アカギ〜実力至上主義の教室に舞い降りた天才〜   作:GC

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第73話「槓」

西一局、一本場。

 

赤木が、百点棒を一本、卓の右端に置いた。

 

積み棒だった。

 

親が続いている印を、赤木は指先で揃えもせずに置いた。置いて、山に手を伸ばした。

 

56000と44000。

 

南二局が終わった時、オレたちは62000前にいた。赤木たちの点箱には、19000しか残っていなかった。

 

南三局で、赤木は立直を掛けた。掛けた瞬間に、赤木たちの点は18000になった。オレの親の跳満と、同じ数だった。

 

赤木は、それを知っていて掛けた。

 

要らない1000点だった。要らないと言ったら、赤木は、出したかったからだと答えた。

 

三局で、それが裏返った。

 

南三局の西。南四局の五筒。西一局の八萬。

 

どの局も、オレは外していない。

 

外していないまま、三局が赤木の側に倒れた。

 

数字は、それ以上のことを言わない。

 

 

 

 

 

言わないものを、オレは数えない。

 

数えないはずだった。

 

南二局の後、赤木はオレに言った。退屈だろ、と。

 

退屈かどうかを考えたことが無い、とオレは答えた。

 

嘘ではない。

 

考える必要が無かった。

 

オレが育った場所では、正しい手は、正しい結果を連れてきた。連れてこない手は、正しくない手だった。

 

正しさを疑う材料が、あそこには一つも置かれていなかった。

 

退屈という言葉は、比べるものがある人間の言葉だ。

 

オレには、比べるものが無かった。

 

だから、見に来た。

 

 

 

 

 

配牌を取った。

 

萬子の四から六が揃っていた。索子に、嵌張が一つ。筒子に、浮いた牌が二枚。

 

悪くない。

 

1巡目、赤木が北を切った。

 

南一局で、赤木が単騎で待っていた牌だった。

 

赤木は、それを何でもない牌のように河に置いた。

 

堀北の手が、一瞬だけ止まった。

 

止まって、すぐに動いた。

 

赤木の河を見なかった。オレの河を見た。

 

南一局の堀北は、赤木の河しか見ていなかった。南三局からは、オレの河を見ている。

 

見る場所が変わった人間は、切る牌も変わる。

 

変わった分だけ、読める牌が減る。

 

減った分を、オレは堀北の顔で補う。

 

堀北の顔は、四月から見てきた。

 

何を嫌がる時に、どこが固くなるか。

 

今の堀北は、固くなる場所が、四月と違っていた。

 

3巡目、坂柳が中を切った。

 

坂柳の指先が、牌から離れるまでに半拍かかった。

 

16000と18000を払った手だった。

 

払った後で、坂柳は一度も降りていない。

 

西一局の八萬は、オレに向けて切られていた。

 

外れた、と坂柳は言った。次は外さない、と。

 

オレは、坂柳に差し込みを頼んでいない。

 

頼めば、手の中身の話になる。頼まなくても、坂柳は来た。

 

赤木が南一局で北に構え、南三局で西に構えたのを見て、坂柳は一局で自分のものにした。

 

計算の中に、坂柳という項を、オレは一つ書き足していた。

 

書き足したのは、坂柳が44000を背負った後だった。

 

 

 

 

 

6巡目に、オレは聴牌した。

 

嵌張の待ち。

 

黙った。

 

8巡目、嵌張が両面に変わった。

 

「リーチ」

 

千点棒を置いた。

 

置いた時、赤木が初めてオレの河を見た。

 

見て、すぐに自分の手に戻った。

 

赤木は、降りなかった。

 

9巡目、赤木の手から筒子が一枚出た。オレの河に無い牌だった。

 

10巡目、もう一枚。

 

親の赤木が、真っ直ぐ押してくる。

 

赤木の河は、字牌と端の牌と、筒子の真ん中が二枚。

 

聴牌しているかどうかは、河からは分からない。

 

分からないことを、分からないまま置いておく。

 

11巡目。

 

赤木が山から一枚引いて、手の中の一枚と入れ替えた。

 

入れ替えた方を、河に置いた。

 

六萬だった。

 

「ロン」

 

オレは、手を倒した。

 

四萬、五萬。六萬を待つ両面。

 

立直、タンヤオ、ドラ二。7700。一本場で、8000。

 

赤木は、自分の手を伏せたまま、点箱を開けた。

 

千点棒を八本。

 

一本ずつ、卓の上に並べた。

 

並べ終えてから、それをまとめて、オレの方へ滑らせた。

 

東一局一本場で、赤木はオレに8000を払っている。

 

西一局一本場で、もう一度、8000を払った。

 

同じ額を、同じ相手に。

 

一度目の8000を払った時と、何も変わらない顔だった。

 

「8000で、今度は何を買った」

 

オレは訊いた。

 

東三局の後、オレは赤木に、8000の釣りかと訊いた。赤木は、釣りにしちゃ少ねえと答えた。

 

赤木は、伏せた自分の手を崩しながら、オレを見た。

 

「今度は、買ってねえよ」

 

「なら、今のは」

 

「フフ、お前も坂柳もごちゃごちゃうるせえな。ただの8000だ」

 

オレは、棒を受け取った。

 

受け取って、点箱に入れた。

 

52000と48000。

 

また、オレたちが前に出た。

 

差は、4000。

 

赤木の親が、流れた。

 

ただの8000だ、と赤木は言った。

 

それが本当かどうかは、分からない。

 

分からないものを、オレは数えない。

 

それでも、耳の奥に、その一言が残っていた。

 

残った理由を、オレは探さなかった。

 

 

 

 

 

西二局。

 

堀北の親だった。

 

堀北は、賽を振る前に、自分の手のひらを一度だけ見た。

 

見て、握った。

 

賽が転がった。

 

堀北が、山を割った。

 

割る手が、東一局より速かった。

 

配牌を取る。

 

四枚ずつ、三度。最後に一枚。

 

並べ終えた時、堀北の目が一度だけ細くなった。

 

東場の堀北は、手が良い時も悪い時も、同じ顔で牌を並べていた。同じ顔をしようとして、顔の方が固まっていた。

 

今は、固まっていない。

 

固まっていない顔が、一度だけ細くなった。

 

手が良い。

 

1巡目、堀北は索子を切った。

 

2巡目、索子。

 

3巡目、筒子。

 

4巡目にも、筒子。

 

萬子と字牌を、一枚も切らない。

 

南四局の坂柳と、同じ河だった。

 

坂柳が、堀北の河を見ていた。

 

「堀北さん」

 

「何かしら」

 

「萬子を、ずいぶん大切にしていらっしゃいますね」

 

東三局で、堀北が坂柳に向けた問いと同じ形だった。

 

堀北は、少しだけ口元を緩めた。

 

「答えると思う?」

 

「思いません。訊かれた時に、あなたがどう答えるかを見たかっただけです」

 

同じ言葉が、そのまま返っていった。

 

堀北は、何も言わなかった。

 

言わないまま、次の牌を引いた。

 

5巡目、赤木が一萬を切った。

 

堀北の指が、卓の縁で一度だけ跳ねた。

 

鳴かなかった。

 

親の混一色なら、門前で倍満まで届く形がある。鳴けば、一段下がる。

 

堀北は、それを五日間で覚えたのだと思う。

 

赤木は、何も教えていない。

 

親の倍満は、8000オール。

 

オレと坂柳で、16000。

 

親が続けば、その次もある。

 

オレの手は、まだ二向聴だった。

 

間に合わない。

 

堀北の手が、先に来る。

 

6巡目、坂柳が東を切った。

 

堀北は、それも鳴かなかった。

 

坂柳は、東を切った指を、牌の上に置いたまま、しばらく離さなかった。

 

離さないまま、オレの方を見た。

 

オレの手を見たのではない。

 

オレの河を見ていた。

 

7巡目、オレは黙って聴牌の手前まで来た。

 

8巡目、聴牌した。

 

索子の嵌張。タンヤオだけ。

 

1300点の手だった。

 

立直は掛けなかった。

 

掛ければ、堀北は降りる。降りた堀北の手は、次の局まで残る。

 

掛けなければ、誰にも分からない。

 

誰にも分からない1300点の待ちが、卓の上に一つ増えただけだ。

 

9巡目。

 

坂柳が、牌を引いた。

 

引いて、手の中に入れた。

 

入れてから、オレの河を見た。

 

1巡目から8巡目まで、オレが切ってきた牌を、一枚ずつ。

 

坂柳の指が、手牌の上を動いた。

 

一枚に掛かった。

 

索子の、六だった。

 

オレの嵌張の、真ん中。

 

坂柳が、それを河に置いた。

 

置いた指が、牌から離れる前に、オレは手を倒していた。

 

「ロン」

 

タンヤオ。1300点。

 

卓の上が、止まった。

 

堀北が、オレの倒した手を見ていた。

 

それから、坂柳の河を見た。

 

それから、自分の手の中を見た。

 

見て、倒さないまま、伏せた。

 

1300点が、坂柳の点箱からオレの点箱へ移った。

 

右から左へ。

 

一点も減らない。

 

堀北の親が、流れた。

 

「……外しませんでした」

 

坂柳が言った。

 

オレに向けてではなかった。

 

右隣の、赤木に向けて。

 

赤木は、坂柳の切った六索を見ていた。

 

「フフ、拾ったな」

 

「ええ。私が」

 

坂柳の声が、少しだけ震えていた。

 

震えているのに、背筋は伸びていた。

 

「オレの待ちがわかっていたのか」

 

坂柳は、オレの方に顔を向けた。

 

「分かっていません」

 

「なら」

 

「あなたが、立直を掛けなかったからです」

 

坂柳は、杖の頭に触れなかった。

 

卓の縁に、両手を置いたままだった。

 

「西一局一本場で、あなたは高い手を曲げました。高い手なら、あなたは曲げる。今回は、8巡目から何かを黙っていました。黙ったまま、9巡目も曲げませんでした」

 

「それで、1300点だと」

 

「曲げる価値の無い手だと。曲げる価値の無い手で、あなたが黙って待っているなら、それは誰かに刺させるための手です」

 

坂柳は、一度だけ息を継いだ。

 

「刺せるのは、私だけでした」

 

オレは、何も言わなかった。

 

「索子の六は、あなたの河の索子の並びから、一番通らない場所でした。ですから、切りました」

 

言い終えてから、坂柳は小さく笑った。

 

「一番通らない牌を、選んで切ったのは、生まれて初めてです」

 

赤木が、卓の向こうで、口の端だけ上げていた。

 

何も言わなかった。

 

堀北が、伏せた自分の手の上に、手のひらを置いていた。

 

「……私の親を、1300点で」

 

「ええ。1300点で」

 

坂柳は、堀北を見た。

 

「南三局で、あなたが西でなさったことです。見ていましたから」

 

堀北は、何も言い返さなかった。

 

言い返さないまま、伏せた手を崩して、山に戻した。

 

崩す時に、萬子が一本の筋で並んでいるのが、一瞬だけ見えた。

 

親の倍満の、一向聴だった。

 

オレは、それを数えた。

 

16000。

 

坂柳の1300点が、16000を消した。

 

オレの計算には、坂柳が六索を切る手順が入っていなかった。

 

入っていなかったものが、卓の上で起きた。

 

オレが立直を掛けなかったのは、堀北に降りさせないためだった。

 

坂柳は、それを別の意味に読んで、別の手を打った。

 

読み違いではない。

 

オレが読まなかった方の意味が、正しかった。

 

 

 

 

 

西三局。

 

オレの親だった。

 

52000と、48000。

 

差は、4000のままだ。

 

賽を振った。

 

配牌は、良かった。

 

萬子の二三四、筒子の四五六、索子の六七八。雀頭の候補が二つ。

 

平和とタンヤオの形が、最初から見えていた。

 

4巡目に一向聴。

 

6巡目に、聴牌した。

 

筒子の一と四の両面。

 

ドラが一枚、手の中にある。

 

「リーチ」

 

千点棒を置いた。

 

51000。

 

親の立直は、東三局と南三局に続いて三度目だった。

 

東三局では、赤木に黙聴で五萬を取られた。

 

南三局では、堀北に西で逃げられた。

 

どちらの局も、オレは外していない。

 

外していない手を、外していない形で、もう一度曲げた。

 

赤木が、山から牌を引いた。

 

引いた牌を、そのまま横にした。

 

「リーチ」

 

追いかけてきた。

 

親の立直に、子の追いかけ。

 

南三局と同じ形だった。

 

赤木の点は、47000。

 

オレの親の跳満は18000。倍満は24000。

 

今度は、ちょうどではない。

 

当たっても、赤木たちは残る。

 

赤木は、それを数えて曲げたのか。

 

数えずに曲げたのか。

 

分からない。

 

分からないものを、オレは数えない。

 

「赤木」

 

オレは言った。

 

曲げた牌を、見ながら。

 

「今度は、ちょうどじゃないな」

 

赤木は、自分の河を見ていた。

 

「ちょうどじゃなくても、曲げたくなる時はある」

 

「何が違う」

 

「さあな」

 

赤木は、山に手を伸ばした。

 

7巡目。オレが引いた。三萬。切った。

 

赤木が引いた。切った。

 

坂柳が、赤木の河の外から一枚切った。

 

堀北が、オレの河にある牌を切った。

 

8巡目。オレが引いた。九索。切った。

 

赤木が引いた。

 

引いた牌を、手の中に入れなかった。

 

指先で持ったまま、少しの間、動かなかった。

 

それから、卓の上に置いた。

 

表を向けて。

 

 

 

「読んでるだけじゃ勝てねえよ」

 

 

 

赤木の手が、倒れた。

 

門前清自摸和、立直、平和、タンヤオ、ドラ四。

 

倍満。

 

子の倍満の自摸。親のオレが8000。坂柳が4000。

 

堀北も4000を出したが、それは赤木の点箱に移るだけだ。

 

卓の中央の千点棒が、二本とも赤木の方へ動いた。

 

39000と、61000。

 

差が、22000になった。

 

オレは、赤木の倒した手を見た。

 

表のドラが二枚。裏が二枚。

 

赤木の河には、ドラの周りの牌が一枚も無い。

 

表の二枚が、赤木の手の中に、揃っていた。

 

集まる形を、赤木は河で一度も見せていなかった。

 

「赤木」

 

「なんだ」

 

「そっちの手は、いつから高かった」

 

「フフ、配られたときにはもう決まってんだ」

 

赤木は、手を崩した。

 

オレは、崩れていく赤木の手を見ていた。

 

 

 

 

 

こいつは運だ、と言っている。

 

運で倍満を引いた、と。

 

運は、オレの計算に入っている。何分の一で、何が来るか。

 

入っているはずだった。

 

入っていない気がした。

 

配られた時からだ、と言った赤木の顔は、何分の一を数えている顔ではなかった。

 

来たものを、最初から自分の方へ呼んでいた顔だった。

 

そんなことは、起きない。

 

起きないはずのものを、オレは今、見た気がした。

 

見た気がしたものを、オレは見なかったことにした。

 

まだ、早い。

 

 

 

 

 

西四局。

 

坂柳の親だった。

 

39000。

 

坂柳は、山を積む前に、自分の点箱を開けた。

 

開けて、中の棒を見た。

 

数えたのではなかった。

 

見ただけだった。

 

それから、蓋を閉めた。

 

「綾小路くん」

 

「なんだ」

 

「親は、続けられるだけ続けます」

 

「好きにしろ」

 

坂柳は、少しだけ目を細めた。

 

「そう言われると思っていました」

 

賽を振った。

 

坂柳の配牌を、オレは見ていない。

 

見なくても、坂柳の手つきで分かった。

 

いい。

 

坂柳は、1巡目から迷わなかった。

 

5巡目に、坂柳が千点棒を出した。

 

「リーチ」

 

38000。

 

早い立直だった。

 

親の早い立直は、それだけで卓を縛る。

 

赤木は、降りなかった。

 

降りないまま、二枚通した。

 

堀北は、降りた。坂柳の河にあるものを、順に切っていく。

 

南三局の堀北なら、降りなかった。

 

今の堀北は、降りて、降りた先で卓を見ている。

 

オレも、手を止めた。

 

止めて、坂柳の河の外には一枚も出さなかった。

 

坂柳の和了り牌を、赤木が掴めば、それでいい。

 

赤木が掴まなければ、坂柳が自分で引けばいい。

 

8巡目。

 

坂柳が、引いた牌を、手の中に入れずに、表に返した。

 

「ツモ」

 

坂柳の手が、倒れた。

 

立直、門前清自摸和、平和、ドラ二。

 

親の満貫。4000オール。

 

赤木と堀北が、4000ずつ。オレも4000を出したが、それは坂柳の点箱に移るだけだ。

 

坂柳の千点棒が、坂柳の手元に戻った。

 

47000と、53000。

 

差が、6000まで縮んだ。

 

坂柳は、倒した手を見下ろしていた。

 

見下ろしたまま、声を出さなかった。

 

その目が、少しだけ濡れているように見えた。

 

濡れる理由を、オレは数えなかった。

 

坂柳は、すぐに顔を上げた。

 

「一本場です」

 

自分で言った。

 

生徒会長が、万年筆を動かした。

 

「西四局、一本場」

 

赤木が、坂柳の倒した手を見ていた。

 

何も言わなかった。

 

坂柳も、赤木の方を見なかった。

 

見ないまま、百点棒を卓の右端に置いた。

 

置く指が、震えていなかった。

 

 

 

 

 

西四局、一本場。

 

坂柳は、また早かった。

 

6巡目。

 

「リーチ」

 

46000。

 

赤木は、7巡目に追いかけた。

 

「リーチ」

 

52000。

 

親の立直と、子の追いかけ。

 

この卓で、同じ形を何度見たか分からない。

 

見るたびに、崩れたのはこちら側だった。

 

東三局の五萬。南四局の五筒。西一局の八萬。

 

オレと坂柳は、正しく打って、赤木の和了り牌を掴んできた。

 

赤木だけが、正しく打っていない。

 

打っていないのに、赤木の手に、牌が来る。

 

8巡目。坂柳が引いた。切った。

 

通った。

 

赤木が引いた。切った。

 

通った。

 

9巡目。

 

坂柳が、引いた牌を、手の中に入れた。

 

入れてから、赤木の河を見た。

 

見て、それから、赤木の顔を見た。

 

南四局と同じだった。

 

「……また、私ですか」

 

坂柳が言った。

 

誰に言ったのでもない声だった。

 

「死ぬ順番が一つ違っただけだ、とおっしゃいましたね。南四局で」

 

「言ったな」

 

「順番を入れ替えると、申し上げました」

 

「ああ」

 

「ええ。まだ、私の番のようです」

 

坂柳は、引いた牌を河に置いた。

 

置く前に、一度だけオレの方を見た。

 

止めてほしい、という目ではなかった。

 

見ていてほしい、という目でもなかった。

 

ここにいる、と確かめただけの目だった。

 

「ククク、潔いのは悪くねぇよ。ロン」

 

赤木だった。

 

 

 

 

 

立直、平和、タンヤオ、三色、ドラ三。

 

倍満。16000。一本場で、16300。

 

坂柳は、今度は点箱に手を伸ばさなかった。

 

オレが出した。

 

坂柳は、止めなかった。

 

29700と、70300。

 

生徒会長の声がした。

 

「西四局、一本場。赤木、坂柳より16300。供託二本」

 

坂柳が、卓の上の自分の河を見ていた。

 

「綾小路くん」

 

「なんだ」

 

「この局、私は降りるべきでしたか」

 

「降りれば、赤木は自分で引いていた」

 

「確かですか」

 

「確かではない」

 

オレは言った。

 

「確かではないから、お前は曲げた。曲げたなら、それでいい」

 

坂柳は、少しの間、オレを見ていた。

 

それから、小さく頷いた。

 

「あなたにそう言われたのは、初めてです」

 

「言う必要が無かった」

 

「今は、あったのですか」

 

オレは、答えなかった。

 

答えが、手元に無かった。

 

西二局から、手元に無い答えが、少しずつ増えていた。

 

 

 

 

 

「西四局を終える」

 

生徒会長が言った。

 

「どちらも、零に達していない」

 

生徒会長は、手帳のページを一枚めくった。

 

「北場に入る。北一局。親は、赤木」

 

坂柳が、小さく息を吐いた。

 

「北まで、来ましたね」

 

「北で出なければ、東へ戻る」

 

生徒会長は、それだけ言った。

 

窓の外が、少し翳っていた。

 

十時に始めた卓だった。昼を過ぎて、日が傾き始めている。

 

誰も、時計を見なかった。

 

29700。

 

赤木の親だ。

 

赤木の親の跳満は18000。倍満の自摸なら、オレたちの払いは16000。三倍満の自摸でも、24000。

 

どれでも、オレたちは残る。

 

振り込むつもりは、オレにも坂柳にも無い。

 

数字の上では、この局でオレたちが終わる目は、ほとんど無い。

 

だが。

 

ほとんど無い、という数字を、オレは今日、何度見送っただろう。

 

 

 

 

 

南三局の、ちょうどの1000点。

 

西一局の、宣言牌の五筒。

 

西三局の、ドラと裏の四枚。

 

どれも、数字の上では、ほとんど無い方だった。

 

オレは、山を積んだ。

 

音が、した。

 

赤木の山からは、音がしなかった。

 

 

 

「綾小路」

 

赤木が、積み終えた山に手を置いたまま言った。

 

「なんだ」

 

「楽しいか」

 

 

 

卓の上が、静かになった。

 

坂柳が、オレを見た。

 

堀北も、オレを見た。

 

生徒会長の万年筆が、紙から浮いた。

 

楽しいか。

 

考えたことの無い言葉だった。

 

退屈かどうかを考えたことが無いのと、同じように。

 

「分からない」

 

オレは、正直に答えた。

 

「分からないが、まだ席を立ちたくない」

 

赤木は、少しだけ目を細めた。

 

「なら、楽しいんだろ」

 

それだけ言って、賽を振った。

 

 

 

 

 

北一局。

 

王牌の三枚目が、表に返された。

 

一筒。

 

ドラは、二筒だった。

 

配牌を取る前に、坂柳が自分の山を前へ押し出した。

 

山は、坂柳の前にあった。賽の目で割られた、尻の側だった。

 

押し出す手が、東一局より遅かった。

 

卓が、坂柳には少し高い。朝からずっと、肩から動かして牌を取っている。

 

十時から、休憩を一度挟んだだけで、ここまで打ってきた。

 

「あ」

 

押し出した山の端が、卓の縁に引っ掛かった。

 

王牌の手前、山の尻から二つ目の一山が、崩れた。

 

上の段と下の段が、二枚とも転がった。

 

上の段は、伏せたまま止まった。

 

下の段の一枚が、表を向いて止まった。

 

八萬だった。

 

 

 

 

 

東一局で、堀北が一度、自分の山を崩して積み直している。

 

あの時は、配る前だった。表を向いた牌も無かった。

 

今度は、ドラ表示牌がもう返っている。

 

「……申し訳ありません」

 

坂柳が、自分の肩に一度だけ手をやってから、言った。

 

生徒会長が、窓際の椅子から立ち上がった。

 

卓のそばまで来て、表を向いた八萬を見下ろした。

 

「戻せ。上の段は伏せて、元の位置に。下の段は、表のままだ」

 

「表のまま、ですか」

 

坂柳が訊いた。

 

「伏せ直しても、四人とも見た。見たものを見なかったことにはできない。なら、見えたままにしておく方が揃う」

 

生徒会長は、八萬を指で示した。

 

「誰が引くかは、山の順で決まる。それ以外は、何も変わらない」

 

「承知しました」

 

坂柳が、二枚を元の位置に戻した。

 

上の段は伏せて。下の段の八萬は、表のまま。

 

山の尻から、二つ目の山の下に。

 

生徒会長は、窓際の椅子に戻った。

 

万年筆で、一行だけ書いた。

 

オレは、山の尻から数えた。

 

ドラ表示牌の位置と、賽の目と、四人の順番。

 

何も起きなければ、表を向いた八萬を引くのは、坂柳だった。

 

坂柳の山の、坂柳の引く一枚。

 

堀北が、表を向いた八萬を見ていた。

 

赤木は、見ていなかった。

 

山の中の一枚が何か、全員が知っている局は、オレも初めてだった。

 

配牌を取った。

 

四枚ずつ、三度。最後に一枚。

 

萬子の五六七が二組。索子の三と四。索子の二が二枚。筒子の六。字牌が二枚。

 

一盃口の形が、最初からあった。

 

悪くない。

 

赤木が、第一打を切った。

 

西。

 

堀北が、北を切った。

 

オレは、字牌を一枚切った。

 

坂柳が、九萬を切った。

 

どの1巡目とも、同じように始まった。

 

これも、同じように始まった。

 

同じように始まったものが、同じように終わるとは限らないことを、オレは今日、何度も見た。

 

 

 

 

 

2巡目、3巡目。

 

オレの手は、真っ直ぐ進んだ。

 

4巡目までに、字牌が二枚とも消えて、索子の五と筒子の七が入った。

 

5巡目に、一向聴。

 

赤木の河は、字牌と、一萬と、九萬と、二筒。

 

端と字牌だけだった。

 

真ん中の牌は、一枚も出ていない。

 

6巡目。

 

赤木が、一索を横にした。

 

横にしたまま、残りの十三枚を、卓の上に倒した。

 

 

 

 

 

「オープン」

 

 

 

 

 

手牌を、全部開けたまま。

 

堀北が、息を呑んだ。

 

坂柳の指が、杖の頭で止まった。

 

生徒会長が、窓際の椅子から腰を浮かせた。

 

「赤木。今のは」

 

「なんだ、駄目なのか」

 

「取り決めに無い」

 

「覚えた通りでいい、と言ったろ」

 

生徒会長は、坂柳を見た。

 

昨日、細かい取り決めを訊いたのは坂柳だった。今夜覚える、と言ったのも。

 

坂柳は、赤木の開いた手から目を離さないまま、ゆっくり頷いた。

 

「……ございました。ローカル役の認識でしたが、昨晩覚えたものの中に。手を晒して曲げれば、二翻。それだけです」

 

オレが口を挟んだ。

 

「放銃したら役満のルールは適用しないってことでいいか、赤木」

 

「フフ、そんなに認めなくねぇなら飜もいらねぇよ」

 

生徒会長は、手帳に一行だけ書いた。

 

「認める」

 

赤木の千点棒が、卓の中央に置かれた。

 

70300から、69300へ。

 

卓の上に、赤木の手が晒されていた。

 

三索、三索、三索。四萬、四萬、四萬。五筒、五筒、五筒。五索、六索、七索。八萬。

 

 

 

八萬の単騎待ち。

 

 

 

6巡目にして、この手の仕上がり。

 

そして、

 

山の尻の近くで、同じ八萬が一枚、表を向いている。

 

 

 

赤木は、自分の和了り牌を、卓の全員に見せた。

 

見せた上で、それが山のどこにあるかまで、全員が知っている。

 

オープン立直、断么九、三暗刻。ロンなら五翻、親の満貫で12000。自摸でも六翻、親の跳満で6000オール。堀北の分は同じ財布だから、オレたちの払いは12000。

 

裏が乗っても、三倍満には届かない。

 

終わらない。

 

終わらない手を、赤木は、全部晒して曲げた。

 

7巡目。

 

オレは、聴牌した。

 

五萬六萬七萬、五萬六萬七萬。三索四索五索。二索二索。六筒七筒。

 

五筒と八筒の両面。

 

立直、平和、タンヤオ、一盃口。

 

赤木の立直に向かって、この手を曲げるか。

 

五筒は、三枚が赤木の開いた手の中にある。オレの待ちは、半分死んでいる。

 

曲げれば、手は変えられない。八萬を引けば、赤木の目の前に切るしかない。

 

曲げなければ、危ない牌を引いた時に、崩して逃げられる。

 

赤木の親だ。

 

黙っていても、オレたちは赤木に振り込まない限り死なない。

 

振り込んでも、赤木の手は満貫だ。死なない。

 

守りきれば、赤木の親は流れる。流れれば、堀北の親、オレの親、坂柳の親が来る。

 

守るのが、正しい。

 

守って、次の局で取り返すのが、正しい。

 

正しい手は、分かっていた。

 

 

 

 

 

オレは、千点棒を出した。

 

「リーチ」

 

 

 

 

 

29700から、28700へ。

 

中央に、二本目が並んだ。

 

坂柳が、横で息を詰めた。

 

堀北が、オレの千点棒を見ていた。

 

見て、それからオレの顔を見た。

 

生徒会長の万年筆が、一行だけ動いた。

 

何を書いたのかは、見なかった。

 

赤木は、オレの千点棒を見ていなかった。

 

山から、次の牌を引きながら、赤木が言った。

 

「いい顔になってきたじゃねえか」

 

オレの顔は、見ていなかった。

 

見ないまま、言った。

 

なぜ曲げたのか、と自分に訊いた。

 

答えは、一つしか出てこなかった。

 

赤木が、楽しいかと訊いた。

 

分からない、とオレは答えた。

 

分からないまま、席を立ちたくない、と。

 

守って流せば、この局は何も起きずに終わる。

 

何も起きない局を、オレは今、打ちたくなかった。

 

それは、正しい理由ではなかった。

 

正しくない理由で、オレは1000点を出した。

 

生まれて初めてだった。

 

 

 

 

 

8巡目。

 

赤木が、引いた牌をそのまま切った。

 

堀北が、一枚切った。

 

オレも、引いた牌をそのまま切った。

 

坂柳が、一枚切った。

 

坂柳の切った牌は、四筒だった。

 

オレの待ちの、隣。

 

9巡目。

 

坂柳が切ったのは、九筒だった。

 

オレの待ちの、外側。

 

坂柳は、差し込みに来ていた。

 

赤木の親を、オレの手で終わらせるために。

 

オレの河を読んで、筒子の周りを一枚ずつ。

 

当たらない。

 

坂柳の目が、オレの河と自分の手を、何度も往復していた。

 

五筒と八筒が、坂柳の手には無いのだろう。

 

無いものは、切れない。

 

10巡目。

 

オレは、山から一枚引いた。

 

 

 

 

 

八萬だった。

 

 

 

 

 

オレの手には、入らない牌だった。

 

立直している。

 

切るしかない。

 

赤木の開いた手の端に、同じ八萬が一枚、立っている。

 

卓の上の全員が、それを見ていた。

 

曲げた時から、分かっていたことだった。

 

オレは、八萬を河に置いた。

 

東一局から、同じ速さで。

 

「――」

 

坂柳が、声にならない声を出した。

 

満貫。12000。オレたちは、16700残る。

 

終わらない。

 

終わらないが、赤木は親のまま、次の局もその次の局も打てる。

 

和了らない理由は、どこにも無い。

 

 

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 

・・・・・・

 

 

 

 

「・・・」

 

赤木は、動かなかった。

 

 

 

 

 

手を倒さなかった。倒す手は、もう倒れている。

 

声を出さなかった。

 

オレの切った八萬を、一度も見なかった。

 

山から次の牌を引いて、そのまま切った。

 

牌が河に落ちる音が、部屋の中で一番大きな音だった。

 

 

 

 

 

見逃した。

 

全員の目の前で。

 

晒した手の、当たり牌を。

 

坂柳の杖が、椅子の脚にぶつかって、短く鳴った。

 

「……あ、赤木くん」

 

坂柳の声が、掠れていた。

 

「今のは、和了りです」

 

「いらねぇよ」

 

赤木は、次の牌を待つ手のまま、それだけ言った。

 

坂柳は、それ以上何も言えなかった。

 

言えないまま、赤木の開いた手と、オレの河の八萬を、何度も見比べていた。

 

見比べても、そこにある事実は変わらなかった。

 

生徒会長が、窓際の椅子から立ち上がっていた。

 

いつ立ったのか、誰も見ていなかった。

 

立ったまま、万年筆を紙の上で止めていた。

 

止める理由は、どこにも無い。見逃しは、不正ではない。

 

不正ではないものを前にして、生徒会長は、しばらく座り方を忘れていた。

 

堀北は、赤木の横顔を見ていた。

 

見て、何かを言いかけて、やめた。

 

やめた口元が、少しだけ震えていた。

 

オレは、自分の河に置いた八萬を見ていた。

 

切る前から、当たりだと分かっていた牌だった。

 

分かっていて切った。立直している以上、切るしかなかった。

 

12000を払う計算は、切る前に済ませてあった。

 

済ませてあった計算が、一枚も使われなかった。

 

東一局から、オレの計算が外れたことは無い。

 

外れたのではなかった。

 

相手が、計算の答えを受け取らなかった。

 

そんな相手に、オレは会ったことが無かった。

 

見逃した以上、赤木はもう八萬でロンはできない。

 

残る和了りは、自摸だけだ。

 

残る八萬は、二枚。どこかに伏せられている一枚と、山の尻で表を向いている一枚。

 

表の一枚を引くのは、坂柳だ。

 

11巡目から、14巡目。

 

誰も、和了らなかった。

 

坂柳は、筒子の周りを、オレに向けて切り続けた。三筒、七筒。当たらない。

 

堀北は、オレの河と赤木の河を、交互に見ながら切っていた。一度、手牌の端の一枚に指を掛けて、10秒止まって、その一枚を手の中に残した。

 

危ない牌を、危ないと分かっていて、手の中に残す指だった。

 

東一局で、オレが六筒を残したのと、同じ残し方だった。

 

赤木は、引いて、切った。引いて、切った。

 

手の中の十三枚は、一枚も動かない。

 

山が、減っていく。

 

残りが、両手で数えられるところまで来た。

 

山の尻の近くで、八萬が表を向いたまま待っていた。

 

あと何巡かで、坂柳がそれを引く。

 

誰も和了らなければ、流局する。流局すれば、赤木の親が続く。続いても、オレたちは死なない。

 

 

 

 

 

15巡目。

 

オレは、山から一枚引いた。

 

白だった。

 

場に、一枚も出ていない牌だった。

 

誰かが重ねている。重ねているなら、鳴かれる。

 

鳴かれても、当たりでなければ死にはしない。

 

立直している。

 

切るしかない。

 

切った。

 

堀北の手が、止まった。

 

 

 

 

 

指が、手牌の端に掛かっていた。

 

離れなかった。

 

堀北は、顔を上げた。

 

赤木を見た。

 

赤木は、自分の手を見ていた。

 

堀北の方を、向かなかった。

 

一言も、言わなかった。

 

堀北は、それから、オレを見た。

 

オレの千点棒を見た。

 

卓の真ん中の、二本の千点棒を。

 

堀北の唇が、小さく動いた。

 

声にならない数を、数えていた。

 

28700。

 

堀北も、数えられる。

 

赤木の開いた手は、自摸っても跳満止まりだ。

 

それも、堀北には見える。

 

「……届かないわね」

 

堀北が、呟いた。

 

誰に向けた言葉でもなかった。

 

手の中身ではない。点の話だ。

 

生徒会長は、動かなかった。

 

「届かないなら」

 

堀北は、手牌の端の三枚を、指で押さえた。

 

押さえた指に、力が入っていた。

 

「届くまで、積むしかないわ」

 

三枚を、倒した。

 

白が、三枚。

 

オレが切った白に、手を伸ばした。

 

「カン」

 

 

 

 

 

卓の上の空気が、一度に硬くなった。

 

坂柳が、杖の頭を掴んでいた。

 

大明槓だった。

 

オレの立直に対して。

 

槓をすれば、新しいドラが一枚増える。

 

増えたドラが、誰の手に乗るかは、誰にも分からない。

 

赤木の手に乗るかもしれない。

 

オレの手に乗るかもしれない。

 

オレの手は、立直、平和、タンヤオ、一盃口。ドラが乗れば、満貫に届く。

 

そして、槓の後、堀北は嶺上から一枚引いて、一枚を切らなければならない。

 

オレの立直に向かって。

 

その一枚が、オレの待ちなら。

 

堀北は、嶺上から一枚引いた。

 

引いて、手の中に入れた。

 

手の中を、見た。

 

見て、一枚に指を掛けた。

 

離れなかった。

 

「――」

 

堀北は、息を吸った。

 

吸ったまま、その一枚を河に叩きつけた。

 

四筒だった。

 

オレの待ちの、すぐ隣だった。

 

 

 

 

 

通った。

 

堀北の指が、切った四筒から離れるまで、時間が掛かった。

 

離れた後で、堀北は、王牌の端に手を伸ばした。

 

最初のドラ表示牌の隣を、表に返した。

 

二索。

 

新しいドラは、三索だった。

 

オレの手に、三索が一枚ある。

 

乗った。

 

立直、平和、タンヤオ、一盃口、ドラ一。

 

満貫になった。

 

槓の分だけ、山の尻が一枚、王牌に回った。

 

表を向いた八萬は、山の尻から二枚目になった。

 

オレは、数え直した。

 

オレの番が前に来た分と、山が一枚減った分。

 

あの八萬を引くのは、坂柳ではなくなった。

 

オレだった。

 

オレが引けば、立直しているオレは、切るしかない。

 

赤木は、10巡目の八萬を見逃している。もう八萬でロンはできない。

 

赤木は、表に返された二索を、一度も見なかった。

 

見ないまま、卓の縁に置いた指を、一本だけ動かした。

 

 

 

 

 

「……まだ、足りねえな」

 

低い声だった。

 

誰に向けたのかも分からないほど、低かった。

 

生徒会長の万年筆が、紙から浮いた。

 

浮いたまま、少しの間、止まっていた。

 

手の中身は、もう卓の上に晒されている。

 

生徒会長は、万年筆を紙に戻した。

 

止めなかった。

 

堀北の肩が、一度だけ動いた。

 

そして、槓は、ツモ順を動かす。

 

オレの切った白を、堀北が鳴いた。

 

次に山を引くのは、堀北の下家。

 

オレだった。

 

本来なら、坂柳が引いて、赤木が引いて、それから堀北、オレと回るはずだった。

 

二人分の順番が、一つの槓で飛んだ。

 

堀北は、それを分かっていて鳴いた。

 

オレに、もう一度自摸を渡すと分かっていて。

 

オレは、山から一枚引いた。

 

七索だった。

 

入らない。

 

切った。

 

堀北が、長く息を吐いていた。

 

吐き終えるまで、卓の上の誰も、動かなかった。

 

「……堀北さん」

 

坂柳の声が、掠れていた。

 

「今の槓で、綾小路くんの手が高くなったかもしれないとは」

 

「そうかもしれないわね」

 

堀北は、坂柳を見なかった。

 

「高くなっても、あなたたちは私たちを終わらせられない。私たちも、あなたたちを終わらせられない」

 

堀北は、自分の河に置いた四筒を見ていた。

 

「このままなら、誰も終わらない。終わらないまま、また次の局が来る」

 

堀北の声は、震えていなかった。

 

震えないように、押さえつけている声だった。

 

「もうそんなのはたくさんよ」

 

坂柳は、何も言えなかった。

 

オレも、何も言わなかった。

 

言うことが、無かった。

 

堀北のしたことは、正しくない。

 

正しくない手を、オレは今日、何度見たか分からない。

 

見たのは、全部、赤木の手だった。

 

今のは、堀北の手だった。

 

赤木は、何も教えていない。

 

言ったのは、足りねえ、の一言だけだった。

 

何が足りないのかは、誰にも言っていない。

 

赤木は、自分の手を見たまま、口の端だけを、少し上げていた。

 

 

 

 

 

坂柳が、山から一枚引いた。

 

引いて、手の中に入れた。

 

入れてから、しばらく動かなかった。

 

坂柳の目が、山の尻を見ていた。

 

表を向いた八萬を。

 

あの八萬は、もう坂柳の引く牌ではない。

 

それを、坂柳も数えたのだと思う。

 

坂柳は、手の中から一枚を抜いた。

 

抜いた指が、河の上で止まった。

 

九索だった。

 

場に、一枚も出ていない牌だった。

 

堀北の河には、白の槓の後、索子が一枚も無い。

 

坂柳は、それを見ていた。

 

見ていて、置いた。

 

九索が、河に落ちた。

 

堀北の手が、また止まった。

 

 

 

 

 

さっきとは、違う止まり方だった。

 

止まって、今度は、誰も見なかった。

 

赤木も、オレも、坂柳も。

 

自分の手の中だけを、見ていた。

 

 

 

 

 

「堀北」

 

オレは言った。

 

言うつもりは無かった。

 

「その九索を鳴けば、オレにもう一度自摸が来る。ドラも、もう一枚増える」

 

「・・・」

 

「今度は、オレの手に二枚乗るかもしれない」

 

「知ってるわ」

 

「お前の切る一枚が、オレに当たるかもしれない」

 

「知ってるって、言ってるでしょう」

 

堀北は、顔を上げなかった。

 

「あなたは、最後まで正しく打てばいいわ。私は、違う打ち方をする」

 

手牌の右端の三枚を、指で押さえた。

 

坂柳の九索に向けて。

 

「足りないって、言ってるのよ」

 

堀北の声が、少しだけ低くなった。

 

「何が足りないのかは、知らない。知らないけど、足りないなら、足すわ。あの人の隣で、一日座っていたんだもの」

 

赤木の口角が上がった。

 

「これは、元をたどれば私の卓よ」

 

三枚を、倒した。

 

「どうせ終わるなら、強く打って終わらせるわ」

 

九索が、三枚。

 

「カン」

 

 

 

 

 

二度目の槓だった。

 

生徒会長の万年筆が、紙から浮いたまま、降りてこなかった。

 

堀北は、嶺上から一枚引いた。

 

引いて、手の中に入れて、今度は迷わなかった。

 

一枚を、河に置いた。

 

三筒だった。

 

オレの待ちの、二つ隣。

 

通った。

 

堀北は、王牌の端に手を伸ばした。

 

一枚目の新ドラ表示牌の隣を、表に返した。

 

三萬。

 

新しいドラは、四萬だった。

 

オレの手に、四萬は無い。

 

乗らなかった。

 

オレには。

 

赤木の晒した手の真ん中に、四萬が三枚、並んでいた。

 

その隣に、一度目の槓で乗った三索が、三枚。

 

オープン立直、自摸、断么九、三暗刻。ドラが六つ。

 

自摸れば、十二翻。

 

 

 

 

 

跳満止まりだったはずの手が、二つの槓で、枠の外に出ていた。

 

あと一翻で、役満だ。

 

赤木は、それも見なかった。

 

ドラ表示牌が、三枚並んでいた。

 

一筒。二索。三萬。

 

ドラは、二筒、三索、四萬。

 

堀北は、自分の河を見ていなかった。

 

山の最後の一枚を、見ていた。

 

見ながら、唇が小さく動いていた。

 

東場の休憩で、坂柳が言った。捨てられた牌を、数えていらっしゃいますね、と。

 

五日間で、堀北が覚えたのは、役と点数と、牌の数え方だった。

 

堀北は、今、河ではなく、山を数えていた。

 

「赤木くん」

 

堀北が言った。

 

山から目を離さずに。

 

「最後の一枚は、あなたよ」

 

生徒会長の万年筆が、紙から浮いた。

 

 

 

 

 

手の中身ではない。誰が山のどこを引くか。卓の上の全員が、数えれば分かることだ。

 

万年筆は、紙に戻った。

 

赤木が、山の最後の一枚を見た。

 

局が始まってから、赤木がその一枚を見たのは、これが初めてだった。

 

オレの番だった。

 

また、オレだった。

 

山を見た。

 

残りは、七枚だった。

 

二つ目の槓で、山の尻が、もう一枚、王牌に回った。

 

表を向いた八萬が、山の最後の一枚になっていた。

 

七枚を、オレ、坂柳、赤木、堀北、オレ、坂柳、赤木の順に引く。

 

最後の一枚は、赤木だった。

 

赤木は、10巡目の八萬を見逃している。

 

赤木に残っている和了りは、自摸だけだ。

 

その自摸の、最後の一枚が、表を向いた八萬だった。

 

海底がつく。

 

数えは、そこで止まった。

 

 

 

 

 

止まった先を、数える必要が無かった。

 

まだ、誰の手も倒れていない。赤木の待ちも、見ていない。

 

見ていないのに、山の最後の一枚が、表を向いたまま、赤木の方を向いていた。

 

東一局から、オレは一度も、局の終わりを先に知ったことが無い。

 

知らないから、数えてきた。

 

今は、数えなくても、見えていた。

 

オレは、自分の指が、卓の縁から浮いているのに気づいた。

 

いつ浮いたのか、分からなかった。

 

東一局から、一度も浮かなかった指だった。

 

息が、一つ、遅れた。

 

吸うはずのところで、吸っていなかった。

 

坂柳が、オレの顔を見ていた。

 

見て、杖に伸ばしかけた手を、途中で止めた。

 

坂柳の目に映っているものを、オレは知らなかった。

 

自分の顔が、今、どういう形をしているのか。

 

生まれて初めて、分からなかった。

 

赤木が、そこで初めて、オレの顔を見た。

 

「見えたかい」

 

低い声だった。

 

オレは、答えなかった。

 

答えは、たぶん、もう顔に出ていた。

 

赤木は、それ以上何も言わなかった。

 

口の端だけで、笑っていた。

 

見えたところで、オレにできることは無い。立直している。引いて、切るだけだ。

 

山から一枚引いた。

 

五筒なら、オレの和了りだった。

 

八筒でも。

 

引いた牌を、指で確かめた。

 

二萬だった。

 

入らない。

 

オレは、それを切った。

 

東一局から、同じ速さで。

 

坂柳の手が、止まった。

 

 

 

 

 

山に伸びるはずの指が、自分の手牌の上で止まっていた。

 

坂柳の目が、山の底の八萬と、オレの二萬を、交互に見ていた。

 

坂柳も、数えていた。

 

ここで坂柳が山を引かなければ、ツモが一つ飛ぶ。

 

飛んだ分だけ、山の底の一枚は、赤木の番から外れる。

 

外れた先は、堀北だった。

 

見逃した後の赤木は、堀北が切った八萬では和了れない。

 

坂柳は、手牌から三萬と四萬を抜いた。

 

抜いた指が、卓の上で一度だけ止まった。

 

東場の坂柳なら、ここで止まったまま、何もしなかった。

 

 

 

 

 

「チー」

 

二萬の横に、三萬と四萬が並んだ。

 

坂柳は、赤木の河にある一枚を切った。

 

通った。

 

坂柳の指が、切った牌から離れた。

 

離れてから、坂柳は、赤木の顔を見た。

 

坂柳の口の端が、上がっていた。

 

「最後の一枚は、どなたのものでしたかしら」

 

堀北の言葉を、そのまま赤木に返していた。

 

「お生憎さまです、赤木くん。海の底は、堀北さんの番になりました」

 

杖を握る手に、力が戻っていた。

 

「見逃した八萬に、もう一度会えるとお思いでしたか。……二度目は、ございません」

 

盤の上で相手の駒を取った時の声だった。

 

山の底の八萬は、もう赤木の番ではなかった。

 

坂柳が、自分の手で、赤木の勝ち筋を一本潰した。

 

赤木の番だった。

 

赤木は、坂柳の三萬と四萬を、一度だけ見た。

 

それから、山から一枚引いた。

 

引いた牌を、手の中に握りつぶした。

 

 

 

 

 

坂柳のチーで、ツモが一つずれた。

 

赤木は、隣の堀北を見た。

 

堀北が、山の底の八萬を見ていた。

 

自分の番に回ってきた、赤木の和了れない一枚を。

 

二つの槓で、自分が運んだ一枚だった。運び終えた一枚を、坂柳に外された一枚だった。

 

堀北の唇が、きつく結ばれていた。

 

肩が、少し落ちていた。

 

 

 

「フフ、そっちじゃねえよ、堀北」

 

 

 

堀北の肩が、跳ねた。

 

「……え?」

 

山の底の一枚から、目が離れた。

 

離れた目が、行き場を探して、卓の上をさまよった。

 

自分の河。赤木の握った手。坂柳の晒した三萬と四萬。どれにも、止まらなかった。

 

そっちではない。なら、どっちなのか。堀北の顔は、まだその答えを持っていなかった。

 

堀北は、赤木の方を見た。

 

赤木は、堀北を見ていなかった。

 

赤木は、手を開いた。

 

牌が転がった。

 

転がった先に、オレの待ちの、山に残っていた最後の一枚があった。

 

五筒だった。

 

 

 

 

 

五筒三枚に、転がした一枚を並べた。

 

四枚。

 

オレの待ちの半分が、四枚とも、赤木の前に揃った。

 

オレの手に残っているのは、八筒だけだった。

 

坂柳が、自分の前に晒した三萬と四萬を見下ろしていた。

 

チーを鳴いたのは、坂柳だ。

 

鳴いて、ツモを一つずらした。

 

ずらした先に、五筒が落ちた。

 

坂柳の指が、晒した三萬の上で、動かなくなった。

 

赤木は、四枚のうち、両端の二枚を伏せた。

 

 

 

 

 

「カン」

 

 

 

 

 

三度目の槓だった。

 

一局に、三つ。

 

生徒会長が、手帳に何かを書きかけて、ペン先を止めた。

 

立直中の暗槓は、待ちが変わらない時だけ許される。

 

晒された待ちは、八萬の単騎のまま、変わらない。

 

止める理由は、ここにも無かった。

 

赤木は、王牌の端に手を伸ばした。

 

三枚目の新ドラ表示牌を、表に返した。

 

四筒。

 

新しいドラは、五筒だった。

 

並んだ四枚が、四枚とも、ドラになった。

 

 

 

 

 

卓の上の誰も、息をしていなかった。

 

オレは、並んだドラ表示牌を数えた。

 

一筒、二索、三萬、四筒。

 

三索が三枚。四萬が三枚。五筒が四枚。

 

赤木の晒した手に、十の数が乗っていた。

 

乗っていても、和了らなければ何も起きない。

 

赤木の和了り牌は、八萬だけだ。

 

八萬は、山の底の一枚と、どこかに伏せられている一枚。

 

山の底の一枚は、もう赤木の番には来ない。

 

残っているのは、伏せられている一枚だけだった。

 

どこに伏せられているのかは、誰にも分からない。

 

 

 

 

 

嶺上から、一枚引いた。

 

指先で持ったまま、少しの間、動かなかった。

 

それから、表を向けて、卓の上に置いた。

 

 

 

 

 

見えていなかった方だった。

 

「ツモ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

開いたままの手の、単騎の八萬の隣に、嶺上の八萬が並んだ。

 

三索、三索、三索。四萬、四萬、四萬。五索、六索、七索。八萬。その隣に、嶺上の八萬。

 

赤木の手の一枚。オレが10巡目に切った一枚。山の尻で表を向いたままの一枚。そして、嶺上の一枚。

 

四枚の八萬が、それで全部、卓の上に出た。

 

横に、五筒が四枚。

 

嶺上開花だった。

 

床で、乾いた音がした。

 

坂柳の杖だった。

 

いつの間にか椅子の背から坂柳の手に移っていた杖が、その手から滑り落ちていた。

 

坂柳は、拾わなかった。

 

落ちた杖を、見てもいなかった。

 

赤木の手だけを、見ていた。

 

堀北だけが、杖の音に振り向かなかった。

 

倒れた手の端の、嶺上から来た八萬を見ていた。

 

「……そっち、だったの」

 

小さな声だった。

 

それから、長く息を吐いた。

 

どこから来るのかは、最後まで分からなかった顔だった。来ることだけは、疑っていなかった顔だった。

 

疑っていない人間でなければ、あの槓は二つも積めない。

 

その顔を見て、オレは、自分の指がまだ浮いたままなのに気づいた。

 

生徒会長が、身を乗り出した。

 

乗り出したまま、しばらく声が出なかった。

 

それから、読んだ。

 

「オープン立直。門前清自摸和。嶺上開花。断么九。三暗刻」

 

声が、一度だけ途切れた。

 

「新ドラ、三索が三枚。四萬が三枚。五筒が四枚」

 

万年筆が、紙の上で止まった。

 

「17翻。……裏は、見るまでもない。数え役満」

 

赤木が、並んだドラ表示牌を、一度だけ見た。

 

「フフ……余計なもんが、ずいぶんついたな」

 

独り言のような声だった。

 

役満で頭を打つ点に、十翻のドラは要らない。要らないものが、勝手に積み上がっていた。

 

赤木は、それから、オレと坂柳の方を見た。

 

「青天井なら、あんたら骨も残らなかったな」

 

誰も、笑わなかった。

 

赤木だけが、笑っていた。

 

「親の役満。16000オール」

 

生徒会長は、手帳から顔を上げた。

 

「28700から、32000は出ない」

 

万年筆が、紙の上を一度だけ走った。

 

「終局」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

卓の上に、誰の手も伸びなかった。

 

オレは、赤木の倒れた手を見ていた。

 

八萬の単騎。

 

10巡目に、オレが切った八萬だった。

 

和了っていれば、12000。オレたちは、残っていた。

 

赤木は、それを見送った。見送った瞬間に、赤木に残る和了りは、自摸だけになった。

 

表の八萬は、坂柳のチーで、堀北の番に移った。

 

坂柳は、赤木の勝ち筋を、正しく一本潰した。

 

潰したことで、ツモがずれて、五筒が赤木の手に落ちた。

 

潰しても、潰さなくても、結果は変わらなかった。

 

 

 

 

 

「赤木」

 

オレは言った。

 

赤木が、窓の外から目を戻した。

 

いつの間にか、赤木は椅子の背にもたれて、外を見ていた。

 

「八萬を、見逃したな」

 

「ああ」

 

「和了っていれば、お前は12000を取って、まだ親だった」

 

赤木は、倒した手を崩さないまま、オレを見た。

 

「フフ、息の根の残る点は、借りと同じだ」

 

それだけだった。

 

オレは、何も言えなかった。

 

言うための言葉が、どこを探しても無かった。

 

「堀北の槓は」

 

オレは、もう一つだけ訊いた。

 

「お前が、言わせたのか」

 

「独り言を、聞かれただけだ」

 

赤木は、隣の堀北を見なかった。

 

「積んだのは、あいつだ」

 

堀北が、自分の倒した白と九索に触れた。

 

八枚の牌の上で、指が震えていた。

 

震えは、牌に触れてから、止まった。

 

正しく打つ人間を、正しく打つ限り、赤木は終わらせられない。

 

だから、12000を見送って、終わらせられる一局を待った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

須藤の一点の頃、オレはこの男を、生存の結果として身についた形だと見立てた。

 

間違えれば終わる場所で、間違えなかった個体だけが持つ形。

 

オレの形は、学習と設計でできている。

 

どちらが強いかは、状況による。あの時、オレはそう結論した。

 

今日、その状況が来た。

 

間違えれば終わる卓で、学習と設計は、牌を一枚も外さずに負けた。

 

見立ては、半分しか当たっていなかった。

 

あの八萬は、局の始めから、全員に見えていた。

 

誰でも狙えた一枚だった。オレにも、坂柳にも、堀北にも、山の順は数えられた。

 

それでも、最後は赤木の番に吸い寄せられた。

 

運んだのは、堀北だった。

 

坂柳は、その一枚を赤木の番から外した。

 

赤木は、その一枚すら要らなかった。嶺上に、もう一枚が待っていた。

 

どちらでも、勝っていた。

 

生きるか死ぬかの縁で、どこにドラが乗るかも分からない槓を打つ。普通の人間には、一度もできない。

 

堀北は、二度やった。

 

赤木に教わったわけではない。晒された手を見て、足りない、と聞いただけだ。

 

それだけで、隣に座った人間が、赤木と同じ打ち方を始めた。

 

赤木は、勝ちを数えない。

 

数えるのは、自分が死ぬ場所だけだ。

 

一枚で消える場所を選んで、そこに座る。座ったまま、笑っている。

 

そこまでなら、ただの狂人だ。

 

違うのは、その場所に、牌が来ることだ。

 

来るはずのない牌は、誰かが運んでくる。運ぶ人間まで、赤木の方へ引き寄せられる。

 

南三局の西。西一局の五筒。西三局のドラ。北一局の、二枚の八萬。

 

一局なら、偶然と呼べる。

 

四度起きた偶然を、オレは偶然と呼べない。

 

呼ぶための言葉を、オレは持っていない。

 

持っていないものを、人は、天から配られたと言うのだろう。

 

生き残ってきた形と、天から配られた何か。赤木しげるは、その両方を持って、この卓に座っていた。

 

オレの立直は、一度だけ、その形を真似ようとした手だったのかもしれない。

 

真似られなかった。

 

分からないものを、オレは数えない。

 

数えないはずのものを、オレは今、数えたいと思っていた。

 

生まれて初めてだった。

 

 

 

 

 

「払いの話をする」

 

生徒会長が、手帳を閉じた。

 

閉じてから、少しの間、表紙の上に手を置いたままだった。

 

「昨日の通りだ。負けた者の退学は、本人が届を出す。受理されるかどうかに、俺は関わらない」

 

坂柳が、点箱の蓋を閉めた。

 

閉めてから、顔を上げた。

 

「……承知しています」

 

声は、震えていなかった。

 

「卓を作ったのは私です。作った卓で負けました。払います」

 

坂柳は、赤木の方を見た。

 

「とばっちりだと、思われたくありませんから」

 

赤木は、何も言わなかった。

 

「綾小路」

 

「月曜の朝に出します」

 

言うのに、時間は要らなかった。

 

ここを出れば、オレの戻る場所は一つしかない。

 

そこがどういう場所かは、知っている。

 

知っていて、この卓に座った。

 

「訊いておく」

 

生徒会長の声だった。

 

「昨日、お前は見たいものがあると言った」

 

「言いました」

 

「見えたのか」

 

オレは、赤木を見た。

 

赤木は、また窓の外を見ていた。

 

「見えました」

 

「何が見えた」

 

生徒会長は、昨日は訊かなかったことを、今日は訊いた。

 

オレは、少し考えた。

 

考えて、一番短い答えを探した。

 

見つからなかった。

 

「オレは、一度も外しませんでした」

 

生徒会長は、黙って聞いていた。

 

「東一局の六筒から、最後の八萬まで。切る前に分かることだけで決めて、決めた通りに切りました。オレの計算では、どの一枚も正しかった。最後の立直だけは、正しくない理由で掛けましたが」

 

「それで、負けた」

 

「負けました」

 

坂柳が、横でオレの顔を見ていた。

 

堀北も、見ていた。

 

「オレが育った場所では、正しく打てば、負けないことになっていました。負けるのは、正しく打たなかった者だけでした」

 

言いながら、自分の声が、いつもと同じ大きさなのを確かめた。

 

同じだった。

 

「赤木は、正しくない手を打ちました。確実に取れた八萬を見送って、立直のまま、来るかどうかも分からない一枚を待ちました。堀北は、オレの立直に向かって槓を二つ重ねました。オレの計算では、どちらも負ける手です」

 

「だが、勝った」

 

「勝ちました」

 

オレは、赤木の手の横に並んだ、堀北の白と九索を見た。

 

「計算の外に、卓がある。その卓では、正しく打つ者が負けることがある。オレは、それを知りませんでした」

 

生徒会長は、何も言わなかった。

 

「知らないまま、この学校を出るところでした。知らないまま外へ出れば、オレは一生、正しく打って、一度も負けずに終わったと思います」

 

「それは、悪いことか」

 

「分かりません」

 

オレは言った。

 

「ただ、外があると知らないまま、正しいと思い続けるのは、盤の上に一人で座っているのと同じです」

 

坂柳の指が、卓の縁で、一度だけ動いた。

 

「それが、見たかったものか」

 

「はい」

 

「退学と引き換えにしてもか」

 

「引き換えにしなければ、赤木は卓に座りません」

 

生徒会長は、長い間、オレを見ていた。

 

それから、手帳を開き直して、何かを書いた。

 

何を書いたのかは、見なかった。

 

「赤木」

 

生徒会長が言った。

 

赤木は、窓の外を見たまま答えた。

 

「なんだ」

 

「今の話を、聞いていたか」

 

「聞こえてたな」

 

「何か、言うことは」

 

赤木は、窓の外を見たままだった。

 

「無えよ」

 

それだけだった。

 

 

 

 

 

生徒会長は、手帳を閉じた。

 

閉じてから、赤木の方を見た。

 

「赤木。5月8日の、もう半分だ」

 

赤木が、窓から目を戻した。

 

「図星だった」

 

生徒会長は、それだけ言った。

 

何が図星だったのかは、オレには分からない。

 

堀北が、兄の顔を見ていた。

 

赤木には、分かったらしかった。

 

「フフ、だろうな」

 

それだけ言って、赤木は倒した手を崩し始めた。

 

四枚の五筒を、一枚ずつ山に戻していく。

 

戻す時に、音がしなかった。

 

オレは、自分の手を崩した。

 

崩した牌を、山に戻した。

 

戻す手つきは、東一局と同じだった。

 

同じ手つきの中で、指が一度だけ、河に残った八萬の上で止まった。

 

止まった理由を、オレは探さなかった。

 

探さなくても、分かっていた。

 

 

 

 

 

部屋を出る前に、坂柳がオレの前に立った。

 

杖を、床についていた。

 

「綾小路くん」

 

「なんだ」

 

「西二局の六索は、役に立ちましたか」

 

「立った」

 

オレは言った。

 

「お前がいなければ、あの局で堀北の親の倍満が来ていた。オレたちは、16000を失っていた」

 

坂柳は、少しだけ目を見開いた。

 

「……あなたが、そう言ってくださるとは思いませんでした」

 

「事実だ」

 

「事実を、あなたが口にしてくださるとは、思いませんでした」

 

坂柳は、杖の頭を両手で握った。

 

「私は、今日、あなたの駒でしたか」

 

「違う」

 

「では、何でしたか」

 

オレは、少し考えた。

 

考えて、正確な言葉を選んだ。

 

 

 

「背中を預けた相手だ」

 

 

 

坂柳は、何も言わなかった。

 

言わないまま、小さく頭を下げた。

 

下げた頭を上げた時、坂柳は、笑っていた。

 

笑う前に、考えていない顔だった。

 

「それなら、私も組んだかいがありました」

 

坂柳は、部屋を出ていった。

 

出ていく時に、杖が床を一度だけ鳴らした。

 

 

 

 

 

部屋を出たのは、オレが最後から二番目だった。

 

廊下に、堀北が立っていた。

 

鞄を持っていた。

 

「綾小路くん」

 

「なんだ」

 

「昨日の約束よ」

 

終わった時に、オレがまだこの学校にいたら。

 

「いる」

 

「月曜の朝まではね」

 

堀北は、鞄の持ち手を握り直した。

 

「怒ってるわ」

 

「知っている」

 

「兄のことを売ったことも。坂柳さんに卓を作らせたことも。赤木くんを、ここに座らせたことも」

 

「ああ」

 

「全部、怒ってる」

 

「聞く」

 

「聞かなくていい」

 

堀北は、オレの顔を見た。

 

正面から、見た。

 

「さっき、兄さんに話していたこと。外がある、って」

 

「言った」

 

「あなたは、それを見るために、私たちを全員、卓に乗せたのね」

 

「そうだ」

 

「私の兄を懸けて。坂柳さんの学校を懸けて。あなた自身の学校を懸けて」

 

「そうだ」

 

堀北は、少しの間、黙っていた。

 

「最低ね」

 

「知っている」

 

「でも」

 

堀北は、鞄の持ち手を、さらに強く握った。

 

「私も、見たわ。同じものを」

 

オレは、堀北を見た。

 

「南三局で、西を切った時に。逃げた先に、あの人が待っていた時に」

 

堀北の声が、少しだけ掠れた。

 

「だから、あなたを許さないけれど、あなたが何を見に来たのかは、分かる」

 

言って、背中を向けた。

 

三歩行って、止まった。

 

振り返らなかった。

 

「……あなたは、最後まで同じ顔だったわね」

 

「そうか」

 

「負けても」

 

「ああ」

 

「最後の八萬を見ていた時だけ、少し違ったわ」

 

オレは、何も言わなかった。

 

堀北は、それ以上は言わずに歩いていった。

 

廊下の端で、堀北は階段を下りずに、会議室の扉の方を一度だけ見た。

 

扉の中には、まだ赤木がいる。

 

堀北は、戻らなかった。

 

階段を下りていった。

 

オレは、しばらく廊下に立っていた。

 

八萬の手触りが、まだ指に残っていた。

 

残らないように切ったはずの牌だった。

 

残っていた。

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