退学届の書式は、一枚しかなかった。
学年、組、氏名、理由。
理由の欄は、三行ぶんの罫線が引いてある。
卓から戻った日曜の夕方、机の上にその紙を置いて、私は一時間ほど、理由の欄を見ていた。
書くことが無いのではなかった。
書けば、三行では足りなかった。
盤の上のものなら、私は一通りやってきた。チェスも、将棋も、囲碁も。負けた時に、何が悪かったかを言えなかったことは一度も無い。
今日の卓も、言える。
東場の私は、何もしなかった。
赤木くんの河にある牌を順に切って、自分の親を何もせずに流した。
休憩の時に、赤木くんに言われた。まだ座っていないのと同じだ、と。
南二局で、私は初めて、誰にも分からない牌を一枚切った。黙って待って、堀北さんから12000を取った。
出しました、と言った。
そうかい、と返された。
南四局の五筒。
親の倍満を張っていた。和了れば、赤木くんと堀北さんは零を割っていた。先に引いた方が終わらせる局で、先に引いたのは私だった。死ぬ順番が、一つ違っただけだと言われた。
西一局の八萬。
綾小路くんに差し込みに行って、外した。外した一枚が、赤木くんの親の跳満になった。
西二局の六索。
今度は、外さなかった。堀北さんの親の倍満を、1300点で消した。
西四局の親満。
自分で引いて、自分で和了った。
西四局の一本場で、私はもう一度、赤木くんに倍満を振り込んだ。
北一局では、綾小路くんに差し込む牌を、最後まで持てなかった。
16000と18000と16300。
私が振り込んだ点は、それだけある。
私が取った点も、ある。
どちらも、盤の上のものではなかった。
最後に私たちの点箱を空にしたのは、赤木くんの自摸と、堀北さんの二つの槓だった。
最後の局で、私は振り込んでいない。
振り込んでいないのに、私たちの点箱は空になった。
それでも、あの卓で私が負けたことに、私は一つも異論が無い。
卓を作ったのは、私だ。
堀北さんを選び、会長の立場を懸け、赤木くんに何も懸けさせない形を組んだ。
空の卓に中身を入れたのは赤木くんだったけれど、入れられた中身を受けると言ったのは、私だった。
床の杖を、誰の手も借りずに拾って。
とばっちりではない。
とばっちりにされるのは、自分の賭けを払えない人間だけだ。
理由の欄に、私は一行だけ書いた。
「一身上の都合により」
それ以外の言葉は、卓の上に置いてきた。
夕方に、扉が鳴った。
「入るよ」
返事を待たずに、真澄さんが入ってきた。
「いきなり呼び出して、今後はなんなのさ」
入ってきて、机の上の紙を見た。
見て、足が止まった。
「……それ、退学届じゃん」
「ええ」
「話が全く読めないんだけど、あんた学校辞めんの?」
「辞めます。そう約束したので」
「意味がわからないんだけど。誰かに言われたの」
「いいえ」
真澄さんは、扉の前から動かなかった。
「じゃあ、出さなきゃいいじゃん」
私の顔を見ずに言った。
「誰も止めないんでしょ。出さなくたって、誰も何も言えないんでしょ」
「おっしゃる通りです」
「なら」
「出さなければ、私は約束を守らない人間になります」
真澄さんが、黙った。
「卓の上で交わした約束を、卓の外で破る人間は、二度と卓の前に座れません。座っても、誰も向かいに座りません」
「……それ、あんたが困る話?」
「私が一番困る話です」
真澄さんは、窓の方を見た。
窓の外は、もう暗くなりかけていた。
「まあ、あたしには、関係ないけど」
「ええ。関係のない話です」
「相手、誰だったの」
「言えません」
「負けたんでしょ」
「負けました」
「あんたが負けるの、初めて見たわ」
「見ていないでしょう。あなたはあの部屋にいませんでした」
「今、見てる」
真澄さんは、ようやく私の顔を見た。
見て、それから、机の上の紙に目を落とした。
「……悔しくないの」
私は、少し考えた。
考えて、正直に答えた。
「悔しいです」
「嘘くさ」
「本当です。とても悔しい。一日じゅう、悔しかった」
私は、机の端に立てかけた杖に触れた。
「それなのに、あの卓に座らなければよかったとは、一度も思っていません」
真澄さんは、何も言わなかった。
「一つだけ、お伝えしておくことがあります」
真澄さんが、こちらを向いた。
「四月に、あなたがしたこと。私がそれを見ていたこと」
真澄さんの肩が、少しだけ固くなった。
この半年、真澄さんを私の横に立たせていたのは、それだった。
「あれは、私と一緒にこの学校を出ます」
「……は?」
「私がいなくなった後で、あれを口にする人間はいません。口にできる人間もいません」
真澄さんは、私の顔を見ていた。
「……それ、今言う?」
「今しか言えませんから」
「なんで、今まで放さなかったの」
「必要だったからです」
「今は、要らないの」
「今は、あなたを横に置いておく理由がありません」
言ってから、少しだけ言い方を間違えたと思った。
間違えたまま、訂正しようとして、やめた。
やめてから、やめたことを、もう一度やめた。
「……いいえ。言い直します」
真澄さんが、眉を上げた。
「理由がないのではありません。理由を、私が失いました」
「同じじゃん」
「違います。あなたは何も変わっていない。私が、あなたを握っておく資格を、今日、卓の上で払いました」
真澄さんは、しばらく黙っていた。
「……信じていいの、それ」
「私が約束を守る人間かどうかは、明日の朝に分かります」
真澄さんは、机の上の退学届を見た。
見て、それから私を見た。
「あんた、最近笑い方が変わったって、言ったよね」
「昨日の朝に」
「今、笑ってないじゃん」
言われて、自分の頬に触れた。
笑っていなかった。
「そうですね」
「前は、笑う前に一回考えてた。今は、笑う前に考えることも無いんだ」
「今日の卓で、何度か笑いました」
「へえ」
「考える前に、笑っていました」
真澄さんは、扉の方に歩いていった。
扉に手をかけて、振り返らずに言った。
「明日の朝、見に行くから」
「職員室の前です」
「知ってる」
扉を開ける前に、真澄さんは一度だけ止まった。
「……じゃあね」
「ええ」
扉が閉まった。
半年かけて握っていたものを、手放すのに、十分もかからなかった。
手放したものは、もう私の側には何も残さなかった。
残さなかったことが、少しだけ嬉しかった。
日が落ちてから、私は葛城くんを呼び出した。
寮の談話室の隅の棚に、牌の箱が一つ、元の場所に戻っていた。会長が借り出して、夕方に返したのだろう。
葛城くんは、時間通りに来た。
座る前に、私の顔を見た。
「神室が来た」
「何と」
「今日、お前が何かで負けた。負けた結果、お前がこの学校を去る。それだけだ」
「十分です」
「十分ではない」
葛城くんは、座らなかった。
「Aクラスのリーダーが、クラスに一言の説明も無く消える。その後始末を、誰がする」
「あなたです」
葛城くんの眉が、動いた。
「お返しします」
「……何を」
「Aクラスを」
私は、杖の頭に手を置いた。
「無人島の間、あなたは一人で陣を張った。体育祭では、私の引いた図の通りに並べて、私のいない現場を守った」
葛城くんは、黙っていた。
「その全部を、私は自分の手柄として数えていました」
「知っている」
「知っていて、黙っていらした」
「黙っていたのではない。言う場が無かった」
「では、今が場です」
葛城くんは、ようやく椅子を引いた。
座って、両手を膝の上に置いた。
「……一つ訊く」
「どうぞ」
「なぜ、自分から出る。退学を強いる権限を持つ者は、この学校にはいないはずだ」
「約束をしたからです」
「誰と」
「卓を囲んだ四人と、見届けた一人と」
葛城くんは、しばらく私を見ていた。
「お前が、約束のために学校を出るとは思わなかった」
「私も、思っていませんでした」
「以前のお前なら、約束の文言に穴を探した」
「探しました。昨日の夜に」
葛城くんの目が、少しだけ動いた。
「.....,見つかったか」
「いくつか」
「なら」
「使いませんでした」
私は、杖の頭を指でなぞった。
「穴を使って残れば、私はこの学校で、一生、あの卓から逃げた人間として座り続けます。誰も知らなくても、私が知っています」
葛城くんは、それ以上は訊かなかった。
訊かない代わりに、懐から手帳を出して、何かを書き付けた。
書き終えてから、顔を上げた。
「クラスには、俺から話す。お前の口から話すことは、何かあるか」
「ありません」
「一つもか」
「一つだけ」
私は、少し考えた。
考えて、一番短いものを選んだ。
「Aクラスで卒業してください」
葛城くんは、頷かなかった。
頷かずに、立ち上がった。
「それは、お前に言われなくてもやる」
扉のところで、葛城くんは一度だけ振り返った。
「坂柳」
「はい」
「お前が負けた相手は、誰だ」
私は、答えなかった。
答えれば、葛城くんはその名前を数に入れる。数に入れた相手に、いずれ向かっていく。
それは、葛城くんがAクラスで卒業するための勘定には、入れない方がいいものだった。
「言えないか」
「言わない方が、あなたのためです」
「……強かったのか」
私は、少しだけ笑った。
「ええ。とても」
少しだけ間を置いて、言い足した。
「完膚なきまでに、叩きのめされました」
口にしたのは、生まれて初めての言葉だった。
葛城くんは、扉に手をかけたまま、しばらく黙っていた。
「体育祭の借り物で、俺を連れて、最後にゴールまで歩いた男がいた」
私は、答えなかった。
「札を見せずに、俺を引っ張り出した。棒が倒れた時に俺が動かなかったのを、ある男だけが見ていた」
葛城くんは、振り返らなかった。
「……答えなくていい。思い出しただけだ」
扉が、閉まった。
葛城くんは、数に入れたのだと思う。
入れたうえで、向かっていかない方を選んだ。
それも、Aクラスで卒業するための勘定なのだろう。
寮のロビーに戻ると、自販機の前に赤木くんがいた。
缶を一本、手に持っていた。開けていなかった。
私に気づいて、顔だけこちらに向けた。
「よう」
「こんばんは」
それだけで済ませて、通り過ぎるつもりだった。
足が、止まった。
「赤木くん」
「なんだ」
「5月8日の件を、あなたにお渡ししました」
「受け取ったな」
「放棄は認めない、と申し上げました。……ですが、私が負けた今、あなたがあれを、まともにお使いになるとは、思っておりません」
「そうかい」
「ですから、お使いになるかどうかは伺いません。どこに、お捨てになりましたか」
赤木くんは、手の中の缶を一度だけ回した。
「負けたやつには関係ねえことだ」
赤木くんは、缶を開けずに、ポケットに入れた。
「あんたに言われる筋合いは、もう無えだろ」
「……ええ」
その通りだった。
私はもう、この人の卓の外にいる。
「では、失礼します」
言って、一歩だけ歩いた。
歩いてから、もう一度止まった。
「赤木くん」
「まだあんのか」
「北一局の八萬を、見逃されましたね」
赤木くんは、答えなかった。
「晒した手の当たり牌を、全員の目の前で」
「そうだな」
「和了っていれば、12000。私たちは残っていました」
「残ってたな」
「なぜ、とは訊きません。綾小路くんが訊いて、あなたが答えていましたから」
私は、杖の頭を握った。
「別のことを、伺います」
「言えよ」
「私は、あなたの卓に座れていましたか」
赤木くんは、少しの間、私を見ていた。
自販機の明かりが、赤木くんの顔の半分だけを照らしていた。
「フフ、座ってたさ」
「いつから」
「南二局の、索子の真ん中から」
私は、声が出なかった。
南二局の4巡目。
誰にも分からない牌を、初めて一枚だけ切った。
誰も和了らなかった。通っただけの一枚だった。
跳満の3巡前の、何も起きなかった一枚。
それを、この人は見ていた。
「……あれは、何も起きなかった牌です」
「起きなかったな」
「それでも」
赤木くんは、それ以上は何も言わなかった。
階段の方へ顔を向けた。
私は、何も言えなかった。
言えないまま、立っていた。
何も起きなかった一枚を、この人は、起きなかったと言っただけだった。
良かったとも、悪かったとも言わなかった。
言わないまま、覚えていた。
階段の方へ歩いていった。
私は、その背中が見えなくなるまで、ロビーに立っていた。
立ちながら、自分の手を見た。
昨日、この手は、床の杖に一度、届かなかった。
今日、この手は六索を切った。
夜更けに、私は一人で盤を出した。
チェスの盤だった。
駒を並べて、白の手を一つ指した。
黒の手を、指せなかった。
向かいに誰もいない盤で、黒を持つのは私だ。
必ず、私が勝つ盤だ。
それなのに、手が動かなかった。
今日、北家の席で、私は30回ほど画面で打った麻雀を、四人の卓で打った。
最初の局で、私は赤木くんの河にある牌だけを切って、手を捨てた。
東三局で萬子が六枚並んで、指が速くなった。自分でそれに気づいて、止めた。
休憩の時、私は綾小路くんに、なぜ東四局だけ立直を掛けなかったのかと訊いた。答えは、全部筋が通っていた。
筋が通っていて、私には一枚も真似できなかった。
真似をやめたのは、南三局の後だった。
堀北さんが、綾小路くんから逃げるための西を、赤木くんに切った。
同じ財布の中の、2600点。
意味が無いと私が言った条件が、局を一つ終わらせた。
私は、それを借りた。
借りて、一度落として、一度拾った。
北一局の始めに、私は自分の山を崩した。
肩が、もう上がらなかった。一日じゅう、少し高い卓で牌を取り続けた肩だった。
崩れた一山の下の段が、表を向いた。
八萬だった。
会長は、表のまま戻せと言った。
私は、自分の手で、表のまま戻した。
戻しながら、数えた。何も起きなければ、あの八萬を引くのは私だった。
局の間じゅう、私は、自分の山の尻で表を向いている八萬を見ていた。
あれを引いたら、どうするか。
赤木くんの晒した手の、当たり牌だった。
綾小路くんが切って、赤木くんが、全員の目の前で見逃した牌と、同じ牌だった。
私は、それを引いたら、手の中に留めておくつもりだった。
理由は、言葉にするまでもなかった。
あの一枚だけは、赤木くんの側に渡してはいけなかった。
堀北さんの一つ目の槓で、あの八萬は、私の引く牌ではなくなった。
綾小路くんの引く牌になった。
赤木くんが、足りねえな、と呟いた。
私は、手の中の九索を見た。
堀北さんの河には、白の槓の後、索子が一枚も無かった。
九索を持っているのは、堀北さんかもしれなかった。
持っていたら、鳴かれる。鳴かれたら、あの八萬がもう一度動く。
どこへ動くのかを、私は数えた。
数え終えて、九索を切った。
切らずにいることは、できた。
手の中の別の一枚を切れば、よかった。
それを選ばなかった理由を、私は今も、三行では書けない。
赤木くんの隣に座った人が、自分の兄を懸けて、槓を積もうとしている。
九索を抱えて、別の一枚を切る。
それは、東場の私がしていたことだった。危ない牌を手の中に抱えて、何も起きない場所へ逃げること。
堀北さんは、南三局で逃げて、逃げた先で勝負を見ていた。私は、東場の間じゅう、逃げた先で何も見ていなかった。
もう、あれには戻らないと決めていた。
だから、置いた。
私の九索で、あの八萬は、赤木くんの番に回った。
最後に、私は綾小路くんの二萬をチーした。
ツモを一つ飛ばして、あの八萬を、赤木くんの番から外すために。
外せた。
外したことで、ツモがずれて、五筒が赤木くんの手に落ちた。
赤木くんは、堀北さんに、いらねぇよ、と言った。
あの八萬は、最初から要らなかったのだ。
とばっちりと呼ぶなら、あれこそがそうだった。
私が自分で崩した山と、私が自分で鳴いた二萬の先で、私たちは終わった。
誰のとばっちりでもない。
北一局の最後に、堀北さんが二度、槓をした。
一度目の槓で、綾小路くんの手が高くなったかもしれなかった。
二度目の槓の前に、綾小路くんは堀北さんに言った。その九索を鳴けば、オレにもう一度自摸が来る、と。
堀北さんは、知ってる、と答えて、鳴いた。
私には、あれはできない。
今日一日で、私はずいぶん遠くまで来たと思う。
それでも、あの二つの槓までは届かなかった。
届かなかったものを、私は数えない。
数えないはずだった。
盤の上の白の駒を、一つ戻した。
盤の上のものなら、私は一通りやってきた。
今日の卓は、盤の上のものではなかった。
牌は山から来る。誰が何を引くかを、誰も決められない。
決められないものの上に、赤木くんは自分の退学を乗せた。
乗せて、私と綾小路くんの退学を取りに来た。
取りに来て、取った。
取ったあとで、一度も数えなかった。
私は、黒の駒を一つ、自分の方へ引き寄せた。
一人でやる盤では、必ず私が勝つ。
必ず勝つ盤で、私はもう、何も見られない。
私は、盤を片付けた。
片付けて、机の上の退学届を、封筒に入れた。
封をする前に、一度だけ、理由の欄を読み直した。
一身上の都合により。
一身上。
私一人の身の上。
誰のとばっちりでもない、という意味に、今夜は読めた。
月曜の朝、職員室の前の廊下に、綾小路くんがいた。
封筒を一つ、手に持っていた。
私と、同じ封筒だった。
「おはようございます」
「ああ」
綾小路くんは、職員室の扉を見ていた。
「茶柱先生は、まだですか」
「まだだ」
「真嶋先生は、中にいらっしゃいました」
「そうか」
私は、綾小路くんの隣に立った。
杖の先が、廊下の床を一度だけ鳴らした。
「伺ってもよろしいですか」
「なんだ」
「昨日の最後の局で、あなたは立直を掛けました」
「掛けた」
「掛けなくても、あの局で私たちが終わる目は、ほとんどありませんでした」
「あの局では、な」
「守って流すのが、正しかったのでは」
「正しくない」
綾小路くんは、職員室の扉から目を離さなかった。
「守って流せば、赤木の親が続く。あの男は、終わらせられる一局が来るまで、何局でも待つ。12000を見送ってでも待つ」
「……ええ」
「待たれたら、いずれ終わる。どんな手を使っても、あそこで勝負をしなければ、どのみち赤木が勝っていた」
私は、隣の顔を見た。
綾小路くんの横顔は、いつもと同じだった。
「掛けた時には、まだそこまで数えきれていなかった。掛けたかったから、掛けた」
「掛けたかった」
「後から数えたら、掛けるしかない手だった」
「あなたが、それを後から数えるとは」
「オレも、思っていなかった」
綾小路くんは、少しだけ間を置いた。
「坂柳。お前も、気づいているだろう」
「……何に、ですか」
「あの男の座った場所には、牌が来る。来ないはずの牌は、誰かが運んでくる。堀北の槓も、お前のチーも、最後は全部、赤木の方へ流れた」
私は、自分の指を見た。
二萬を鳴いた指だった。
「……ええ。気づいています」
「計算で説明のつかないものを、オレは認めたことが無かった」
綾小路くんの声は、いつもと同じ大きさだった。
「あれは、天から配られたものだ。オレたちが何を積んでも、届かない場所にある」
私は、隣の横顔を見た。
この人が、誰かを、自分の届かない場所にいると言うのを、初めて聞いた。
「あなたが、人をそう呼ぶのですね」
「呼ぶしかない」
綾小路くんは、扉を見たまま続けた。
「お前は、天才は作れるものじゃないと考えているんじゃないか」
「……ええ。ずっと、そう考えてきました」
作られた側の人間の前で、私はそれを、何度も言葉にしてきた。
「あいつは、天才じゃない」
私は、隣の横顔を見た。
「生まれつきでも、作られたのでもない。間違えれば終わる場所で、生き残ってきた。生き残った分だけ、身についた」
綾小路くんは、扉から目を離さなかった。
「生き残った天賦だ。お前の言う天才とも、オレとも、違う」
「天才なら、安全な卓でも勝てる。あいつは、死ぬ場所でしか勝たない」
綾小路くんの声は、少しも揺れなかった。
「オレとお前が一生努力しても、辿り着くことはない。生き残ってきた者だけに許される、特権だ」
私は、息を止めた。
天才は作れない。私はずっとそう言ってきた。作られた側のこの人は、それを否定も肯定もしなかった。
その人が今、天才でも、作られたものでもない、三つ目の形を口にした。
私の知っている二つの箱の、どちらにも入らないものを。
「……あなたの口から、それを聞くとは思いませんでした」
「オレもだ」
綾小路くんは、手の中の封筒を持ち替えた。
「掛けなければ、オレはあの局を最後まで見ていられなかった」
「見ていられなかった」
「卓の外から見るのと、卓の上で見るのとでは、見えるものが違う。赤木が、そう言っていた気がする」
「赤木くんは、そんなことはおっしゃっていません」
「言っていないな」
綾小路くんは、少しだけ間を置いた。
「あいつは、何も言わない。言わないのに、聞こえる」
私は、何も言えなかった。
廊下の窓から、朝の光が斜めに入ってきていた。
「綾小路くん」
「なんだ」
「外は、ありましたか」
綾小路くんが、ようやく私の方を見た。
会長に話していたことを、私も聞いていた。
計算の外に、卓がある。
「あった」
「……そうですか」
「お前は」
逆に訊かれた。
昨日の朝のロビーと、同じだった。
「ありました」
私は答えた。
「一人でやる盤の外に。あなたの盤の外に」
「オレの盤の外か」
「ええ。あなたの駒でいる間は、見えなかったものが」
綾小路くんは、何も言わなかった。
言わないまま、少しだけ目を伏せた。
「坂柳」
「はい」
「お前は、自分で座った」
土曜日に、同じことを言われた。
あの時は、会議室の机の前だった。
今は、職員室の前の廊下だった。
「ええ」
私は答えた。
「それだけは、確かです」
廊下の端に、人影があった。
真澄さんだった。
壁に背をつけて、こちらを見ていた。
来ると言っていた。
来ていた。
私は、真澄さんに向けて、小さく頭を下げた。
真澄さんは、頷きもしなかった。
ただ、目を逸らさずにいた。
職員室の扉が、内側から開いた。
真嶋先生が、私を見た。
私の手の中の封筒を見た。
私は、杖を持ち直した。
一歩、前に出た。
振り返らなかった。
振り返れば、綾小路くんがどんな顔をしているかを確かめたくなる。
確かめなくても、分かっていた。
昨日と、同じ顔だ。
最初から、最後まで。
あの八萬が赤木くんの番に回った時の顔だけを、除いて。