【完結】アカギ〜実力至上主義の教室に舞い降りた天才〜   作:GC

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第70話「オーラス」

昨晩、端末の画面で30回打った。

 

寮の部屋の明かりを落として、机の上の画面だけを光らせて。

 

 

 

 

 

一回目で勘を取り戻した。

 

牌の名前、役の名前、点数の表を覚え直した。

チェスの方が、ずっと多くのことを要求する。

 

10回目で、私は勝ち方の形を掴んだと思った。

 

20回目で、それが間違いだと分かった。

 

同じ形を作っても、配られるものが違えば、同じようには勝てない。正しく打っても、負ける回がある。正しく打たなかった相手に、負ける回もある。

 

盤の上では、そういうことは起きない。

 

起きないように、私は盤の上を選んできた。

 

30回目が終わったのは、午前二時を過ぎた頃だった。

 

画面を消して、暗い部屋で、私は自分の指を見た。

 

勝ち負けを、運の入るものに預けたことがない。

 

預けたことのないものを、明日、預ける。

 

私の学校と、Aクラスと、この半年を。

 

眠る前に、一つだけ決めた。

 

これは、とばっちりではない。

 

卓を作ったのは私だ。堀北さんを選んだのも、会長の名前を懸けたのも、赤木くんに何も懸けさせない形を組んだのも。

 

その卓に、赤木くんが中身を入れた。私の名前を。

 

入れられた名前を、私は自分で受けた。

 

だから、明日座るのは、私の勝負だ。

 

綾小路くんの盤の上に置かれた駒としてではなく。

 

 

 

 

 

寮のロビーで、綾小路くんに会った。

 

九時半を少し過ぎた頃だった。

 

日曜の朝のロビーには、人がほとんどいない。自販機の音と、管理人室のラジオの音だけがしていた。

 

綾小路くんは、ソファの端に座っていた。

 

何も持っていなかった。端末も、飲み物も。

 

ただ座って、正面の壁を見ていた。

 

「おはようございます」

 

「ああ」

 

「待ち合わせをした覚えはありませんが」

 

「していないな」

 

「では、偶然ですか」

 

「お前は、九時半に出る。昨日の帰りに、そういう歩き方をしていた」

 

私は、杖をついたまま、しばらく綾小路くんを見下ろしていた。

 

昨日の帰り道で、私はこの人の前を歩いていない。

 

後ろを歩いていたのは、この人の方だ。

 

私の足取りを、後ろから数えていた。

 

「……何のご用でしょう」

 

「用は無い」

 

「用も無いのに、一時間の半分を使って、ここに座っていらした」

 

「座っているだけなら、どこでも同じだ」

 

私は、向かいのソファに腰を下ろした。

 

杖を膝の間に立てた。

 

「では、私から一つ」

 

「なんだ」

 

「昨日、会長に訊かれていらっしゃいましたね。何のために座るのかと」

 

「訊かれたな」

 

「見たいものがある、と。見えるでしょう、と」

 

「言ったな」

 

「何を、ご覧になりたいのですか」

 

綾小路くんは、壁から目を離さなかった。

 

「言えば、お前は卓の上でそれを探すだろ」

 

「探して、何か不都合が」

 

「ある。お前が探し始めた時点で、それは卓の上から消える」

 

「……謎掛けのようですね」

 

「謎は掛けていない。そのままの意味だ」

 

私は、杖の頭に両手を重ねた。

 

「では、質問を変えます。それは、私たちが勝った時に見えるものですか。負けた時に見えるものですか」

 

綾小路くんは、初めて少しだけ間を置いた。

 

「どちらでもない」

 

「勝ち負けと関係なく、見える」

 

「違う。決まる前に、見える」

 

意味が分からなかった。

 

分からないことを、分からないと顔に出すのは、私の流儀ではない。

 

それでも、出ていたのだと思う。

 

綾小路くんは、ようやく私の方を見た。

 

「坂柳。お前は、今日、何を見に行くんだ」

 

逆に訊かれるとは、思っていなかった。

 

「……私は」

 

言葉が、一度詰まった。

 

詰まった分だけ、自分の中にあるものが正直に出てきた。

 

「あなたを、見に行くつもりでした」

 

「そうか」

 

「綾小路くんがこの学校にいると気付いた時から。いえ、もっと前から、ずっとそうでした」

 

綾小路くんは、何も言わなかった。

 

私が何を言っているのかを、この人は知っている。

 

知っていて、何も言わない。

 

言わないことに、私は慣れている。

 

「けれど、昨日、分かりました」

 

私は、杖の頭を指で押した。

 

「あなたは、私を見ていない。赤木くんを見ている」

 

「そうだな」

 

否定されなかった。

 

否定されないことは、分かっていた。

 

分かっていたのに、胸の奥が、少しだけ痛んだ。

 

「ですから、今日は」

 

私は、立ち上がった。

 

「赤木くんに勝ちに行きます。あなたの隣で、あなたの代わりにではなく、私が」

 

綾小路くんは、座ったまま私を見上げていた。

 

表情は、変わらなかった。

 

「勝てると思っているのか」

 

「思っています。思わなければ、座りません」

 

「そうか」

 

「あなたも、同じでしょう」

 

「オレは、負けるとは思っていない」

 

それは、勝てると思っている、とは違う言葉だった。

 

違うことに、私は気づいた。

 

気づいて、それ以上は訊かなかった。

 

「先に行きます」

 

「ああ」

 

「あなたは」

 

「十時の一分前に着く」

 

「ずいぶん、ぎりぎりですね」

 

「早く着いても、卓は変わらない」

 

私は、ロビーの扉を押して外に出た。

 

十月の朝の空気が、頬に冷たかった。

 

振り返ると、ガラスの向こうで、綾小路くんはまだ同じ姿勢で壁を見ていた。

 

さっきまで私が座っていた向かいのソファを、一度も見ずに。

 

 

 

 

 

十時五分前に、第三会議室の扉を開けた。

 

卓が、部屋の真ん中に据えられていた。

 

昨日まで長机があった場所だ。脚の短い、緑色の面を持つ台。縁には四つの窪みがあるが、点箱は二つしか載っていない。

 

東家の側に一つ。西家の側に一つ。

 

ペアで一組、という昨日の取り決めが、そのまま物の置き方になっていた。

 

私は、自分の席の前に立った。

 

北家。昨日、最後に残った場所だ。

 

杖を椅子の背に掛けて、座った。座ってから、卓の高さが自分に合っていないことに気づいた。

 

少し高い。牌を取るたびに、肩から動かすことになる。

 

「坂柳」

 

堀北会長の声がした。

 

窓際に、椅子が一脚だけ置かれていた。そこに、会長が座っていた。膝の上に、昨日の手帳。

 

「座布団を使え。二枚ある」

 

「……お気遣いは結構です」

 

「気遣いではない。四人の条件を揃えろと言っている」

 

言われて、受け取った。

 

一枚を敷いて、座り直した。

 

肩の位置が、卓の縁と揃った。

 

揃ってから、私は小さく息を吐いた。

 

気遣いではない、と言われた。

 

その通りなのだろう。この人は、私の体に気を遣ったのではなく、四人の条件の中から一つの不揃いを取り除いただけだ。

 

それでも、昨日床に落ちた杖を拾わなかった人と、今日座布団を差し出した人が、同じ人だった。

 

揃えるべきものは揃える。拾うべきでないものは拾わない。

 

この人の中では、その二つが一本の線で繋がっている。

 

 

 

 

 

赤木くんは、既に座っていた。

 

私が入ってきた時には、もう東家の席にいた。

 

手ぶらだった。卓の縁に両手を置いて、点箱を見ている。

 

「おはようございます」

 

「ああ」

 

それだけだった。

 

昨日の、机に手をついたまま立っていた姿とは違った。

 

座っている。

 

背もたれに、背中をつけていない。かといって、前にも屈んでいない。

 

卓の前に座ることが、この人にとっては、息をするのと同じ種類のことに見えた。

 

「よく眠れましたか」

 

訊いてから、なぜ訊いたのか分からなかった。

 

「フフ、何が言いてえ」

 

「私は、30回打ちました」

 

「そうかい」

 

「一晩で済む、昨日申し上げました。覚え直しました」

 

「覚えたもんで打ちゃいい」

 

赤木くんは、点箱から目を上げなかった。

 

 

 

「覚えたもんの外に出た時に、あんたがどう打つかは、覚えてねえだろうがな」

 

私は、答えなかった。

 

答えを持っていなかった。

 

綾小路くんは、十時の一分前に来た。

 

黙って西家の席につき、椅子を引く音だけが短く鳴った。

 

私の左隣になる。

 

昨日と同じ顔をしていた。昨日、三秒も使わずに退学を受けた時と、同じ顔を。

 

「おはようございます」

 

「ああ」

 

赤木くんと、同じ返事だった。

 

同じ二音なのに、まるで違うものに聞こえた。

 

赤木くんの「ああ」は、そこに座っている人の声だった。

 

綾小路くんの「ああ」は、どこにも座っていない人の声だった。

 

堀北さんは、十時ちょうどに入ってきた。

 

鞄を足元に置いた。置いた時に、鞄の中で紙の擦れる音がした。

 

南家に座って、一度だけ深く息を吸った。

 

吐く時に、肩が下りた。

 

目の下に、薄く影があった。

 

眠っていないのか、眠れなかったのか。

 

どちらにしても、昨日負けた人の顔ではなかった。

 

昨日負けたことを、一晩かけて自分の中のどこかへ仕舞ってきた人の顔だった。

 

 

 

 

 

「始める前に、確認する」

 

堀北会長が、手帳を開いた。

 

「ペアは、赤木・堀北と、綾小路・坂柳。点はペアで一組。各50000点から始める」

 

「はい」

 

「終わり方を、もう一度言う。昨日は一行で済ませた。今日は、はっきりさせておく」

 

会長は、手帳から顔を上げた。

 

「普通の麻雀は、南場の四局で終わる。終わった時に点の多い方が勝つ」

 

私は、頷いた。

 

昨晩の30回は、全部そうやって終わった。

 

「この卓は、そうならない」

 

会長の声は、変わらなかった。

 

「南場の四局を終えて、どちらも零に達していなければ、西場に入る。西で出なければ、北に入る。北の次は、東に戻る」

 

部屋の空気が、一段、低くなった気がした。

 

「点で上回っていても、勝ちではない。相手が零を割るまで、この卓は終わらない」

 

「……点で勝ったまま、席を立つことはできないのですね」

 

私は訊いた。

 

「できない。どちらかが、払いきるまでだ」

 

「時間が掛かった場合は」

 

「日が暮れても続ける。明日に回すことはしない。四人とも、今日のうちに払い終える」

 

私は、左隣を見た。

 

綾小路くんは、何も表情を変えなかった。

 

昨日、この人は「負ければ、だ」と言った。

 

負けとは何かを、この卓は、点の多い少ないでは決めない。

 

誰かが、持っているものを全部失った時にだけ決める。

 

赤木くんを見た。

 

赤木くんは、点箱の蓋を、指先で一度だけ叩いていた。

 

私は、その取り決めの意味を、昨日の時点では一行としてしか読んでいなかった。

 

今、読み直した。

 

逃げ切りが無い。

 

20000点先に出ても、50000点先に出ても、それは勝ちではない。

 

相手が生きている限り、局は来る。

 

「味方からの和了を認める。レートの変更は無し」

 

堀北会長は、ページを一枚めくった。

 

「対局中の会話は禁じない。ただし、自分や味方の手の中身を伝える言葉は、不正とみなす。その時は止める」

 

「手の中身以外であれば、何を言っても構わないと」

 

私が訊いた。

 

「構わない。聞かされた側が、それをどう使うかは聞かされた側の問題だ」

 

「……承知しました」

 

「以上で相違ないか」

 

誰も、異を唱えなかった。

 

「立会人は、どこまで口を出されますか」

 

私が訊いた。

 

「今言った不正を止める。それ以外は、何が起きても座っているだけだ」

 

「誤った打ち方をした者がいても、ですか」

 

「それは不正ではない」

 

答えに、迷いが無かった。

 

「終わるまで、ずっとここにいらっしゃると」

 

「引き受けたのは俺だ。途中で席を立つくらいなら、最初から引き受けていない」

 

その言い方に、私は一度だけ目を伏せた。

 

兄という立場の人が、妹の座る卓に立会人として座っている。

 

止めることも、助けることもできない位置に、自分から座っている。

 

堀北さんは、兄の方を見なかった。

 

卓の上の、まだ積まれていない牌を見ていた。

 

「では、始めろ」

 

万年筆が、紙の上を走った。

 

 

 

 

 

東一局。

 

親は、赤木くんだった。

 

牌を積む手が、四人分で揃わない。

 

私と綾小路くんは、二列十七枚をほぼ同じ速さで組み終えた。堀北さんは、途中で一度崩して積み直した。

 

赤木くんは、最初に終わっていた。

 

音がしなかった。積む時の、牌と牌がぶつかる音が。

 

私は、その積み方を見ていた。

 

指が牌に触れて、離れる。その間に、力が一度も入っていない。

 

置いているのではなく、牌の方から並んでいくように見えた。

 

それだけで、赤木くんの実力を図るには十分だった。

 

 

 

 

 

昨晩の画面の中には、積む手は無かった。

 

画面の中では、牌は最初から並んでいた。

 

私の配牌は、萬子が四枚、索子が五枚、筒子が三枚、字牌が一枚。

 

散らばっている。

 

昨晩の30回で、こういう配牌は17回あった。

 

これは、遠い。

 

赤木くんは、字牌と萬子と索子を切っていった。

 

5巡、6巡と進んでも、赤木くんの河には筒子が一枚も出てこなかった。

 

7巡目に、赤木くんが千点棒を出した。

 

「リーチ」

 

声は、低くも高くもなかった。

 

卓の空気が、一段下がった。

 

堀北さんは、自分の手を進めた。

 

私は、自分の手をここで捨てた。赤木くんの河にある牌だけを、順に切っていく。

 

画面の中で覚えたやり方だった。立直を掛けた相手の河にある牌は、その相手には当たらない。

 

一番安全で、一番何も生まないやり方。

 

綾小路くんは、切る牌を選ぶのに、どの巡も同じだけの時間を使った。

 

一秒に満たない。

 

赤木くんの河にある牌を切る巡もあった。無い牌を切る巡もあった。

 

筒子は、一枚も切らなかった。

 

どちらの巡も、手つきが変わらなかった。

 

山が尽きた。

 

「聴牌」

 

赤木くんが、手を倒した。

 

「聴牌」

 

綾小路くんも、手を倒した。

 

堀北さんと私は、倒さなかった。

 

各ペアで一人ずつ。聴牌料を差し引きすると、向こうとこちらの間では一点も動かない。

 

私は、二人の手を見比べた。

 

赤木くんの待ちは、六筒の単騎だった。

 

綾小路くんの手の中に、六筒が一枚あった。

 

筒子を一枚も切っていない河に、真ん中の筒子を一枚。

 

私の目にも、それが一番危ない牌だということは分かる。

 

綾小路くんは、それを最後まで切らずに、聴牌まで持っていった。

 

切れば手は広がった。広がった手で、もっと早く、もっと高く和了れたかもしれない。

 

そうしなかった。

 

一番危ない一枚を、自分の手の中で飼い殺しにして、それでも聴牌まで辿り着いた。

 

赤木くんが、崩されていく綾小路くんの手を見ていた。

 

「抱えたな」

 

赤木くんが言った。

 

綾小路くんに向けて。

 

「数えればそうなる」

 

「数えりゃな」

 

赤木くんは、それ以上言わなかった。

 

綾小路くんも、それ以上言わなかった。

 

二人とも、自分の手を崩して、山に戻した。

 

私は、今のやり取りを頭の中で繰り返した。

 

手の中身の話ではない。もう崩された手の話だ。会長は止めなかった。

 

数えればそうなる、と綾小路くんは言った。

 

数えりゃな、と赤木くんは返した。

 

同じ言葉を、二人は違う場所から言っていた。

 

綾小路くんは、数えたから、そうした。

 

赤木くんは、数えた人間はそうする、と言った。

 

数えない人間なら、どうするのか。

 

赤木くんは、それを言わなかった。

 

親は続く。

 

赤木くんの千点棒が、供託として卓の中央に残った。

 

 

 

 

 

東一局、一本場。

 

9巡目に、綾小路くんが千点棒を出した。

 

「リーチ」

 

赤木くんの千点棒の隣に、二本目が並んだ。

 

私の手は、まだ二向聴だった。

 

降りた。

 

綾小路くんの立直は、私たちの立直だ。私が前に出る理由は無い。

 

赤木くんは、降りなかった。

 

10巡目、赤木くんは引いた牌を手に入れて、別の一枚を切った。

 

通った。

 

11巡目。

 

赤木くんは引いた牌を手に入れて、また別の一枚を切った。

 

切る前に、綾小路くんの河を見なかった。

 

五索だった。

 

「ロン」

 

綾小路くんが、手を開いた。

 

立直、平和、タンヤオ、ドラ一。

 

7700。積み棒が乗って、8000。供託の二本も、こちらに来る。

 

赤木くんは、点箱から棒を出した。

 

出して、卓の上を滑らせた。

 

表情は、何も変わっていなかった。

 

綾小路くんは、点を受け取って、点箱に入れた。

 

振り込んだ人と、振り込ませた人が、同じくらい何も変わっていなかった。

 

私一人が、点箱の中の数を数えていた。

 

「赤木くん」

 

気づいたら、声が出ていた。

 

「なんだ」

 

「今の五索。綾小路くんの河を、ご覧になりませんでしたね」

 

「見なかったな」

 

「見ていれば、切らなかったのでは」

 

「かもな」

 

「……では、なぜ」

 

赤木くんは、崩した自分の手の上に、指を一本だけ置いた。

 

「8000だ」

 

「ええ。8000を払われました」

 

「8000で買えるなら、安い」

 

何を買ったのか、とは訊けなかった。

 

訊けば、それは手の中身の話になるのかもしれなかった。

 

ならないのかもしれなかった。

 

どちらなのか、私には判断がつかなかった。

 

判断のつかない言葉を、この人は平気で卓の上に置く。

 

置かれた言葉が、自分の頭の中で勝手に転がり始めるのを、私は止められなかった。

 

綾小路くんを見た。

 

綾小路くんは、点箱の蓋を閉めていた。

 

今の言葉を、聞いていなかったような顔で。

 

聞いていないはずがなかった。

 

 

 

 

 

東二局。

 

親は、堀北さんに移った。

 

堀北さんの手つきが、速くなっていた。

 

7巡目に、綾小路くんが立直を掛けた。

 

堀北さんは、次の巡、綾小路くんの河にある牌を切った。

 

その次の巡も、綾小路くんの河にある牌を切った。

 

10巡目に、堀北さんの手が止まった。

 

止まったまま、三秒。

 

それから、六筒を切った。

 

「ロン」

 

綾小路くんだった。

 

立直、平和。2000。

 

堀北さんが、点箱に手を伸ばした。

 

伸ばしてから、気づいたように手を引いた。

 

「……ペアだったわね」

 

「ああ、同じ財布だ」

 

赤木くんが答えて、自分たちの側の点箱から棒を出した。

 

私は、堀北さんの河を見ていた。

 

2巡続けて、綾小路くんの河にある牌を切っている。3巡目で、手が止まった。

 

安全な牌が、そこで尽きたのだと思う。

 

尽きた先で選んだ一枚が、当たった。

 

「堀北さん」

 

私は、声をかけた。

 

かけてから、かける必要が無かったことに気づいた。

 

「なにかしら」

 

「……いいえ。失礼しました」

 

たぶん、次の局からは早めに回し始めた方がいいと言おうとした。

 

言えば、それは助言になる。

 

助言は、敵にするものではない。

 

それなのに、口が先に動いた。

 

昨晩の30回の中で、私も同じ場所で止まった。安全な牌が尽きて、画面の前で三秒止まって、当たる牌を切った。

 

同じ場所で止まった人を、見ていられなかった。

 

「坂柳」

 

綾小路くんが、点棒を仕舞いながら言った。

 

「今、何か言おうとしたな」

 

「……ええ」

 

「言わなくていい」

 

綾小路くんの声は、いつもと同じ大きさだった。

 

同じ大きさで、続けた。

 

「二局後に、堀北がまた止まる」

 

私は、綾小路くんの顔を見た。

 

卓の向こうの堀北さんにも、はっきり届く声だった。

 

堀北さんの指が、卓の縁で止まった。

 

「……なぜ、そう思われるのです」

 

「人は、間違えた場所を覚えている」

 

綾小路くんは、それ以上説明しなかった。

 

手の中身ではない。

 

堀北会長は、何も言わなかった。

 

手帳の上の万年筆が、一度だけ動いて、止まった。

 

私は、綾小路くんの横顔から目を離せなかった。

 

今の一言は、予言ではなかった。

 

釘だった。

 

二局後に止まる、と言われた人間は、二局後が来るまでずっとそれを覚えている。覚えている人間は、その場所に来た時に、言われる前より長く止まる。

 

綾小路くんは、堀北さんに向けて、まだ起きていない失敗を先に置いた。

 

置いたものは、もう取り除けない。

 

「綾小路くん」

 

小さな声で言った。

 

「今のは、私に言ったのですか。堀北さんに言ったのですか」

 

「両方だ」

 

「私には、何の役に立ちますか」

 

「お前が、堀北に言いかけたことを言わずに済む」

 

私は、口を閉じた。

 

言いかけたこと。助言。

 

私が情をかけかけた相手に、綾小路くんは、釘を打った。

 

私が言わずに済むように。

 

同じ組の人間の、言いかけた情けを、その場で相手の傷に作り変えた。

 

「……ずいぶんと、手際がいいのですね」

 

「必要だった」

 

昨日、赤木くんに返したのと、同じ言葉だった。

 

 

 

 

 

東三局。

 

綾小路くんの親だった。

 

私の配牌が、よかった。

 

萬子が六枚、二萬から七萬まで、欠けなく並んでいる。

 

昨晩の30回では、一度も来なかった形だ。

 

指が、少しだけ速く動いた。

 

自分でそれに気づいて、止めた。

 

止めたことで、かえって指の速さが目立ったかもしれないと思った。

 

赤木くんの切る牌が、萬子から遠ざかっていった。

 

3巡目に六索。4巡目に八索。5巡目に一索。

 

一枚も、萬子が出ない。

 

7巡目に、堀北さんが三萬を切った。

 

私が集めている色だった。

 

「……坂柳さん」

 

堀北さんが言った。

 

「なんでしょう」

 

「その萬子、要るの」

 

問われて、私は少し驚いた。

 

「お答えすると思いますか」

 

「思わないわ。訊かれた時に、あなたがどう答えるかを見たかっただけ」

 

私は、そこで初めて、この人の顔を正面から見た。

 

これまで、私はこの人を、兄の影に怯える妹として見てきた。

 

昨日の盤の前では、負けを黙って受け取る人として見た。

 

どちらも、間違ってはいなかった。

 

けれど、今、卓の向こうから私を見ている顔は、そのどちらでもなかった。

 

私を見て、私の答え方を数えようとしている顔だった。

 

「……ふふっ」

 

「何がおかしいの」

 

「いいえ。負けている側の方が、よく人を見るものだと思いまして」

 

「負けているから、見るのよ」

 

堀北さんは、次の牌を取った。

 

「勝っている人は、油断するものよ」

 

私は、答えなかった。

 

答えられなかった。

 

9巡目に、綾小路くんが千点棒を出した。

 

「リーチ」

 

親の立直だった。

 

11巡目、綾小路くんが牌を引いた。

 

五萬だった。

 

立直を掛けた後は、引いた牌が和了り牌でなければ、そのまま切るしかない。

 

綾小路くんは、それを切った。

 

引いた時と、同じ速さで。

 

「ロン」

 

赤木くんだった。

 

赤木くんは、立直を掛けていなかった。

 

タンヤオ、ドラ二。

 

5200。綾小路くんの千点棒も、赤木くんの方へ渡った。

 

綾小路くんは、赤木くんの手を一度だけ見た。

 

見て、点を払った。

 

表情も、手つきも、何も変わらなかった。

 

綾小路くんが点を払うのを、私は初めて見た。

 

私は、自分の手の中の萬子を見下ろした。

 

二萬から七萬まで、六枚。

 

五萬は、そこに一枚ある。

 

赤木くんの手に、一枚。綾小路くんが切ったのが、一枚。

 

赤木くんが萬子を一枚も切らなかったのは、この一枚のためだったのか。

 

東一局一本場で、綾小路くんの河を見ずに五索を切った人が、今度は黙って、綾小路くんの引く牌を待っていた。

 

8000で買える。

 

あの言葉が、頭の中でもう一度転がった。

 

何を買ったのかは、まだ分からない。

 

分からないまま、8000のあとに、5200が来た。

 

「8000の釣りか」

 

綾小路くんが言った。

 

崩しかけた手の上で、指を止めて。

 

赤木くんに向けて。

 

赤木くんは、少しだけ顔を上げた。

 

「フフ、釣りにしちゃ、少ねえな」

 

それだけだった。

 

綾小路くんは、それ以上言わなかった。

 

手を崩して、山に戻した。

 

私の胸の奥で、何かが冷たくなった。

 

綾小路くんは、今の5200を、東一局一本場の8000と繋げていた。

 

赤木くんが8000を払って何かを買い、その買ったもので5200を取った、と。

 

赤木くんは、それを否定しなかった。

 

否定せずに、少ない、と言った。

 

まだ買ったものの元を取っていない、と。

 

二人の間で、私の知らない勘定が動いている。

 

同じ卓に座っていて、私にはその帳簿が見えない。

 

親が流れた。

 

 

 

 

 

東四局。

 

私の親だった。

 

私の手は、また遠かった。

 

10巡目に、赤木くんが牌を横に曲げた。

 

「リーチ」

 

宣言牌は、ドラの隣の、七索だった。

 

綾小路くんの河には、索子が一枚も無い。

 

赤木くんはその索子を、迷った様子もなく横にして置いた。

 

通った。

 

私は、置かれた七索から、しばらく目を離せなかった。

 

堀北さんも、赤木くんの方を見ていた。

 

堀北会長の万年筆が、また一度だけ動いた。

 

綾小路くんは、立直を掛けなかった。

 

掛けないまま、次の巡も、その次の巡も、切り続けた。

 

12巡目に、堀北さんの手が止まった。

 

止まった時間が、これまでで一番長かった。

 

10秒。

 

――二局後に、堀北がまた止まる。

 

私は、左隣を見なかった。

 

堀北さんの河を見た。

 

堀北さんの指が、手牌の端の一枚に掛かって、戻った。

 

別の一枚に掛かって、また戻った。

 

「堀北」

 

赤木くんが、声を出した。

 

 

 

「降りるな」

 

 

 

手の中身ではない。

 

堀北会長は、動かなかった。

 

堀北さんの肩が、動いた。

 

「……ええ」

 

そう言って、五筒を切った。

 

「ロン」

 

綾小路くんだった。

 

タンヤオ、ドラ二。

 

5200。赤木くんの千点棒も、綾小路くんの方へ渡った。

 

立直を掛けていない手だった。

 

赤木くんは、自分の手を伏せたまま、倒さなかった。

 

何を待っていたのかは、分からない。

 

私は、二人の言葉を並べていた。

 

二局後に止まる、と綾小路くんが言った。

 

降りるな、と赤木くんが言った。

 

同じ人に向けた、二つの言葉だった。

 

綾小路くんの言葉は、堀北さんを止めた。

 

赤木くんの言葉は、止まった堀北さんを、前に押した。

 

押された先に、綾小路くんの黙聴があった。

 

 

 

 

 

点箱が、動いた。

 

私たちのペアが、61000。

 

赤木くんたちが、39000。

 

「東場終了」

 

堀北会長が言った。

 

「休憩を入れる。十分だ」

 

普通の麻雀なら、ここで半分が終わっている。

 

この卓では、何分の一が終わったのかも分からない。

 

 

 

 

 

四人とも、席を立たなかった。

 

堀北さんは、卓の上の自分の河を見ていた。

 

四局分の河は、もう崩されて山に戻っている。何も無い場所を、見ていた。

 

「堀北さん」

 

「何かしら」

 

「昨日、打てる、とおっしゃいました」

 

「言ったわ」

 

「四局、拝見しました」

 

「それで」

 

「捨てられた牌を、数えていらっしゃいますね」

 

堀北さんは、答えなかった。

 

東二局で、堀北さんは綾小路くんの河にある牌を2巡続けて切った。東四局では、10秒、手が止まった。

 

止まるのは、数えている人だけだ。

 

「私は、昨日、あなたを打てない方として数えていました」

 

「知っているわ」

 

「数え直しました」

 

「そう」

 

それきりだった。

 

私は、左隣を見た。

 

綾小路くんは、点箱の中の棒を一本、指先で揃えていた。

 

「綾小路くん」

 

「なんだ」

 

「東四局だけ、立直を掛けませんでしたね」

 

「掛ける理由が無かった」

 

「5200で足りたから、ですか」

 

「赤木が先に曲げていた。追いかければ、赤木の当たり牌も切るしかなくなる。それに、赤木と二人で堀北の逃げ道を狭めるだけになる。狭めすぎると、堀北は降りる」

 

「降りさせない方が、取れる」

 

「そうだ」

 

それだけだった。

 

誇る様子も、隠す様子も無かった。

 

「東一局の六筒も、最後まで手に置いていらっしゃいました」

 

「あの河で、一番危ない一枚だった」

 

「切れば、手は広くなりましたか」

 

「なった。広がる分より、あの一枚が当たる分の方が重かった」

 

「東三局の五萬は」

 

「立直していた。切るしかない」

 

「立直しなければ、止められたかもしれません」

 

「立直する手だった」

 

綾小路くんは、揃えた棒を点箱に戻した。

 

「止められたかどうかは、切った後にしか分からない。切る前に分かることだけで決めた」

 

私は、それ以上訊かなかった。

 

私に見えた範囲では、この人は一枚も外していない。

 

5200を払った後も、同じ速さで切り続けられる人を、私は見たことがなかった。

 

そして、その人から、赤木くんは5200を取った。

 

赤木くんは、東一局一本場で綾小路くんに8000を払っている。綾小路くんは、東三局で赤木くんに5200を払っている。

 

互いに、一度ずつ。

 

残りの点は、全部、堀北さんの側から出ている。

 

この卓で打っているのは、二人だけだ。

 

私は、そこに入っていない。

 

数字の上では、私たちが22000勝っている。

 

その22000の中に、私が和了った点は、一点も入っていない。

 

私がしたことは、東一局で手を捨てて、赤木くんの河にある牌を順に切っただけだ。

 

東四局は、私の親だった。

 

親を、何もせずに流した。

 

勝っている気は、少しもしなかった。

 

 

 

 

 

「赤木くん」

 

私は、右隣に声を掛けた。

 

赤木くんは、窓の外を見ていた。

 

顔だけ、こちらに戻した。

 

「なんだ」

 

「伺ってもよろしいですか。卓に出ていない話です」

 

「なんだ」

 

「あなたたちは、50000点のうち、11000を失いました」

 

「そうだな」

 

「失って、何もお変わりにならない」

 

「フフ、おしゃべりにきたのか」

 

「私たちは、何も失っていません」

 

「あんたは、な」

 

赤木くんは、私の言葉の一部だけを拾った。

 

「綾小路は、5200を払って、立直棒を三本出した。あんたは、何を出した」

 

「……何も」

 

「なら、あんたはまだ座ってねえのと同じだ」

 

息が、詰まった。

 

「私は、座っています。退学を懸けて」

 

「退学なら、昨日懸けた。今日は、まだ何も出してねえ」

 

赤木くんの声は、少しも強くなかった。

 

天気の話をするような声だった。

 

 

 

「そんなもん客席と変わらねえよ」

 

 

 

客席。

 

昨日、堀北会長が妹に言った言葉だった。

 

負けた人間は、客席に戻る。

 

私は、負けていない。

 

勝っている側にいる。

 

勝っている側にいて、客席に座っていると言われた。

 

「……では、何を出せと」

 

「知らねえよ。あんたの卓だろ」

 

赤木くんは、もう窓の方に顔を戻していた。

 

私は、自分の手を見た。

 

昨晩、30回打った手だった。

 

覚えたもので打てばいい、と今朝この人は言った。

 

覚えたものの外に出た時にどう打つかは、覚えていないだろう、とも。

 

私が覚えたものの中には、安全な牌を切ることしか無かった。

 

危ない牌を抱えて聴牌まで持っていくことも、8000を払って何かを買うことも、覚えたものの外にあった。

 

「坂柳」

 

左隣から、声がした。

 

綾小路くんが、私を見ていた。

 

「今のに、答えなくていい」

 

「……答えるつもりはありませんでした」

 

「なら、いい」

 

綾小路くんは、それだけ言って、目を卓に戻した。

 

答えなくていい。

 

東二局で、言わなくていい、と言われた。

 

今度は、答えなくていい、と言われた。

 

この人は、私が何かを言いそうになるたびに、先回りして止める。

 

止めて、私を、何もしない駒のまま盤の上に置いておく。

 

それが、組んだ相手にとって一番安全な使い方だからだ。

 

分かっている。

 

分かっていて、私は、杖の頭を強く握っていた。

 

 

 

 

 

「堀北」

 

赤木くんが、また口を開いた。

 

今度は、卓の隣に向けて。

 

「……何かしら」

 

「手が冷てえな」

 

堀北さんが、自分の手を見た。

 

「見ていたの」

 

「見りゃ分かる」

 

「……そう」

 

堀北さんは、両手を一度だけ握った。

 

握って、開いた。

 

赤木くんは、この四局で、堀北さんに打ち方を教えていない。

 

言ったのは、降りるな、の一言だけだ。

 

教えれば、手の中身を伝える言葉になる。会長が止める。

 

だから教えない。

 

それは分かる。

 

分からないのは、手の中身ではない言葉の方も、この人がほとんど使わないことだった。

 

使えば、堀北さんはもっと楽に打てる。

 

大丈夫だとか、次がある、とか。

 

そういう言葉を、この人は一つも言わない。

 

言ったのは、手が冷たい、という事実だけだった。

 

堀北さんは、開いた手を、卓の縁に置いた。

 

置いた手は、もう握られていなかった。

 

――なぜです。

 

私は、そう訊かなかった。

 

訊いても、返ってきた答えを、私はきっと正しく理解できない。

 

この卓の半分を、私はまだ数えられていない。

 

もう半分の、自分の側の点すら、私は一点も稼いでいない。

 

「再開する」

 

堀北会長の声がした。

 

「南一局」

 

私は、杖から手を離した。

 

離した手を、卓の上に置いた。

 

少し、冷たかった。

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