十分が過ぎた。
誰も席を立たなかった。
俺も立たなかった。
手帳の東場の欄は、四行で埋まっている。点の動きと、和了った者と、払った者。それ以外は書いていない。
書くべきことは、他にもあった。
東一局で、綾小路が最後まで手放さなかった六筒。東一局一本場で、赤木が綾小路の河を見ずに切った五索。東三局で、赤木が黙って待っていた五萬。東四局で、赤木が曲げた七索。鈴音が10秒止まったこと。
休憩の間に、坂柳が赤木に言われたこと。
どれも、書けば説明になる。
説明を書く立会人は、卓の外から卓に手を入れている。
だから書かなかった。
書かなかったものは、全部、頭の中に残っている。
残っているものを、俺は順に並べ直していた。
東一局一本場の五索。
赤木は、あの牌を切る前に綾小路の河を見なかった。
見ていれば、切らなかったかもしれない牌だ。坂柳が休憩の前にそう訊き、赤木は、かもな、と答えた。
8000で買えるなら安い、とも言った。
東三局の五萬は、その次の次の局だった。
綾小路は、立直を掛けて、引いた五萬を切った。赤木は、黙って待っていた。
綾小路の河には、萬子が並んでいた。立直の形も、平和の形も、東一局一本場と同じ作り方だった。
同じ作り方の手は、同じところで待つ。
8000で、赤木はそれを見に行ったのではないか。
一度振り込んで、綾小路の手の作り方を、手が開くところまで見届けた。
そう書けば、説明になる。
説明は、書かない。
書かないが、俺の頭の中からは、もう消えなかった。
卓の向こうで、赤木が卓の縁に置いた指を一本だけ動かした。
笑ってはいなかった。
5月8日の夜、俺は鈴音の手首を離して、この男の襟を掴んで持ち上げた。
持ち上げられた側は、足が浮いたまま、瞬き一つしなかった。
あの夜のことは、それで全部だ。殴ってはいない。しばらくして、手を離した。
離した理由を、俺はまだ誰にも言っていない。
言葉にしないまま、後になって、この男と約束をした。
要請があれば、一度だけ、生徒会長の名で場を作る。
条件は一つ。
鈴音を客席に置くな。座るなら、賭ける側に。
赤木は、その条件を聞いて、何も言わなかった。頷きもしなかった。
一週間前、渡り廊下ですれ違いざまに、日付と時間だけを言われた。
それで約束は果たされることになった。
果たされた場所に、今、鈴音が座っている。
賭ける側に。
条件を付けたのは俺だ。
付けた時、俺は、鈴音がどこかの卓に座る日が来るなら、客席ではない方がいいと考えた。
それ以上のことは、考えていなかった。
座った鈴音が、どう打つのか。
座った鈴音の打った牌で、誰が何を失うのか。
そこは、赤木にまかせた。
今思えば先に聞いていたならば、あの条件は付けなかったかもしれない。
まさかあの夜自体が賭け元になっているとは思わなかったが、生徒会長としての最後の仕事として、付けるものにしては高く付いたとは思う。
だが、付けなかったら、鈴音は昨日、負けたまま客席に戻っていた。
「再開する」
万年筆の蓋を閉めた。
南一局。親は、赤木だった。
この月が終われば、俺は会長ではなくなる。
選挙の前倒しを通したのは南雲で、通るように作ってから持ってきた。俺はそれに判を押した。不備が無いものを、不備が無いという理由で退けることはできない。
だから、生徒会長の名前で記録を残せるのは、これが最後になる。
最後の一件が、妹の卓だった。
そのことについて、何かを思うのは後でいい。
今は、見届ける。
赤木が賽を振った。
配牌を取る手の中で、一人だけ牌の音がしない。東場の間、ずっとそうだった。
3巡目、坂柳の切った東を、赤木が鳴いた。
「ポン」
声が軽かった。
晒した三枚を卓の右端に寄せて、一枚切る。
5巡目、赤木はもう一度鳴いた。今度は鈴音の切った五筒だった。
手牌が七枚になった。
東場の赤木は、一度も鳴いていない。四局とも門前で打って、曲げる時は曲げ、黙る時は黙っていた。
その男が、南場の最初に、二度続けて鳴いた。
安い手だ。
親の東がついて、それ以上は何もついていないように見える。
坂柳が、晒された六枚を見ていた。
「急がれるのですね」
赤木は答えなかった。
次の牌を取って、切った。
坂柳の目が、赤木の晒した牌から、鈴音の河へ、それから自分の手へと動いた。
休憩の間、坂柳は赤木に、まだ座っていないのと同じだと言われていた。
言われた後で、坂柳の指は一度だけ杖の頭を強く握った。
今、その指は卓の上にある。
杖には、触れていない。
綾小路は、晒された牌を一度も見なかった。
8巡目。
「リーチ」
綾小路の千点棒が、卓の中央に置かれた。
置く手に、力は入っていなかった。東場で三度掛けた時と、同じ置き方だった。
鈴音の肩が、少しだけ上がった。
上がって、下りた。
東四局のあとの休憩で、鈴音は両手を一度握って開いた。それと同じ動きを、肩でやっていた。
鈴音は、降りなかった。
9巡目に一枚。10巡目に一枚。どちらも綾小路の河には無い牌を、自分の手に合わせて切っていく。
赤木に「降りるな」と言われた人間の切り方だった。
赤木は、ツモ切りを続けていた。
引いて、そのまま切る。引いて、そのまま切る。
手の中の七枚は、一枚も動かない。
聴牌している。
それだけは、見ていれば分かった。
11巡目。
鈴音が、三索を切った。
「ロン」
綾小路が、手を開いた。
立直、平和、タンヤオ、ドラ二。満貫。
鈴音の手が、卓の縁で止まった。
止まったまま、点箱に伸びかけて、戻った。東二局で一度やったことを、もう一度はやらなかった。
赤木が、点箱から棒を出した。
8000。綾小路の千点棒も、綾小路の手元へ戻った。
俺は万年筆を動かした。
南一局、綾小路、鈴音より8000。
書き終えて顔を上げると、赤木が自分の手を倒していた。
和了っていない手を、倒す理由は無い。
誰も求めていない。
晒した東と五筒の横に、残りの七枚が並んだ。
北が一枚。
北の単騎だった。
坂柳が、その一枚を見た。
「……よろしいのですか」
坂柳は、俺の方を向いていた。
「和了っていない手を見せるのは」
「終わった局だ」
俺は言った。
「終わった局の手を見せることは、不正ではない」
「承知しました」
坂柳は、それ以上言わなかった。
鈴音が、自分の手を崩していた。
崩して山に戻す手つきの中で、二枚が表を向いた。
北だった。
二枚とも。
鈴音は、その二枚を見下ろして、動かなくなった。
赤木は何も言わなかった。
倒した手を、自分で崩した。
綾小路が、そこで初めて赤木の方を見た。
「堀北は、切らない」
平らな声だった。
赤木の手が、崩した牌の上で止まった。
「今はな」
それだけだった。
綾小路は、目を戻した。戻して、自分の点箱に8000を収めた。
鈴音は、二人のどちらも見ていなかった。
北の二枚を、山の中へ押し込んでいた。表を向いたままの一枚を、指で裏に返してから押し込んだ。
鈴音が北を二枚持っていた。赤木は北一枚で待っていた。
鈴音が北を切っていれば、赤木が和了っていた。
和了っていれば、東一つの1500が、鈴音から赤木へ移っただけで局が終わった。同じ財布の中で、点は一点も減らない。
そして、綾小路の満貫は無かった。
味方から和了っていい。
昨日、赤木が一つだけ付けた条件だった。
坂柳はあの時、「同じ財布を持っている二人の間で、点を移す意味はありません」と言った。
意味はあった。
今、卓の上で見えた。
鈴音が、それを知っていたようには見えなかった。北を二枚抱えたまま、自分の手を作りに行っていた。
降りるなと言われて、降りなかった。降りない切り方の先に、綾小路がいた。
赤木が、鈴音に教えていないことがある。
教えれば、手の中身を伝える言葉になる。俺が止める。
だから赤木は、黙って鳴いて、黙って待った。
届かなかった。
綾小路は、赤木の晒した牌を一度も見なかった。
見なくても、分かっていたのだと思う。
鈴音が赤木に切ることは無い、と。
堀北は、切らない。
綾小路はそう言った。
北を切らない、という意味ではなかった。
鈴音は、赤木に向けて牌を切るという考えを、まだ持っていない。
味方の和了り牌を探して、そこへ切る。その発想が、鈴音の頭の中には無い。
綾小路は、それを知っていた。
知っていて、赤木の鳴きを見る必要が無いと判断した。
今はな、と赤木は返した。
今は切らない。
では、いつ切るのか。
赤木は、それを言わなかった。
「会長」
坂柳の声がした。
俺は、手帳から目を上げた。
「今の局を、記録には何と」
「南一局、綾小路、鈴音より8000。それだけだ」
「赤木くんの北は」
「書かない」
「和了っていないから、ですか」
「起きていないからだ」
坂柳は、少しの間だけ俺を見ていた。
それから、赤木の方を見た。
赤木は、次の山を積んでいた。
「……起きなかったことの方が、私には大きく見えました」
坂柳は、誰にともなくそう言った。
俺は、それを書かなかった。
「南二局」
俺が言った。
親は、鈴音だった。
鈴音は、山を積むのが遅れた。
遅れたまま、配牌を取った。取って、並べて、しばらく手を動かさなかった。
それから、赤木の河を見た。
南一局の河は、もう崩されて無い。何も無い場所を見ていた。東場の休憩の間も、鈴音は同じように、何も無い場所を見ていた。
1巡目に、鈴音は字牌を切った。
2巡目も字牌だった。
3巡目に、鈴音の手が止まった。
止まって、赤木の方を見た。
赤木は、自分の手を見ていた。鈴音の方を向かなかった。
鈴音は、何かを訊こうとした顔をした。
訊けば、手の話になる。
鈴音は、訊かなかった。
訊かずに、一枚切った。
坂柳が、鈴音の顔を見ていた。
「堀北さん」
「……何かしら」
「先ほどの局を、気にしていらっしゃいますか」
「あなたに答える必要があるの」
「いいえ。訊いてみただけです」
坂柳の声は、柔らかかった。
柔らかいまま、坂柳は自分の手を進めた。
東場の坂柳は、5200を払った後の綾小路を見て、それからずっと打ち方が固かった。牌を取る手が、一牌ごとに止まっていた。
一度も前に出なかった。自分の親でさえ、何もせずに流した。
今は止まっていない。
牌を取って、見て、切る。その間が、東場の半分になっていた。
4巡目に、坂柳は索子の真ん中を一枚切った。
東場の坂柳なら、切らなかった牌だ。赤木の河にも、綾小路の河にも無い。安全かどうか、誰にも分からない一枚。
坂柳は、それを切った。
切った指が、牌から離れるまでに、ほんの少しの間があった。
離れてから、坂柳は小さく息を吐いた。
誰も、和了らなかった。
通った。
6巡目に、坂柳が牌を横に曲げなかった。
黙ったまま、何かを待っている。
綾小路が、横目で坂柳の河を見た。
見て、何も言わなかった。
鈴音は、7巡目に赤木の河を見た。8巡目も見た。
赤木の河には、字牌と端の牌しか並んでいなかった。
9巡目。
鈴音が、赤木の河にある牌と同じ種類の、二筒を切った。
「ロン」
坂柳だった。
タンヤオ、平和、三色、ドラ二。
跳満。12000。
黙ったまま、坂柳は跳満を張っていた。
坂柳は、自分の手を倒しながら、鈴音を見ていた。
「失礼しました」
鈴音は、何も言わなかった。
それから、坂柳は、卓の向こうに顔を向けた。
赤木に向けて。
「出しました」
短い言葉だった。
赤木は、坂柳の倒した手を見ていた。
4巡目に切られた、索子の真ん中。黙ったまま待った3巡。
「そうかい」
赤木は、それだけ言った。
坂柳の頬に、少しだけ赤みが差した。
差したまま、坂柳は点棒を数えた。
数える手が、東場よりも速かった。
親が、流れた。
万年筆を動かした。
南二局、坂柳、鈴音より12000。
12000の、最後の0で、ペン先が止まった。
止めたつもりは無かった。
指に、力が入っていた。
ペン先の下で、インクが小さく滲んで、丸く広がった。
南一局の8000の行は、細い字のまま乾いている。
その下の12000だけが、滲んでいた。
誰も、俺の手帳を見ていなかった。
見られていないことを確かめてから、俺は万年筆を紙から離した。
吸い取り紙は、持ってきていない。
滲みは、そのまま乾いていった。
立会人の記録に、滲みは要らない。
要らないものが、一つ、紙に残った。
鈴音が、一度だけ、こちらを見た。
点を払い終えた手を、膝の上に置いたまま。
俺は、見返さなかった。
昨日、会議室で、俺は妹の顔を見ずに、座れと言った。
今日も、見なかった。
見れば、立会人ではなくなる。
鈴音は、すぐに目を卓に戻した。
戻す時に、背筋が一度だけ伸びた。
伸びたまま、動かなかった。
点箱の中の数を、俺は頭の中で揃えた。
綾小路と坂柳が、81000。
赤木と鈴音が、19000。
東場の終わりで22000だった差が、62000になっている。
19000。
親の倍満が一つ来れば、それで零を割る。親の跳満でも、立直棒を一本出していれば、ちょうど零になる。
鈴音の点箱の蓋が、開いたままになっていた。
鈴音は、それを閉めるのを忘れていた。
二局の間に、赤木は一度も和了っていない。
一度、和了ろうとして、届かなかった。
「坂柳」
綾小路が、点棒を仕舞いながら言った。
「今のは、赤木の河を見て切った牌だった」
坂柳が、少しだけ首を傾けた。
「そのように見えましたね」
「赤木の通っている牌は、オレたちにも通るとは限らない」
「承知しています。ですから、待ちました」
「そうか」
綾小路は、それだけ言った。
手の中身ではない。卓の上に出ている河の話だ。
俺は、止めなかった。
鈴音が、綾小路を見ていた。
綾小路は、鈴音の方を見なかった。
今の言葉は、坂柳に向けて言われていた。
鈴音にも、聞こえるように言われていた。
赤木の河にある牌は、赤木には当たらない。
当たらない牌は、赤木が和了れない牌でもある。
南二局の鈴音の河は、その一枚ずつで出来ていた。味方から遠ざかる牌を選び続けて、相手の方へは一度も目を向けていない。
それを、綾小路は口に出した。
東二局で、綾小路は、二局後に鈴音が止まると言った。
止まった。
今度は、鈴音の切り方の癖を、卓の上に並べてみせた。
並べられた癖は、並べられたと知った人間の中で、もう一度同じ形をとる。直そうとすれば、直そうとした形が、次の癖になる。
綾小路は、点を取るのと同じ手つきで、鈴音の中から打ち方を一つずつ剥がしていた。
俺は、万年筆を握ったまま、何も書かなかった。
書けば、俺は妹の側に立つ。
立会人が、卓の片側に立つ。
それは、立会人を引き受けた時に、俺が自分に禁じたことだった。
鈴音の指が、卓の縁を一度だけ押した。
押して、離した。
「赤木くん」
鈴音が言った。
声が、少しだけ掠れていた。
「なんだ」
「……何でもないわ」
赤木は、鈴音を見た。
鈴音は、何かを言いかけて、それを呑み込んだ顔をしていた。
謝ろうとしたのだと思う。
19000にしたのは、南一局と南二局で振り込んだ自分だ、と。
鈴音は、それを言わなかった。
言えば、赤木が何と返すかを、鈴音はもう知っているのかもしれなかった。
赤木は、鈴音の顔から目を離して、もう一度自分の河に目を戻した。
慰めの言葉は、一つも出てこなかった。
出てこないまま、赤木の口元が、少しだけ上がった。
笑っていた。
南一局で満貫を払った時と同じ顔で、62000の差を抱えて、笑っていた。
「堀北、卓につくってのはそういうもんだ」
独り言のような声だった。
坂柳が、その笑い方を見ていた。
見て、指先を卓の縁から離した。
離した指が、杖の方へ動きかけて、止まった。
止まって、また卓の上に戻った。
62000。この卓の点の八割が、向こう側に積まれている。
積まれた側の人間が、今日一番機嫌のいい顔をしていた。
俺は、この顔を一度見たことがある。
5月8日の夜、襟を掴んで持ち上げた時だ。
足が床から浮いて、首が締まって、それでもこの男は、瞬き一つしなかった。何も起きていない顔で、俺を見ていた。
今、笑っているこの顔と、あの夜の顔は、同じところから出ている。
持ち上げているのは俺なのに、見下ろされていた。
あの夜、俺が手を離した理由の半分は、あの顔だった。
もう半分を、俺は言葉にしないできた。
「綾小路」
赤木が言った。
卓の向こう、真正面に向けて。
「なんだ」
赤木は、次の山に手を伸ばしながら言った。
「退屈だろ」
綾小路の手が、止まらなかった。
止まらずに、山を積み続けた。
「退屈かどうかを、考えたことが無い」
「フフ、そろそろ考えないといけなくなるかもな」
赤木は、それ以上言わなかった。
綾小路も、それ以上言わなかった。
言葉は、そこで途切れた。
途切れた言葉の続きを、俺は頭の中で探した。
退屈かどうかを考えたことが無い人間が、なぜ、自分の退学を懸けてまで、この卓に座ったのか。
昨日、俺は綾小路に、何のために座るのかと訊いた。
見たいものがある、と綾小路は答えた。
赤木は、それが何かを、今の一言で当てに行ったのではないか。
当てに行って、当たったのかどうかは、綾小路の顔からは分からなかった。
分からないまま、綾小路は山を積み終えた。
積む時に、音がした。
東一局から、ずっと同じ音だった。
「会長さんよ」
赤木が言った。
積み終えた山に、手を置いたまま。
俺に向けて、だった。
卓の上の四人の目が、窓際の俺に集まった。
「対局に関わることなら、答えない」
「関わらねえよ。終わった局の話だ」
赤木は、山から手を離した。
「終わった局の手を見せることは、不正じゃねえ。あんたがさっき、そう言った」
南一局の後、坂柳に向けて俺が言った言葉だった。
俺の言葉で、俺の口を開けさせに来ている。
「……言え」
「5月8日の夜だ」
鈴音の肩が、動いた。
坂柳の指が、杖の頭の手前で止まった。
綾小路だけが、何も動かさなかった。
「あんた、俺の襟を掴んで持ち上げた」
「そうだ」
「しばらくして、離したな。つまらん男だ、と言って」
「言った」
「なんで離した」
部屋の中が、静かになった。
手の中身ではない。
卓の上の局の話でもない。
五か月前の、夜の話だ。
終わった局の話だと、この男は言った。
答えない理由を、俺は自分の中に探した。
見つからなかった。
「お前が、瞬き一つしなかったからだ」
俺は言った。
「首が締まって、足が浮いて、それでもお前は、何も起きていない顔をしていた。殴っても、お前の中では何も起きない。そう思った」
「それで、離したのか」
「半分は、そうだ」
「もう半分は」
俺は、手帳の上の、乾きかけた滲みを見た。
12000。
「終わった後で言う」
赤木は、少しの間、俺を見ていた。
それから、口の端だけで笑った。
「クク、そうかい」
それだけだった。
赤木は、卓に目を戻した。
もう、俺の方を見なかった。
もう半分。
言葉が無いのではない。
言葉にしてしまえば、立会人の口から出てはならない言葉になる。
あの夜、この男は、襟を掴まれる前に言った。妹に置いていかれるのが、怖えんだ、と。
図星だったのかもしれない。
この男の胸元を掴んで、俺は思った。
この男は、鈴音を客席に置かない。
殴っても、殴らなくても、この男は、鈴音をどこかの卓に座らせる。
座らせて、取り返しのつかない負け方をさせるかもしれない。
負けさせても、客席には戻さない。
兄として、俺が何年もできなかったことだった。
だから、殴る代わりに、条件を付けた。
座るなら、賭ける側に。
今、鈴音は、19000しか残っていない卓の、賭ける側に座っている。
座らせたのは、この男で、条件を付けたのは俺だ。
「南三局」
俺は言った。
親は、綾小路に移った。
綾小路が、賽を振った。
振る手つきも、東一局と何も変わらなかった。
81000を抱えている側の手も、19000しか残っていない側の手も、この男の前では同じ重さに見えるのだろう。
坂柳が、配牌を取った。
取る手が、速かった。
南二局の跳満から、坂柳の手は迷わなくなっていた。
迷わなくなった手が、どこへ向かうのかは、まだ誰にも分からない。
鈴音が、配牌を取った。
取ってから、赤木の河ではなく、綾小路の顔を見た。
南場に入って、初めてだった。
綾小路は、その視線に気づいていた。
気づいていて、見返さなかった。
赤木は、配牌を取って、並べて、一度も手の中を見直さなかった。
見直さずに、窓の外を一度だけ見た。
野球部の声は、今日は聞こえない。
日曜だった。
俺は、万年筆を持ったまま、何も書かなかった。
書くことは、まだ起きていない。
起きた時に、書けるかどうかも、まだ分からなかった。