【完結】アカギ〜実力至上主義の教室に舞い降りた天才〜   作:GC

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第74話「八萬」

退学届の書式は、一枚しかなかった。

 

学年、組、氏名、理由。

 

理由の欄は、三行ぶんの罫線が引いてある。

 

 

 

 

 

卓から戻った日曜の夕方、机の上にその紙を置いて、私は一時間ほど、理由の欄を見ていた。

 

書くことが無いのではなかった。

 

書けば、三行では足りなかった。

 

盤の上のものなら、私は一通りやってきた。チェスも、将棋も、囲碁も。負けた時に、何が悪かったかを言えなかったことは一度も無い。

 

今日の卓も、言える。

 

東場の私は、何もしなかった。

 

赤木くんの河にある牌を順に切って、自分の親を何もせずに流した。

 

休憩の時に、赤木くんに言われた。まだ座っていないのと同じだ、と。

 

南二局で、私は初めて、誰にも分からない牌を一枚切った。黙って待って、堀北さんから12000を取った。

 

出しました、と言った。

 

そうかい、と返された。

 

南四局の五筒。

 

親の倍満を張っていた。和了れば、赤木くんと堀北さんは零を割っていた。先に引いた方が終わらせる局で、先に引いたのは私だった。死ぬ順番が、一つ違っただけだと言われた。

 

西一局の八萬。

 

綾小路くんに差し込みに行って、外した。外した一枚が、赤木くんの親の跳満になった。

 

西二局の六索。

 

今度は、外さなかった。堀北さんの親の倍満を、1300点で消した。

 

西四局の親満。

 

自分で引いて、自分で和了った。

 

西四局の一本場で、私はもう一度、赤木くんに倍満を振り込んだ。

 

北一局では、綾小路くんに差し込む牌を、最後まで持てなかった。

 

16000と18000と16300。

 

私が振り込んだ点は、それだけある。

 

私が取った点も、ある。

 

どちらも、盤の上のものではなかった。

 

最後に私たちの点箱を空にしたのは、赤木くんの自摸と、堀北さんの二つの槓だった。

 

最後の局で、私は振り込んでいない。

 

振り込んでいないのに、私たちの点箱は空になった。

 

それでも、あの卓で私が負けたことに、私は一つも異論が無い。

 

卓を作ったのは、私だ。

 

堀北さんを選び、会長の立場を懸け、赤木くんに何も懸けさせない形を組んだ。

 

空の卓に中身を入れたのは赤木くんだったけれど、入れられた中身を受けると言ったのは、私だった。

 

床の杖を、誰の手も借りずに拾って。

 

とばっちりではない。

 

とばっちりにされるのは、自分の賭けを払えない人間だけだ。

 

理由の欄に、私は一行だけ書いた。

 

「一身上の都合により」

 

それ以外の言葉は、卓の上に置いてきた。

 

 

 

 

 

夕方に、扉が鳴った。

 

「入るよ」

 

返事を待たずに、真澄さんが入ってきた。

 

「いきなり呼び出して、今後はなんなのさ」

 

入ってきて、机の上の紙を見た。

 

見て、足が止まった。

 

「……それ、退学届じゃん」

 

「ええ」

 

「話が全く読めないんだけど、あんた学校辞めんの?」

 

「辞めます。そう約束したので」

 

「意味がわからないんだけど。誰かに言われたの」

 

「いいえ」

 

真澄さんは、扉の前から動かなかった。

 

「じゃあ、出さなきゃいいじゃん」

 

私の顔を見ずに言った。

 

「誰も止めないんでしょ。出さなくたって、誰も何も言えないんでしょ」

 

「おっしゃる通りです」

 

「なら」

 

「出さなければ、私は約束を守らない人間になります」

 

真澄さんが、黙った。

 

「卓の上で交わした約束を、卓の外で破る人間は、二度と卓の前に座れません。座っても、誰も向かいに座りません」

 

「……それ、あんたが困る話?」

 

「私が一番困る話です」

 

真澄さんは、窓の方を見た。

 

窓の外は、もう暗くなりかけていた。

 

「まあ、あたしには、関係ないけど」

 

「ええ。関係のない話です」

 

「相手、誰だったの」

 

「言えません」

 

「負けたんでしょ」

 

「負けました」

 

「あんたが負けるの、初めて見たわ」

 

「見ていないでしょう。あなたはあの部屋にいませんでした」

 

「今、見てる」

 

真澄さんは、ようやく私の顔を見た。

 

見て、それから、机の上の紙に目を落とした。

 

「……悔しくないの」

 

私は、少し考えた。

 

考えて、正直に答えた。

 

「悔しいです」

 

「嘘くさ」

 

「本当です。とても悔しい。一日じゅう、悔しかった」

 

私は、机の端に立てかけた杖に触れた。

 

「それなのに、あの卓に座らなければよかったとは、一度も思っていません」

 

真澄さんは、何も言わなかった。

 

「一つだけ、お伝えしておくことがあります」

 

真澄さんが、こちらを向いた。

 

「四月に、あなたがしたこと。私がそれを見ていたこと」

 

真澄さんの肩が、少しだけ固くなった。

 

この半年、真澄さんを私の横に立たせていたのは、それだった。

 

「あれは、私と一緒にこの学校を出ます」

 

「……は?」

 

「私がいなくなった後で、あれを口にする人間はいません。口にできる人間もいません」

 

真澄さんは、私の顔を見ていた。

 

「……それ、今言う?」

 

「今しか言えませんから」

 

「なんで、今まで放さなかったの」

 

「必要だったからです」

 

「今は、要らないの」

 

「今は、あなたを横に置いておく理由がありません」

 

言ってから、少しだけ言い方を間違えたと思った。

 

間違えたまま、訂正しようとして、やめた。

 

やめてから、やめたことを、もう一度やめた。

 

「……いいえ。言い直します」

 

真澄さんが、眉を上げた。

 

「理由がないのではありません。理由を、私が失いました」

 

「同じじゃん」

 

「違います。あなたは何も変わっていない。私が、あなたを握っておく資格を、今日、卓の上で払いました」

 

真澄さんは、しばらく黙っていた。

 

「……信じていいの、それ」

 

「私が約束を守る人間かどうかは、明日の朝に分かります」

 

真澄さんは、机の上の退学届を見た。

 

見て、それから私を見た。

 

「あんた、最近笑い方が変わったって、言ったよね」

 

「昨日の朝に」

 

「今、笑ってないじゃん」

 

言われて、自分の頬に触れた。

 

笑っていなかった。

 

「そうですね」

 

「前は、笑う前に一回考えてた。今は、笑う前に考えることも無いんだ」

 

「今日の卓で、何度か笑いました」

 

「へえ」

 

「考える前に、笑っていました」

 

真澄さんは、扉の方に歩いていった。

 

扉に手をかけて、振り返らずに言った。

 

「明日の朝、見に行くから」

 

「職員室の前です」

 

「知ってる」

 

扉を開ける前に、真澄さんは一度だけ止まった。

 

「……じゃあね」

 

「ええ」

 

扉が閉まった。

 

半年かけて握っていたものを、手放すのに、十分もかからなかった。

 

手放したものは、もう私の側には何も残さなかった。

 

残さなかったことが、少しだけ嬉しかった。

 

 

 

 

 

日が落ちてから、私は葛城くんを呼び出した。

 

寮の談話室の隅の棚に、牌の箱が一つ、元の場所に戻っていた。会長が借り出して、夕方に返したのだろう。

 

葛城くんは、時間通りに来た。

 

座る前に、私の顔を見た。

 

「神室が来た」

 

「何と」

 

「今日、お前が何かで負けた。負けた結果、お前がこの学校を去る。それだけだ」

 

「十分です」

 

「十分ではない」

 

葛城くんは、座らなかった。

 

「Aクラスのリーダーが、クラスに一言の説明も無く消える。その後始末を、誰がする」

 

「あなたです」

 

葛城くんの眉が、動いた。

 

「お返しします」

 

「……何を」

 

「Aクラスを」

 

私は、杖の頭に手を置いた。

 

「無人島の間、あなたは一人で陣を張った。体育祭では、私の引いた図の通りに並べて、私のいない現場を守った」

 

葛城くんは、黙っていた。

 

「その全部を、私は自分の手柄として数えていました」

 

「知っている」

 

「知っていて、黙っていらした」

 

「黙っていたのではない。言う場が無かった」

 

「では、今が場です」

 

葛城くんは、ようやく椅子を引いた。

 

座って、両手を膝の上に置いた。

 

「……一つ訊く」

 

「どうぞ」

 

「なぜ、自分から出る。退学を強いる権限を持つ者は、この学校にはいないはずだ」

 

「約束をしたからです」

 

「誰と」

 

「卓を囲んだ四人と、見届けた一人と」

 

葛城くんは、しばらく私を見ていた。

 

「お前が、約束のために学校を出るとは思わなかった」

 

「私も、思っていませんでした」

 

「以前のお前なら、約束の文言に穴を探した」

 

「探しました。昨日の夜に」

 

葛城くんの目が、少しだけ動いた。

 

「.....,見つかったか」

 

「いくつか」

 

「なら」

 

「使いませんでした」

 

私は、杖の頭を指でなぞった。

 

「穴を使って残れば、私はこの学校で、一生、あの卓から逃げた人間として座り続けます。誰も知らなくても、私が知っています」

 

葛城くんは、それ以上は訊かなかった。

 

訊かない代わりに、懐から手帳を出して、何かを書き付けた。

 

書き終えてから、顔を上げた。

 

「クラスには、俺から話す。お前の口から話すことは、何かあるか」

 

「ありません」

 

「一つもか」

 

「一つだけ」

 

私は、少し考えた。

 

考えて、一番短いものを選んだ。

 

 

 

「Aクラスで卒業してください」

 

 

 

葛城くんは、頷かなかった。

 

頷かずに、立ち上がった。

 

「それは、お前に言われなくてもやる」

 

扉のところで、葛城くんは一度だけ振り返った。

 

「坂柳」

 

「はい」

 

「お前が負けた相手は、誰だ」

 

私は、答えなかった。

 

答えれば、葛城くんはその名前を数に入れる。数に入れた相手に、いずれ向かっていく。

 

それは、葛城くんがAクラスで卒業するための勘定には、入れない方がいいものだった。

 

「言えないか」

 

「言わない方が、あなたのためです」

 

「……強かったのか」

 

私は、少しだけ笑った。

 

「ええ。とても」

 

少しだけ間を置いて、言い足した。

 

「完膚なきまでに、叩きのめされました」

 

口にしたのは、生まれて初めての言葉だった。

 

葛城くんは、扉に手をかけたまま、しばらく黙っていた。

 

 

 

「体育祭の借り物で、俺を連れて、最後にゴールまで歩いた男がいた」

 

 

 

私は、答えなかった。

 

 

 

「札を見せずに、俺を引っ張り出した。棒が倒れた時に俺が動かなかったのを、ある男だけが見ていた」

 

 

 

葛城くんは、振り返らなかった。

 

「……答えなくていい。思い出しただけだ」

 

扉が、閉まった。

 

葛城くんは、数に入れたのだと思う。

 

入れたうえで、向かっていかない方を選んだ。

 

それも、Aクラスで卒業するための勘定なのだろう。

 

 

 

 

 

寮のロビーに戻ると、自販機の前に赤木くんがいた。

 

缶を一本、手に持っていた。開けていなかった。

 

私に気づいて、顔だけこちらに向けた。

 

「よう」

 

「こんばんは」

 

それだけで済ませて、通り過ぎるつもりだった。

 

足が、止まった。

 

「赤木くん」

 

「なんだ」

 

「5月8日の件を、あなたにお渡ししました」

 

「受け取ったな」

 

「放棄は認めない、と申し上げました。……ですが、私が負けた今、あなたがあれを、まともにお使いになるとは、思っておりません」

 

「そうかい」

 

「ですから、お使いになるかどうかは伺いません。どこに、お捨てになりましたか」

 

赤木くんは、手の中の缶を一度だけ回した。

 

「負けたやつには関係ねえことだ」

 

赤木くんは、缶を開けずに、ポケットに入れた。

 

「あんたに言われる筋合いは、もう無えだろ」

 

「……ええ」

 

その通りだった。

 

私はもう、この人の卓の外にいる。

 

「では、失礼します」

 

言って、一歩だけ歩いた。

 

歩いてから、もう一度止まった。

 

「赤木くん」

 

「まだあんのか」

 

「北一局の八萬を、見逃されましたね」

 

赤木くんは、答えなかった。

 

「晒した手の当たり牌を、全員の目の前で」

 

「そうだな」

 

「和了っていれば、12000。私たちは残っていました」

 

「残ってたな」

 

「なぜ、とは訊きません。綾小路くんが訊いて、あなたが答えていましたから」

 

私は、杖の頭を握った。

 

「別のことを、伺います」

 

「言えよ」

 

「私は、あなたの卓に座れていましたか」

 

赤木くんは、少しの間、私を見ていた。

 

自販機の明かりが、赤木くんの顔の半分だけを照らしていた。

 

「フフ、座ってたさ」

 

「いつから」

 

 

 

「南二局の、索子の真ん中から」

 

 

 

私は、声が出なかった。

 

南二局の4巡目。

 

誰にも分からない牌を、初めて一枚だけ切った。

 

誰も和了らなかった。通っただけの一枚だった。

 

跳満の3巡前の、何も起きなかった一枚。

 

それを、この人は見ていた。

 

「……あれは、何も起きなかった牌です」

 

「起きなかったな」

 

「それでも」

 

赤木くんは、それ以上は何も言わなかった。

 

階段の方へ顔を向けた。

 

私は、何も言えなかった。

 

言えないまま、立っていた。

 

何も起きなかった一枚を、この人は、起きなかったと言っただけだった。

 

良かったとも、悪かったとも言わなかった。

 

言わないまま、覚えていた。

 

階段の方へ歩いていった。

 

私は、その背中が見えなくなるまで、ロビーに立っていた。

 

立ちながら、自分の手を見た。

 

昨日、この手は、床の杖に一度、届かなかった。

 

今日、この手は六索を切った。

 

 

 

 

 

夜更けに、私は一人で盤を出した。

 

チェスの盤だった。

 

駒を並べて、白の手を一つ指した。

 

黒の手を、指せなかった。

 

向かいに誰もいない盤で、黒を持つのは私だ。

 

必ず、私が勝つ盤だ。

 

それなのに、手が動かなかった。

 

今日、北家の席で、私は30回ほど画面で打った麻雀を、四人の卓で打った。

 

最初の局で、私は赤木くんの河にある牌だけを切って、手を捨てた。

 

東三局で萬子が六枚並んで、指が速くなった。自分でそれに気づいて、止めた。

 

休憩の時、私は綾小路くんに、なぜ東四局だけ立直を掛けなかったのかと訊いた。答えは、全部筋が通っていた。

 

筋が通っていて、私には一枚も真似できなかった。

 

真似をやめたのは、南三局の後だった。

 

堀北さんが、綾小路くんから逃げるための西を、赤木くんに切った。

 

同じ財布の中の、2600点。

 

意味が無いと私が言った条件が、局を一つ終わらせた。

 

私は、それを借りた。

 

借りて、一度落として、一度拾った。

 

北一局の始めに、私は自分の山を崩した。

 

肩が、もう上がらなかった。一日じゅう、少し高い卓で牌を取り続けた肩だった。

 

崩れた一山の下の段が、表を向いた。

 

八萬だった。

 

会長は、表のまま戻せと言った。

 

私は、自分の手で、表のまま戻した。

 

戻しながら、数えた。何も起きなければ、あの八萬を引くのは私だった。

 

局の間じゅう、私は、自分の山の尻で表を向いている八萬を見ていた。

 

あれを引いたら、どうするか。

 

赤木くんの晒した手の、当たり牌だった。

 

綾小路くんが切って、赤木くんが、全員の目の前で見逃した牌と、同じ牌だった。

 

私は、それを引いたら、手の中に留めておくつもりだった。

 

理由は、言葉にするまでもなかった。

 

あの一枚だけは、赤木くんの側に渡してはいけなかった。

 

堀北さんの一つ目の槓で、あの八萬は、私の引く牌ではなくなった。

 

綾小路くんの引く牌になった。

 

赤木くんが、足りねえな、と呟いた。

 

私は、手の中の九索を見た。

 

堀北さんの河には、白の槓の後、索子が一枚も無かった。

 

九索を持っているのは、堀北さんかもしれなかった。

 

持っていたら、鳴かれる。鳴かれたら、あの八萬がもう一度動く。

 

どこへ動くのかを、私は数えた。

 

数え終えて、九索を切った。

 

切らずにいることは、できた。

 

手の中の別の一枚を切れば、よかった。

 

それを選ばなかった理由を、私は今も、三行では書けない。

 

赤木くんの隣に座った人が、自分の兄を懸けて、槓を積もうとしている。

 

九索を抱えて、別の一枚を切る。

 

それは、東場の私がしていたことだった。危ない牌を手の中に抱えて、何も起きない場所へ逃げること。

 

堀北さんは、南三局で逃げて、逃げた先で勝負を見ていた。私は、東場の間じゅう、逃げた先で何も見ていなかった。

 

もう、あれには戻らないと決めていた。

 

だから、置いた。

 

私の九索で、あの八萬は、赤木くんの番に回った。

 

最後に、私は綾小路くんの二萬をチーした。

 

ツモを一つ飛ばして、あの八萬を、赤木くんの番から外すために。

 

外せた。

 

外したことで、ツモがずれて、五筒が赤木くんの手に落ちた。

 

赤木くんは、堀北さんに、いらねぇよ、と言った。

 

あの八萬は、最初から要らなかったのだ。

 

とばっちりと呼ぶなら、あれこそがそうだった。

 

私が自分で崩した山と、私が自分で鳴いた二萬の先で、私たちは終わった。

 

誰のとばっちりでもない。

 

北一局の最後に、堀北さんが二度、槓をした。

 

一度目の槓で、綾小路くんの手が高くなったかもしれなかった。

 

二度目の槓の前に、綾小路くんは堀北さんに言った。その九索を鳴けば、オレにもう一度自摸が来る、と。

 

堀北さんは、知ってる、と答えて、鳴いた。

 

私には、あれはできない。

 

今日一日で、私はずいぶん遠くまで来たと思う。

 

それでも、あの二つの槓までは届かなかった。

 

届かなかったものを、私は数えない。

 

数えないはずだった。

 

盤の上の白の駒を、一つ戻した。

 

盤の上のものなら、私は一通りやってきた。

 

今日の卓は、盤の上のものではなかった。

 

牌は山から来る。誰が何を引くかを、誰も決められない。

 

決められないものの上に、赤木くんは自分の退学を乗せた。

 

乗せて、私と綾小路くんの退学を取りに来た。

 

取りに来て、取った。

 

取ったあとで、一度も数えなかった。

 

私は、黒の駒を一つ、自分の方へ引き寄せた。

 

一人でやる盤では、必ず私が勝つ。

 

必ず勝つ盤で、私はもう、何も見られない。

 

私は、盤を片付けた。

 

片付けて、机の上の退学届を、封筒に入れた。

 

封をする前に、一度だけ、理由の欄を読み直した。

 

一身上の都合により。

 

一身上。

 

私一人の身の上。

 

誰のとばっちりでもない、という意味に、今夜は読めた。

 

 

 

 

 

月曜の朝、職員室の前の廊下に、綾小路くんがいた。

 

封筒を一つ、手に持っていた。

 

私と、同じ封筒だった。

 

「おはようございます」

 

「ああ」

 

綾小路くんは、職員室の扉を見ていた。

 

「茶柱先生は、まだですか」

 

「まだだ」

 

「真嶋先生は、中にいらっしゃいました」

 

「そうか」

 

私は、綾小路くんの隣に立った。

 

杖の先が、廊下の床を一度だけ鳴らした。

 

「伺ってもよろしいですか」

 

「なんだ」

 

「昨日の最後の局で、あなたは立直を掛けました」

 

「掛けた」

 

「掛けなくても、あの局で私たちが終わる目は、ほとんどありませんでした」

 

「あの局では、な」

 

「守って流すのが、正しかったのでは」

 

「正しくない」

 

綾小路くんは、職員室の扉から目を離さなかった。

 

「守って流せば、赤木の親が続く。あの男は、終わらせられる一局が来るまで、何局でも待つ。12000を見送ってでも待つ」

 

「……ええ」

 

「待たれたら、いずれ終わる。どんな手を使っても、あそこで勝負をしなければ、どのみち赤木が勝っていた」

 

私は、隣の顔を見た。

 

綾小路くんの横顔は、いつもと同じだった。

 

「掛けた時には、まだそこまで数えきれていなかった。掛けたかったから、掛けた」

 

「掛けたかった」

 

「後から数えたら、掛けるしかない手だった」

 

「あなたが、それを後から数えるとは」

 

「オレも、思っていなかった」

 

綾小路くんは、少しだけ間を置いた。

 

「坂柳。お前も、気づいているだろう」

 

「……何に、ですか」

 

「あの男の座った場所には、牌が来る。来ないはずの牌は、誰かが運んでくる。堀北の槓も、お前のチーも、最後は全部、赤木の方へ流れた」

 

私は、自分の指を見た。

 

二萬を鳴いた指だった。

 

「……ええ。気づいています」

 

「計算で説明のつかないものを、オレは認めたことが無かった」

 

綾小路くんの声は、いつもと同じ大きさだった。

 

「あれは、天から配られたものだ。オレたちが何を積んでも、届かない場所にある」

 

私は、隣の横顔を見た。

 

この人が、誰かを、自分の届かない場所にいると言うのを、初めて聞いた。

 

「あなたが、人をそう呼ぶのですね」

 

「呼ぶしかない」

 

綾小路くんは、扉を見たまま続けた。

 

「お前は、天才は作れるものじゃないと考えているんじゃないか」

 

「……ええ。ずっと、そう考えてきました」

 

作られた側の人間の前で、私はそれを、何度も言葉にしてきた。

 

「あいつは、天才じゃない」

 

私は、隣の横顔を見た。

 

「生まれつきでも、作られたのでもない。間違えれば終わる場所で、生き残ってきた。生き残った分だけ、身についた」

 

綾小路くんは、扉から目を離さなかった。

 

「生き残った天賦だ。お前の言う天才とも、オレとも、違う」

 

「天才なら、安全な卓でも勝てる。あいつは、死ぬ場所でしか勝たない」

 

綾小路くんの声は、少しも揺れなかった。

 

「オレとお前が一生努力しても、辿り着くことはない。生き残ってきた個体だけに許される、特権だ」

 

私は、息を止めた。

 

天才は作れない。私はずっとそう言ってきた。作られた側のこの人は、それを否定も肯定もしなかった。

 

その人が今、天才でも、作られたものでもない、三つ目の形を口にした。

 

私の知っている二つの箱の、どちらにも入らないものを。

 

「……あなたの口から、それを聞くとは思いませんでした」

 

「オレもだ」

 

綾小路くんは、手の中の封筒を持ち替えた。

 

「掛けなければ、オレはあの局を最後まで見ていられなかった」

 

「見ていられなかった」

 

「卓の外から見るのと、卓の上で見るのとでは、見えるものが違う。赤木が、そう言っていた気がする」

 

「赤木くんは、そんなことはおっしゃっていません」

 

「言っていないな」

 

綾小路くんは、少しだけ間を置いた。

 

「あいつは、何も言わない。言わないのに、聞こえる」

 

私は、何も言えなかった。

 

廊下の窓から、朝の光が斜めに入ってきていた。

 

「綾小路くん」

 

「なんだ」

 

「外は、ありましたか」

 

綾小路くんが、ようやく私の方を見た。

 

会長に話していたことを、私も聞いていた。

 

計算の外に、卓がある。

 

「あった」

 

「……そうですか」

 

「お前は」

 

逆に訊かれた。

 

昨日の朝のロビーと、同じだった。

 

「ありました」

 

私は答えた。

 

「一人でやる盤の外に。あなたの盤の外に」

 

「オレの盤の外か」

 

「ええ。あなたの駒でいる間は、見えなかったものが」

 

綾小路くんは、何も言わなかった。

 

言わないまま、少しだけ目を伏せた。

 

「坂柳」

 

「はい」

 

「お前は、自分で座った」

 

土曜日に、同じことを言われた。

 

あの時は、会議室の机の前だった。

 

今は、職員室の前の廊下だった。

 

「ええ」

 

私は答えた。

 

「それだけは、確かです」

 

廊下の端に、人影があった。

 

真澄さんだった。

 

壁に背をつけて、こちらを見ていた。

 

来ると言っていた。

 

来ていた。

 

私は、真澄さんに向けて、小さく頭を下げた。

 

真澄さんは、頷きもしなかった。

 

ただ、目を逸らさずにいた。

 

職員室の扉が、内側から開いた。

 

真嶋先生が、私を見た。

 

私の手の中の封筒を見た。

 

私は、杖を持ち直した。

 

一歩、前に出た。

 

振り返らなかった。

 

振り返れば、綾小路くんがどんな顔をしているかを確かめたくなる。

 

確かめなくても、分かっていた。

 

昨日と、同じ顔だ。

 

最初から、最後まで。

 

あの八萬が赤木くんの番に回った時の顔だけを、除いて。

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