昨晩、端末の画面で30回打った。
寮の部屋の明かりを落として、机の上の画面だけを光らせて。
一回目で勘を取り戻した。
牌の名前、役の名前、点数の表を覚え直した。
チェスの方が、ずっと多くのことを要求する。
10回目で、私は勝ち方の形を掴んだと思った。
20回目で、それが間違いだと分かった。
同じ形を作っても、配られるものが違えば、同じようには勝てない。正しく打っても、負ける回がある。正しく打たなかった相手に、負ける回もある。
盤の上では、そういうことは起きない。
起きないように、私は盤の上を選んできた。
30回目が終わったのは、午前二時を過ぎた頃だった。
画面を消して、暗い部屋で、私は自分の指を見た。
勝ち負けを、運の入るものに預けたことがない。
預けたことのないものを、明日、預ける。
私の学校と、Aクラスと、この半年を。
眠る前に、一つだけ決めた。
これは、とばっちりではない。
卓を作ったのは私だ。堀北さんを選んだのも、会長の名前を懸けたのも、赤木くんに何も懸けさせない形を組んだのも。
その卓に、赤木くんが中身を入れた。私の名前を。
入れられた名前を、私は自分で受けた。
だから、明日座るのは、私の勝負だ。
綾小路くんの盤の上に置かれた駒としてではなく。
寮のロビーで、綾小路くんに会った。
九時半を少し過ぎた頃だった。
日曜の朝のロビーには、人がほとんどいない。自販機の音と、管理人室のラジオの音だけがしていた。
綾小路くんは、ソファの端に座っていた。
何も持っていなかった。端末も、飲み物も。
ただ座って、正面の壁を見ていた。
「おはようございます」
「ああ」
「待ち合わせをした覚えはありませんが」
「していないな」
「では、偶然ですか」
「お前は、九時半に出る。昨日の帰りに、そういう歩き方をしていた」
私は、杖をついたまま、しばらく綾小路くんを見下ろしていた。
昨日の帰り道で、私はこの人の前を歩いていない。
後ろを歩いていたのは、この人の方だ。
私の足取りを、後ろから数えていた。
「……何のご用でしょう」
「用は無い」
「用も無いのに、一時間の半分を使って、ここに座っていらした」
「座っているだけなら、どこでも同じだ」
私は、向かいのソファに腰を下ろした。
杖を膝の間に立てた。
「では、私から一つ」
「なんだ」
「昨日、会長に訊かれていらっしゃいましたね。何のために座るのかと」
「訊かれたな」
「見たいものがある、と。見えるでしょう、と」
「言ったな」
「何を、ご覧になりたいのですか」
綾小路くんは、壁から目を離さなかった。
「言えば、お前は卓の上でそれを探すだろ」
「探して、何か不都合が」
「ある。お前が探し始めた時点で、それは卓の上から消える」
「……謎掛けのようですね」
「謎は掛けていない。そのままの意味だ」
私は、杖の頭に両手を重ねた。
「では、質問を変えます。それは、私たちが勝った時に見えるものですか。負けた時に見えるものですか」
綾小路くんは、初めて少しだけ間を置いた。
「どちらでもない」
「勝ち負けと関係なく、見える」
「違う。決まる前に、見える」
意味が分からなかった。
分からないことを、分からないと顔に出すのは、私の流儀ではない。
それでも、出ていたのだと思う。
綾小路くんは、ようやく私の方を見た。
「坂柳。お前は、今日、何を見に行くんだ」
逆に訊かれるとは、思っていなかった。
「……私は」
言葉が、一度詰まった。
詰まった分だけ、自分の中にあるものが正直に出てきた。
「あなたを、見に行くつもりでした」
「そうか」
「綾小路くんがこの学校にいると気付いた時から。いえ、もっと前から、ずっとそうでした」
綾小路くんは、何も言わなかった。
私が何を言っているのかを、この人は知っている。
知っていて、何も言わない。
言わないことに、私は慣れている。
「けれど、昨日、分かりました」
私は、杖の頭を指で押した。
「あなたは、私を見ていない。赤木くんを見ている」
「そうだな」
否定されなかった。
否定されないことは、分かっていた。
分かっていたのに、胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「ですから、今日は」
私は、立ち上がった。
「赤木くんに勝ちに行きます。あなたの隣で、あなたの代わりにではなく、私が」
綾小路くんは、座ったまま私を見上げていた。
表情は、変わらなかった。
「勝てると思っているのか」
「思っています。思わなければ、座りません」
「そうか」
「あなたも、同じでしょう」
「オレは、負けるとは思っていない」
それは、勝てると思っている、とは違う言葉だった。
違うことに、私は気づいた。
気づいて、それ以上は訊かなかった。
「先に行きます」
「ああ」
「あなたは」
「十時の一分前に着く」
「ずいぶん、ぎりぎりですね」
「早く着いても、卓は変わらない」
私は、ロビーの扉を押して外に出た。
十月の朝の空気が、頬に冷たかった。
振り返ると、ガラスの向こうで、綾小路くんはまだ同じ姿勢で壁を見ていた。
さっきまで私が座っていた向かいのソファを、一度も見ずに。
十時五分前に、第三会議室の扉を開けた。
卓が、部屋の真ん中に据えられていた。
昨日まで長机があった場所だ。脚の短い、緑色の面を持つ台。縁には四つの窪みがあるが、点箱は二つしか載っていない。
東家の側に一つ。西家の側に一つ。
ペアで一組、という昨日の取り決めが、そのまま物の置き方になっていた。
私は、自分の席の前に立った。
北家。昨日、最後に残った場所だ。
杖を椅子の背に掛けて、座った。座ってから、卓の高さが自分に合っていないことに気づいた。
少し高い。牌を取るたびに、肩から動かすことになる。
「坂柳」
堀北会長の声がした。
窓際に、椅子が一脚だけ置かれていた。そこに、会長が座っていた。膝の上に、昨日の手帳。
「座布団を使え。二枚ある」
「……お気遣いは結構です」
「気遣いではない。四人の条件を揃えろと言っている」
言われて、受け取った。
一枚を敷いて、座り直した。
肩の位置が、卓の縁と揃った。
揃ってから、私は小さく息を吐いた。
気遣いではない、と言われた。
その通りなのだろう。この人は、私の体に気を遣ったのではなく、四人の条件の中から一つの不揃いを取り除いただけだ。
それでも、昨日床に落ちた杖を拾わなかった人と、今日座布団を差し出した人が、同じ人だった。
揃えるべきものは揃える。拾うべきでないものは拾わない。
この人の中では、その二つが一本の線で繋がっている。
赤木くんは、既に座っていた。
私が入ってきた時には、もう東家の席にいた。
手ぶらだった。卓の縁に両手を置いて、点箱を見ている。
「おはようございます」
「ああ」
それだけだった。
昨日の、机に手をついたまま立っていた姿とは違った。
座っている。
背もたれに、背中をつけていない。かといって、前にも屈んでいない。
卓の前に座ることが、この人にとっては、息をするのと同じ種類のことに見えた。
「よく眠れましたか」
訊いてから、なぜ訊いたのか分からなかった。
「フフ、何が言いてえ」
「私は、30回打ちました」
「そうかい」
「一晩で済む、昨日申し上げました。覚え直しました」
「覚えたもんで打ちゃいい」
赤木くんは、点箱から目を上げなかった。
「覚えたもんの外に出た時に、あんたがどう打つかは、覚えてねえだろうがな」
私は、答えなかった。
答えを持っていなかった。
綾小路くんは、十時の一分前に来た。
黙って西家の席につき、椅子を引く音だけが短く鳴った。
私の左隣になる。
昨日と同じ顔をしていた。昨日、三秒も使わずに退学を受けた時と、同じ顔を。
「おはようございます」
「ああ」
赤木くんと、同じ返事だった。
同じ二音なのに、まるで違うものに聞こえた。
赤木くんの「ああ」は、そこに座っている人の声だった。
綾小路くんの「ああ」は、どこにも座っていない人の声だった。
堀北さんは、十時ちょうどに入ってきた。
鞄を足元に置いた。置いた時に、鞄の中で紙の擦れる音がした。
南家に座って、一度だけ深く息を吸った。
吐く時に、肩が下りた。
目の下に、薄く影があった。
眠っていないのか、眠れなかったのか。
どちらにしても、昨日負けた人の顔ではなかった。
昨日負けたことを、一晩かけて自分の中のどこかへ仕舞ってきた人の顔だった。
「始める前に、確認する」
堀北会長が、手帳を開いた。
「ペアは、赤木・堀北と、綾小路・坂柳。点はペアで一組。各50000点から始める」
「はい」
「終わり方を、もう一度言う。昨日は一行で済ませた。今日は、はっきりさせておく」
会長は、手帳から顔を上げた。
「普通の麻雀は、南場の四局で終わる。終わった時に点の多い方が勝つ」
私は、頷いた。
昨晩の30回は、全部そうやって終わった。
「この卓は、そうならない」
会長の声は、変わらなかった。
「南場の四局を終えて、どちらも零に達していなければ、西場に入る。西で出なければ、北に入る。北の次は、東に戻る」
部屋の空気が、一段、低くなった気がした。
「点で上回っていても、勝ちではない。相手が零を割るまで、この卓は終わらない」
「……点で勝ったまま、席を立つことはできないのですね」
私は訊いた。
「できない。どちらかが、払いきるまでだ」
「時間が掛かった場合は」
「日が暮れても続ける。明日に回すことはしない。四人とも、今日のうちに払い終える」
私は、左隣を見た。
綾小路くんは、何も表情を変えなかった。
昨日、この人は「負ければ、だ」と言った。
負けとは何かを、この卓は、点の多い少ないでは決めない。
誰かが、持っているものを全部失った時にだけ決める。
赤木くんを見た。
赤木くんは、点箱の蓋を、指先で一度だけ叩いていた。
私は、その取り決めの意味を、昨日の時点では一行としてしか読んでいなかった。
今、読み直した。
逃げ切りが無い。
20000点先に出ても、50000点先に出ても、それは勝ちではない。
相手が生きている限り、局は来る。
「味方からの和了を認める。レートの変更は無し」
堀北会長は、ページを一枚めくった。
「対局中の会話は禁じない。ただし、自分や味方の手の中身を伝える言葉は、不正とみなす。その時は止める」
「手の中身以外であれば、何を言っても構わないと」
私が訊いた。
「構わない。聞かされた側が、それをどう使うかは聞かされた側の問題だ」
「……承知しました」
「以上で相違ないか」
誰も、異を唱えなかった。
「立会人は、どこまで口を出されますか」
私が訊いた。
「今言った不正を止める。それ以外は、何が起きても座っているだけだ」
「誤った打ち方をした者がいても、ですか」
「それは不正ではない」
答えに、迷いが無かった。
「終わるまで、ずっとここにいらっしゃると」
「引き受けたのは俺だ。途中で席を立つくらいなら、最初から引き受けていない」
その言い方に、私は一度だけ目を伏せた。
兄という立場の人が、妹の座る卓に立会人として座っている。
止めることも、助けることもできない位置に、自分から座っている。
堀北さんは、兄の方を見なかった。
卓の上の、まだ積まれていない牌を見ていた。
「では、始めろ」
万年筆が、紙の上を走った。
東一局。
親は、赤木くんだった。
牌を積む手が、四人分で揃わない。
私と綾小路くんは、二列十七枚をほぼ同じ速さで組み終えた。堀北さんは、途中で一度崩して積み直した。
赤木くんは、最初に終わっていた。
音がしなかった。積む時の、牌と牌がぶつかる音が。
私は、その積み方を見ていた。
指が牌に触れて、離れる。その間に、力が一度も入っていない。
置いているのではなく、牌の方から並んでいくように見えた。
それだけで、赤木くんの実力を図るには十分だった。
昨晩の画面の中には、積む手は無かった。
画面の中では、牌は最初から並んでいた。
私の配牌は、萬子が四枚、索子が五枚、筒子が三枚、字牌が一枚。
散らばっている。
昨晩の30回で、こういう配牌は17回あった。
これは、遠い。
赤木くんは、字牌と萬子と索子を切っていった。
5巡、6巡と進んでも、赤木くんの河には筒子が一枚も出てこなかった。
7巡目に、赤木くんが千点棒を出した。
「リーチ」
声は、低くも高くもなかった。
卓の空気が、一段下がった。
堀北さんは、自分の手を進めた。
私は、自分の手をここで捨てた。赤木くんの河にある牌だけを、順に切っていく。
画面の中で覚えたやり方だった。立直を掛けた相手の河にある牌は、その相手には当たらない。
一番安全で、一番何も生まないやり方。
綾小路くんは、切る牌を選ぶのに、どの巡も同じだけの時間を使った。
一秒に満たない。
赤木くんの河にある牌を切る巡もあった。無い牌を切る巡もあった。
筒子は、一枚も切らなかった。
どちらの巡も、手つきが変わらなかった。
山が尽きた。
「聴牌」
赤木くんが、手を倒した。
「聴牌」
綾小路くんも、手を倒した。
堀北さんと私は、倒さなかった。
各ペアで一人ずつ。聴牌料を差し引きすると、向こうとこちらの間では一点も動かない。
私は、二人の手を見比べた。
赤木くんの待ちは、六筒の単騎だった。
綾小路くんの手の中に、六筒が一枚あった。
筒子を一枚も切っていない河に、真ん中の筒子を一枚。
私の目にも、それが一番危ない牌だということは分かる。
綾小路くんは、それを最後まで切らずに、聴牌まで持っていった。
切れば手は広がった。広がった手で、もっと早く、もっと高く和了れたかもしれない。
そうしなかった。
一番危ない一枚を、自分の手の中で飼い殺しにして、それでも聴牌まで辿り着いた。
赤木くんが、崩されていく綾小路くんの手を見ていた。
「抱えたな」
赤木くんが言った。
綾小路くんに向けて。
「数えればそうなる」
「数えりゃな」
赤木くんは、それ以上言わなかった。
綾小路くんも、それ以上言わなかった。
二人とも、自分の手を崩して、山に戻した。
私は、今のやり取りを頭の中で繰り返した。
手の中身の話ではない。もう崩された手の話だ。会長は止めなかった。
数えればそうなる、と綾小路くんは言った。
数えりゃな、と赤木くんは返した。
同じ言葉を、二人は違う場所から言っていた。
綾小路くんは、数えたから、そうした。
赤木くんは、数えた人間はそうする、と言った。
数えない人間なら、どうするのか。
赤木くんは、それを言わなかった。
親は続く。
赤木くんの千点棒が、供託として卓の中央に残った。
東一局、一本場。
9巡目に、綾小路くんが千点棒を出した。
「リーチ」
赤木くんの千点棒の隣に、二本目が並んだ。
私の手は、まだ二向聴だった。
降りた。
綾小路くんの立直は、私たちの立直だ。私が前に出る理由は無い。
赤木くんは、降りなかった。
10巡目、赤木くんは引いた牌を手に入れて、別の一枚を切った。
通った。
11巡目。
赤木くんは引いた牌を手に入れて、また別の一枚を切った。
切る前に、綾小路くんの河を見なかった。
五索だった。
「ロン」
綾小路くんが、手を開いた。
立直、平和、タンヤオ、ドラ一。
7700。積み棒が乗って、8000。供託の二本も、こちらに来る。
赤木くんは、点箱から棒を出した。
出して、卓の上を滑らせた。
表情は、何も変わっていなかった。
綾小路くんは、点を受け取って、点箱に入れた。
振り込んだ人と、振り込ませた人が、同じくらい何も変わっていなかった。
私一人が、点箱の中の数を数えていた。
「赤木くん」
気づいたら、声が出ていた。
「なんだ」
「今の五索。綾小路くんの河を、ご覧になりませんでしたね」
「見なかったな」
「見ていれば、切らなかったのでは」
「かもな」
「……では、なぜ」
赤木くんは、崩した自分の手の上に、指を一本だけ置いた。
「8000だ」
「ええ。8000を払われました」
「8000で買えるなら、安い」
何を買ったのか、とは訊けなかった。
訊けば、それは手の中身の話になるのかもしれなかった。
ならないのかもしれなかった。
どちらなのか、私には判断がつかなかった。
判断のつかない言葉を、この人は平気で卓の上に置く。
置かれた言葉が、自分の頭の中で勝手に転がり始めるのを、私は止められなかった。
綾小路くんを見た。
綾小路くんは、点箱の蓋を閉めていた。
今の言葉を、聞いていなかったような顔で。
聞いていないはずがなかった。
東二局。
親は、堀北さんに移った。
堀北さんの手つきが、速くなっていた。
7巡目に、綾小路くんが立直を掛けた。
堀北さんは、次の巡、綾小路くんの河にある牌を切った。
その次の巡も、綾小路くんの河にある牌を切った。
10巡目に、堀北さんの手が止まった。
止まったまま、三秒。
それから、六筒を切った。
「ロン」
綾小路くんだった。
立直、平和。2000。
堀北さんが、点箱に手を伸ばした。
伸ばしてから、気づいたように手を引いた。
「……ペアだったわね」
「ああ、同じ財布だ」
赤木くんが答えて、自分たちの側の点箱から棒を出した。
私は、堀北さんの河を見ていた。
2巡続けて、綾小路くんの河にある牌を切っている。3巡目で、手が止まった。
安全な牌が、そこで尽きたのだと思う。
尽きた先で選んだ一枚が、当たった。
「堀北さん」
私は、声をかけた。
かけてから、かける必要が無かったことに気づいた。
「なにかしら」
「……いいえ。失礼しました」
たぶん、次の局からは早めに回し始めた方がいいと言おうとした。
言えば、それは助言になる。
助言は、敵にするものではない。
それなのに、口が先に動いた。
昨晩の30回の中で、私も同じ場所で止まった。安全な牌が尽きて、画面の前で三秒止まって、当たる牌を切った。
同じ場所で止まった人を、見ていられなかった。
「坂柳」
綾小路くんが、点棒を仕舞いながら言った。
「今、何か言おうとしたな」
「……ええ」
「言わなくていい」
綾小路くんの声は、いつもと同じ大きさだった。
同じ大きさで、続けた。
「二局後に、堀北がまた止まる」
私は、綾小路くんの顔を見た。
卓の向こうの堀北さんにも、はっきり届く声だった。
堀北さんの指が、卓の縁で止まった。
「……なぜ、そう思われるのです」
「人は、間違えた場所を覚えている」
綾小路くんは、それ以上説明しなかった。
手の中身ではない。
堀北会長は、何も言わなかった。
手帳の上の万年筆が、一度だけ動いて、止まった。
私は、綾小路くんの横顔から目を離せなかった。
今の一言は、予言ではなかった。
釘だった。
二局後に止まる、と言われた人間は、二局後が来るまでずっとそれを覚えている。覚えている人間は、その場所に来た時に、言われる前より長く止まる。
綾小路くんは、堀北さんに向けて、まだ起きていない失敗を先に置いた。
置いたものは、もう取り除けない。
「綾小路くん」
小さな声で言った。
「今のは、私に言ったのですか。堀北さんに言ったのですか」
「両方だ」
「私には、何の役に立ちますか」
「お前が、堀北に言いかけたことを言わずに済む」
私は、口を閉じた。
言いかけたこと。助言。
私が情をかけかけた相手に、綾小路くんは、釘を打った。
私が言わずに済むように。
同じ組の人間の、言いかけた情けを、その場で相手の傷に作り変えた。
「……ずいぶんと、手際がいいのですね」
「必要だった」
昨日、赤木くんに返したのと、同じ言葉だった。
東三局。
綾小路くんの親だった。
私の配牌が、よかった。
萬子が六枚、二萬から七萬まで、欠けなく並んでいる。
昨晩の30回では、一度も来なかった形だ。
指が、少しだけ速く動いた。
自分でそれに気づいて、止めた。
止めたことで、かえって指の速さが目立ったかもしれないと思った。
赤木くんの切る牌が、萬子から遠ざかっていった。
3巡目に六索。4巡目に八索。5巡目に一索。
一枚も、萬子が出ない。
7巡目に、堀北さんが三萬を切った。
私が集めている色だった。
「……坂柳さん」
堀北さんが言った。
「なんでしょう」
「その萬子、要るの」
問われて、私は少し驚いた。
「お答えすると思いますか」
「思わないわ。訊かれた時に、あなたがどう答えるかを見たかっただけ」
私は、そこで初めて、この人の顔を正面から見た。
これまで、私はこの人を、兄の影に怯える妹として見てきた。
昨日の盤の前では、負けを黙って受け取る人として見た。
どちらも、間違ってはいなかった。
けれど、今、卓の向こうから私を見ている顔は、そのどちらでもなかった。
私を見て、私の答え方を数えようとしている顔だった。
「……ふふっ」
「何がおかしいの」
「いいえ。負けている側の方が、よく人を見るものだと思いまして」
「負けているから、見るのよ」
堀北さんは、次の牌を取った。
「勝っている人は、油断するものよ」
私は、答えなかった。
答えられなかった。
9巡目に、綾小路くんが千点棒を出した。
「リーチ」
親の立直だった。
11巡目、綾小路くんが牌を引いた。
五萬だった。
立直を掛けた後は、引いた牌が和了り牌でなければ、そのまま切るしかない。
綾小路くんは、それを切った。
引いた時と、同じ速さで。
「ロン」
赤木くんだった。
赤木くんは、立直を掛けていなかった。
タンヤオ、ドラ二。
5200。綾小路くんの千点棒も、赤木くんの方へ渡った。
綾小路くんは、赤木くんの手を一度だけ見た。
見て、点を払った。
表情も、手つきも、何も変わらなかった。
綾小路くんが点を払うのを、私は初めて見た。
私は、自分の手の中の萬子を見下ろした。
二萬から七萬まで、六枚。
五萬は、そこに一枚ある。
赤木くんの手に、一枚。綾小路くんが切ったのが、一枚。
赤木くんが萬子を一枚も切らなかったのは、この一枚のためだったのか。
東一局一本場で、綾小路くんの河を見ずに五索を切った人が、今度は黙って、綾小路くんの引く牌を待っていた。
8000で買える。
あの言葉が、頭の中でもう一度転がった。
何を買ったのかは、まだ分からない。
分からないまま、8000のあとに、5200が来た。
「8000の釣りか」
綾小路くんが言った。
崩しかけた手の上で、指を止めて。
赤木くんに向けて。
赤木くんは、少しだけ顔を上げた。
「フフ、釣りにしちゃ、少ねえな」
それだけだった。
綾小路くんは、それ以上言わなかった。
手を崩して、山に戻した。
私の胸の奥で、何かが冷たくなった。
綾小路くんは、今の5200を、東一局一本場の8000と繋げていた。
赤木くんが8000を払って何かを買い、その買ったもので5200を取った、と。
赤木くんは、それを否定しなかった。
否定せずに、少ない、と言った。
まだ買ったものの元を取っていない、と。
二人の間で、私の知らない勘定が動いている。
同じ卓に座っていて、私にはその帳簿が見えない。
親が流れた。
東四局。
私の親だった。
私の手は、また遠かった。
10巡目に、赤木くんが牌を横に曲げた。
「リーチ」
宣言牌は、ドラの隣の、七索だった。
綾小路くんの河には、索子が一枚も無い。
赤木くんはその索子を、迷った様子もなく横にして置いた。
通った。
私は、置かれた七索から、しばらく目を離せなかった。
堀北さんも、赤木くんの方を見ていた。
堀北会長の万年筆が、また一度だけ動いた。
綾小路くんは、立直を掛けなかった。
掛けないまま、次の巡も、その次の巡も、切り続けた。
12巡目に、堀北さんの手が止まった。
止まった時間が、これまでで一番長かった。
10秒。
――二局後に、堀北がまた止まる。
私は、左隣を見なかった。
堀北さんの河を見た。
堀北さんの指が、手牌の端の一枚に掛かって、戻った。
別の一枚に掛かって、また戻った。
「堀北」
赤木くんが、声を出した。
「降りるな」
手の中身ではない。
堀北会長は、動かなかった。
堀北さんの肩が、動いた。
「……ええ」
そう言って、五筒を切った。
「ロン」
綾小路くんだった。
タンヤオ、ドラ二。
5200。赤木くんの千点棒も、綾小路くんの方へ渡った。
立直を掛けていない手だった。
赤木くんは、自分の手を伏せたまま、倒さなかった。
何を待っていたのかは、分からない。
私は、二人の言葉を並べていた。
二局後に止まる、と綾小路くんが言った。
降りるな、と赤木くんが言った。
同じ人に向けた、二つの言葉だった。
綾小路くんの言葉は、堀北さんを止めた。
赤木くんの言葉は、止まった堀北さんを、前に押した。
押された先に、綾小路くんの黙聴があった。
点箱が、動いた。
私たちのペアが、61000。
赤木くんたちが、39000。
「東場終了」
堀北会長が言った。
「休憩を入れる。十分だ」
普通の麻雀なら、ここで半分が終わっている。
この卓では、何分の一が終わったのかも分からない。
四人とも、席を立たなかった。
堀北さんは、卓の上の自分の河を見ていた。
四局分の河は、もう崩されて山に戻っている。何も無い場所を、見ていた。
「堀北さん」
「何かしら」
「昨日、打てる、とおっしゃいました」
「言ったわ」
「四局、拝見しました」
「それで」
「捨てられた牌を、数えていらっしゃいますね」
堀北さんは、答えなかった。
東二局で、堀北さんは綾小路くんの河にある牌を2巡続けて切った。東四局では、10秒、手が止まった。
止まるのは、数えている人だけだ。
「私は、昨日、あなたを打てない方として数えていました」
「知っているわ」
「数え直しました」
「そう」
それきりだった。
私は、左隣を見た。
綾小路くんは、点箱の中の棒を一本、指先で揃えていた。
「綾小路くん」
「なんだ」
「東四局だけ、立直を掛けませんでしたね」
「掛ける理由が無かった」
「5200で足りたから、ですか」
「赤木が先に曲げていた。追いかければ、赤木の当たり牌も切るしかなくなる。それに、赤木と二人で堀北の逃げ道を狭めるだけになる。狭めすぎると、堀北は降りる」
「降りさせない方が、取れる」
「そうだ」
それだけだった。
誇る様子も、隠す様子も無かった。
「東一局の六筒も、最後まで手に置いていらっしゃいました」
「あの河で、一番危ない一枚だった」
「切れば、手は広くなりましたか」
「なった。広がる分より、あの一枚が当たる分の方が重かった」
「東三局の五萬は」
「立直していた。切るしかない」
「立直しなければ、止められたかもしれません」
「立直する手だった」
綾小路くんは、揃えた棒を点箱に戻した。
「止められたかどうかは、切った後にしか分からない。切る前に分かることだけで決めた」
私は、それ以上訊かなかった。
私に見えた範囲では、この人は一枚も外していない。
5200を払った後も、同じ速さで切り続けられる人を、私は見たことがなかった。
そして、その人から、赤木くんは5200を取った。
赤木くんは、東一局一本場で綾小路くんに8000を払っている。綾小路くんは、東三局で赤木くんに5200を払っている。
互いに、一度ずつ。
残りの点は、全部、堀北さんの側から出ている。
この卓で打っているのは、二人だけだ。
私は、そこに入っていない。
数字の上では、私たちが22000勝っている。
その22000の中に、私が和了った点は、一点も入っていない。
私がしたことは、東一局で手を捨てて、赤木くんの河にある牌を順に切っただけだ。
東四局は、私の親だった。
親を、何もせずに流した。
勝っている気は、少しもしなかった。
「赤木くん」
私は、右隣に声を掛けた。
赤木くんは、窓の外を見ていた。
顔だけ、こちらに戻した。
「なんだ」
「伺ってもよろしいですか。卓に出ていない話です」
「なんだ」
「あなたたちは、50000点のうち、11000を失いました」
「そうだな」
「失って、何もお変わりにならない」
「フフ、おしゃべりにきたのか」
「私たちは、何も失っていません」
「あんたは、な」
赤木くんは、私の言葉の一部だけを拾った。
「綾小路は、5200を払って、立直棒を三本出した。あんたは、何を出した」
「……何も」
「なら、あんたはまだ座ってねえのと同じだ」
息が、詰まった。
「私は、座っています。退学を懸けて」
「退学なら、昨日懸けた。今日は、まだ何も出してねえ」
赤木くんの声は、少しも強くなかった。
天気の話をするような声だった。
「そんなもん客席と変わらねえよ」
客席。
昨日、堀北会長が妹に言った言葉だった。
負けた人間は、客席に戻る。
私は、負けていない。
勝っている側にいる。
勝っている側にいて、客席に座っていると言われた。
「……では、何を出せと」
「知らねえよ。あんたの卓だろ」
赤木くんは、もう窓の方に顔を戻していた。
私は、自分の手を見た。
昨晩、30回打った手だった。
覚えたもので打てばいい、と今朝この人は言った。
覚えたものの外に出た時にどう打つかは、覚えていないだろう、とも。
私が覚えたものの中には、安全な牌を切ることしか無かった。
危ない牌を抱えて聴牌まで持っていくことも、8000を払って何かを買うことも、覚えたものの外にあった。
「坂柳」
左隣から、声がした。
綾小路くんが、私を見ていた。
「今のに、答えなくていい」
「……答えるつもりはありませんでした」
「なら、いい」
綾小路くんは、それだけ言って、目を卓に戻した。
答えなくていい。
東二局で、言わなくていい、と言われた。
今度は、答えなくていい、と言われた。
この人は、私が何かを言いそうになるたびに、先回りして止める。
止めて、私を、何もしない駒のまま盤の上に置いておく。
それが、組んだ相手にとって一番安全な使い方だからだ。
分かっている。
分かっていて、私は、杖の頭を強く握っていた。
「堀北」
赤木くんが、また口を開いた。
今度は、卓の隣に向けて。
「……何かしら」
「手が冷てえな」
堀北さんが、自分の手を見た。
「見ていたの」
「見りゃ分かる」
「……そう」
堀北さんは、両手を一度だけ握った。
握って、開いた。
赤木くんは、この四局で、堀北さんに打ち方を教えていない。
言ったのは、降りるな、の一言だけだ。
教えれば、手の中身を伝える言葉になる。会長が止める。
だから教えない。
それは分かる。
分からないのは、手の中身ではない言葉の方も、この人がほとんど使わないことだった。
使えば、堀北さんはもっと楽に打てる。
大丈夫だとか、次がある、とか。
そういう言葉を、この人は一つも言わない。
言ったのは、手が冷たい、という事実だけだった。
堀北さんは、開いた手を、卓の縁に置いた。
置いた手は、もう握られていなかった。
――なぜです。
私は、そう訊かなかった。
訊いても、返ってきた答えを、私はきっと正しく理解できない。
この卓の半分を、私はまだ数えられていない。
もう半分の、自分の側の点すら、私は一点も稼いでいない。
「再開する」
堀北会長の声がした。
「南一局」
私は、杖から手を離した。
離した手を、卓の上に置いた。
少し、冷たかった。