呼び出されたのは、その週の半ばだった。
「赤木。放課後、職員室に来い」
ホームルームの終わりに、茶柱がそれだけ言った。
教室が、少しざわついた。
「おい、赤木何やったんだよ」
「12点だからじゃね?」
池と山内が、無責任に囃し立てている。
俺は何も言わずに鞄を持った。
……ようやくか。
寝ても、教室を出ても、何も言わなかった女だ。
そいつが呼んだ。
つまり、俺は今度こそ、何かの線を跨いだということになる。
職員室は、思ったより静かだった。
茶柱は、隅の応接用らしい椅子を指した。俺が座ると、向かいに腰を下ろす。
「単刀直入に訊く」
書類も何も持っていなかった。それが、かえって嫌な感じだった。
「煙草を吸ったな」
俺は答えなかった。
「否定しないんだな」
「する必要がねえ」
この女が確信もなく口を開くとは思えない。それに――
「見てたんだろ。いつも通り」
茶柱の眉が、わずかに動いた。
「……そうだ」
「じゃあ、話が早い」
俺は椅子の背にもたれた。
「引けばいい。何点引かれるんだ」
茶柱は、しばらく黙っていた。
それから、はっきりと言った。
「引かない」
……ほう。
「お前のクラスは0だ。これ以上引く点がない」
「そうだな」
「だからお前は、引かれないから何をしてもいいと考えた。違うか」
図星だった。
俺は黙っていた。
「その考えは正しい。半分はな」
茶柱は、そこで一拍置いた。
あの日、講堂で退学の話をした時と、同じ間の取り方だった。
「この学校の評価は、加点と減点で動いている。だが――評価の外側に、もう一つある」
「……」
「一発で退学になる行為が、存在する」
俺は、姿勢を戻した。
「点じゃなく、か」
「点じゃない」
茶柱の声は、少しも揺れなかった。
「減点でも、警告でも、面談でもない。該当した時点で、その生徒は学校を去る。交渉の余地はない。ポイントを積んでも覆らない」
「ふうん」
「面白いか」
「面白いさ」
俺は正直に答えた。
「今まで、この学校は金の話しかしてこなかった。何をしても値札を貼るだけの場所だと思ってたが……そうじゃなかったってことだろ」
「そういうことだ」
「じゃあ訊くが」
俺は、身を乗り出した。
「その線は、どこにある」
茶柱は、俺を見返した。
そして、言った。
「教えない」
……。
「なぜだ」
「教えれば、お前はその一歩手前まで来るからだ」
――ほう。
思わず、口の端が上がった。
この女、俺のことをよく見ている。
「よくわかってんじゃねえか」
「わかるさ。この一ヶ月、私はお前を見ていた」
茶柱は、初めて少しだけ身を乗り出した。
「授業中に寝た。教室を出た。どちらも、私が何をするか確かめるためだったな」
俺は答えなかった。
「あれで、お前は私の手を測ったつもりでいる。だが逆だ。あの時、私もお前を測っていた」
……なるほど。
こちらが卓の下を覗いている間、向こうも同じことをしていたというわけだ。
悪くない。
この女は、ただ数えているだけの機械じゃなかった。
「一つ、忠告をしておく」
茶柱は、椅子に座り直した。
「お前は、恐らくこの学年で最も退学に近い生徒だ。学力が壊滅的だからじゃない。……そちらは、まだ数字の話だからな」
「じゃあ何でだ」
「歯止めがないからだ」
言い切った。
「他の生徒は、失うものを持っている。友人、評判、ポイント、行きたい大学。だから、危ないと感じた時に自分で止まる。……お前には、それが一つもない」
「そうかい」
「怖くないのか」
妙な訊き方だった。
教師が生徒にする質問じゃない。
「怖くはねえよ」
俺は答えた。
「ただ、あんたの言うことは正しい。……止まる理由がねえと、人はいつか落ちる」
「わかっているならいい」
「一つ、こっちからも訊いていいか」
「言ってみろ」
「あんたは、どっちだ」
茶柱の眉が動いた。
「……どういう意味だ」
「生徒に落ちてほしいのか、落ちてほしくねえのか」
沈黙があった。
この女は、この一ヶ月、一度も生徒を助けなかった。減点も告げず、注意もせず、ただ数えていた。
なのに今日は、わざわざ呼び出して忠告している。
筋が通っていない。
「……私は、教師だ」
「答えになってねえな」
「それ以上の答えを、私は持っていない」
茶柱はそう言って、視線を外した。
嘘ではなさそうだった。ただし、全部でもない。
この女にも、この女なりの卓があるということだ。
――今日は、そこまででいい。
「だが、勘違いするな」
俺は続けた。
「止まる理由がねえってのは、落ちるまで踏み込めるってことでもある」
茶柱の表情が、初めて動いた。
困惑とも、興味とも取れる顔だった。
「……お前は、何と戦っているつもりだ」
「まだ、何とも」
俺は立ち上がった。
「相手の顔が見えてねえからな。……見えたら、教えてやるよ」
職員室を出る間際、背中に声がかかった。
「赤木」
「何だ」
「線は教えない。だが、これだけは言っておく」
茶柱は、こちらを見ていなかった。
「――お前が誰かに手を上げた時、それは一発だ」
俺は、少しの間そこに立っていた。
それから、扉を閉めた。
廊下を歩きながら、頭の中を整理した。
これで、卓の形が変わった。
この学校は、確かに何にでも値札を貼る場所だ。だがその外側に、値札のつかない行為が置いてある。触れた瞬間に席を立たされる、御法度だ。
賭場にもある。
どこの賭場にも、絶対にやってはいけないことが一つ二つある。イカサマが割れた時、客に手を上げた時、店の名を出した時。金でどうにかなる話と、金では絶対にどうにもならない話は、はっきり分かれている。
厄介なのは――
この学校は、その線を教えないと言った。
賭場なら、御法度は最初に告げられる。それを破ればどうなるかも、全員が知っている。だからこそ、皆その手前で踏みとどまれる。
だが、線が見えない場合はどうなるか。
人は、自分が思うよりずっと手前で止まる。
どこかわからない崖に向かって歩かされたら、誰だって遠くから怯えて足を止める。実際の崖はもっと先にあるかもしれないのに、確かめる度胸がないから、確かめないまま引き返す。
……よく出来ている。
線を隠すのは、罰を重くするためじゃない。
全員を、線のずっと手前で縮こまらせるためだ。
この学校は、そうやって生徒を大人しくさせている。
昇降口で、綾小路が靴を履き替えていた。
俺は隣に立った。
「一つ訊きたい」
「また、か」
「一発で退学になる線がある。あんた、どこにあるか知ってるか」
綾小路の手が、一瞬だけ止まった。
「……茶柱先生に呼ばれていたな」
「聞いてきた。だが、場所は教えねえとよ」
「そうだろうな」
綾小路は靴を履き終えて、身を起こした。
「一つ、勘違いを直しておいた方がいい」
「言ってみろ」
「その線は、一本じゃない」
……ほう。
「全員に同じ線が引かれているなら、教えない理由がない。掲示しておけば済む話だ」
その通りだった。
規則というのは、揃っているから規則なんだ。同じことをして同じ罰が下るなら、隠す意味がない。
「教えられないってことは、揃ってねえってことか」
「そう考える方が筋が通る」
綾小路の声は、相変わらず平坦だった。
「同じことをしても、誰がやったかで結果が変わる。学校にとって惜しい生徒と、そうでない生徒とでは、引かれる線の位置が違う」
……。
俺は、思わず笑いそうになった。
なるほど。それなら全部繋がる。
賭場でも、そうだ。上客と一見の客とでは、同じことをやっても扱いがまるで違う。大金を落とし続けている客が少々暴れても、店は笑って収める。だが金にならない客なら、同じことで叩き出される。
規則の顔をしているが、中身は損得だ。
「じゃあ、俺の線は」
「一番手前だろうな」
即答だった。
「点は0。成績は最下位。この学校がお前を残しておく理由が、今のところ何もない」
「そうかい」
「怒らないんだな」
「事実だからな」
俺は肩をすくめた。
むしろ、はっきりしてよかった。
自分の分が一番悪いと知らずに張るのが、一番間抜けだ。
「だが、そいつは逆に言えば――」
俺は、綾小路を見た。
「この学校にとって惜しい人間になれば、線は後ろに下がるってことだろ」
綾小路は、答えなかった。
だが、こちらを見た。
この男が視線を寄越すのは、こちらの言葉が的を外していない時だけだ。
「……お前は、変わった男だな」
「そうかい」
「普通は、線が手前にあると知ったら、大人しくなる」
「大人しくして線が下がるなら、そうするさ」
俺は歩き出した。
「だが、大人しい奴を惜しむ物好きが、どこにいる」
寮に戻る途中、堀北に呼び止められた。
「見つかったわ」
「何がだ」
「過去問の伝手。……櫛田さんが、上級生に知り合いがいるらしいの」
「ほう」
「あの人は顔が広いから。頼めば、取れる可能性はある」
堀北は、あまり嬉しそうではなかった。
「気に食わねえって顔だな」
「……別に。ただ、人に頼らないと手に入らないものだというのが、少し」
「そうかい」
俺は少し笑った。
「その顔をしてるうちは、まだ余裕があるってことだ」
「どういう意味」
「本当に後がねえ人間は、誰に頭を下げるかなんぞ選ばねえよ」
堀北は、むっとした顔をした。
だが、言い返してはこなかった。
「……試験まで、あと一週間ちょっとよ」
「ああ」
「あなた、間に合うの」
「間に合わせるさ」
嘘ではなかった。
紙の上の点は、確かに絶望的だ。だが今日、線の話を聞いた。
落とされる理由が、学力だけではないとわかった。
なら、落とされない理由も、学力だけではないはずだ。
寮に戻り、机の引き出しを開けた。
箱を取り出して、一本引き抜く。火はつけずに、指の間で回した。
あの女は、一つ間違えている。
いや――間違えてはいない。ただ、俺の話ではないというだけだ。
線が見えないから怯える、というのは、崖から落ちたくない人間の話だ。
俺は、そこまで恐れちゃいない。
だが、と思う。
落ちてもいいわけじゃない。
落ちたら、この卓から降ろされる。それだけは、割に合わない。
あの夜、俺が本当に嫌だったのは、負けたことでも、殴られたことでもなかった。
勝った後で、席から立たされたことだ。
もう終わりだ、と誰かに決められること。
――それだけは、二度と御免だ。
俺は煙草を箱に戻した。
線は見えない。教えてもらえない。
なら、やることは一つだ。
誰かが先に、その線を踏むのを見ればいい。
どこかで誰かが落ちる。その落ち方を見れば、崖の場所は正確にわかる。
一週間後、この学校は必ず誰かの首を切る。
その時、俺は落ちる側じゃなく――
落ちる音を、正確に聞いている側にいる。
……もっとも。
俺は窓の外を見た。
夜の校舎は、今日も同じ白さで光っている。
線が人によって違うというなら、俺の線は一番手前にあるらしい。
この学校が俺を惜しむ理由は、今のところ何もない。
なら、作ればいい。
惜しいと思わせればいいだけの話だ。
どうやって、とはまだ言えない。
だが、この学校が損得で線を引いているなら――損得は、こちらからも動かせる。
あの女が言った通りだ。
俺には、失うものが何もない。
何も持っていない人間は、何を賭けてもいい。
それは、この学校で一番不利な立場のようでいて――卓の上では、一番厄介な相手のはずだ。