北が二枚あった。
赤木くんは、北を一枚で待っていた。
私が一枚切っていれば、局はそこで終わっていた。
終わっていれば、1500が私の点箱から赤木くんの点箱へ移るだけだった。同じ財布の中の、右から左だ。
一点も減らない。
綾小路くんの満貫は、無かった。
味方から和了ってもいい。
昨日、赤木くんが一つだけ足した条件だった。坂柳さんは、意味が無いと言った。私も、意味が分からなかった。分からないまま、覚えもしなかった。
五日間で覚えたのは、役と点数と、捨て牌の数え方だった。
赤木くんは、何も教えなかった。
この卓で、手の中身を口にすれば兄が止める。
止められる言葉の代わりに、赤木くんは北を一枚、手の中に置いていた。
私は、それを見ていなかった。
綾小路くんは、見ていた。
「堀北は、切らない」
言われた通りだった。
そのあとの南二局で、私は坂柳さんに跳満を振り込んだ。
12000。
点箱の蓋を開けたまま、しばらく閉められなかった。
19000。
私たちに残っているのは、それだけだった。
50000から始めて、31000を失った。
そのうち、赤木くんが振り込んだのは、東一局一本場の8000だけだ。
私が振り込んだのは、その三倍を超える。
五日間、私は何のために覚えたのだろう。
覚えたもので、この人の点を削っただけだった。
南三局。
綾小路くんの親だった。
配牌を取って、並べた。
並べ終えてから、赤木くんの方を見ないようにした。
南二局で、私は赤木くんの河ばかり見ていた。赤木くんに当たらない牌を探して、赤木くんから遠ざかる牌を切っていた。
綾小路くんの言った通りだった。
相手を、一度も見ていなかった。
だから、今度は綾小路くんを見た。
綾小路くんは、牌を切る時に河を見ない。自分の手も、あまり見ない。
引いて、一秒に満たない間に、切る。
東一局から、ずっと同じだった。
四月から、ずっと同じだった。
隣の席で、綾小路くんはずっと、こういう顔をしていた。
何も見ていない顔で、全部を見ていた。
私は、その隣で半年を過ごして、この人が何を見ているのかを一度も訊かなかった。
訊かなかったのではない。訊いても、答えないと分かっていた。
分かっていたから、訊かずに済ませていた。
済ませていたものの勘定を、今、卓の上で払わされている。
5巡目に、綾小路くんが西を切った。
7巡目。
「リーチ」
千点棒が、卓の中央に置かれた。
親の立直だった。
置き方は、東一局と何も変わっていなかった。
81000を抱えた今の置き方も、50000から始めた東一局の置き方も、この人の手の中では同じだった。
私の手は、まだ遠かった。
遠い手で、親の立直に向かう理由は無い。
降りる。
そう決めた時、東四局の、赤木くんの一言が頭をよぎった。
降りるな。
私は、降りなかった。降りない牌を切って、綾小路くんに振り込んだ。
南一局でも、降りなかった。北を二枚抱えて、自分の手を作りに行って、振り込んだ。
南二局でも。
三度、降りずに、三度、振り込んだ。
その三度で、私たちは19000まで削れた。
降りるな、が間違っていたのか。
私の聞き方が、間違っていたのか。
分からないまま、8巡目が来た。
赤木くんが、牌を横に曲げた。
「リーチ」
追いかけた。
親の立直に、真っ向から。
千点棒が、綾小路くんの棒の隣に置かれた。
私は、その一本を見て、頭の中で数を引いた。
19000から、1000。
18000。
綾小路くんの親の、跳満。
18000。
息が、止まった。
跳満が来れば、私たちの点箱は、ちょうど空になる。
零になった時点で、終局。
兄が、今朝、はっきりそう言った。
千点棒を出さなければ、19000だった。跳満を喰らっても、1000点が残った。1000点が残れば、まだ次の局がある。
赤木くんは、その1000点を、自分の手で卓の真ん中に置いた。
立直を掛ければ、もう手は変えられない。綾小路くんの当たり牌を引いたら、切るしかない。
逃げ道を、一本も残さずに。
私は、赤木くんの顔を見た。
笑っていた。
口の端だけで。
千点棒を置いた指は、卓の縁に戻って、少しも揺れていなかった。
「赤木くん」
声が、勝手に出た。
「今の立直で――」
言いかけて、止まった。
その先は、点の話だ。手の中身ではない。けれど、口にした瞬間に、この卓の上の全員が、同じ数を数えることになる。
兄の万年筆が、紙から浮いていた。
赤木くんが、私の方を見た。
「ちょうどだな」
それだけだった。
ちょうど。
18000と、18000。
分かっていて、置いた。
坂柳さんが、赤木くんの顔を見ていた。
杖の頭に置いた指が、白くなっていた。
私の方を見て、それから、もう一度赤木くんを見た。
その目の中に、何があったのかは分からない。
分かったのは、坂柳さんの指が、杖の頭から離れなくなったことだけだった。
綾小路くんは、赤木くんを見なかった。
自分の河だけを見ていた。
「赤木」
綾小路くんが、河を見たまま言った。
「今の1000点は、要らなかった」
「いらねえか」
「要らないものを出した」
「フフ、出したかったからな」
綾小路くんは、そこで初めて、赤木くんの方を見た。
一秒にも満たない時間だった。
「そうか」
目が、河に戻った。
戻った目の中に何があったのかも、私には分からなかった。
次は、私の番だった。
赤木くんの立直のすぐ後。綾小路くんが次に引く前。
山から一枚引いた。
引いた牌を、手の中に入れた。
入れてから、綾小路くんの河を見た。
綾小路くんの河にある牌は、綾小路くんには当たらない。
私の手の中で、綾小路くんの河にあるものは、西が一枚だけだった。
逃げる牌は、それしかなかった。
それを切れば、私は降りたことになる。
降りるな。
赤木くんの声が、もう一度頭の中で鳴った。
鳴って、止まらなかった。
止まらないまま、私は西に指を掛けた。
降りるな、と言った人が、今、逃げ道を全部捨てて、隣に座っている。
その人の隣で、私は逃げようとしている。
指が、西の上で止まった。
一秒。
二秒。
赤木くんは、私を見ていなかった。
自分の河を見ていた。
私が何を切っても、それを見届けるつもりの無い横顔だった。
見届けるつもりが無いのではない。
私が何を切っても、それを受け取るつもりの横顔だった。
私は、西を切った。
「ロン」
赤木くんだった。
手が、倒れた。
西の、単騎だった。
立直、一発。2600。
卓の上が、静かになった。
兄の万年筆が、紙の上で止まったままだった。
私は、倒れた手を見ていた。
西の単騎。
綾小路くんが5巡目に切った西。私が、綾小路くんから逃げるために切れる、たった一枚の牌。
赤木くんは、私が逃げる先で待っていた。
逃げ道を全部捨てた人が、私の逃げ道の出口に立っていた。
「……ペアだったわね」
東二局で一度言ったことを、もう一度言った。
同じ言葉なのに、意味が違った。
「まだ怖えか」
赤木くんは、それだけ言って、私の2600を受け取った。
受け取った棒を、そのまま点箱に入れた。
それから、卓の中央の千点棒を二本、引き寄せた。
一本は自分の。
もう一本は、綾小路くんの立直棒だった。
綾小路くんの親が、流れた。
点箱が、1000点だけ動いた。
私の2600は、右から左へ移っただけで、一点も減っていない。
綾小路くんの1000点だけが、こちら側に来た。
20000。
たった1000。
たった1000が、今日、私が初めて卓の上で動かした点だった。
私が逃げることも見越されていた。
綾小路くんは、点を払わなかった。払う必要が無い局だった。
立直棒を一本失って、親を失った。
それだけだった。
表情は、何も変わっていなかった。
私は、綾小路くんの顔を正面から見た。
見ても、何も読めなかった。
東場の休憩で坂柳さんが言ったことを、思い出した。
――私に見えた範囲では、この人は一枚も外していない。
今の局も、外していない。
外していないのに、親が流れた。
綾小路くんの計算の外に、私が一枚、置かれていただけだ。
坂柳さんが、自分の河を見ていた。
南二局の跳満から、ずっと前に出ていた人が、動きを止めていた。
「……味方から」
坂柳さんが、小さく言った。
誰に言ったのでもなかった。
「味方から和了っていい。同じ財布の中で点を移す意味は無いと、私は昨日、申し上げました」
「言ってたな」
赤木くんが答えた。
「意味は、点を移すことではなかったのですね」
赤木くんは、答えなかった。
坂柳さんは、答えを待たなかった。
「局を、終わらせることだった。相手の親を。相手の手を。自分たちの側の、一番安い一枚で」
坂柳さんの指が、杖の頭から離れた。
離れて、卓の縁に置かれた。
「南一局の北も」
誰も、何も言わなかった。
兄の万年筆だけが、紙の上で止まっていた。
坂柳さんは、顔を上げた。
赤木くんを見ていた。
「昨日、私は、意味が無いと申し上げました。今日、私は、その口で、ここに座っています」
「そうかい」
「……お借りします」
赤木くんの目が、少しだけ細くなった。
「返さなくていい」
それだけだった。
坂柳さんは、小さく頷いた。
頷いたまま、次の山に手を伸ばした。
私は、今のやり取りの意味を、半分だけ分かった。
坂柳さんは、赤木くんが私に見せた一枚を、自分の手に取ろうとしている。
私が、半日かけてようやく受け取ったものを。
一局で。
右隣の綾小路くんを見た。
綾小路くんは、坂柳さんの方を見ていなかった。
山を崩す手を、止めていなかった。
止めていないのに、綾小路くんの指が、一度だけ牌の上で遅れた。
ほんの少しだった。
見間違いかもしれない。
見間違いでないなら、あれは、綾小路くんの計算の中に、今、一つ何かが足されたのだと思う。
足したのは、坂柳さんだった。
山を崩す音の中で、私は赤木くんの方を向いた。
「赤木くん」
「なんだ」
「……もし、綾小路くんが先に跳満を引いていたら」
「終わってたな」
あっさりと、言った。
天気の話をするような声だった。
「それだけ?」
「それだけだ」
赤木くんは、崩した牌を山に戻しながら、口の端だけで笑った。
「いい局だった」
私は、何も言えなかった。
いい局。
一枚違えば、この人は、この学校からいなくなっていた。兄も、終わっていた。
その一枚の上に座って、この人は、いい局だったと言う。
最初に言われたのは、非常階段を降りながらだった。
勝てねえと分かった勝負でも投げるな。投げ方は、最後に覚えればいい。
体育祭の前の日にも訊いた。どこで降りることを言っているのか、と。
両方だ、と言われた。始まる前に降りる奴が一番多い、と。
分かっていたつもりだった。
それなのに、東四局で卓の上から同じ言葉を掛けられた時、私はそれを牌の話として聞いた。逃げる牌を切るな、という意味に。
だから、逃げずに切って、振り込んだ。三度。
南三局で、私は初めて逃げた。
逃げた先に、赤木くんがいた。
投げ方は、最後に覚えればいい。
最後に覚えた。
手を投げることと、勝負を投げることは違う。
赤木くんは、今、自分の手も、自分の点も、全部を卓の上に投げ出してみせた。
投げ出して、勝負だけは、一度も投げていない。
この人は、勝ちを拾いに行く人ではない。
一枚で消える場所まで、自分で歩いていく。
歩いていって、そこに座って、牌を待つ。
普通は、そんな場所に牌は来ない。来ないから、誰もそこへは行かない。
この人の座った場所には、来る。
南三局で、私の西が来た。
運と呼べば、それで片付く。
けれど、運なら、来ない日もあるはずだった。
この人は、来ない日のことを、一度も考えていない顔をしている。
考えていないから、来るのか。
来ると知っているから、考えないのか。
どちらなのかは、私には分からない。
分かるのは、この人が、あの場所に座ることを、少しも怖がっていないということだけだった。
降りるな、は、牌の話ではなかった。
この卓から、心を降ろすな、ということだと思う。
逃げる牌を切ってもいい。逃げた先で、赤木くんが待っていることもある。
逃げながら、勝負を見ていろ。
「……分かったわ」
誰に言ったのでもなかった。
赤木くんは、もう山を積んでいた。
積む時に、音がしなかった。
「綾小路くん」
南四局の山を積みながら、私は言った。
言うつもりは無かった。
昨日、終わってからにする、と言った。終わった時に、あなたがまだこの学校にいたら、と。
まだ終わっていない。
それでも、声が出た。
「なんだ」
「あなたは、何を見に来たの」
綾小路くんの手が、止まらなかった。
山の上に、牌を一枚ずつ重ねていく。
「それは、今の局で見えたの」
「まだだ」
「まだ」
「近いところまでは来ている」
私は、積みかけた山の上で、指を止めた。
「私たちが19000まで落ちても、見えなかった。赤木くんが、ちょうどの1000点を置いても、見えなかった」
「そうだ」
「何が見えれば、見えたことになるの」
綾小路くんは、最後の一枚を山に載せた。
載せてから、私の方を見た。
四月から、何度も見た顔だった。
何も見ていない顔。
けれど今は、その顔が、私を通り越して、隣の赤木くんの方を向いていた。
「赤木が、赤木でなくなるところか。オレが、オレでなくなるところか。どちらかだ」
意味が分からなかった。
分からないまま、私は綾小路くんの顔を見ていた。
赤木くんは、何も言わなかった。
聞こえていないはずがなかった。
聞こえていて、牌を積み終えて、卓の縁に両手を置いていた。
「……どちらも、起きない気がするわ」
私は言った。
「そうかもしれない」
綾小路くんは、それだけ言って、目を卓に戻した。
私は、自分の山を積み終えた。
積み終えた山の上に、手を置いた。
手が、少しだけ温かかった。
南四局。
坂柳さんの親だった。
坂柳さんの手つきが、変わっていた。
南二局で私から12000を取ってから、坂柳さんは一牌ごとに止まらなくなっていた。
南三局の、味方から、の話をしてから、また変わった。
速い。
5巡目、6巡目と、迷う時間が無い。
いい手が来ている。
それは、坂柳さんの河から分かった。
萬子と字牌が、一枚も出てこない。索子と筒子だけが、真ん中の牌まで惜しげもなく並んでいる。
80000と20000。
親で、いい手が来ている。
今の私たちは20000。親の倍満なら、24000。
和了られたら、終わる。
坂柳さんは、終わらせに来ていた。
7巡目に、赤木くんが曲げた。
「リーチ」
20000から、19000へ。
また、1000点を出した。
坂柳さんの手が、一瞬だけ止まった。
止まって、赤木くんの顔を見た。
赤木くんは、笑っていなかった。
坂柳さんの方も、見ていなかった。
自分の河を見ていた。
坂柳さんの喉が、一度だけ動いた。
それから、手が動いた。
降りなかった。
親の手を、真っ直ぐ進めてきた。
8巡目。
「リーチ」
坂柳さんが、牌を横に曲げた。
親の追いかけだった。
千点棒が、赤木くんの棒の隣に置かれた。
坂柳さんの指は、置いた棒から、すぐに離れた。
東場の坂柳さんなら、きっと、ここで一度止まっていた。
止まらなかった。
綾小路くんが、横目で坂柳さんの棒を見た。
見て、何も言わなかった。
止めなかった。
9巡目。
坂柳さんは、引いた牌をそのまま切った。
通った。
赤木くんも、引いた牌をそのまま切った。
通った。
10巡目。
坂柳さんが、山から牌を引いた。
引いた指が、止まった。
止まったまま、坂柳さんは、自分の手の中を見なかった。
赤木くんの河を見ていた。
横になった、赤木くんの宣言牌を。
それから、赤木くんの顔を見た。
「……赤木くん」
「なんだ」
「これを、あなたは待っていらっしゃいますか」
兄の万年筆が、浮いた。
手の中身を訊く言葉ではない。自分が引いた牌が当たるかどうかを、相手に訊いているだけだ。
答える義理は、無い。
「フフ、知りたきゃ、切ってみな」
赤木くんは、それだけ言った。
坂柳さんは、小さく笑った。
「ええ。そうするしかありませんものね」
立直を掛けた人は、引いた牌を切るしかない。
坂柳さんは、それを分かっていて、自分で曲げた。
五筒を、切った。
切った瞬間に、坂柳さんの指が、牌から離れなかった。
離れないまま、止まった。
「そいつだ、ロン」
赤木くんの声は、低くも高くもなかった。
立直、平和、タンヤオ、三色、ドラ三。
倍満。16000。
坂柳さんは、赤木くんの倒した手を見ていた。
見終えてから、自分の手を倒した。
和了っていない手を。
終わった局だ。見せることは、不正ではない。
一萬から九萬まで、萬子が一本の筋で並んでいた。残りは、東の対子と、萬子が二枚。
親の、混一色、一気通貫、ドラ二。
立直を掛けたから、一つ増えている。
「……親の倍満でした」
坂柳さんが、自分で言った。
「24000。和了れていれば、あなたたちは零を割っていました」
「割ってたな」
赤木くんは、あっさりと認めた。
「私と、あなたと。先に引いた方が、終わらせる局でした」
「そうだな」
「先に引いたのは、私でした」
「引いたもんが悪かったんじゃねえ」
赤木くんは、倒した手を崩さないまま、坂柳さんを見た。
「死ぬ順番が、一つ違っただけだ」
坂柳さんの指が、点箱の縁で止まった。
止まったまま、坂柳さんは、少しだけ笑った。
「……次は、順番を入れ替えます」
「フフ、やってみな」
坂柳さんは、少しの間、赤木くんを見ていた。
それから、点箱に手を伸ばした。
綾小路くんが、それより先に棒を出していた。
「オレが出す」
「いえ、私が」
坂柳さんは、綾小路くんの手を、杖の先で軽く押し戻した。
「私の局です。私が払います」
綾小路くんは、何も言わずに手を引いた。
坂柳さんが、自分の手で16000を数えて、卓の上を滑らせた。
赤木くんが、それを受け取った。
37000と、63000。
60000の差が、26000になった。
兄が、万年筆を動かした。
それから、手帳から顔を上げた。
「南四局を終える」
部屋の中の誰も、動かなかった。
「どちらも、零に達していない」
兄は、全員の顔を順に見た。
最後に、私の顔を見た。
「取り決めの通り、続行する。西場に入る」
坂柳さんが、ほんの少しだけ目を閉じた。
「普通の麻雀なら、今ので終わっていました」
目を閉じたまま、坂柳さんが言った。
「63000と、37000。私たちの勝ちで」
「この卓は、普通の終わり方をしない」
兄が言った。
「今朝、そう言った」
「ええ。伺いました。私が頷いた取り決めです」
坂柳さんは、目を開けた。
「点で勝ったまま席を立てる卓なら、私は今、勝っています。勝って、何も懸けずに帰れます」
誰も、何も言わなかった。
「帰れない卓を、私が作りました」
坂柳さんは、赤木くんの方を見た。
「今は、それで良かったと思っています」
「そうかい」
「まだ、あなたに勝っていませんから」
開けた目は、もう卓を見ていた。
西一局。
赤木くんの親だった。
赤木くんが賽を振った。
私は、自分の手が温かいことに気づいた。
東場の後の休憩で、赤木くんは、手が冷てえな、と言った。
あの時、私の手は冷たかった。
今は、違う。
6巡目。
「リーチ」
綾小路くんだった。
千点棒の置き方は、東一局と何も変わっていなかった。
まだ向こうが26000前にいる。
その差を抱えたまま、綾小路くんは真っ直ぐ曲げてきた。
7巡目。
「リーチ」
赤木くんが、追いかけた。
二本目の千点棒が、一本目の隣に並んだ。
親の立直と、子の立直。
二人の間に、坂柳さんと私がいた。
私は、降りた。
綾小路くんの河にあるものを、一枚ずつ切った。
切りながら、赤木くんの河を見た。
見ても、赤木くんの待ちは分からない。分からなくていいと思った。
逃げる先に、赤木くんがいる。
それだけは、今の私にも分かる。
切り終えてから、私は赤木くんの河に目を止めた。
横になった牌が一枚ある。立直を掛けた時の、宣言牌。
五筒だった。
綾小路くんの河には、筒子の五の周りが一枚も無い。
子の立直に向かって切るには、一番危ない場所の、一番真ん中の牌だった。
赤木くんは、それを綾小路くんの河を見もせずに、横にして置いていた。
綾小路くんは、手を倒さなかった。
通っていた。
私の背中を、冷たいものが下りていった。
「……今の、通ると分かっていたの」
訊かずにはいられなかった。
手の中身ではない。卓に出た牌の話だ。兄は動かなかった。
赤木くんは、私の方を見た。
笑っていた。
どの局よりも、楽しそうな顔だった。
「分かるわけねえだろ」
赤木くんは、卓の真ん中に並んだ二本の千点棒を見た。
自分のと、綾小路くんのと。
「通らなきゃ、それまでだ」
それだけだった。
綾小路くんは、何も言わなかった。
言わないまま、次の牌を引いて、同じ速さで切った。
坂柳さんは、降りなかった。
8巡目、9巡目と、どちらの河にも無い牌を切ってきた。
さっき16000を払った手で、坂柳さんは、もう一度前に出てきていた。
けれど、南四局とは切り方が違った。
坂柳さんは、自分の手を作っていなかった。
崩している。
崩しながら、赤木くんの河には無い牌を選んでいる。
綾小路くんの河を、じっと見ている。
綾小路くんの河に無い、綾小路くんの周りの牌を、一枚ずつ、綾小路くんに向けて切っている。
私は、その切り方を知っていた。
南三局で、私が一枚だけやったことだった。
味方の和了り牌を探して、そこへ切る。
坂柳さんは、綾小路くんに差し込みに行っていた。
赤木くんの親を、綾小路くんの安い手で終わらせるために。
9巡目の牌は、当たらなかった。
綾小路くんは、手を倒さなかった。
10巡目。
坂柳さんが、長く考えた。
綾小路くんの河を見て、赤木くんの河を見て、もう一度綾小路くんの河を見た。
私も、見ていた。
綾小路くんの河は、萬子の周りが薄い。
坂柳さんの指が、八萬に掛かった。
綾小路くんに向けて。
切った。
「どこ見てんだ、坂柳」
赤木くんだった。
綾小路くんではなかった。
「ロン」
立直、平和、タンヤオ、ドラ三。
親の跳満。18000。
坂柳さんの指が、切った八萬の上で止まっていた。
止まったまま、坂柳さんは、左隣の綾小路くんを見た。
綾小路くんは、手を伏せたままだった。
倒さなかった。
八萬は、綾小路くんの待ちではなかった。
坂柳さんは、今度は数字を口にしなかった。
黙って、点箱に手を伸ばした。
綾小路くんが、今度は止めなかった。
坂柳さんが、自分の手で18000を数えて、卓の上を滑らせた。
赤木くんが、それを受け取った。
卓の中央の千点棒も、二本とも、赤木くんの方へ動いた。
兄の声がした。
「西一局。赤木、坂柳より18000。供託二本」
私たちが、56000。
綾小路くんたちが、44000。
差が、入れ替わっていた。
12000。
「坂柳」
綾小路くんが言った。
伏せた手を崩しながら。
「今のは、オレに切ったな」
「ええ」
坂柳さんは、隠さなかった。
「外れました」
「外れた」
「次は、外しません」
綾小路くんは、崩した牌を山に戻した。
戻してから、坂柳さんの方を見た。
私は、その時の綾小路くんの顔を、初めて見る顔だと思った。
何かを、計算に入れ直している顔だった。
「……そうか」
それだけだった。
坂柳さんは、赤木くんの方に顔を向けた。
「お借りしたものを、さっそく落としました」
「拾うのは、あんたか、俺だ」
赤木くんは、もう山を崩していた。
坂柳さんは、少しだけ笑った。
笑った顔が、東一局の時の坂柳さんとは違った。
笑う前に、考えていない顔だった。
南三局で、私たちは、あと一局で終わるところにいた。
赤木くんが自分の千点棒で、そこを、ちょうどの場所にした。
三局で、ここまで来た。
「一本場」
兄が言った。
赤木くんの親が、続く。
私は、自分の手を卓の上に置いた。
温かかった。
赤木くんは、点箱の中の棒を、一本も数えていなかった。
数えずに、次の山を積み始めていた。
積む時に、音がしなかった。
東一局から、ずっと同じだった。
私は、綾小路くんを見た。
62000前にいた人が、12000後ろにいる。
綾小路くんは、山を積んでいた。
音が、した。
東一局から、ずっと同じ音だった。
綾小路くんは、何も変わっていない。
隣で、坂柳さんが変わった。
私も、変わった。
赤木くんは、最初から変わらない。
綾小路くんも、変わらない。
変わらない二人が、この卓の真ん中で、まだ一度も本当にはぶつかっていない気がした。
東場の8000と5200。南三局の1000点。西一局の五筒。
どれも、二人の間を通り過ぎただけだった。
まだ、何かが残っている。
残っているものが何なのか、私には分からない。
分からないまま、私は山を積んだ。
音は、小さくなっていた。