アカギ〜実力至上主義の教室に舞い降りた天才〜   作:GC

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第7話「御法度」

 呼び出されたのは、その週の半ばだった。

 

「赤木。放課後、職員室に来い」

 

 ホームルームの終わりに、茶柱がそれだけ言った。

 

 教室が、少しざわついた。

 

「おい、赤木何やったんだよ」

「12点だからじゃね?」

 

「つーか、うちもう0だろ。これ以上、何引かれんだよ」

 

 池が言って、山内が笑った。誰も、その先を続けなかった。

 

 俺は何も言わずに鞄を持った。

 

 ……ようやくか。

 

 寝ても、教室を出ても、何も言わなかった女だ。

 

 そいつが呼んだ。

 

 つまり、俺は今度こそ、何かの線を跨いだということになる。

 

 

 

 

 

 職員室は、思ったより静かだった。

 

 茶柱は、隅の応接用らしい椅子を指した。俺が座ると、向かいに腰を下ろす。

 

「単刀直入に訊く」

 

 書類も何も持っていなかった。それが、かえって嫌な感じだった。

 

「煙草を吸ったな」

 

 俺は答えなかった。

 

「否定しないんだな」

 

「する必要がねえ」

 

 この女が確信もなく口を開くとは思えない。それに――

 

「見てたんだろ。いつも通り」

 

 茶柱の眉が、わずかに動いた。

 

「……見えている場所もある」

 

「じゃあ、話が早い」

 

 俺は椅子の背にもたれた。

 

「引けばいい。何点引かれるんだ」

 

 茶柱は、しばらく黙っていた。

 

 それから、はっきりと言った。

 

「引かない」

 

 ……ほう。

 

「お前のクラスは0だ。これ以上引く点がない」

 

「そうだな」

 

「だからお前は、引かれないから何をしてもいいと考えた。違うか」

 

 図星だった。

 

 俺は黙っていた。

 

「その考えは正しい。半分はな」

 

 茶柱は、そこで一拍置いた。

 

 あの日、講堂で退学の話をした時と、同じ間の取り方だった。

 

「この学校の評価は、加点と減点で動いている。だが――評価の外側に、もう一つある」

 

「……」

 

「一発で退学になる行為が、存在する」

 

 

 

 

 

 俺は、姿勢を戻した。

 

「点じゃなく、か」

 

「点じゃない」

 

 茶柱の声は、少しも揺れなかった。

 

「減点でも、警告でも、面談でもない。該当した時点で、その生徒は学校を去る。交渉の余地はない。私が間に入っても止められん」

 

「ふうん」

 

「面白いか」

 

「面白いさ」

 

 俺は正直に答えた。

 

「点の外に退学があるのは聞いた。赤点だろ。……だがありゃ、結局は数字の話だ。取れなきゃ落ちる、それだけなら勘定が立つ」

 

「そうだな」

 

「そうじゃねえ線が、別にあるってことか」

 

「そういうことだ」

 

「じゃあ訊くが」

 

 俺は、身を乗り出した。

 

「その線は、どこにある」

 

 茶柱は、俺を見返した。

 

 そして、言った。

 

「教えない」

 

 ……。

 

「なぜだ」

 

「教えれば、お前はその一歩手前まで来るからだ」

 

 ――ほう。

 

 思わず、口の端が上がった。

 

 この女、俺のことをよく見ている。

 

「よくわかってんじゃねえか」

 

「わかるさ。入学してからずっと、私はお前を見ていた」

 

 ――俺だけをか。

 

 そうは思わなかった。この女が名簿を閉じる時、目は毎度、俺以外のどこかで一度止まっている。

 

 茶柱は、少しだけ身を乗り出した。

 

「授業中に寝た。教室を出た。どちらも、私が何をするか確かめるためだったな」

 

 俺は答えなかった。

 

「あれで、お前は私の手を測ったつもりでいる。だが逆だ。あの時、私もお前を測っていた」

 

 ……なるほど。

 

 こちらが卓の下を覗いている間、向こうも同じことをしていたというわけだ。

 

 悪くない。

 

 この女は、ただ数えているだけの機械じゃなかった。

 

 

 

 

 

「忠告をしておく」

 

 茶柱は、椅子に座り直した。

 

「お前は、恐らくこの学年で最も退学に近い生徒だ。学力が壊滅的だからじゃない。……そちらは、まだ数字の話だからな」

 

「じゃあ何でだ」

 

「歯止めがないからだ」

 

 言い切った。

 

「他の生徒は、失うものを持っている。友人、評判、ポイント、行きたい大学。だから、危ないと感じた時に自分で止まる。……お前には、それが一つもない」

 

「そうかい」

 

「怖くないのか」

 

 妙な訊き方だった。

 

 教師が生徒にする質問じゃない。

 

「あんたは今、歯止めがねえと言ったばかりだろ。……無え物の具合を訊かれても、答えようがねえ」

 

 俺は答えた。

 

「ただ、あんたの言うことは正しい。……止まる理由がねえと、人はいつか落ちる」

 

「わかっているならいい」

 

「一つ、こっちからも訊いていいか」

 

「言ってみろ」

 

「あんたは、どっちだ」

 

 茶柱の眉が動いた。

 

「……どういう意味だ」

 

「生徒に落ちてほしいのか、落ちてほしくねえのか」

 

 沈黙があった。

 

 この女は、入学からこっち、一度も生徒を助けなかった。減点も告げず、注意もせず、ただ数えていた。

 

 なのに今日は、わざわざ呼び出して忠告している。

 

 筋が通っていない。

 

「……私は、教師だ」

 

「答えになってねえな」

 

「答える義務はない」

 

 茶柱はそう言って、視線を外した。

 

 嘘ではなさそうだった。ただし、全部でもない。

 

 この女にも、この女なりの卓があるということだ。

 

 ――今日は、そこまででいい。

 

「だが、勘違いするな」

 

 俺は続けた。

 

「止まる理由がねえってのは、落ちるまで踏み込めるってことでもある」

 

 茶柱の表情が動いた。

 

 困惑とも、興味とも取れる顔だった。

 

「……お前は、何と戦っているつもりだ」

 

「まだ、何とも」

 

 俺は立ち上がった。

 

「相手の顔が見えてねえからな。……見えたら、教えてやるよ」

 

 職員室を出る間際、背中に声がかかった。

 

「赤木」

 

「何だ」

 

「線は教えない。だが、これだけは言っておく」

 

 茶柱は、こちらを見ていなかった。

 

「――お前が誰かに手を上げた時、それは一発だ」

 

 俺は、少しの間そこに立っていた。

 

「……俺が、か」

 

「そうだ」

 

「他の連中も同じか、とは訊かねえよ」

 

 茶柱は答えなかった。

 

 答えないというのは、一番はっきりした答えだ。

 

 それから、扉を閉めた。

 

 

 

 

 

 廊下を歩きながら、頭の中を整理した。

 

 これで、卓の形が変わった。

 

 この学校は、確かに何にでも値札を貼る場所だ。だがその外側に、値札のつかない行為が置いてある。触れた瞬間に席を立たされる、御法度だ。

 

 賭場には禁止がない、と思っていた。

 

 ……間違いだ。俺が見ていたのは、掛け金の話だけだった。

 

 賭場にもある。

 

 どこの賭場にも、絶対にやってはいけないことが一つ二つある。イカサマが割れた時、客に手を上げた時、店の名を出した時。金でどうにかなる話と、金では絶対にどうにもならない話は、はっきり分かれている。

 

 厄介なのは――

 

 この学校は、その線を教えないと言った。

 

 賭場なら、御法度は最初に告げられる。それを破ればどうなるかも、全員が知っている。だからこそ、皆その手前で踏みとどまれる。

 

 だが、線が見えない場合はどうなるか。

 

 どこかわからない崖に向かって歩かされたら、誰だって遠くから足を止める。実際の崖はもっと先にあるかもしれないのに、確かめる度胸がないから、確かめないまま引き返す。

 

 線を隠すのは、罰を重くするためじゃない。

 

 全員を、線のずっと手前で縮こまらせるためだ。

 

 馬鹿げた話だ。見えない崖より、見える崖の方が、よっぽど御しやすい。

 

 

 

 

 

 昇降口で、綾小路が靴を履き替えていた。

 

 俺は隣に立った。

 

「一つ訊きたい」

 

「また、か」

 

「一発で退学になる線がある。あんた、どこにあるか知ってるか」

 

 綾小路の手が、一瞬だけ止まった。

 

「……茶柱先生に呼ばれていたな」

 

「聞いてきた。だが、場所は教えねえとよ」

 

「そうだろうな」

 

 綾小路は靴を履き終えて、身を起こした。

 

「その線は、一本じゃない」

 

 ……ほう。

 

「どういうことだ」

 

「全員に同じ線が引かれているなら、教えない理由がない。掲示しておけば済む話だ」

 

 その通りだった。

 

 規則というのは、揃っているから規則なんだ。同じことをして同じ罰が下るなら、隠す意味がない。

 

「教えられないってことは、揃ってねえってことか」

 

「そう考える方が筋が通る」

 

 綾小路の声は、相変わらず平坦だった。

 

「同じことをしても、誰がやったかで結果が変わる。学校にとって惜しい生徒と、そうでない生徒とでは、引かれる線の位置が違う」

 

 ……。

 

 規則の顔をしているが、中身は損得だ。

 

「じゃあ、俺の線は」

 

「一番手前だろうな」

 

 即答だった。

 

「点は0。この前の12点も、聞こえてきた。この学校がお前を残しておく理由が、今のところ何もない」

 

「そうかい」

 

「怒らないんだな」

 

「事実だからな」

 

 俺は肩をすくめた。

 

 むしろ、はっきりしてよかった。

 

 自分の分が一番悪いと知らずに張るのが、一番間抜けだ。

 

「だが、そいつは逆に言えば――」

 

 俺は、綾小路を見た。

 

「この学校にとって惜しい人間になれば、線は後ろに下がるってことだろ」

 

 綾小路は、答えなかった。

 

 だが、こちらを見た。

 

 この男が視線を寄越すのは、こちらの言葉が的を外していない時だけだ。

 

「普通は、線が手前にあると知ったら、大人しくなる」

 

「大人しくして線が下がるなら、そうするさ」

 

 俺は歩き出した。

 

「だが、大人しい奴を惜しむ物好きが、どこにいる」

 

 

 

 

 

 寮に戻る途中、堀北に呼び止められた。

 

「思い出したのよ」

 

「何をだ」

 

「過去問の伝手。……櫛田さんが言っていたでしょう、去年のことを知っている人に訊いてみる、と。あの人は上級生に知り合いがいるらしいの」

 

「ほう」

 

「あの人は顔が広いから。頼めば、取れる可能性はある」

 

 堀北は、あまり嬉しそうではなかった。

 

「気に食わねえって顔だな」

 

「……別に。ただ、人に頼らないと手に入らないものだというのが、少し」

 

「櫛田ってのが、気に入らねえのか」

 

「そうは言っていないわ」

 

 堀北は、少し間を置いた。

 

「……ただ、あの人は誰にでも同じ顔をするから」

 

 ふうん。

 

「何よ」

 

「いや。あんたがそう言うなら、覚えておくだけだ」

 

 俺は少し笑った。

 

「その顔をしてるうちは、まだ余裕があるってことだ」

 

「どういう意味」

 

「本当に後がねえ人間は、誰に頭を下げるかなんぞ選ばねえよ」

 

 堀北は、むっとした顔をした。

 

 だが、言い返してはこなかった。

 

「……試験まで、あと一週間ちょっとよ」

 

「ああ」

 

「あなた、間に合うの」

 

「間に合わせるさ」

 

「具体的には」

 

「言う必要があるか」

 

「あるわ。私はあなたと須藤くんの両方を見ているのよ。片方が何を考えているか分からないままでは、配分ができない」

 

「……配分」

 

「時間の話よ。私が使える時間は限られているの」

 

「なら須藤に全部回せ」

 

 堀北の足が止まった。

 

「あなたの方が点は低いはずだけれど」

 

「あいつは、教えりゃ伸びる。俺は伸びねえ」

 

「諦めているということ?」

 

「違う。伸ばす場所が別にあるってだけだ」

 

「……意味が分からないわ」

 

「分からなくていい」

 

 嘘ではなかった。

 

 紙の上の点は、確かに絶望的だ。だが今日、線の話を聞いた。

 

 落とされる理由が、学力だけではないとわかった。

 

 なら、落とされない理由も、学力だけではないはずだ。

 

 

 

 

 

 寮に戻り、机の引き出しを開けた。

 

 箱を取り出して、一本引き抜く。火はつけずに、指の間で回した。

 

 あの女は、一つ間違えている。

 

 いや――間違えてはいない。ただ、俺の話ではないというだけだ。

 

 線が見えないから足が止まる、というのは、落ちたくないものを抱えている人間の話だ。

 

 落ちてもいいわけじゃない。

 

 落ちたら、この卓から降ろされる。それだけは、割に合わない。

 

 あの夜、俺が本当に嫌だったのは、負けたことでも、殴られたことでもなかった。

 

 勝った後で、席から立たされたことだ。

 

 もう終わりだ、と誰かに決められること。

 

 ――それだけは、二度と御免だ。

 

 俺は煙草を箱に戻した。

 

 線は見えない。教えてもらえない。

 

 なら、やることは一つだ。

 

 誰かが先に、その線を踏むのを見ればいい。

 

 どこかで誰かが落ちる。その落ち方を見れば、崖の場所がわかる。

 

 試験が終われば、この学校は必ず誰かの首を切る。

 

 ……もっとも。

 

 俺は窓の外を見た。

 

 夜の校舎は、今日も同じ白さで光っている。

 

 この学校が損得で線を引いているなら――損得は、こちらからも動かせる。

 

 俺には、失うものが何もない。

 

 何も持っていない人間は、何を賭けてもいい。

 

 それは、この学校で一番不利な立場のようでいて――卓の上では、一番厄介な相手のはずだ。

 

この物語に恋愛要素をいれるべきか

  • 必要
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