【完結】アカギ〜実力至上主義の教室に舞い降りた天才〜   作:GC

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第71話「単騎」

十分が過ぎた。

 

誰も席を立たなかった。

 

俺も立たなかった。

 

手帳の東場の欄は、四行で埋まっている。点の動きと、和了った者と、払った者。それ以外は書いていない。

 

書くべきことは、他にもあった。

 

 

 

 

 

東一局で、綾小路が最後まで手放さなかった六筒。東一局一本場で、赤木が綾小路の河を見ずに切った五索。東三局で、赤木が黙って待っていた五萬。東四局で、赤木が曲げた七索。鈴音が10秒止まったこと。

 

休憩の間に、坂柳が赤木に言われたこと。

 

どれも、書けば説明になる。

 

説明を書く立会人は、卓の外から卓に手を入れている。

 

だから書かなかった。

 

書かなかったものは、全部、頭の中に残っている。

 

残っているものを、俺は順に並べ直していた。

 

東一局一本場の五索。

 

赤木は、あの牌を切る前に綾小路の河を見なかった。

 

見ていれば、切らなかったかもしれない牌だ。坂柳が休憩の前にそう訊き、赤木は、かもな、と答えた。

 

8000で買えるなら安い、とも言った。

 

東三局の五萬は、その次の次の局だった。

 

綾小路は、立直を掛けて、引いた五萬を切った。赤木は、黙って待っていた。

 

綾小路の河には、萬子が並んでいた。立直の形も、平和の形も、東一局一本場と同じ作り方だった。

 

同じ作り方の手は、同じところで待つ。

 

8000で、赤木はそれを見に行ったのではないか。

 

一度振り込んで、綾小路の手の作り方を、手が開くところまで見届けた。

 

そう書けば、説明になる。

 

説明は、書かない。

 

書かないが、俺の頭の中からは、もう消えなかった。

 

卓の向こうで、赤木が卓の縁に置いた指を一本だけ動かした。

 

笑ってはいなかった。

 

 

 

 

 

5月8日の夜、俺は鈴音の手首を離して、この男の襟を掴んで持ち上げた。

 

持ち上げられた側は、足が浮いたまま、瞬き一つしなかった。

 

あの夜のことは、それで全部だ。殴ってはいない。しばらくして、手を離した。

 

離した理由を、俺はまだ誰にも言っていない。

 

言葉にしないまま、後になって、この男と約束をした。

 

要請があれば、一度だけ、生徒会長の名で場を作る。

 

条件は一つ。

 

鈴音を客席に置くな。座るなら、賭ける側に。

 

赤木は、その条件を聞いて、何も言わなかった。頷きもしなかった。

 

一週間前、渡り廊下ですれ違いざまに、日付と時間だけを言われた。

 

それで約束は果たされることになった。

 

果たされた場所に、今、鈴音が座っている。

 

賭ける側に。

 

条件を付けたのは俺だ。

 

付けた時、俺は、鈴音がどこかの卓に座る日が来るなら、客席ではない方がいいと考えた。

 

それ以上のことは、考えていなかった。

 

座った鈴音が、どう打つのか。

 

座った鈴音の打った牌で、誰が何を失うのか。

 

そこは、赤木にまかせた。

 

今思えば先に聞いていたならば、あの条件は付けなかったかもしれない。

 

まさかあの夜自体が賭け元になっているとは思わなかったが、生徒会長としての最後の仕事として、付けるものにしては高く付いたとは思う。

 

だが、付けなかったら、鈴音は昨日、負けたまま客席に戻っていた。

 

「再開する」

 

万年筆の蓋を閉めた。

 

南一局。親は、赤木だった。

 

 

 

 

 

この月が終われば、俺は会長ではなくなる。

 

選挙の前倒しを通したのは南雲で、通るように作ってから持ってきた。俺はそれに判を押した。不備が無いものを、不備が無いという理由で退けることはできない。

 

だから、生徒会長の名前で記録を残せるのは、これが最後になる。

 

最後の一件が、妹の卓だった。

 

そのことについて、何かを思うのは後でいい。

 

今は、見届ける。

 

赤木が賽を振った。

 

配牌を取る手の中で、一人だけ牌の音がしない。東場の間、ずっとそうだった。

 

 

 

 

 

3巡目、坂柳の切った東を、赤木が鳴いた。

 

「ポン」

 

声が軽かった。

 

晒した三枚を卓の右端に寄せて、一枚切る。

 

5巡目、赤木はもう一度鳴いた。今度は鈴音の切った五筒だった。

 

手牌が七枚になった。

 

東場の赤木は、一度も鳴いていない。四局とも門前で打って、曲げる時は曲げ、黙る時は黙っていた。

 

その男が、南場の最初に、二度続けて鳴いた。

 

安い手だ。

 

親の東がついて、それ以上は何もついていないように見える。

 

坂柳が、晒された六枚を見ていた。

 

「急がれるのですね」

 

赤木は答えなかった。

 

次の牌を取って、切った。

 

坂柳の目が、赤木の晒した牌から、鈴音の河へ、それから自分の手へと動いた。

 

休憩の間、坂柳は赤木に、まだ座っていないのと同じだと言われていた。

 

言われた後で、坂柳の指は一度だけ杖の頭を強く握った。

 

今、その指は卓の上にある。

 

杖には、触れていない。

 

綾小路は、晒された牌を一度も見なかった。

 

8巡目。

 

「リーチ」

 

綾小路の千点棒が、卓の中央に置かれた。

 

置く手に、力は入っていなかった。東場で三度掛けた時と、同じ置き方だった。

 

鈴音の肩が、少しだけ上がった。

 

上がって、下りた。

 

東四局のあとの休憩で、鈴音は両手を一度握って開いた。それと同じ動きを、肩でやっていた。

 

鈴音は、降りなかった。

 

9巡目に一枚。10巡目に一枚。どちらも綾小路の河には無い牌を、自分の手に合わせて切っていく。

 

赤木に「降りるな」と言われた人間の切り方だった。

 

赤木は、ツモ切りを続けていた。

 

引いて、そのまま切る。引いて、そのまま切る。

 

手の中の七枚は、一枚も動かない。

 

聴牌している。

 

それだけは、見ていれば分かった。

 

11巡目。

 

鈴音が、三索を切った。

 

「ロン」

 

綾小路が、手を開いた。

 

立直、平和、タンヤオ、ドラ二。満貫。

 

鈴音の手が、卓の縁で止まった。

 

止まったまま、点箱に伸びかけて、戻った。東二局で一度やったことを、もう一度はやらなかった。

 

赤木が、点箱から棒を出した。

 

8000。綾小路の千点棒も、綾小路の手元へ戻った。

 

俺は万年筆を動かした。

 

南一局、綾小路、鈴音より8000。

 

書き終えて顔を上げると、赤木が自分の手を倒していた。

 

和了っていない手を、倒す理由は無い。

 

誰も求めていない。

 

晒した東と五筒の横に、残りの七枚が並んだ。

 

北が一枚。

 

北の単騎だった。

 

坂柳が、その一枚を見た。

 

「……よろしいのですか」

 

坂柳は、俺の方を向いていた。

 

「和了っていない手を見せるのは」

 

「終わった局だ」

 

俺は言った。

 

「終わった局の手を見せることは、不正ではない」

 

「承知しました」

 

坂柳は、それ以上言わなかった。

 

鈴音が、自分の手を崩していた。

 

崩して山に戻す手つきの中で、二枚が表を向いた。

 

北だった。

 

二枚とも。

 

鈴音は、その二枚を見下ろして、動かなくなった。

 

赤木は何も言わなかった。

 

倒した手を、自分で崩した。

 

綾小路が、そこで初めて赤木の方を見た。

 

「堀北は、切らない」

 

平らな声だった。

 

赤木の手が、崩した牌の上で止まった。

 

「今はな」

 

それだけだった。

 

綾小路は、目を戻した。戻して、自分の点箱に8000を収めた。

 

鈴音は、二人のどちらも見ていなかった。

 

北の二枚を、山の中へ押し込んでいた。表を向いたままの一枚を、指で裏に返してから押し込んだ。

 

 

 

 

 

鈴音が北を二枚持っていた。赤木は北一枚で待っていた。

 

鈴音が北を切っていれば、赤木が和了っていた。

 

和了っていれば、東一つの1500が、鈴音から赤木へ移っただけで局が終わった。同じ財布の中で、点は一点も減らない。

 

そして、綾小路の満貫は無かった。

 

味方から和了っていい。

 

昨日、赤木が一つだけ付けた条件だった。

 

坂柳はあの時、「同じ財布を持っている二人の間で、点を移す意味はありません」と言った。

 

意味はあった。

 

今、卓の上で見えた。

 

鈴音が、それを知っていたようには見えなかった。北を二枚抱えたまま、自分の手を作りに行っていた。

 

降りるなと言われて、降りなかった。降りない切り方の先に、綾小路がいた。

 

赤木が、鈴音に教えていないことがある。

 

教えれば、手の中身を伝える言葉になる。俺が止める。

 

だから赤木は、黙って鳴いて、黙って待った。

 

届かなかった。

 

綾小路は、赤木の晒した牌を一度も見なかった。

 

見なくても、分かっていたのだと思う。

 

鈴音が赤木に切ることは無い、と。

 

堀北は、切らない。

 

綾小路はそう言った。

 

北を切らない、という意味ではなかった。

 

鈴音は、赤木に向けて牌を切るという考えを、まだ持っていない。

 

味方の和了り牌を探して、そこへ切る。その発想が、鈴音の頭の中には無い。

 

綾小路は、それを知っていた。

 

知っていて、赤木の鳴きを見る必要が無いと判断した。

 

今はな、と赤木は返した。

 

今は切らない。

 

では、いつ切るのか。

 

赤木は、それを言わなかった。

 

「会長」

 

坂柳の声がした。

 

俺は、手帳から目を上げた。

 

「今の局を、記録には何と」

 

「南一局、綾小路、鈴音より8000。それだけだ」

 

「赤木くんの北は」

 

「書かない」

 

「和了っていないから、ですか」

 

「起きていないからだ」

 

坂柳は、少しの間だけ俺を見ていた。

 

それから、赤木の方を見た。

 

赤木は、次の山を積んでいた。

 

「……起きなかったことの方が、私には大きく見えました」

 

坂柳は、誰にともなくそう言った。

 

俺は、それを書かなかった。

 

 

 

 

 

「南二局」

 

俺が言った。

 

親は、鈴音だった。

 

鈴音は、山を積むのが遅れた。

 

遅れたまま、配牌を取った。取って、並べて、しばらく手を動かさなかった。

 

それから、赤木の河を見た。

 

南一局の河は、もう崩されて無い。何も無い場所を見ていた。東場の休憩の間も、鈴音は同じように、何も無い場所を見ていた。

 

1巡目に、鈴音は字牌を切った。

 

2巡目も字牌だった。

 

3巡目に、鈴音の手が止まった。

 

止まって、赤木の方を見た。

 

赤木は、自分の手を見ていた。鈴音の方を向かなかった。

 

鈴音は、何かを訊こうとした顔をした。

 

訊けば、手の話になる。

 

鈴音は、訊かなかった。

 

訊かずに、一枚切った。

 

坂柳が、鈴音の顔を見ていた。

 

「堀北さん」

 

「……何かしら」

 

「先ほどの局を、気にしていらっしゃいますか」

 

「あなたに答える必要があるの」

 

「いいえ。訊いてみただけです」

 

坂柳の声は、柔らかかった。

 

柔らかいまま、坂柳は自分の手を進めた。

 

東場の坂柳は、5200を払った後の綾小路を見て、それからずっと打ち方が固かった。牌を取る手が、一牌ごとに止まっていた。

 

一度も前に出なかった。自分の親でさえ、何もせずに流した。

 

今は止まっていない。

 

牌を取って、見て、切る。その間が、東場の半分になっていた。

 

4巡目に、坂柳は索子の真ん中を一枚切った。

 

東場の坂柳なら、切らなかった牌だ。赤木の河にも、綾小路の河にも無い。安全かどうか、誰にも分からない一枚。

 

坂柳は、それを切った。

 

切った指が、牌から離れるまでに、ほんの少しの間があった。

 

離れてから、坂柳は小さく息を吐いた。

 

誰も、和了らなかった。

 

通った。

 

6巡目に、坂柳が牌を横に曲げなかった。

 

黙ったまま、何かを待っている。

 

綾小路が、横目で坂柳の河を見た。

 

見て、何も言わなかった。

 

鈴音は、7巡目に赤木の河を見た。8巡目も見た。

 

赤木の河には、字牌と端の牌しか並んでいなかった。

 

9巡目。

 

鈴音が、赤木の河にある牌と同じ種類の、二筒を切った。

 

「ロン」

 

坂柳だった。

 

タンヤオ、平和、三色、ドラ二。

 

跳満。12000。

 

黙ったまま、坂柳は跳満を張っていた。

 

坂柳は、自分の手を倒しながら、鈴音を見ていた。

 

「失礼しました」

 

鈴音は、何も言わなかった。

 

それから、坂柳は、卓の向こうに顔を向けた。

 

赤木に向けて。

 

「出しました」

 

短い言葉だった。

 

赤木は、坂柳の倒した手を見ていた。

 

4巡目に切られた、索子の真ん中。黙ったまま待った3巡。

 

「そうかい」

 

赤木は、それだけ言った。

 

坂柳の頬に、少しだけ赤みが差した。

 

差したまま、坂柳は点棒を数えた。

 

数える手が、東場よりも速かった。

 

親が、流れた。

 

万年筆を動かした。

 

南二局、坂柳、鈴音より12000。

 

12000の、最後の0で、ペン先が止まった。

 

止めたつもりは無かった。

 

指に、力が入っていた。

 

ペン先の下で、インクが小さく滲んで、丸く広がった。

 

南一局の8000の行は、細い字のまま乾いている。

 

その下の12000だけが、滲んでいた。

 

誰も、俺の手帳を見ていなかった。

 

見られていないことを確かめてから、俺は万年筆を紙から離した。

 

吸い取り紙は、持ってきていない。

 

滲みは、そのまま乾いていった。

 

立会人の記録に、滲みは要らない。

 

要らないものが、一つ、紙に残った。

 

鈴音が、一度だけ、こちらを見た。

 

点を払い終えた手を、膝の上に置いたまま。

 

俺は、見返さなかった。

 

昨日、会議室で、俺は妹の顔を見ずに、座れと言った。

 

今日も、見なかった。

 

見れば、立会人ではなくなる。

 

鈴音は、すぐに目を卓に戻した。

 

戻す時に、背筋が一度だけ伸びた。

 

伸びたまま、動かなかった。

 

点箱の中の数を、俺は頭の中で揃えた。

 

綾小路と坂柳が、81000。

 

赤木と鈴音が、19000。

 

東場の終わりで22000だった差が、62000になっている。

 

19000。

 

親の倍満が一つ来れば、それで零を割る。親の跳満でも、立直棒を一本出していれば、ちょうど零になる。

 

鈴音の点箱の蓋が、開いたままになっていた。

 

鈴音は、それを閉めるのを忘れていた。

 

二局の間に、赤木は一度も和了っていない。

 

一度、和了ろうとして、届かなかった。

 

 

 

 

 

「坂柳」

 

綾小路が、点棒を仕舞いながら言った。

 

「今のは、赤木の河を見て切った牌だった」

 

坂柳が、少しだけ首を傾けた。

 

「そのように見えましたね」

 

「赤木の通っている牌は、オレたちにも通るとは限らない」

 

「承知しています。ですから、待ちました」

 

「そうか」

 

綾小路は、それだけ言った。

 

手の中身ではない。卓の上に出ている河の話だ。

 

俺は、止めなかった。

 

鈴音が、綾小路を見ていた。

 

綾小路は、鈴音の方を見なかった。

 

今の言葉は、坂柳に向けて言われていた。

 

鈴音にも、聞こえるように言われていた。

 

赤木の河にある牌は、赤木には当たらない。

 

当たらない牌は、赤木が和了れない牌でもある。

 

南二局の鈴音の河は、その一枚ずつで出来ていた。味方から遠ざかる牌を選び続けて、相手の方へは一度も目を向けていない。

 

それを、綾小路は口に出した。

 

東二局で、綾小路は、二局後に鈴音が止まると言った。

 

止まった。

 

今度は、鈴音の切り方の癖を、卓の上に並べてみせた。

 

並べられた癖は、並べられたと知った人間の中で、もう一度同じ形をとる。直そうとすれば、直そうとした形が、次の癖になる。

 

綾小路は、点を取るのと同じ手つきで、鈴音の中から打ち方を一つずつ剥がしていた。

 

俺は、万年筆を握ったまま、何も書かなかった。

 

書けば、俺は妹の側に立つ。

 

立会人が、卓の片側に立つ。

 

それは、立会人を引き受けた時に、俺が自分に禁じたことだった。

 

鈴音の指が、卓の縁を一度だけ押した。

 

押して、離した。

 

「赤木くん」

 

鈴音が言った。

 

声が、少しだけ掠れていた。

 

「なんだ」

 

「……何でもないわ」

 

赤木は、鈴音を見た。

 

鈴音は、何かを言いかけて、それを呑み込んだ顔をしていた。

 

謝ろうとしたのだと思う。

 

19000にしたのは、南一局と南二局で振り込んだ自分だ、と。

 

鈴音は、それを言わなかった。

 

言えば、赤木が何と返すかを、鈴音はもう知っているのかもしれなかった。

 

赤木は、鈴音の顔から目を離して、もう一度自分の河に目を戻した。

 

慰めの言葉は、一つも出てこなかった。

 

出てこないまま、赤木の口元が、少しだけ上がった。

 

笑っていた。

 

南一局で満貫を払った時と同じ顔で、62000の差を抱えて、笑っていた。

 

「堀北、卓につくってのはそういうもんだ」

 

独り言のような声だった。

 

坂柳が、その笑い方を見ていた。

 

見て、指先を卓の縁から離した。

 

離した指が、杖の方へ動きかけて、止まった。

 

止まって、また卓の上に戻った。

 

62000。この卓の点の八割が、向こう側に積まれている。

 

積まれた側の人間が、今日一番機嫌のいい顔をしていた。

 

俺は、この顔を一度見たことがある。

 

5月8日の夜、襟を掴んで持ち上げた時だ。

 

足が床から浮いて、首が締まって、それでもこの男は、瞬き一つしなかった。何も起きていない顔で、俺を見ていた。

 

今、笑っているこの顔と、あの夜の顔は、同じところから出ている。

 

持ち上げているのは俺なのに、見下ろされていた。

 

あの夜、俺が手を離した理由の半分は、あの顔だった。

 

もう半分を、俺は言葉にしないできた。

 

「綾小路」

 

赤木が言った。

 

卓の向こう、真正面に向けて。

 

「なんだ」

 

赤木は、次の山に手を伸ばしながら言った。

 

 

 

「退屈だろ」

 

 

 

綾小路の手が、止まらなかった。

 

止まらずに、山を積み続けた。

 

「退屈かどうかを、考えたことが無い」

 

「フフ、そろそろ考えないといけなくなるかもな」

 

赤木は、それ以上言わなかった。

 

綾小路も、それ以上言わなかった。

 

言葉は、そこで途切れた。

 

途切れた言葉の続きを、俺は頭の中で探した。

 

退屈かどうかを考えたことが無い人間が、なぜ、自分の退学を懸けてまで、この卓に座ったのか。

 

昨日、俺は綾小路に、何のために座るのかと訊いた。

 

見たいものがある、と綾小路は答えた。

 

赤木は、それが何かを、今の一言で当てに行ったのではないか。

 

当てに行って、当たったのかどうかは、綾小路の顔からは分からなかった。

 

分からないまま、綾小路は山を積み終えた。

 

積む時に、音がした。

 

東一局から、ずっと同じ音だった。

 

 

 

 

 

「会長さんよ」

 

赤木が言った。

 

積み終えた山に、手を置いたまま。

 

俺に向けて、だった。

 

卓の上の四人の目が、窓際の俺に集まった。

 

「対局に関わることなら、答えない」

 

「関わらねえよ。終わった局の話だ」

 

赤木は、山から手を離した。

 

「終わった局の手を見せることは、不正じゃねえ。あんたがさっき、そう言った」

 

南一局の後、坂柳に向けて俺が言った言葉だった。

 

俺の言葉で、俺の口を開けさせに来ている。

 

「……言え」

 

「5月8日の夜だ」

 

鈴音の肩が、動いた。

 

坂柳の指が、杖の頭の手前で止まった。

 

綾小路だけが、何も動かさなかった。

 

「あんた、俺の襟を掴んで持ち上げた」

 

「そうだ」

 

「しばらくして、離したな。つまらん男だ、と言って」

 

「言った」

 

「なんで離した」

 

部屋の中が、静かになった。

 

手の中身ではない。

 

卓の上の局の話でもない。

 

五か月前の、夜の話だ。

 

終わった局の話だと、この男は言った。

 

答えない理由を、俺は自分の中に探した。

 

見つからなかった。

 

「お前が、瞬き一つしなかったからだ」

 

俺は言った。

 

「首が締まって、足が浮いて、それでもお前は、何も起きていない顔をしていた。殴っても、お前の中では何も起きない。そう思った」

 

「それで、離したのか」

 

「半分は、そうだ」

 

「もう半分は」

 

俺は、手帳の上の、乾きかけた滲みを見た。

 

12000。

 

「終わった後で言う」

 

赤木は、少しの間、俺を見ていた。

 

それから、口の端だけで笑った。

 

「クク、そうかい」

 

それだけだった。

 

赤木は、卓に目を戻した。

 

もう、俺の方を見なかった。

 

もう半分。

 

言葉が無いのではない。

 

言葉にしてしまえば、立会人の口から出てはならない言葉になる。

 

あの夜、この男は、襟を掴まれる前に言った。妹に置いていかれるのが、怖えんだ、と。

 

図星だったのかもしれない。

 

この男の胸元を掴んで、俺は思った。

 

この男は、鈴音を客席に置かない。

 

殴っても、殴らなくても、この男は、鈴音をどこかの卓に座らせる。

 

座らせて、取り返しのつかない負け方をさせるかもしれない。

 

負けさせても、客席には戻さない。

 

兄として、俺が何年もできなかったことだった。

 

だから、殴る代わりに、条件を付けた。

 

座るなら、賭ける側に。

 

今、鈴音は、19000しか残っていない卓の、賭ける側に座っている。

 

座らせたのは、この男で、条件を付けたのは俺だ。

 

「南三局」

 

俺は言った。

 

親は、綾小路に移った。

 

綾小路が、賽を振った。

 

振る手つきも、東一局と何も変わらなかった。

 

81000を抱えている側の手も、19000しか残っていない側の手も、この男の前では同じ重さに見えるのだろう。

 

坂柳が、配牌を取った。

 

取る手が、速かった。

 

南二局の跳満から、坂柳の手は迷わなくなっていた。

 

迷わなくなった手が、どこへ向かうのかは、まだ誰にも分からない。

 

鈴音が、配牌を取った。

 

取ってから、赤木の河ではなく、綾小路の顔を見た。

 

南場に入って、初めてだった。

 

綾小路は、その視線に気づいていた。

 

気づいていて、見返さなかった。

 

赤木は、配牌を取って、並べて、一度も手の中を見直さなかった。

 

見直さずに、窓の外を一度だけ見た。

 

野球部の声は、今日は聞こえない。

 

日曜だった。

 

俺は、万年筆を持ったまま、何も書かなかった。

 

書くことは、まだ起きていない。

 

起きた時に、書けるかどうかも、まだ分からなかった。

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