西一局、一本場。
赤木が、百点棒を一本、卓の右端に置いた。
積み棒だった。
親が続いている印を、赤木は指先で揃えもせずに置いた。置いて、山に手を伸ばした。
56000と44000。
南二局が終わった時、オレたちは62000前にいた。赤木たちの点箱には、19000しか残っていなかった。
南三局で、赤木は立直を掛けた。掛けた瞬間に、赤木たちの点は18000になった。オレの親の跳満と、同じ数だった。
赤木は、それを知っていて掛けた。
要らない1000点だった。要らないと言ったら、赤木は、出したかったからだと答えた。
三局で、それが裏返った。
南三局の西。南四局の五筒。西一局の八萬。
どの局も、オレは外していない。
外していないまま、三局が赤木の側に倒れた。
数字は、それ以上のことを言わない。
言わないものを、オレは数えない。
数えないはずだった。
南二局の後、赤木はオレに言った。退屈だろ、と。
退屈かどうかを考えたことが無い、とオレは答えた。
嘘ではない。
考える必要が無かった。
オレが育った場所では、正しい手は、正しい結果を連れてきた。連れてこない手は、正しくない手だった。
正しさを疑う材料が、あそこには一つも置かれていなかった。
退屈という言葉は、比べるものがある人間の言葉だ。
オレには、比べるものが無かった。
だから、見に来た。
配牌を取った。
萬子の四から六が揃っていた。索子に、嵌張が一つ。筒子に、浮いた牌が二枚。
悪くない。
1巡目、赤木が北を切った。
南一局で、赤木が単騎で待っていた牌だった。
赤木は、それを何でもない牌のように河に置いた。
堀北の手が、一瞬だけ止まった。
止まって、すぐに動いた。
赤木の河を見なかった。オレの河を見た。
南一局の堀北は、赤木の河しか見ていなかった。南三局からは、オレの河を見ている。
見る場所が変わった人間は、切る牌も変わる。
変わった分だけ、読める牌が減る。
減った分を、オレは堀北の顔で補う。
堀北の顔は、四月から見てきた。
何を嫌がる時に、どこが固くなるか。
今の堀北は、固くなる場所が、四月と違っていた。
3巡目、坂柳が中を切った。
坂柳の指先が、牌から離れるまでに半拍かかった。
16000と18000を払った手だった。
払った後で、坂柳は一度も降りていない。
西一局の八萬は、オレに向けて切られていた。
外れた、と坂柳は言った。次は外さない、と。
オレは、坂柳に差し込みを頼んでいない。
頼めば、手の中身の話になる。頼まなくても、坂柳は来た。
赤木が南一局で北に構え、南三局で西に構えたのを見て、坂柳は一局で自分のものにした。
計算の中に、坂柳という項を、オレは一つ書き足していた。
書き足したのは、坂柳が44000を背負った後だった。
6巡目に、オレは聴牌した。
嵌張の待ち。
黙った。
8巡目、嵌張が両面に変わった。
「リーチ」
千点棒を置いた。
置いた時、赤木が初めてオレの河を見た。
見て、すぐに自分の手に戻った。
赤木は、降りなかった。
9巡目、赤木の手から筒子が一枚出た。オレの河に無い牌だった。
10巡目、もう一枚。
親の赤木が、真っ直ぐ押してくる。
赤木の河は、字牌と端の牌と、筒子の真ん中が二枚。
聴牌しているかどうかは、河からは分からない。
分からないことを、分からないまま置いておく。
11巡目。
赤木が山から一枚引いて、手の中の一枚と入れ替えた。
入れ替えた方を、河に置いた。
六萬だった。
「ロン」
オレは、手を倒した。
四萬、五萬。六萬を待つ両面。
立直、タンヤオ、ドラ二。7700。一本場で、8000。
赤木は、自分の手を伏せたまま、点箱を開けた。
千点棒を八本。
一本ずつ、卓の上に並べた。
並べ終えてから、それをまとめて、オレの方へ滑らせた。
東一局一本場で、赤木はオレに8000を払っている。
西一局一本場で、もう一度、8000を払った。
同じ額を、同じ相手に。
一度目の8000を払った時と、何も変わらない顔だった。
「8000で、今度は何を買った」
オレは訊いた。
東三局の後、オレは赤木に、8000の釣りかと訊いた。赤木は、釣りにしちゃ少ねえと答えた。
赤木は、伏せた自分の手を崩しながら、オレを見た。
「今度は、買ってねえよ」
「なら、今のは」
「フフ、お前も坂柳もごちゃごちゃうるせえな。ただの8000だ」
オレは、棒を受け取った。
受け取って、点箱に入れた。
52000と48000。
また、オレたちが前に出た。
差は、4000。
赤木の親が、流れた。
ただの8000だ、と赤木は言った。
それが本当かどうかは、分からない。
分からないものを、オレは数えない。
それでも、耳の奥に、その一言が残っていた。
残った理由を、オレは探さなかった。
西二局。
堀北の親だった。
堀北は、賽を振る前に、自分の手のひらを一度だけ見た。
見て、握った。
賽が転がった。
堀北が、山を割った。
割る手が、東一局より速かった。
配牌を取る。
四枚ずつ、三度。最後に一枚。
並べ終えた時、堀北の目が一度だけ細くなった。
東場の堀北は、手が良い時も悪い時も、同じ顔で牌を並べていた。同じ顔をしようとして、顔の方が固まっていた。
今は、固まっていない。
固まっていない顔が、一度だけ細くなった。
手が良い。
1巡目、堀北は索子を切った。
2巡目、索子。
3巡目、筒子。
4巡目にも、筒子。
萬子と字牌を、一枚も切らない。
南四局の坂柳と、同じ河だった。
坂柳が、堀北の河を見ていた。
「堀北さん」
「何かしら」
「萬子を、ずいぶん大切にしていらっしゃいますね」
東三局で、堀北が坂柳に向けた問いと同じ形だった。
堀北は、少しだけ口元を緩めた。
「答えると思う?」
「思いません。訊かれた時に、あなたがどう答えるかを見たかっただけです」
同じ言葉が、そのまま返っていった。
堀北は、何も言わなかった。
言わないまま、次の牌を引いた。
5巡目、赤木が一萬を切った。
堀北の指が、卓の縁で一度だけ跳ねた。
鳴かなかった。
親の混一色なら、門前で倍満まで届く形がある。鳴けば、一段下がる。
堀北は、それを五日間で覚えたのだと思う。
赤木は、何も教えていない。
親の倍満は、8000オール。
オレと坂柳で、16000。
親が続けば、その次もある。
オレの手は、まだ二向聴だった。
間に合わない。
堀北の手が、先に来る。
6巡目、坂柳が東を切った。
堀北は、それも鳴かなかった。
坂柳は、東を切った指を、牌の上に置いたまま、しばらく離さなかった。
離さないまま、オレの方を見た。
オレの手を見たのではない。
オレの河を見ていた。
7巡目、オレは黙って聴牌の手前まで来た。
8巡目、聴牌した。
索子の嵌張。タンヤオだけ。
1300点の手だった。
立直は掛けなかった。
掛ければ、堀北は降りる。降りた堀北の手は、次の局まで残る。
掛けなければ、誰にも分からない。
誰にも分からない1300点の待ちが、卓の上に一つ増えただけだ。
9巡目。
坂柳が、牌を引いた。
引いて、手の中に入れた。
入れてから、オレの河を見た。
1巡目から8巡目まで、オレが切ってきた牌を、一枚ずつ。
坂柳の指が、手牌の上を動いた。
一枚に掛かった。
索子の、六だった。
オレの嵌張の、真ん中。
坂柳が、それを河に置いた。
置いた指が、牌から離れる前に、オレは手を倒していた。
「ロン」
タンヤオ。1300点。
卓の上が、止まった。
堀北が、オレの倒した手を見ていた。
それから、坂柳の河を見た。
それから、自分の手の中を見た。
見て、倒さないまま、伏せた。
1300点が、坂柳の点箱からオレの点箱へ移った。
右から左へ。
一点も減らない。
堀北の親が、流れた。
「……外しませんでした」
坂柳が言った。
オレに向けてではなかった。
右隣の、赤木に向けて。
赤木は、坂柳の切った六索を見ていた。
「フフ、拾ったな」
「ええ。私が」
坂柳の声が、少しだけ震えていた。
震えているのに、背筋は伸びていた。
「オレの待ちがわかっていたのか」
坂柳は、オレの方に顔を向けた。
「分かっていません」
「なら」
「あなたが、立直を掛けなかったからです」
坂柳は、杖の頭に触れなかった。
卓の縁に、両手を置いたままだった。
「西一局一本場で、あなたは高い手を曲げました。高い手なら、あなたは曲げる。今回は、8巡目から何かを黙っていました。黙ったまま、9巡目も曲げませんでした」
「それで、1300点だと」
「曲げる価値の無い手だと。曲げる価値の無い手で、あなたが黙って待っているなら、それは誰かに刺させるための手です」
坂柳は、一度だけ息を継いだ。
「刺せるのは、私だけでした」
オレは、何も言わなかった。
「索子の六は、あなたの河の索子の並びから、一番通らない場所でした。ですから、切りました」
言い終えてから、坂柳は小さく笑った。
「一番通らない牌を、選んで切ったのは、生まれて初めてです」
赤木が、卓の向こうで、口の端だけ上げていた。
何も言わなかった。
堀北が、伏せた自分の手の上に、手のひらを置いていた。
「……私の親を、1300点で」
「ええ。1300点で」
坂柳は、堀北を見た。
「南三局で、あなたが西でなさったことです。見ていましたから」
堀北は、何も言い返さなかった。
言い返さないまま、伏せた手を崩して、山に戻した。
崩す時に、萬子が一本の筋で並んでいるのが、一瞬だけ見えた。
親の倍満の、一向聴だった。
オレは、それを数えた。
16000。
坂柳の1300点が、16000を消した。
オレの計算には、坂柳が六索を切る手順が入っていなかった。
入っていなかったものが、卓の上で起きた。
オレが立直を掛けなかったのは、堀北に降りさせないためだった。
坂柳は、それを別の意味に読んで、別の手を打った。
読み違いではない。
オレが読まなかった方の意味が、正しかった。
西三局。
オレの親だった。
52000と、48000。
差は、4000のままだ。
賽を振った。
配牌は、良かった。
萬子の二三四、筒子の四五六、索子の六七八。雀頭の候補が二つ。
平和とタンヤオの形が、最初から見えていた。
4巡目に一向聴。
6巡目に、聴牌した。
筒子の一と四の両面。
ドラが一枚、手の中にある。
「リーチ」
千点棒を置いた。
51000。
親の立直は、東三局と南三局に続いて三度目だった。
東三局では、赤木に黙聴で五萬を取られた。
南三局では、堀北に西で逃げられた。
どちらの局も、オレは外していない。
外していない手を、外していない形で、もう一度曲げた。
赤木が、山から牌を引いた。
引いた牌を、そのまま横にした。
「リーチ」
追いかけてきた。
親の立直に、子の追いかけ。
南三局と同じ形だった。
赤木の点は、47000。
オレの親の跳満は18000。倍満は24000。
今度は、ちょうどではない。
当たっても、赤木たちは残る。
赤木は、それを数えて曲げたのか。
数えずに曲げたのか。
分からない。
分からないものを、オレは数えない。
「赤木」
オレは言った。
曲げた牌を、見ながら。
「今度は、ちょうどじゃないな」
赤木は、自分の河を見ていた。
「ちょうどじゃなくても、曲げたくなる時はある」
「何が違う」
「さあな」
赤木は、山に手を伸ばした。
7巡目。オレが引いた。三萬。切った。
赤木が引いた。切った。
坂柳が、赤木の河の外から一枚切った。
堀北が、オレの河にある牌を切った。
8巡目。オレが引いた。九索。切った。
赤木が引いた。
引いた牌を、手の中に入れなかった。
指先で持ったまま、少しの間、動かなかった。
それから、卓の上に置いた。
表を向けて。
「読んでるだけじゃ勝てねえよ」
赤木の手が、倒れた。
門前清自摸和、立直、平和、タンヤオ、ドラ四。
倍満。
子の倍満の自摸。親のオレが8000。坂柳が4000。
堀北も4000を出したが、それは赤木の点箱に移るだけだ。
卓の中央の千点棒が、二本とも赤木の方へ動いた。
39000と、61000。
差が、22000になった。
オレは、赤木の倒した手を見た。
表のドラが二枚。裏が二枚。
赤木の河には、ドラの周りの牌が一枚も無い。
表の二枚が、赤木の手の中に、揃っていた。
集まる形を、赤木は河で一度も見せていなかった。
「赤木」
「なんだ」
「そっちの手は、いつから高かった」
「フフ、配られたときにはもう決まってんだ」
赤木は、手を崩した。
オレは、崩れていく赤木の手を見ていた。
こいつは運だ、と言っている。
運で倍満を引いた、と。
運は、オレの計算に入っている。何分の一で、何が来るか。
入っているはずだった。
入っていない気がした。
配られた時からだ、と言った赤木の顔は、何分の一を数えている顔ではなかった。
来たものを、最初から自分の方へ呼んでいた顔だった。
そんなことは、起きない。
起きないはずのものを、オレは今、見た気がした。
見た気がしたものを、オレは見なかったことにした。
まだ、早い。
西四局。
坂柳の親だった。
39000。
坂柳は、山を積む前に、自分の点箱を開けた。
開けて、中の棒を見た。
数えたのではなかった。
見ただけだった。
それから、蓋を閉めた。
「綾小路くん」
「なんだ」
「親は、続けられるだけ続けます」
「好きにしろ」
坂柳は、少しだけ目を細めた。
「そう言われると思っていました」
賽を振った。
坂柳の配牌を、オレは見ていない。
見なくても、坂柳の手つきで分かった。
いい。
坂柳は、1巡目から迷わなかった。
5巡目に、坂柳が千点棒を出した。
「リーチ」
38000。
早い立直だった。
親の早い立直は、それだけで卓を縛る。
赤木は、降りなかった。
降りないまま、二枚通した。
堀北は、降りた。坂柳の河にあるものを、順に切っていく。
南三局の堀北なら、降りなかった。
今の堀北は、降りて、降りた先で卓を見ている。
オレも、手を止めた。
止めて、坂柳の河の外には一枚も出さなかった。
坂柳の和了り牌を、赤木が掴めば、それでいい。
赤木が掴まなければ、坂柳が自分で引けばいい。
8巡目。
坂柳が、引いた牌を、手の中に入れずに、表に返した。
「ツモ」
坂柳の手が、倒れた。
立直、門前清自摸和、平和、ドラ二。
親の満貫。4000オール。
赤木と堀北が、4000ずつ。オレも4000を出したが、それは坂柳の点箱に移るだけだ。
坂柳の千点棒が、坂柳の手元に戻った。
47000と、53000。
差が、6000まで縮んだ。
坂柳は、倒した手を見下ろしていた。
見下ろしたまま、声を出さなかった。
その目が、少しだけ濡れているように見えた。
濡れる理由を、オレは数えなかった。
坂柳は、すぐに顔を上げた。
「一本場です」
自分で言った。
生徒会長が、万年筆を動かした。
「西四局、一本場」
赤木が、坂柳の倒した手を見ていた。
何も言わなかった。
坂柳も、赤木の方を見なかった。
見ないまま、百点棒を卓の右端に置いた。
置く指が、震えていなかった。
西四局、一本場。
坂柳は、また早かった。
6巡目。
「リーチ」
46000。
赤木は、7巡目に追いかけた。
「リーチ」
52000。
親の立直と、子の追いかけ。
この卓で、同じ形を何度見たか分からない。
見るたびに、崩れたのはこちら側だった。
東三局の五萬。南四局の五筒。西一局の八萬。
オレと坂柳は、正しく打って、赤木の和了り牌を掴んできた。
赤木だけが、正しく打っていない。
打っていないのに、赤木の手に、牌が来る。
8巡目。坂柳が引いた。切った。
通った。
赤木が引いた。切った。
通った。
9巡目。
坂柳が、引いた牌を、手の中に入れた。
入れてから、赤木の河を見た。
見て、それから、赤木の顔を見た。
南四局と同じだった。
「……また、私ですか」
坂柳が言った。
誰に言ったのでもない声だった。
「死ぬ順番が一つ違っただけだ、とおっしゃいましたね。南四局で」
「言ったな」
「順番を入れ替えると、申し上げました」
「ああ」
「ええ。まだ、私の番のようです」
坂柳は、引いた牌を河に置いた。
置く前に、一度だけオレの方を見た。
止めてほしい、という目ではなかった。
見ていてほしい、という目でもなかった。
ここにいる、と確かめただけの目だった。
「ククク、潔いのは悪くねぇよ。ロン」
赤木だった。
立直、平和、タンヤオ、三色、ドラ三。
倍満。16000。一本場で、16300。
坂柳は、今度は点箱に手を伸ばさなかった。
オレが出した。
坂柳は、止めなかった。
29700と、70300。
生徒会長の声がした。
「西四局、一本場。赤木、坂柳より16300。供託二本」
坂柳が、卓の上の自分の河を見ていた。
「綾小路くん」
「なんだ」
「この局、私は降りるべきでしたか」
「降りれば、赤木は自分で引いていた」
「確かですか」
「確かではない」
オレは言った。
「確かではないから、お前は曲げた。曲げたなら、それでいい」
坂柳は、少しの間、オレを見ていた。
それから、小さく頷いた。
「あなたにそう言われたのは、初めてです」
「言う必要が無かった」
「今は、あったのですか」
オレは、答えなかった。
答えが、手元に無かった。
西二局から、手元に無い答えが、少しずつ増えていた。
「西四局を終える」
生徒会長が言った。
「どちらも、零に達していない」
生徒会長は、手帳のページを一枚めくった。
「北場に入る。北一局。親は、赤木」
坂柳が、小さく息を吐いた。
「北まで、来ましたね」
「北で出なければ、東へ戻る」
生徒会長は、それだけ言った。
窓の外が、少し翳っていた。
十時に始めた卓だった。昼を過ぎて、日が傾き始めている。
誰も、時計を見なかった。
29700。
赤木の親だ。
赤木の親の跳満は18000。倍満の自摸なら、オレたちの払いは16000。三倍満の自摸でも、24000。
どれでも、オレたちは残る。
振り込むつもりは、オレにも坂柳にも無い。
数字の上では、この局でオレたちが終わる目は、ほとんど無い。
だが。
ほとんど無い、という数字を、オレは今日、何度見送っただろう。
南三局の、ちょうどの1000点。
西一局の、宣言牌の五筒。
西三局の、ドラと裏の四枚。
どれも、数字の上では、ほとんど無い方だった。
オレは、山を積んだ。
音が、した。
赤木の山からは、音がしなかった。
「綾小路」
赤木が、積み終えた山に手を置いたまま言った。
「なんだ」
「楽しいか」
卓の上が、静かになった。
坂柳が、オレを見た。
堀北も、オレを見た。
生徒会長の万年筆が、紙から浮いた。
楽しいか。
考えたことの無い言葉だった。
退屈かどうかを考えたことが無いのと、同じように。
「分からない」
オレは、正直に答えた。
「分からないが、まだ席を立ちたくない」
赤木は、少しだけ目を細めた。
「なら、楽しいんだろ」
それだけ言って、賽を振った。
北一局。
王牌の三枚目が、表に返された。
一筒。
ドラは、二筒だった。
配牌を取る前に、坂柳が自分の山を前へ押し出した。
山は、坂柳の前にあった。賽の目で割られた、尻の側だった。
押し出す手が、東一局より遅かった。
卓が、坂柳には少し高い。朝からずっと、肩から動かして牌を取っている。
十時から、休憩を一度挟んだだけで、ここまで打ってきた。
「あ」
押し出した山の端が、卓の縁に引っ掛かった。
王牌の手前、山の尻から二つ目の一山が、崩れた。
上の段と下の段が、二枚とも転がった。
上の段は、伏せたまま止まった。
下の段の一枚が、表を向いて止まった。
八萬だった。
東一局で、堀北が一度、自分の山を崩して積み直している。
あの時は、配る前だった。表を向いた牌も無かった。
今度は、ドラ表示牌がもう返っている。
「……申し訳ありません」
坂柳が、自分の肩に一度だけ手をやってから、言った。
生徒会長が、窓際の椅子から立ち上がった。
卓のそばまで来て、表を向いた八萬を見下ろした。
「戻せ。上の段は伏せて、元の位置に。下の段は、表のままだ」
「表のまま、ですか」
坂柳が訊いた。
「伏せ直しても、四人とも見た。見たものを見なかったことにはできない。なら、見えたままにしておく方が揃う」
生徒会長は、八萬を指で示した。
「誰が引くかは、山の順で決まる。それ以外は、何も変わらない」
「承知しました」
坂柳が、二枚を元の位置に戻した。
上の段は伏せて。下の段の八萬は、表のまま。
山の尻から、二つ目の山の下に。
生徒会長は、窓際の椅子に戻った。
万年筆で、一行だけ書いた。
オレは、山の尻から数えた。
ドラ表示牌の位置と、賽の目と、四人の順番。
何も起きなければ、表を向いた八萬を引くのは、坂柳だった。
坂柳の山の、坂柳の引く一枚。
堀北が、表を向いた八萬を見ていた。
赤木は、見ていなかった。
山の中の一枚が何か、全員が知っている局は、オレも初めてだった。
配牌を取った。
四枚ずつ、三度。最後に一枚。
萬子の五六七が二組。索子の三と四。索子の二が二枚。筒子の六。字牌が二枚。
一盃口の形が、最初からあった。
悪くない。
赤木が、第一打を切った。
西。
堀北が、北を切った。
オレは、字牌を一枚切った。
坂柳が、九萬を切った。
どの1巡目とも、同じように始まった。
これも、同じように始まった。
同じように始まったものが、同じように終わるとは限らないことを、オレは今日、何度も見た。
2巡目、3巡目。
オレの手は、真っ直ぐ進んだ。
4巡目までに、字牌が二枚とも消えて、索子の五と筒子の七が入った。
5巡目に、一向聴。
赤木の河は、字牌と、一萬と、九萬と、二筒。
端と字牌だけだった。
真ん中の牌は、一枚も出ていない。
6巡目。
赤木が、一索を横にした。
横にしたまま、残りの十三枚を、卓の上に倒した。
「オープン」
手牌を、全部開けたまま。
堀北が、息を呑んだ。
坂柳の指が、杖の頭で止まった。
生徒会長が、窓際の椅子から腰を浮かせた。
「赤木。今のは」
「なんだ、駄目なのか」
「取り決めに無い」
「覚えた通りでいい、と言ったろ」
生徒会長は、坂柳を見た。
昨日、細かい取り決めを訊いたのは坂柳だった。今夜覚える、と言ったのも。
坂柳は、赤木の開いた手から目を離さないまま、ゆっくり頷いた。
「……ございました。ローカル役の認識でしたが、昨晩覚えたものの中に。手を晒して曲げれば、二翻。それだけです」
オレが口を挟んだ。
「放銃したら役満のルールは適用しないってことでいいか、赤木」
「フフ、そんなに認めなくねぇなら飜もいらねぇよ」
生徒会長は、手帳に一行だけ書いた。
「認める」
赤木の千点棒が、卓の中央に置かれた。
70300から、69300へ。
卓の上に、赤木の手が晒されていた。
三索、三索、三索。四萬、四萬、四萬。五筒、五筒、五筒。五索、六索、七索。八萬。
八萬の単騎待ち。
6巡目にして、この手の仕上がり。
そして、
山の尻の近くで、同じ八萬が一枚、表を向いている。
赤木は、自分の和了り牌を、卓の全員に見せた。
見せた上で、それが山のどこにあるかまで、全員が知っている。
オープン立直、断么九、三暗刻。ロンなら五翻、親の満貫で12000。自摸でも六翻、親の跳満で6000オール。堀北の分は同じ財布だから、オレたちの払いは12000。
裏が乗っても、三倍満には届かない。
終わらない。
終わらない手を、赤木は、全部晒して曲げた。
7巡目。
オレは、聴牌した。
五萬六萬七萬、五萬六萬七萬。三索四索五索。二索二索。六筒七筒。
五筒と八筒の両面。
立直、平和、タンヤオ、一盃口。
赤木の立直に向かって、この手を曲げるか。
五筒は、三枚が赤木の開いた手の中にある。オレの待ちは、半分死んでいる。
曲げれば、手は変えられない。八萬を引けば、赤木の目の前に切るしかない。
曲げなければ、危ない牌を引いた時に、崩して逃げられる。
赤木の親だ。
黙っていても、オレたちは赤木に振り込まない限り死なない。
振り込んでも、赤木の手は満貫だ。死なない。
守りきれば、赤木の親は流れる。流れれば、堀北の親、オレの親、坂柳の親が来る。
守るのが、正しい。
守って、次の局で取り返すのが、正しい。
正しい手は、分かっていた。
オレは、千点棒を出した。
「リーチ」
29700から、28700へ。
中央に、二本目が並んだ。
坂柳が、横で息を詰めた。
堀北が、オレの千点棒を見ていた。
見て、それからオレの顔を見た。
生徒会長の万年筆が、一行だけ動いた。
何を書いたのかは、見なかった。
赤木は、オレの千点棒を見ていなかった。
山から、次の牌を引きながら、赤木が言った。
「いい顔になってきたじゃねえか」
オレの顔は、見ていなかった。
見ないまま、言った。
なぜ曲げたのか、と自分に訊いた。
答えは、一つしか出てこなかった。
赤木が、楽しいかと訊いた。
分からない、とオレは答えた。
分からないまま、席を立ちたくない、と。
守って流せば、この局は何も起きずに終わる。
何も起きない局を、オレは今、打ちたくなかった。
それは、正しい理由ではなかった。
正しくない理由で、オレは1000点を出した。
生まれて初めてだった。
8巡目。
赤木が、引いた牌をそのまま切った。
堀北が、一枚切った。
オレも、引いた牌をそのまま切った。
坂柳が、一枚切った。
坂柳の切った牌は、四筒だった。
オレの待ちの、隣。
9巡目。
坂柳が切ったのは、九筒だった。
オレの待ちの、外側。
坂柳は、差し込みに来ていた。
赤木の親を、オレの手で終わらせるために。
オレの河を読んで、筒子の周りを一枚ずつ。
当たらない。
坂柳の目が、オレの河と自分の手を、何度も往復していた。
五筒と八筒が、坂柳の手には無いのだろう。
無いものは、切れない。
10巡目。
オレは、山から一枚引いた。
八萬だった。
オレの手には、入らない牌だった。
立直している。
切るしかない。
赤木の開いた手の端に、同じ八萬が一枚、立っている。
卓の上の全員が、それを見ていた。
曲げた時から、分かっていたことだった。
オレは、八萬を河に置いた。
東一局から、同じ速さで。
「――」
坂柳が、声にならない声を出した。
満貫。12000。オレたちは、16700残る。
終わらない。
終わらないが、赤木は親のまま、次の局もその次の局も打てる。
和了らない理由は、どこにも無い。
・・・・・・・・・
・・・・・・
「・・・」
赤木は、動かなかった。
手を倒さなかった。倒す手は、もう倒れている。
声を出さなかった。
オレの切った八萬を、一度も見なかった。
山から次の牌を引いて、そのまま切った。
牌が河に落ちる音が、部屋の中で一番大きな音だった。
見逃した。
全員の目の前で。
晒した手の、当たり牌を。
坂柳の杖が、椅子の脚にぶつかって、短く鳴った。
「……あ、赤木くん」
坂柳の声が、掠れていた。
「今のは、和了りです」
「いらねぇよ」
赤木は、次の牌を待つ手のまま、それだけ言った。
坂柳は、それ以上何も言えなかった。
言えないまま、赤木の開いた手と、オレの河の八萬を、何度も見比べていた。
見比べても、そこにある事実は変わらなかった。
生徒会長が、窓際の椅子から立ち上がっていた。
いつ立ったのか、誰も見ていなかった。
立ったまま、万年筆を紙の上で止めていた。
止める理由は、どこにも無い。見逃しは、不正ではない。
不正ではないものを前にして、生徒会長は、しばらく座り方を忘れていた。
堀北は、赤木の横顔を見ていた。
見て、何かを言いかけて、やめた。
やめた口元が、少しだけ震えていた。
オレは、自分の河に置いた八萬を見ていた。
切る前から、当たりだと分かっていた牌だった。
分かっていて切った。立直している以上、切るしかなかった。
12000を払う計算は、切る前に済ませてあった。
済ませてあった計算が、一枚も使われなかった。
東一局から、オレの計算が外れたことは無い。
外れたのではなかった。
相手が、計算の答えを受け取らなかった。
そんな相手に、オレは会ったことが無かった。
見逃した以上、赤木はもう八萬でロンはできない。
残る和了りは、自摸だけだ。
残る八萬は、二枚。どこかに伏せられている一枚と、山の尻で表を向いている一枚。
表の一枚を引くのは、坂柳だ。
11巡目から、14巡目。
誰も、和了らなかった。
坂柳は、筒子の周りを、オレに向けて切り続けた。三筒、七筒。当たらない。
堀北は、オレの河と赤木の河を、交互に見ながら切っていた。一度、手牌の端の一枚に指を掛けて、10秒止まって、その一枚を手の中に残した。
危ない牌を、危ないと分かっていて、手の中に残す指だった。
東一局で、オレが六筒を残したのと、同じ残し方だった。
赤木は、引いて、切った。引いて、切った。
手の中の十三枚は、一枚も動かない。
山が、減っていく。
残りが、両手で数えられるところまで来た。
山の尻の近くで、八萬が表を向いたまま待っていた。
あと何巡かで、坂柳がそれを引く。
誰も和了らなければ、流局する。流局すれば、赤木の親が続く。続いても、オレたちは死なない。
15巡目。
オレは、山から一枚引いた。
白だった。
場に、一枚も出ていない牌だった。
誰かが重ねている。重ねているなら、鳴かれる。
鳴かれても、当たりでなければ死にはしない。
立直している。
切るしかない。
切った。
堀北の手が、止まった。
指が、手牌の端に掛かっていた。
離れなかった。
堀北は、顔を上げた。
赤木を見た。
赤木は、自分の手を見ていた。
堀北の方を、向かなかった。
一言も、言わなかった。
堀北は、それから、オレを見た。
オレの千点棒を見た。
卓の真ん中の、二本の千点棒を。
堀北の唇が、小さく動いた。
声にならない数を、数えていた。
28700。
堀北も、数えられる。
赤木の開いた手は、自摸っても跳満止まりだ。
それも、堀北には見える。
「……届かないわね」
堀北が、呟いた。
誰に向けた言葉でもなかった。
手の中身ではない。点の話だ。
生徒会長は、動かなかった。
「届かないなら」
堀北は、手牌の端の三枚を、指で押さえた。
押さえた指に、力が入っていた。
「届くまで、積むしかないわ」
三枚を、倒した。
白が、三枚。
オレが切った白に、手を伸ばした。
「カン」
卓の上の空気が、一度に硬くなった。
坂柳が、杖の頭を掴んでいた。
大明槓だった。
オレの立直に対して。
槓をすれば、新しいドラが一枚増える。
増えたドラが、誰の手に乗るかは、誰にも分からない。
赤木の手に乗るかもしれない。
オレの手に乗るかもしれない。
オレの手は、立直、平和、タンヤオ、一盃口。ドラが乗れば、満貫に届く。
そして、槓の後、堀北は嶺上から一枚引いて、一枚を切らなければならない。
オレの立直に向かって。
その一枚が、オレの待ちなら。
堀北は、嶺上から一枚引いた。
引いて、手の中に入れた。
手の中を、見た。
見て、一枚に指を掛けた。
離れなかった。
「――」
堀北は、息を吸った。
吸ったまま、その一枚を河に叩きつけた。
四筒だった。
オレの待ちの、すぐ隣だった。
通った。
堀北の指が、切った四筒から離れるまで、時間が掛かった。
離れた後で、堀北は、王牌の端に手を伸ばした。
最初のドラ表示牌の隣を、表に返した。
二索。
新しいドラは、三索だった。
オレの手に、三索が一枚ある。
乗った。
立直、平和、タンヤオ、一盃口、ドラ一。
満貫になった。
槓の分だけ、山の尻が一枚、王牌に回った。
表を向いた八萬は、山の尻から二枚目になった。
オレは、数え直した。
オレの番が前に来た分と、山が一枚減った分。
あの八萬を引くのは、坂柳ではなくなった。
オレだった。
オレが引けば、立直しているオレは、切るしかない。
赤木は、10巡目の八萬を見逃している。もう八萬でロンはできない。
赤木は、表に返された二索を、一度も見なかった。
見ないまま、卓の縁に置いた指を、一本だけ動かした。
「……まだ、足りねえな」
低い声だった。
誰に向けたのかも分からないほど、低かった。
生徒会長の万年筆が、紙から浮いた。
浮いたまま、少しの間、止まっていた。
手の中身は、もう卓の上に晒されている。
生徒会長は、万年筆を紙に戻した。
止めなかった。
堀北の肩が、一度だけ動いた。
そして、槓は、ツモ順を動かす。
オレの切った白を、堀北が鳴いた。
次に山を引くのは、堀北の下家。
オレだった。
本来なら、坂柳が引いて、赤木が引いて、それから堀北、オレと回るはずだった。
二人分の順番が、一つの槓で飛んだ。
堀北は、それを分かっていて鳴いた。
オレに、もう一度自摸を渡すと分かっていて。
オレは、山から一枚引いた。
七索だった。
入らない。
切った。
堀北が、長く息を吐いていた。
吐き終えるまで、卓の上の誰も、動かなかった。
「……堀北さん」
坂柳の声が、掠れていた。
「今の槓で、綾小路くんの手が高くなったかもしれないとは」
「そうかもしれないわね」
堀北は、坂柳を見なかった。
「高くなっても、あなたたちは私たちを終わらせられない。私たちも、あなたたちを終わらせられない」
堀北は、自分の河に置いた四筒を見ていた。
「このままなら、誰も終わらない。終わらないまま、また次の局が来る」
堀北の声は、震えていなかった。
震えないように、押さえつけている声だった。
「もうそんなのはたくさんよ」
坂柳は、何も言えなかった。
オレも、何も言わなかった。
言うことが、無かった。
堀北のしたことは、正しくない。
正しくない手を、オレは今日、何度見たか分からない。
見たのは、全部、赤木の手だった。
今のは、堀北の手だった。
赤木は、何も教えていない。
言ったのは、足りねえ、の一言だけだった。
何が足りないのかは、誰にも言っていない。
赤木は、自分の手を見たまま、口の端だけを、少し上げていた。
坂柳が、山から一枚引いた。
引いて、手の中に入れた。
入れてから、しばらく動かなかった。
坂柳の目が、山の尻を見ていた。
表を向いた八萬を。
あの八萬は、もう坂柳の引く牌ではない。
それを、坂柳も数えたのだと思う。
坂柳は、手の中から一枚を抜いた。
抜いた指が、河の上で止まった。
九索だった。
場に、一枚も出ていない牌だった。
堀北の河には、白の槓の後、索子が一枚も無い。
坂柳は、それを見ていた。
見ていて、置いた。
九索が、河に落ちた。
堀北の手が、また止まった。
さっきとは、違う止まり方だった。
止まって、今度は、誰も見なかった。
赤木も、オレも、坂柳も。
自分の手の中だけを、見ていた。
「堀北」
オレは言った。
言うつもりは無かった。
「その九索を鳴けば、オレにもう一度自摸が来る。ドラも、もう一枚増える」
「・・・」
「今度は、オレの手に二枚乗るかもしれない」
「知ってるわ」
「お前の切る一枚が、オレに当たるかもしれない」
「知ってるって、言ってるでしょう」
堀北は、顔を上げなかった。
「あなたは、最後まで正しく打てばいいわ。私は、違う打ち方をする」
手牌の右端の三枚を、指で押さえた。
坂柳の九索に向けて。
「足りないって、言ってるのよ」
堀北の声が、少しだけ低くなった。
「何が足りないのかは、知らない。知らないけど、足りないなら、足すわ。あの人の隣で、一日座っていたんだもの」
赤木の口角が上がった。
「これは、元をたどれば私の卓よ」
三枚を、倒した。
「どうせ終わるなら、強く打って終わらせるわ」
九索が、三枚。
「カン」
二度目の槓だった。
生徒会長の万年筆が、紙から浮いたまま、降りてこなかった。
堀北は、嶺上から一枚引いた。
引いて、手の中に入れて、今度は迷わなかった。
一枚を、河に置いた。
三筒だった。
オレの待ちの、二つ隣。
通った。
堀北は、王牌の端に手を伸ばした。
一枚目の新ドラ表示牌の隣を、表に返した。
三萬。
新しいドラは、四萬だった。
オレの手に、四萬は無い。
乗らなかった。
オレには。
赤木の晒した手の真ん中に、四萬が三枚、並んでいた。
その隣に、一度目の槓で乗った三索が、三枚。
オープン立直、自摸、断么九、三暗刻。ドラが六つ。
自摸れば、十二翻。
跳満止まりだったはずの手が、二つの槓で、枠の外に出ていた。
あと一翻で、役満だ。
赤木は、それも見なかった。
ドラ表示牌が、三枚並んでいた。
一筒。二索。三萬。
ドラは、二筒、三索、四萬。
堀北は、自分の河を見ていなかった。
山の最後の一枚を、見ていた。
見ながら、唇が小さく動いていた。
東場の休憩で、坂柳が言った。捨てられた牌を、数えていらっしゃいますね、と。
五日間で、堀北が覚えたのは、役と点数と、牌の数え方だった。
堀北は、今、河ではなく、山を数えていた。
「赤木くん」
堀北が言った。
山から目を離さずに。
「最後の一枚は、あなたよ」
生徒会長の万年筆が、紙から浮いた。
手の中身ではない。誰が山のどこを引くか。卓の上の全員が、数えれば分かることだ。
万年筆は、紙に戻った。
赤木が、山の最後の一枚を見た。
局が始まってから、赤木がその一枚を見たのは、これが初めてだった。
オレの番だった。
また、オレだった。
山を見た。
残りは、七枚だった。
二つ目の槓で、山の尻が、もう一枚、王牌に回った。
表を向いた八萬が、山の最後の一枚になっていた。
七枚を、オレ、坂柳、赤木、堀北、オレ、坂柳、赤木の順に引く。
最後の一枚は、赤木だった。
赤木は、10巡目の八萬を見逃している。
赤木に残っている和了りは、自摸だけだ。
その自摸の、最後の一枚が、表を向いた八萬だった。
海底がつく。
数えは、そこで止まった。
止まった先を、数える必要が無かった。
まだ、誰の手も倒れていない。赤木の待ちも、見ていない。
見ていないのに、山の最後の一枚が、表を向いたまま、赤木の方を向いていた。
東一局から、オレは一度も、局の終わりを先に知ったことが無い。
知らないから、数えてきた。
今は、数えなくても、見えていた。
オレは、自分の指が、卓の縁から浮いているのに気づいた。
いつ浮いたのか、分からなかった。
東一局から、一度も浮かなかった指だった。
息が、一つ、遅れた。
吸うはずのところで、吸っていなかった。
坂柳が、オレの顔を見ていた。
見て、杖に伸ばしかけた手を、途中で止めた。
坂柳の目に映っているものを、オレは知らなかった。
自分の顔が、今、どういう形をしているのか。
生まれて初めて、分からなかった。
赤木が、そこで初めて、オレの顔を見た。
「見えたかい」
低い声だった。
オレは、答えなかった。
答えは、たぶん、もう顔に出ていた。
赤木は、それ以上何も言わなかった。
口の端だけで、笑っていた。
見えたところで、オレにできることは無い。立直している。引いて、切るだけだ。
山から一枚引いた。
五筒なら、オレの和了りだった。
八筒でも。
引いた牌を、指で確かめた。
二萬だった。
入らない。
オレは、それを切った。
東一局から、同じ速さで。
坂柳の手が、止まった。
山に伸びるはずの指が、自分の手牌の上で止まっていた。
坂柳の目が、山の底の八萬と、オレの二萬を、交互に見ていた。
坂柳も、数えていた。
ここで坂柳が山を引かなければ、ツモが一つ飛ぶ。
飛んだ分だけ、山の底の一枚は、赤木の番から外れる。
外れた先は、堀北だった。
見逃した後の赤木は、堀北が切った八萬では和了れない。
坂柳は、手牌から三萬と四萬を抜いた。
抜いた指が、卓の上で一度だけ止まった。
東場の坂柳なら、ここで止まったまま、何もしなかった。
「チー」
二萬の横に、三萬と四萬が並んだ。
坂柳は、赤木の河にある一枚を切った。
通った。
坂柳の指が、切った牌から離れた。
離れてから、坂柳は、赤木の顔を見た。
坂柳の口の端が、上がっていた。
「最後の一枚は、どなたのものでしたかしら」
堀北の言葉を、そのまま赤木に返していた。
「お生憎さまです、赤木くん。海の底は、堀北さんの番になりました」
杖を握る手に、力が戻っていた。
「見逃した八萬に、もう一度会えるとお思いでしたか。……二度目は、ございません」
盤の上で相手の駒を取った時の声だった。
山の底の八萬は、もう赤木の番ではなかった。
坂柳が、自分の手で、赤木の勝ち筋を一本潰した。
赤木の番だった。
赤木は、坂柳の三萬と四萬を、一度だけ見た。
それから、山から一枚引いた。
引いた牌を、手の中に握りつぶした。
坂柳のチーで、ツモが一つずれた。
赤木は、隣の堀北を見た。
堀北が、山の底の八萬を見ていた。
自分の番に回ってきた、赤木の和了れない一枚を。
二つの槓で、自分が運んだ一枚だった。運び終えた一枚を、坂柳に外された一枚だった。
堀北の唇が、きつく結ばれていた。
肩が、少し落ちていた。
「フフ、そっちじゃねえよ、堀北」
堀北の肩が、跳ねた。
「……え?」
山の底の一枚から、目が離れた。
離れた目が、行き場を探して、卓の上をさまよった。
自分の河。赤木の握った手。坂柳の晒した三萬と四萬。どれにも、止まらなかった。
そっちではない。なら、どっちなのか。堀北の顔は、まだその答えを持っていなかった。
堀北は、赤木の方を見た。
赤木は、堀北を見ていなかった。
赤木は、手を開いた。
牌が転がった。
転がった先に、オレの待ちの、山に残っていた最後の一枚があった。
五筒だった。
五筒三枚に、転がした一枚を並べた。
四枚。
オレの待ちの半分が、四枚とも、赤木の前に揃った。
オレの手に残っているのは、八筒だけだった。
坂柳が、自分の前に晒した三萬と四萬を見下ろしていた。
チーを鳴いたのは、坂柳だ。
鳴いて、ツモを一つずらした。
ずらした先に、五筒が落ちた。
坂柳の指が、晒した三萬の上で、動かなくなった。
赤木は、四枚のうち、両端の二枚を伏せた。
「カン」
三度目の槓だった。
一局に、三つ。
生徒会長が、手帳に何かを書きかけて、ペン先を止めた。
立直中の暗槓は、待ちが変わらない時だけ許される。
晒された待ちは、八萬の単騎のまま、変わらない。
止める理由は、ここにも無かった。
赤木は、王牌の端に手を伸ばした。
三枚目の新ドラ表示牌を、表に返した。
四筒。
新しいドラは、五筒だった。
並んだ四枚が、四枚とも、ドラになった。
卓の上の誰も、息をしていなかった。
オレは、並んだドラ表示牌を数えた。
一筒、二索、三萬、四筒。
三索が三枚。四萬が三枚。五筒が四枚。
赤木の晒した手に、十の数が乗っていた。
乗っていても、和了らなければ何も起きない。
赤木の和了り牌は、八萬だけだ。
八萬は、山の底の一枚と、どこかに伏せられている一枚。
山の底の一枚は、もう赤木の番には来ない。
残っているのは、伏せられている一枚だけだった。
どこに伏せられているのかは、誰にも分からない。
嶺上から、一枚引いた。
指先で持ったまま、少しの間、動かなかった。
それから、表を向けて、卓の上に置いた。
見えていなかった方だった。
「ツモ」
開いたままの手の、単騎の八萬の隣に、嶺上の八萬が並んだ。
三索、三索、三索。四萬、四萬、四萬。五索、六索、七索。八萬。その隣に、嶺上の八萬。
赤木の手の一枚。オレが10巡目に切った一枚。山の尻で表を向いたままの一枚。そして、嶺上の一枚。
四枚の八萬が、それで全部、卓の上に出た。
横に、五筒が四枚。
嶺上開花だった。
床で、乾いた音がした。
坂柳の杖だった。
いつの間にか椅子の背から坂柳の手に移っていた杖が、その手から滑り落ちていた。
坂柳は、拾わなかった。
落ちた杖を、見てもいなかった。
赤木の手だけを、見ていた。
堀北だけが、杖の音に振り向かなかった。
倒れた手の端の、嶺上から来た八萬を見ていた。
「……そっち、だったの」
小さな声だった。
それから、長く息を吐いた。
どこから来るのかは、最後まで分からなかった顔だった。来ることだけは、疑っていなかった顔だった。
疑っていない人間でなければ、あの槓は二つも積めない。
その顔を見て、オレは、自分の指がまだ浮いたままなのに気づいた。
生徒会長が、身を乗り出した。
乗り出したまま、しばらく声が出なかった。
それから、読んだ。
「オープン立直。門前清自摸和。嶺上開花。断么九。三暗刻」
声が、一度だけ途切れた。
「新ドラ、三索が三枚。四萬が三枚。五筒が四枚」
万年筆が、紙の上で止まった。
「17翻。……裏は、見るまでもない。数え役満」
赤木が、並んだドラ表示牌を、一度だけ見た。
「フフ……余計なもんが、ずいぶんついたな」
独り言のような声だった。
役満で頭を打つ点に、十翻のドラは要らない。要らないものが、勝手に積み上がっていた。
赤木は、それから、オレと坂柳の方を見た。
「青天井なら、あんたら骨も残らなかったな」
誰も、笑わなかった。
赤木だけが、笑っていた。
「親の役満。16000オール」
生徒会長は、手帳から顔を上げた。
「28700から、32000は出ない」
万年筆が、紙の上を一度だけ走った。
「終局」
卓の上に、誰の手も伸びなかった。
オレは、赤木の倒れた手を見ていた。
八萬の単騎。
10巡目に、オレが切った八萬だった。
和了っていれば、12000。オレたちは、残っていた。
赤木は、それを見送った。見送った瞬間に、赤木に残る和了りは、自摸だけになった。
表の八萬は、坂柳のチーで、堀北の番に移った。
坂柳は、赤木の勝ち筋を、正しく一本潰した。
潰したことで、ツモがずれて、五筒が赤木の手に落ちた。
潰しても、潰さなくても、結果は変わらなかった。
「赤木」
オレは言った。
赤木が、窓の外から目を戻した。
いつの間にか、赤木は椅子の背にもたれて、外を見ていた。
「八萬を、見逃したな」
「ああ」
「和了っていれば、お前は12000を取って、まだ親だった」
赤木は、倒した手を崩さないまま、オレを見た。
「フフ、息の根の残る点は、借りと同じだ」
それだけだった。
オレは、何も言えなかった。
言うための言葉が、どこを探しても無かった。
「堀北の槓は」
オレは、もう一つだけ訊いた。
「お前が、言わせたのか」
「独り言を、聞かれただけだ」
赤木は、隣の堀北を見なかった。
「積んだのは、あいつだ」
堀北が、自分の倒した白と九索に触れた。
八枚の牌の上で、指が震えていた。
震えは、牌に触れてから、止まった。
正しく打つ人間を、正しく打つ限り、赤木は終わらせられない。
だから、12000を見送って、終わらせられる一局を待った。
須藤の一点の頃、オレはこの男を、生存の結果として身についた形だと見立てた。
間違えれば終わる場所で、間違えなかった個体だけが持つ形。
オレの形は、学習と設計でできている。
どちらが強いかは、状況による。あの時、オレはそう結論した。
今日、その状況が来た。
間違えれば終わる卓で、学習と設計は、牌を一枚も外さずに負けた。
見立ては、半分しか当たっていなかった。
あの八萬は、局の始めから、全員に見えていた。
誰でも狙えた一枚だった。オレにも、坂柳にも、堀北にも、山の順は数えられた。
それでも、最後は赤木の番に吸い寄せられた。
運んだのは、堀北だった。
坂柳は、その一枚を赤木の番から外した。
赤木は、その一枚すら要らなかった。嶺上に、もう一枚が待っていた。
どちらでも、勝っていた。
生きるか死ぬかの縁で、どこにドラが乗るかも分からない槓を打つ。普通の人間には、一度もできない。
堀北は、二度やった。
赤木に教わったわけではない。晒された手を見て、足りない、と聞いただけだ。
それだけで、隣に座った人間が、赤木と同じ打ち方を始めた。
赤木は、勝ちを数えない。
数えるのは、自分が死ぬ場所だけだ。
一枚で消える場所を選んで、そこに座る。座ったまま、笑っている。
そこまでなら、ただの狂人だ。
違うのは、その場所に、牌が来ることだ。
来るはずのない牌は、誰かが運んでくる。運ぶ人間まで、赤木の方へ引き寄せられる。
南三局の西。西一局の五筒。西三局のドラ。北一局の、二枚の八萬。
一局なら、偶然と呼べる。
四度起きた偶然を、オレは偶然と呼べない。
呼ぶための言葉を、オレは持っていない。
持っていないものを、人は、天から配られたと言うのだろう。
生き残ってきた形と、天から配られた何か。赤木しげるは、その両方を持って、この卓に座っていた。
オレの立直は、一度だけ、その形を真似ようとした手だったのかもしれない。
真似られなかった。
分からないものを、オレは数えない。
数えないはずのものを、オレは今、数えたいと思っていた。
生まれて初めてだった。
「払いの話をする」
生徒会長が、手帳を閉じた。
閉じてから、少しの間、表紙の上に手を置いたままだった。
「昨日の通りだ。負けた者の退学は、本人が届を出す。受理されるかどうかに、俺は関わらない」
坂柳が、点箱の蓋を閉めた。
閉めてから、顔を上げた。
「……承知しています」
声は、震えていなかった。
「卓を作ったのは私です。作った卓で負けました。払います」
坂柳は、赤木の方を見た。
「とばっちりだと、思われたくありませんから」
赤木は、何も言わなかった。
「綾小路」
「月曜の朝に出します」
言うのに、時間は要らなかった。
ここを出れば、オレの戻る場所は一つしかない。
そこがどういう場所かは、知っている。
知っていて、この卓に座った。
「訊いておく」
生徒会長の声だった。
「昨日、お前は見たいものがあると言った」
「言いました」
「見えたのか」
オレは、赤木を見た。
赤木は、また窓の外を見ていた。
「見えました」
「何が見えた」
生徒会長は、昨日は訊かなかったことを、今日は訊いた。
オレは、少し考えた。
考えて、一番短い答えを探した。
見つからなかった。
「オレは、一度も外しませんでした」
生徒会長は、黙って聞いていた。
「東一局の六筒から、最後の八萬まで。切る前に分かることだけで決めて、決めた通りに切りました。オレの計算では、どの一枚も正しかった。最後の立直だけは、正しくない理由で掛けましたが」
「それで、負けた」
「負けました」
坂柳が、横でオレの顔を見ていた。
堀北も、見ていた。
「オレが育った場所では、正しく打てば、負けないことになっていました。負けるのは、正しく打たなかった者だけでした」
言いながら、自分の声が、いつもと同じ大きさなのを確かめた。
同じだった。
「赤木は、正しくない手を打ちました。確実に取れた八萬を見送って、立直のまま、来るかどうかも分からない一枚を待ちました。堀北は、オレの立直に向かって槓を二つ重ねました。オレの計算では、どちらも負ける手です」
「だが、勝った」
「勝ちました」
オレは、赤木の手の横に並んだ、堀北の白と九索を見た。
「計算の外に、卓がある。その卓では、正しく打つ者が負けることがある。オレは、それを知りませんでした」
生徒会長は、何も言わなかった。
「知らないまま、この学校を出るところでした。知らないまま外へ出れば、オレは一生、正しく打って、一度も負けずに終わったと思います」
「それは、悪いことか」
「分かりません」
オレは言った。
「ただ、外があると知らないまま、正しいと思い続けるのは、盤の上に一人で座っているのと同じです」
坂柳の指が、卓の縁で、一度だけ動いた。
「それが、見たかったものか」
「はい」
「退学と引き換えにしてもか」
「引き換えにしなければ、赤木は卓に座りません」
生徒会長は、長い間、オレを見ていた。
それから、手帳を開き直して、何かを書いた。
何を書いたのかは、見なかった。
「赤木」
生徒会長が言った。
赤木は、窓の外を見たまま答えた。
「なんだ」
「今の話を、聞いていたか」
「聞こえてたな」
「何か、言うことは」
赤木は、窓の外を見たままだった。
「無えよ」
それだけだった。
生徒会長は、手帳を閉じた。
閉じてから、赤木の方を見た。
「赤木。5月8日の、もう半分だ」
赤木が、窓から目を戻した。
「図星だった」
生徒会長は、それだけ言った。
何が図星だったのかは、オレには分からない。
堀北が、兄の顔を見ていた。
赤木には、分かったらしかった。
「フフ、だろうな」
それだけ言って、赤木は倒した手を崩し始めた。
四枚の五筒を、一枚ずつ山に戻していく。
戻す時に、音がしなかった。
オレは、自分の手を崩した。
崩した牌を、山に戻した。
戻す手つきは、東一局と同じだった。
同じ手つきの中で、指が一度だけ、河に残った八萬の上で止まった。
止まった理由を、オレは探さなかった。
探さなくても、分かっていた。
部屋を出る前に、坂柳がオレの前に立った。
杖を、床についていた。
「綾小路くん」
「なんだ」
「西二局の六索は、役に立ちましたか」
「立った」
オレは言った。
「お前がいなければ、あの局で堀北の親の倍満が来ていた。オレたちは、16000を失っていた」
坂柳は、少しだけ目を見開いた。
「……あなたが、そう言ってくださるとは思いませんでした」
「事実だ」
「事実を、あなたが口にしてくださるとは、思いませんでした」
坂柳は、杖の頭を両手で握った。
「私は、今日、あなたの駒でしたか」
「違う」
「では、何でしたか」
オレは、少し考えた。
考えて、正確な言葉を選んだ。
「背中を預けた相手だ」
坂柳は、何も言わなかった。
言わないまま、小さく頭を下げた。
下げた頭を上げた時、坂柳は、笑っていた。
笑う前に、考えていない顔だった。
「それなら、私も組んだかいがありました」
坂柳は、部屋を出ていった。
出ていく時に、杖が床を一度だけ鳴らした。
部屋を出たのは、オレが最後から二番目だった。
廊下に、堀北が立っていた。
鞄を持っていた。
「綾小路くん」
「なんだ」
「昨日の約束よ」
終わった時に、オレがまだこの学校にいたら。
「いる」
「月曜の朝まではね」
堀北は、鞄の持ち手を握り直した。
「怒ってるわ」
「知っている」
「兄のことを売ったことも。坂柳さんに卓を作らせたことも。赤木くんを、ここに座らせたことも」
「ああ」
「全部、怒ってる」
「聞く」
「聞かなくていい」
堀北は、オレの顔を見た。
正面から、見た。
「さっき、兄さんに話していたこと。外がある、って」
「言った」
「あなたは、それを見るために、私たちを全員、卓に乗せたのね」
「そうだ」
「私の兄を懸けて。坂柳さんの学校を懸けて。あなた自身の学校を懸けて」
「そうだ」
堀北は、少しの間、黙っていた。
「最低ね」
「知っている」
「でも」
堀北は、鞄の持ち手を、さらに強く握った。
「私も、見たわ。同じものを」
オレは、堀北を見た。
「南三局で、西を切った時に。逃げた先に、あの人が待っていた時に」
堀北の声が、少しだけ掠れた。
「だから、あなたを許さないけれど、あなたが何を見に来たのかは、分かる」
言って、背中を向けた。
三歩行って、止まった。
振り返らなかった。
「……あなたは、最後まで同じ顔だったわね」
「そうか」
「負けても」
「ああ」
「最後の八萬を見ていた時だけ、少し違ったわ」
オレは、何も言わなかった。
堀北は、それ以上は言わずに歩いていった。
廊下の端で、堀北は階段を下りずに、会議室の扉の方を一度だけ見た。
扉の中には、まだ赤木がいる。
堀北は、戻らなかった。
階段を下りていった。
オレは、しばらく廊下に立っていた。
八萬の手触りが、まだ指に残っていた。
残らないように切ったはずの牌だった。
残っていた。