【完結】アカギ〜実力至上主義の教室に舞い降りた天才〜   作:GC

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第72話「予感」

北が二枚あった。

 

赤木くんは、北を一枚で待っていた。

 

 

 

 

 

私が一枚切っていれば、局はそこで終わっていた。

 

終わっていれば、1500が私の点箱から赤木くんの点箱へ移るだけだった。同じ財布の中の、右から左だ。

 

一点も減らない。

 

綾小路くんの満貫は、無かった。

 

味方から和了ってもいい。

 

昨日、赤木くんが一つだけ足した条件だった。坂柳さんは、意味が無いと言った。私も、意味が分からなかった。分からないまま、覚えもしなかった。

 

五日間で覚えたのは、役と点数と、捨て牌の数え方だった。

 

赤木くんは、何も教えなかった。

 

この卓で、手の中身を口にすれば兄が止める。

 

止められる言葉の代わりに、赤木くんは北を一枚、手の中に置いていた。

 

私は、それを見ていなかった。

 

綾小路くんは、見ていた。

 

「堀北は、切らない」

 

言われた通りだった。

 

そのあとの南二局で、私は坂柳さんに跳満を振り込んだ。

 

12000。

 

点箱の蓋を開けたまま、しばらく閉められなかった。

 

19000。

 

私たちに残っているのは、それだけだった。

 

50000から始めて、31000を失った。

 

そのうち、赤木くんが振り込んだのは、東一局一本場の8000だけだ。

 

私が振り込んだのは、その三倍を超える。

 

五日間、私は何のために覚えたのだろう。

 

覚えたもので、この人の点を削っただけだった。

 

 

 

 

 

南三局。

 

綾小路くんの親だった。

 

配牌を取って、並べた。

 

並べ終えてから、赤木くんの方を見ないようにした。

 

南二局で、私は赤木くんの河ばかり見ていた。赤木くんに当たらない牌を探して、赤木くんから遠ざかる牌を切っていた。

 

綾小路くんの言った通りだった。

 

相手を、一度も見ていなかった。

 

だから、今度は綾小路くんを見た。

 

綾小路くんは、牌を切る時に河を見ない。自分の手も、あまり見ない。

 

引いて、一秒に満たない間に、切る。

 

東一局から、ずっと同じだった。

 

四月から、ずっと同じだった。

 

隣の席で、綾小路くんはずっと、こういう顔をしていた。

 

何も見ていない顔で、全部を見ていた。

 

私は、その隣で半年を過ごして、この人が何を見ているのかを一度も訊かなかった。

 

訊かなかったのではない。訊いても、答えないと分かっていた。

 

分かっていたから、訊かずに済ませていた。

 

済ませていたものの勘定を、今、卓の上で払わされている。

 

 

 

 

 

5巡目に、綾小路くんが西を切った。

 

7巡目。

 

「リーチ」

 

千点棒が、卓の中央に置かれた。

 

親の立直だった。

 

置き方は、東一局と何も変わっていなかった。

 

81000を抱えた今の置き方も、50000から始めた東一局の置き方も、この人の手の中では同じだった。

 

私の手は、まだ遠かった。

 

遠い手で、親の立直に向かう理由は無い。

 

降りる。

 

そう決めた時、東四局の、赤木くんの一言が頭をよぎった。

 

 

 

降りるな。

 

 

 

私は、降りなかった。降りない牌を切って、綾小路くんに振り込んだ。

 

南一局でも、降りなかった。北を二枚抱えて、自分の手を作りに行って、振り込んだ。

 

南二局でも。

 

三度、降りずに、三度、振り込んだ。

 

その三度で、私たちは19000まで削れた。

 

降りるな、が間違っていたのか。

 

私の聞き方が、間違っていたのか。

 

分からないまま、8巡目が来た。

 

 

 

 

 

赤木くんが、牌を横に曲げた。

 

「リーチ」

 

追いかけた。

 

親の立直に、真っ向から。

 

千点棒が、綾小路くんの棒の隣に置かれた。

 

私は、その一本を見て、頭の中で数を引いた。

 

19000から、1000。

 

18000。

 

綾小路くんの親の、跳満。

 

18000。

 

息が、止まった。

 

跳満が来れば、私たちの点箱は、ちょうど空になる。

 

零になった時点で、終局。

 

兄が、今朝、はっきりそう言った。

 

千点棒を出さなければ、19000だった。跳満を喰らっても、1000点が残った。1000点が残れば、まだ次の局がある。

 

赤木くんは、その1000点を、自分の手で卓の真ん中に置いた。

 

立直を掛ければ、もう手は変えられない。綾小路くんの当たり牌を引いたら、切るしかない。

 

逃げ道を、一本も残さずに。

 

私は、赤木くんの顔を見た。

 

笑っていた。

 

口の端だけで。

 

 

 

 

 

千点棒を置いた指は、卓の縁に戻って、少しも揺れていなかった。

 

「赤木くん」

 

声が、勝手に出た。

 

「今の立直で――」

 

言いかけて、止まった。

 

その先は、点の話だ。手の中身ではない。けれど、口にした瞬間に、この卓の上の全員が、同じ数を数えることになる。

 

兄の万年筆が、紙から浮いていた。

 

赤木くんが、私の方を見た。

 

「ちょうどだな」

 

それだけだった。

 

ちょうど。

 

18000と、18000。

 

分かっていて、置いた。

 

坂柳さんが、赤木くんの顔を見ていた。

 

杖の頭に置いた指が、白くなっていた。

 

私の方を見て、それから、もう一度赤木くんを見た。

 

その目の中に、何があったのかは分からない。

 

分かったのは、坂柳さんの指が、杖の頭から離れなくなったことだけだった。

 

綾小路くんは、赤木くんを見なかった。

 

自分の河だけを見ていた。

 

「赤木」

 

綾小路くんが、河を見たまま言った。

 

「今の1000点は、要らなかった」

 

「いらねえか」

 

「要らないものを出した」

 

「フフ、出したかったからな」

 

綾小路くんは、そこで初めて、赤木くんの方を見た。

 

一秒にも満たない時間だった。

 

「そうか」

 

目が、河に戻った。

 

戻った目の中に何があったのかも、私には分からなかった。

 

次は、私の番だった。

 

 

 

 

 

赤木くんの立直のすぐ後。綾小路くんが次に引く前。

 

山から一枚引いた。

 

引いた牌を、手の中に入れた。

 

入れてから、綾小路くんの河を見た。

 

綾小路くんの河にある牌は、綾小路くんには当たらない。

 

私の手の中で、綾小路くんの河にあるものは、西が一枚だけだった。

 

逃げる牌は、それしかなかった。

 

それを切れば、私は降りたことになる。

 

降りるな。

 

赤木くんの声が、もう一度頭の中で鳴った。

 

鳴って、止まらなかった。

 

止まらないまま、私は西に指を掛けた。

 

降りるな、と言った人が、今、逃げ道を全部捨てて、隣に座っている。

 

その人の隣で、私は逃げようとしている。

 

指が、西の上で止まった。

 

一秒。

 

二秒。

 

赤木くんは、私を見ていなかった。

 

自分の河を見ていた。

 

私が何を切っても、それを見届けるつもりの無い横顔だった。

 

見届けるつもりが無いのではない。

 

私が何を切っても、それを受け取るつもりの横顔だった。

 

私は、西を切った。

 

「ロン」

 

赤木くんだった。

 

手が、倒れた。

 

西の、単騎だった。

 

立直、一発。2600。

 

卓の上が、静かになった。

 

兄の万年筆が、紙の上で止まったままだった。

 

私は、倒れた手を見ていた。

 

 

 

 

 

西の単騎。

 

綾小路くんが5巡目に切った西。私が、綾小路くんから逃げるために切れる、たった一枚の牌。

 

赤木くんは、私が逃げる先で待っていた。

 

逃げ道を全部捨てた人が、私の逃げ道の出口に立っていた。

 

「……ペアだったわね」

 

東二局で一度言ったことを、もう一度言った。

 

同じ言葉なのに、意味が違った。

 

「まだ怖えか」

 

赤木くんは、それだけ言って、私の2600を受け取った。

 

受け取った棒を、そのまま点箱に入れた。

 

それから、卓の中央の千点棒を二本、引き寄せた。

 

一本は自分の。

 

もう一本は、綾小路くんの立直棒だった。

 

綾小路くんの親が、流れた。

 

点箱が、1000点だけ動いた。

 

私の2600は、右から左へ移っただけで、一点も減っていない。

 

綾小路くんの1000点だけが、こちら側に来た。

 

20000。

 

たった1000。

 

たった1000が、今日、私が初めて卓の上で動かした点だった。

 

私が逃げることも見越されていた。

 

 

 

 

 

綾小路くんは、点を払わなかった。払う必要が無い局だった。

 

立直棒を一本失って、親を失った。

 

それだけだった。

 

表情は、何も変わっていなかった。

 

私は、綾小路くんの顔を正面から見た。

 

見ても、何も読めなかった。

 

東場の休憩で坂柳さんが言ったことを、思い出した。

 

――私に見えた範囲では、この人は一枚も外していない。

 

今の局も、外していない。

 

外していないのに、親が流れた。

 

綾小路くんの計算の外に、私が一枚、置かれていただけだ。

 

坂柳さんが、自分の河を見ていた。

 

南二局の跳満から、ずっと前に出ていた人が、動きを止めていた。

 

「……味方から」

 

坂柳さんが、小さく言った。

 

誰に言ったのでもなかった。

 

「味方から和了っていい。同じ財布の中で点を移す意味は無いと、私は昨日、申し上げました」

 

「言ってたな」

 

赤木くんが答えた。

 

「意味は、点を移すことではなかったのですね」

 

赤木くんは、答えなかった。

 

坂柳さんは、答えを待たなかった。

 

「局を、終わらせることだった。相手の親を。相手の手を。自分たちの側の、一番安い一枚で」

 

坂柳さんの指が、杖の頭から離れた。

 

離れて、卓の縁に置かれた。

 

「南一局の北も」

 

誰も、何も言わなかった。

 

兄の万年筆だけが、紙の上で止まっていた。

 

坂柳さんは、顔を上げた。

 

赤木くんを見ていた。

 

「昨日、私は、意味が無いと申し上げました。今日、私は、その口で、ここに座っています」

 

「そうかい」

 

「……お借りします」

 

赤木くんの目が、少しだけ細くなった。

 

「返さなくていい」

 

それだけだった。

 

坂柳さんは、小さく頷いた。

 

頷いたまま、次の山に手を伸ばした。

 

私は、今のやり取りの意味を、半分だけ分かった。

 

坂柳さんは、赤木くんが私に見せた一枚を、自分の手に取ろうとしている。

 

私が、半日かけてようやく受け取ったものを。

 

一局で。

 

 

 

 

 

右隣の綾小路くんを見た。

 

綾小路くんは、坂柳さんの方を見ていなかった。

 

山を崩す手を、止めていなかった。

 

止めていないのに、綾小路くんの指が、一度だけ牌の上で遅れた。

 

ほんの少しだった。

 

見間違いかもしれない。

 

見間違いでないなら、あれは、綾小路くんの計算の中に、今、一つ何かが足されたのだと思う。

 

足したのは、坂柳さんだった。

 

 

 

 

 

山を崩す音の中で、私は赤木くんの方を向いた。

 

「赤木くん」

 

「なんだ」

 

「……もし、綾小路くんが先に跳満を引いていたら」

 

「終わってたな」

 

あっさりと、言った。

 

天気の話をするような声だった。

 

「それだけ?」

 

「それだけだ」

 

赤木くんは、崩した牌を山に戻しながら、口の端だけで笑った。

 

「いい局だった」

 

私は、何も言えなかった。

 

いい局。

 

一枚違えば、この人は、この学校からいなくなっていた。兄も、終わっていた。

 

その一枚の上に座って、この人は、いい局だったと言う。

 

 

 

 

 

最初に言われたのは、非常階段を降りながらだった。

 

勝てねえと分かった勝負でも投げるな。投げ方は、最後に覚えればいい。

 

体育祭の前の日にも訊いた。どこで降りることを言っているのか、と。

 

両方だ、と言われた。始まる前に降りる奴が一番多い、と。

 

分かっていたつもりだった。

 

それなのに、東四局で卓の上から同じ言葉を掛けられた時、私はそれを牌の話として聞いた。逃げる牌を切るな、という意味に。

 

だから、逃げずに切って、振り込んだ。三度。

 

南三局で、私は初めて逃げた。

 

逃げた先に、赤木くんがいた。

 

投げ方は、最後に覚えればいい。

 

最後に覚えた。

 

手を投げることと、勝負を投げることは違う。

 

赤木くんは、今、自分の手も、自分の点も、全部を卓の上に投げ出してみせた。

 

投げ出して、勝負だけは、一度も投げていない。

 

この人は、勝ちを拾いに行く人ではない。

 

一枚で消える場所まで、自分で歩いていく。

 

歩いていって、そこに座って、牌を待つ。

 

普通は、そんな場所に牌は来ない。来ないから、誰もそこへは行かない。

 

この人の座った場所には、来る。

 

南三局で、私の西が来た。

 

運と呼べば、それで片付く。

 

けれど、運なら、来ない日もあるはずだった。

 

この人は、来ない日のことを、一度も考えていない顔をしている。

 

考えていないから、来るのか。

 

来ると知っているから、考えないのか。

 

どちらなのかは、私には分からない。

 

分かるのは、この人が、あの場所に座ることを、少しも怖がっていないということだけだった。

 

降りるな、は、牌の話ではなかった。

 

この卓から、心を降ろすな、ということだと思う。

 

逃げる牌を切ってもいい。逃げた先で、赤木くんが待っていることもある。

 

逃げながら、勝負を見ていろ。

 

「……分かったわ」

 

誰に言ったのでもなかった。

 

赤木くんは、もう山を積んでいた。

 

積む時に、音がしなかった。

 

 

 

 

 

「綾小路くん」

 

南四局の山を積みながら、私は言った。

 

言うつもりは無かった。

 

昨日、終わってからにする、と言った。終わった時に、あなたがまだこの学校にいたら、と。

 

まだ終わっていない。

 

それでも、声が出た。

 

「なんだ」

 

「あなたは、何を見に来たの」

 

綾小路くんの手が、止まらなかった。

 

山の上に、牌を一枚ずつ重ねていく。

 

「それは、今の局で見えたの」

 

「まだだ」

 

「まだ」

 

「近いところまでは来ている」

 

私は、積みかけた山の上で、指を止めた。

 

「私たちが19000まで落ちても、見えなかった。赤木くんが、ちょうどの1000点を置いても、見えなかった」

 

「そうだ」

 

「何が見えれば、見えたことになるの」

 

綾小路くんは、最後の一枚を山に載せた。

 

載せてから、私の方を見た。

 

四月から、何度も見た顔だった。

 

何も見ていない顔。

 

けれど今は、その顔が、私を通り越して、隣の赤木くんの方を向いていた。

 

 

 

「赤木が、赤木でなくなるところか。オレが、オレでなくなるところか。どちらかだ」

 

 

 

意味が分からなかった。

 

分からないまま、私は綾小路くんの顔を見ていた。

 

赤木くんは、何も言わなかった。

 

聞こえていないはずがなかった。

 

聞こえていて、牌を積み終えて、卓の縁に両手を置いていた。

 

「……どちらも、起きない気がするわ」

 

私は言った。

 

「そうかもしれない」

 

綾小路くんは、それだけ言って、目を卓に戻した。

 

私は、自分の山を積み終えた。

 

積み終えた山の上に、手を置いた。

 

手が、少しだけ温かかった。

 

 

 

 

 

南四局。

 

坂柳さんの親だった。

 

坂柳さんの手つきが、変わっていた。

 

南二局で私から12000を取ってから、坂柳さんは一牌ごとに止まらなくなっていた。

 

南三局の、味方から、の話をしてから、また変わった。

 

速い。

 

5巡目、6巡目と、迷う時間が無い。

 

いい手が来ている。

 

それは、坂柳さんの河から分かった。

 

萬子と字牌が、一枚も出てこない。索子と筒子だけが、真ん中の牌まで惜しげもなく並んでいる。

 

80000と20000。

 

親で、いい手が来ている。

 

今の私たちは20000。親の倍満なら、24000。

 

和了られたら、終わる。

 

坂柳さんは、終わらせに来ていた。

 

7巡目に、赤木くんが曲げた。

 

「リーチ」

 

20000から、19000へ。

 

また、1000点を出した。

 

坂柳さんの手が、一瞬だけ止まった。

 

止まって、赤木くんの顔を見た。

 

赤木くんは、笑っていなかった。

 

坂柳さんの方も、見ていなかった。

 

自分の河を見ていた。

 

坂柳さんの喉が、一度だけ動いた。

 

それから、手が動いた。

 

降りなかった。

 

親の手を、真っ直ぐ進めてきた。

 

8巡目。

 

「リーチ」

 

坂柳さんが、牌を横に曲げた。

 

親の追いかけだった。

 

千点棒が、赤木くんの棒の隣に置かれた。

 

坂柳さんの指は、置いた棒から、すぐに離れた。

 

東場の坂柳さんなら、きっと、ここで一度止まっていた。

 

止まらなかった。

 

綾小路くんが、横目で坂柳さんの棒を見た。

 

見て、何も言わなかった。

 

止めなかった。

 

9巡目。

 

坂柳さんは、引いた牌をそのまま切った。

 

通った。

 

赤木くんも、引いた牌をそのまま切った。

 

通った。

 

10巡目。

 

坂柳さんが、山から牌を引いた。

 

引いた指が、止まった。

 

止まったまま、坂柳さんは、自分の手の中を見なかった。

 

赤木くんの河を見ていた。

 

横になった、赤木くんの宣言牌を。

 

それから、赤木くんの顔を見た。

 

「……赤木くん」

 

「なんだ」

 

「これを、あなたは待っていらっしゃいますか」

 

兄の万年筆が、浮いた。

 

手の中身を訊く言葉ではない。自分が引いた牌が当たるかどうかを、相手に訊いているだけだ。

 

答える義理は、無い。

 

「フフ、知りたきゃ、切ってみな」

 

赤木くんは、それだけ言った。

 

坂柳さんは、小さく笑った。

 

「ええ。そうするしかありませんものね」

 

立直を掛けた人は、引いた牌を切るしかない。

 

坂柳さんは、それを分かっていて、自分で曲げた。

 

五筒を、切った。

 

切った瞬間に、坂柳さんの指が、牌から離れなかった。

 

離れないまま、止まった。

 

「そいつだ、ロン」

 

赤木くんの声は、低くも高くもなかった。

 

 

 

 

 

立直、平和、タンヤオ、三色、ドラ三。

 

倍満。16000。

 

坂柳さんは、赤木くんの倒した手を見ていた。

 

見終えてから、自分の手を倒した。

 

和了っていない手を。

 

終わった局だ。見せることは、不正ではない。

 

一萬から九萬まで、萬子が一本の筋で並んでいた。残りは、東の対子と、萬子が二枚。

 

親の、混一色、一気通貫、ドラ二。

 

立直を掛けたから、一つ増えている。

 

「……親の倍満でした」

 

坂柳さんが、自分で言った。

 

「24000。和了れていれば、あなたたちは零を割っていました」

 

「割ってたな」

 

赤木くんは、あっさりと認めた。

 

「私と、あなたと。先に引いた方が、終わらせる局でした」

 

「そうだな」

 

「先に引いたのは、私でした」

 

「引いたもんが悪かったんじゃねえ」

 

赤木くんは、倒した手を崩さないまま、坂柳さんを見た。

 

 

 

「死ぬ順番が、一つ違っただけだ」

 

 

 

坂柳さんの指が、点箱の縁で止まった。

 

止まったまま、坂柳さんは、少しだけ笑った。

 

「……次は、順番を入れ替えます」

 

「フフ、やってみな」

 

坂柳さんは、少しの間、赤木くんを見ていた。

 

それから、点箱に手を伸ばした。

 

綾小路くんが、それより先に棒を出していた。

 

「オレが出す」

 

「いえ、私が」

 

坂柳さんは、綾小路くんの手を、杖の先で軽く押し戻した。

 

「私の局です。私が払います」

 

綾小路くんは、何も言わずに手を引いた。

 

坂柳さんが、自分の手で16000を数えて、卓の上を滑らせた。

 

赤木くんが、それを受け取った。

 

37000と、63000。

 

60000の差が、26000になった。

 

兄が、万年筆を動かした。

 

それから、手帳から顔を上げた。

 

「南四局を終える」

 

部屋の中の誰も、動かなかった。

 

「どちらも、零に達していない」

 

兄は、全員の顔を順に見た。

 

最後に、私の顔を見た。

 

「取り決めの通り、続行する。西場に入る」

 

 

 

 

 

坂柳さんが、ほんの少しだけ目を閉じた。

 

「普通の麻雀なら、今ので終わっていました」

 

目を閉じたまま、坂柳さんが言った。

 

「63000と、37000。私たちの勝ちで」

 

「この卓は、普通の終わり方をしない」

 

兄が言った。

 

「今朝、そう言った」

 

「ええ。伺いました。私が頷いた取り決めです」

 

坂柳さんは、目を開けた。

 

「点で勝ったまま席を立てる卓なら、私は今、勝っています。勝って、何も懸けずに帰れます」

 

誰も、何も言わなかった。

 

「帰れない卓を、私が作りました」

 

坂柳さんは、赤木くんの方を見た。

 

「今は、それで良かったと思っています」

 

「そうかい」

 

「まだ、あなたに勝っていませんから」

 

開けた目は、もう卓を見ていた。

 

 

 

 

 

西一局。

 

赤木くんの親だった。

 

赤木くんが賽を振った。

 

私は、自分の手が温かいことに気づいた。

 

東場の後の休憩で、赤木くんは、手が冷てえな、と言った。

 

あの時、私の手は冷たかった。

 

今は、違う。

 

6巡目。

 

「リーチ」

 

綾小路くんだった。

 

千点棒の置き方は、東一局と何も変わっていなかった。

 

まだ向こうが26000前にいる。

 

その差を抱えたまま、綾小路くんは真っ直ぐ曲げてきた。

 

7巡目。

 

「リーチ」

 

赤木くんが、追いかけた。

 

二本目の千点棒が、一本目の隣に並んだ。

 

親の立直と、子の立直。

 

二人の間に、坂柳さんと私がいた。

 

私は、降りた。

 

綾小路くんの河にあるものを、一枚ずつ切った。

 

切りながら、赤木くんの河を見た。

 

見ても、赤木くんの待ちは分からない。分からなくていいと思った。

 

逃げる先に、赤木くんがいる。

 

それだけは、今の私にも分かる。

 

切り終えてから、私は赤木くんの河に目を止めた。

 

横になった牌が一枚ある。立直を掛けた時の、宣言牌。

 

五筒だった。

 

綾小路くんの河には、筒子の五の周りが一枚も無い。

 

子の立直に向かって切るには、一番危ない場所の、一番真ん中の牌だった。

 

赤木くんは、それを綾小路くんの河を見もせずに、横にして置いていた。

 

綾小路くんは、手を倒さなかった。

 

通っていた。

 

私の背中を、冷たいものが下りていった。

 

「……今の、通ると分かっていたの」

 

訊かずにはいられなかった。

 

手の中身ではない。卓に出た牌の話だ。兄は動かなかった。

 

赤木くんは、私の方を見た。

 

笑っていた。

 

どの局よりも、楽しそうな顔だった。

 

「分かるわけねえだろ」

 

赤木くんは、卓の真ん中に並んだ二本の千点棒を見た。

 

自分のと、綾小路くんのと。

 

「通らなきゃ、それまでだ」

 

それだけだった。

 

綾小路くんは、何も言わなかった。

 

言わないまま、次の牌を引いて、同じ速さで切った。

 

坂柳さんは、降りなかった。

 

8巡目、9巡目と、どちらの河にも無い牌を切ってきた。

 

さっき16000を払った手で、坂柳さんは、もう一度前に出てきていた。

 

けれど、南四局とは切り方が違った。

 

坂柳さんは、自分の手を作っていなかった。

 

崩している。

 

崩しながら、赤木くんの河には無い牌を選んでいる。

 

綾小路くんの河を、じっと見ている。

 

綾小路くんの河に無い、綾小路くんの周りの牌を、一枚ずつ、綾小路くんに向けて切っている。

 

私は、その切り方を知っていた。

 

南三局で、私が一枚だけやったことだった。

 

味方の和了り牌を探して、そこへ切る。

 

坂柳さんは、綾小路くんに差し込みに行っていた。

 

赤木くんの親を、綾小路くんの安い手で終わらせるために。

 

9巡目の牌は、当たらなかった。

 

綾小路くんは、手を倒さなかった。

 

10巡目。

 

坂柳さんが、長く考えた。

 

綾小路くんの河を見て、赤木くんの河を見て、もう一度綾小路くんの河を見た。

 

私も、見ていた。

 

綾小路くんの河は、萬子の周りが薄い。

 

坂柳さんの指が、八萬に掛かった。

 

綾小路くんに向けて。

 

切った。

 

「どこ見てんだ、坂柳」

 

赤木くんだった。

 

綾小路くんではなかった。

 

「ロン」

 

 

 

 

 

立直、平和、タンヤオ、ドラ三。

 

親の跳満。18000。

 

坂柳さんの指が、切った八萬の上で止まっていた。

 

止まったまま、坂柳さんは、左隣の綾小路くんを見た。

 

綾小路くんは、手を伏せたままだった。

 

倒さなかった。

 

八萬は、綾小路くんの待ちではなかった。

 

坂柳さんは、今度は数字を口にしなかった。

 

黙って、点箱に手を伸ばした。

 

綾小路くんが、今度は止めなかった。

 

坂柳さんが、自分の手で18000を数えて、卓の上を滑らせた。

 

赤木くんが、それを受け取った。

 

卓の中央の千点棒も、二本とも、赤木くんの方へ動いた。

 

兄の声がした。

 

「西一局。赤木、坂柳より18000。供託二本」

 

私たちが、56000。

 

綾小路くんたちが、44000。

 

差が、入れ替わっていた。

 

12000。

 

「坂柳」

 

綾小路くんが言った。

 

伏せた手を崩しながら。

 

「今のは、オレに切ったな」

 

「ええ」

 

坂柳さんは、隠さなかった。

 

「外れました」

 

「外れた」

 

「次は、外しません」

 

綾小路くんは、崩した牌を山に戻した。

 

戻してから、坂柳さんの方を見た。

 

私は、その時の綾小路くんの顔を、初めて見る顔だと思った。

 

何かを、計算に入れ直している顔だった。

 

「……そうか」

 

それだけだった。

 

坂柳さんは、赤木くんの方に顔を向けた。

 

「お借りしたものを、さっそく落としました」

 

「拾うのは、あんたか、俺だ」

 

赤木くんは、もう山を崩していた。

 

坂柳さんは、少しだけ笑った。

 

笑った顔が、東一局の時の坂柳さんとは違った。

 

笑う前に、考えていない顔だった。

 

 

 

 

 

南三局で、私たちは、あと一局で終わるところにいた。

 

赤木くんが自分の千点棒で、そこを、ちょうどの場所にした。

 

三局で、ここまで来た。

 

「一本場」

 

兄が言った。

 

赤木くんの親が、続く。

 

私は、自分の手を卓の上に置いた。

 

温かかった。

 

赤木くんは、点箱の中の棒を、一本も数えていなかった。

 

数えずに、次の山を積み始めていた。

 

積む時に、音がしなかった。

 

東一局から、ずっと同じだった。

 

私は、綾小路くんを見た。

 

62000前にいた人が、12000後ろにいる。

 

綾小路くんは、山を積んでいた。

 

音が、した。

 

東一局から、ずっと同じ音だった。

 

綾小路くんは、何も変わっていない。

 

隣で、坂柳さんが変わった。

 

私も、変わった。

 

赤木くんは、最初から変わらない。

 

綾小路くんも、変わらない。

 

変わらない二人が、この卓の真ん中で、まだ一度も本当にはぶつかっていない気がした。

 

東場の8000と5200。南三局の1000点。西一局の五筒。

 

どれも、二人の間を通り過ぎただけだった。

 

まだ、何かが残っている。

 

残っているものが何なのか、私には分からない。

 

分からないまま、私は山を積んだ。

 

音は、小さくなっていた。

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