「見物人は入れんのかい」
赤木が訊いた。
「入れない。この部屋にいるのは、四人と俺だけだ」
「明日、ですか」
堀北が顔を上げた。
「不服か」
「……いいえ」
「一晩ある。足りないなら、今のうちに言っておけ」
「言いません」
堀北は、そう答えた。
それから、少しの間だけ黙った。
「一つ、言っておくわ」
坂柳に向けて言ったのではなかった。
オレに向けて言っていた。
「私は、打てるわ」
坂柳の指が、杖の上で止まった。
「……堀北さん」
「強くはないわ。それでも、座れる」
「いつから」
「体育祭が終わってから」
坂柳は、机の上の四枚の紙を見た。
見て、それから堀北を見た。
「今の話、なぜ今なさるのですか」
「どういう意味かしら」
「黙っていれば、私たちはあなたを打てない人として数えます。数えた分だけ、明日の私たちの手は甘くなる」
「ええ」
「それを捨てて、先に言った」
「言わないで座るのは、降りているのと同じでしょう」
坂柳は、それ以上訊かなかった。
訊かずに、机の上を見ていた。
「綾小路くん」
坂柳が、こちらを向いた。
「あなたは、ご存じでしたか」
「予想はしていた」
「いつから」
「お前が堀北を選んだ時からだ」
坂柳の指が、杖の頭を一度だけ握り直した。
「……私が選んだ相手に、誰が何を教えるかまで」
「赤木なら、そうする」
坂柳は、しばらく何も言わなかった。
言わないまま、机の上の四枚の紙を指先で揃えた。
揃え終えてから、小さく息を吐いた。
オレは、堀北の顔を見ていた。
驚きは無かった。
種目も知らされていない人間が、自分からこれを選んで覚えてくることはない。
渡した人間がいる。
オレが読んだのと同じものを、読んだ人間が。
赤木は机から手を離して、扉の方へ歩いた。
歩きながら、一度だけ振り返った。
「綾小路」
「なんだ」
「フフ、ずいぶんと回りくどいやり方だったな」
「必要だった」
赤木は、それ以上何も言わなかった。
扉に手をかけて、出ていった。
堀北が、扉の方を見ていた。
それから、オレを見た。
何かを確かめるような目だった。
確かめきれずに、目が逸れた。
逸れたまま、堀北は鞄を持った。
持ってから、動かなかった。
「綾小路くん」
「なんだ」
「念の為、改めて確認するわ。坂柳さんに、5月8日のことを話したのは、あなたね」
生徒会長の手が、手帳の上で止まった。
坂柳は、何も言わなかった。
「ああ」
オレは答えた。
嘘をつく理由が無かった。つけば、明日の卓に余計なものが一つ乗る。
堀北は、しばらくオレを見ていた。
しばらく、何も言わなかった。
「……そう」
「言いたいことがあるなら、聞く」
「今は言わないわ」
堀北は、鞄を肩に掛けた。
「明日が終わってからにする。終わった時に、あなたがまだこの学校にいたら」
「いる」
堀北は、それには答えなかった。
堀北は、椅子をきちんと戻して、出ていった。
生徒会長は、手帳を閉じてから、オレの方を見た。
「綾小路」
「なんですか」
「お前は、何のために座る」
少し考えた。
考えて、一番短い答えを選んだ。
「見たいものがあります」
「それは、明日の卓で見えるのか」
「見えるでしょう」
生徒会長は、それ以上訊かなかった。
訊かない代わりに、手帳に何かを書き足した。
「明日の十時だ。遅れるな」
最後にそれだけ言って、出ていった。
坂柳が、最後まで残っていた。
杖に手を置いて、机の上の四枚の紙を見ている。
「綾小路くん」
「なんだ」
「あなたは、麻雀がお好きですか」
妙な質問だった。
「考えたことが無い」
「一度も」
「無い」
「そうですか」
坂柳は、紙を一枚ずつ重ねた。
「......私は、これから好きになるかもしれません」
「気が早いな」
「ええ」
重ねた紙を机の端に置いて、坂柳は立ち上がった。
「負ければ、明日で最後ですから。好きになる時間が、今夜しかありません」
扉の前で、坂柳は立ち止まった。
振り返らずに言った。
「綾小路くん。あなたは、最初からここまで見えていましたか」
「どこまでだ」
「今日、この部屋で起きたこと全部です」
オレは、答えなかった。
「……私も、あなたの盤の上にいたのですね」
「お前は、自分で座った」
「ええ」
坂柳は、杖を一度床についた。
「それだけは、確かです」
扉が閉まって、部屋にはオレだけが残った。
机の上に、ガイスターの盤が片付けられないまま置いてある。
端に、印の出た駒が四枚。
全部、赤木が取らせた方の駒だ。
オレは、その四枚を元の箱に戻した。
戻しても、今日この盤で起きたことは戻らない。
明日は、オレも卓に座る。