アカギ〜実力至上主義の教室に舞い降りた天才〜   作:GC

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第74話「八萬」

退学届の書式は、一枚しかなかった。

 

学年、組、氏名、理由。

 

理由の欄は、三行ぶんの罫線が引いてある。

 

 

 

 

 

卓から戻った日曜の夕方、机の上にその紙を置いて、私は一時間ほど、理由の欄を見ていた。

 

書くことが無いのではなかった。

 

書けば、三行では足りなかった。

 

盤の上のものなら、私は一通りやってきた。チェスも、将棋も、囲碁も。負けた時に、何が悪かったかを言えなかったことは一度も無い。

 

今日の卓も、言える。

 

東場の私は、何もしなかった。

 

赤木くんの河にある牌を順に切って、自分の親を何もせずに流した。

 

休憩の時に、赤木くんに言われた。まだ座っていないのと同じだ、と。

 

南二局で、私は初めて、誰にも分からない牌を一枚切った。黙って待って、堀北さんから12000を取った。

 

出しました、と言った。

 

そうかい、と返された。

 

南四局の五筒。

 

親の倍満を張っていた。和了れば、赤木くんと堀北さんは零を割っていた。先に引いた方が終わらせる局で、先に引いたのは私だった。死ぬ順番が、一つ違っただけだと言われた。

 

西一局の八萬。

 

綾小路くんに差し込みに行って、外した。外した一枚が、赤木くんの親の跳満になった。

 

西二局の六索。

 

今度は、外さなかった。堀北さんの親の倍満を、1300点で消した。

 

西四局の親満。

 

自分で引いて、自分で和了った。

 

西四局の一本場で、私はもう一度、赤木くんに倍満を振り込んだ。

 

北一局では、綾小路くんに差し込む牌を、最後まで持てなかった。

 

16000と18000と16300。

 

私が振り込んだ点は、それだけある。

 

私が取った点も、ある。

 

どちらも、盤の上のものではなかった。

 

最後に私たちの点箱を空にしたのは、赤木くんの自摸と、堀北さんの二つの槓だった。

 

最後の局で、私は振り込んでいない。

 

振り込んでいないのに、私たちの点箱は空になった。

 

それでも、あの卓で私が負けたことに、私は一つも異論が無い。

 

卓を作ったのは、私だ。

 

堀北さんを選び、会長の立場を懸け、赤木くんに何も懸けさせない形を組んだ。

 

空の卓に中身を入れたのは赤木くんだったけれど、入れられた中身を受けると言ったのは、私だった。

 

床の杖を、誰の手も借りずに拾って。

 

とばっちりではない。

 

とばっちりにされるのは、自分の賭けを払えない人間だけだ。

 

理由の欄に、私は一行だけ書いた。

 

「一身上の都合により」

 

それ以外の言葉は、卓の上に置いてきた。

 

 

 

 

 

夕方に、扉が鳴った。

 

「入るよ」

 

返事を待たずに、真澄さんが入ってきた。

 

「いきなり呼び出して、今後はなんなのさ」

 

入ってきて、机の上の紙を見た。

 

見て、足が止まった。

 

「……それ、退学届じゃん」

 

「ええ」

 

「話が全く読めないんだけど、あんた学校辞めんの?」

 

「辞めます。そう約束したので」

 

「意味がわからないんだけど。誰かに言われたの」

 

「いいえ」

 

真澄さんは、扉の前から動かなかった。

 

「じゃあ、出さなきゃいいじゃん」

 

私の顔を見ずに言った。

 

「誰も止めないんでしょ。出さなくたって、誰も何も言えないんでしょ」

 

「おっしゃる通りです」

 

「なら」

 

「出さなければ、私は約束を守らない人間になります」

 

真澄さんが、黙った。

 

「卓の上で交わした約束を、卓の外で破る人間は、二度と卓の前に座れません。座っても、誰も向かいに座りません」

 

「……それ、あんたが困る話?」

 

「私が一番困る話です」

 

真澄さんは、窓の方を見た。

 

窓の外は、もう暗くなりかけていた。

 

「まあ、あたしには、関係ないけど」

 

「ええ。関係のない話です」

 

「相手、誰だったの」

 

「言えません」

 

「負けたんでしょ」

 

「負けました」

 

「あんたが負けるの、初めて見たわ」

 

「見ていないでしょう。あなたはあの部屋にいませんでした」

 

「今、見てる」

 

真澄さんは、ようやく私の顔を見た。

 

見て、それから、机の上の紙に目を落とした。

 

「……悔しくないの」

 

私は、少し考えた。

 

考えて、正直に答えた。

 

「悔しいです」

 

「嘘くさ」

 

「本当です。とても悔しい。一日じゅう、悔しかった」

 

私は、机の端に立てかけた杖に触れた。

 

「それなのに、あの卓に座らなければよかったとは、一度も思っていません」

 

真澄さんは、何も言わなかった。

 

「一つだけ、お伝えしておくことがあります」

 

真澄さんが、こちらを向いた。

 

「四月に、あなたがしたこと。私がそれを見ていたこと」

 

真澄さんの肩が、少しだけ固くなった。

 

この半年、真澄さんを私の横に立たせていたのは、それだった。

 

「あれは、私と一緒にこの学校を出ます」

 

「……は?」

 

「私がいなくなった後で、あれを口にする人間はいません。口にできる人間もいません」

 

真澄さんは、私の顔を見ていた。

 

「……それ、今言う?」

 

「今しか言えませんから」

 

「なんで、今まで放さなかったの」

 

「必要だったからです」

 

「今は、要らないの」

 

「今は、あなたを横に置いておく理由がありません」

 

言ってから、少しだけ言い方を間違えたと思った。

 

間違えたまま、訂正しようとして、やめた。

 

やめてから、やめたことを、もう一度やめた。

 

「……いいえ。言い直します」

 

真澄さんが、眉を上げた。

 

「理由がないのではありません。理由を、私が失いました」

 

「同じじゃん」

 

「違います。あなたは何も変わっていない。私が、あなたを握っておく資格を、今日、卓の上で払いました」

 

真澄さんは、しばらく黙っていた。

 

「……信じていいの、それ」

 

「私が約束を守る人間かどうかは、明日の朝に分かります」

 

真澄さんは、机の上の退学届を見た。

 

見て、それから私を見た。

 

「あんた、最近笑い方が変わったって、言ったよね」

 

「昨日の朝に」

 

「今、笑ってないじゃん」

 

言われて、自分の頬に触れた。

 

笑っていなかった。

 

「そうですね」

 

「前は、笑う前に一回考えてた。今は、笑う前に考えることも無いんだ」

 

「今日の卓で、何度か笑いました」

 

「へえ」

 

「考える前に、笑っていました」

 

真澄さんは、扉の方に歩いていった。

 

扉に手をかけて、振り返らずに言った。

 

「明日の朝、見に行くから」

 

「職員室の前です」

 

「知ってる」

 

扉を開ける前に、真澄さんは一度だけ止まった。

 

「……じゃあね」

 

「ええ」

 

扉が閉まった。

 

半年かけて握っていたものを、手放すのに、十分もかからなかった。

 

手放したものは、もう私の側には何も残さなかった。

 

残さなかったことが、少しだけ嬉しかった。

 

 

 

 

 

日が落ちてから、私は葛城くんを呼び出した。

 

寮の談話室の隅の棚に、牌の箱が一つ、元の場所に戻っていた。会長が借り出して、夕方に返したのだろう。

 

葛城くんは、時間通りに来た。

 

座る前に、私の顔を見た。

 

「神室が来た」

 

「何と」

 

「今日、お前が何かで負けた。負けた結果、お前がこの学校を去る。それだけだ」

 

「十分です」

 

「十分ではない」

 

葛城くんは、座らなかった。

 

「Aクラスのリーダーが、クラスに一言の説明も無く消える。その後始末を、誰がする」

 

「あなたです」

 

葛城くんの眉が、動いた。

 

「お返しします」

 

「……何を」

 

「Aクラスを」

 

私は、杖の頭に手を置いた。

 

「無人島の間、あなたは一人で陣を張った。体育祭では、私の引いた図の通りに並べて、私のいない現場を守った」

 

葛城くんは、黙っていた。

 

「その全部を、私は自分の手柄として数えていました」

 

「知っている」

 

「知っていて、黙っていらした」

 

「黙っていたのではない。言う場が無かった」

 

「では、今が場です」

 

葛城くんは、ようやく椅子を引いた。

 

座って、両手を膝の上に置いた。

 

「……一つ訊く」

 

「どうぞ」

 

「なぜ、自分から出る。退学を強いる権限を持つ者は、この学校にはいないはずだ」

 

「約束をしたからです」

 

「誰と」

 

「卓を囲んだ四人と、見届けた一人と」

 

葛城くんは、しばらく私を見ていた。

 

「お前が、約束のために学校を出るとは思わなかった」

 

「私も、思っていませんでした」

 

「以前のお前なら、約束の文言に穴を探した」

 

「探しました。昨日の夜に」

 

葛城くんの目が、少しだけ動いた。

 

「.....,見つかったか」

 

「いくつか」

 

「なら」

 

「使いませんでした」

 

私は、杖の頭を指でなぞった。

 

「穴を使って残れば、私はこの学校で、一生、あの卓から逃げた人間として座り続けます。誰も知らなくても、私が知っています」

 

葛城くんは、それ以上は訊かなかった。

 

訊かない代わりに、懐から手帳を出して、何かを書き付けた。

 

書き終えてから、顔を上げた。

 

「クラスには、俺から話す。お前の口から話すことは、何かあるか」

 

「ありません」

 

「一つもか」

 

「一つだけ」

 

私は、少し考えた。

 

考えて、一番短いものを選んだ。

 

 

 

「Aクラスで卒業してください」

 

 

 

葛城くんは、頷かなかった。

 

頷かずに、立ち上がった。

 

「それは、お前に言われなくてもやる」

 

扉のところで、葛城くんは一度だけ振り返った。

 

「坂柳」

 

「はい」

 

「お前が負けた相手は、誰だ」

 

私は、答えなかった。

 

答えれば、葛城くんはその名前を数に入れる。数に入れた相手に、いずれ向かっていく。

 

それは、葛城くんがAクラスで卒業するための勘定には、入れない方がいいものだった。

 

「言えないか」

 

「言わない方が、あなたのためです」

 

「……強かったのか」

 

私は、少しだけ笑った。

 

「ええ。とても」

 

少しだけ間を置いて、言い足した。

 

「完膚なきまでに、叩きのめされました」

 

口にしたのは、生まれて初めての言葉だった。

 

葛城くんは、扉に手をかけたまま、しばらく黙っていた。

 

 

 

「体育祭の借り物で、俺を連れて、最後にゴールまで歩いた男がいた」

 

 

 

私は、答えなかった。

 

 

 

「札を見せずに、俺を引っ張り出した。棒が倒れた時に俺が動かなかったのを、ある男だけが見ていた」

 

 

 

葛城くんは、振り返らなかった。

 

「……答えなくていい。思い出しただけだ」

 

扉が、閉まった。

 

葛城くんは、数に入れたのだと思う。

 

入れたうえで、向かっていかない方を選んだ。

 

それも、Aクラスで卒業するための勘定なのだろう。

 

 

 

 

 

寮のロビーに戻ると、自販機の前に赤木くんがいた。

 

缶を一本、手に持っていた。開けていなかった。

 

私に気づいて、顔だけこちらに向けた。

 

「よう」

 

「こんばんは」

 

それだけで済ませて、通り過ぎるつもりだった。

 

足が、止まった。

 

「赤木くん」

 

「なんだ」

 

「5月8日の件を、あなたにお渡ししました」

 

「受け取ったな」

 

「放棄は認めない、と申し上げました。……ですが、私が負けた今、あなたがあれを、まともにお使いになるとは、思っておりません」

 

「そうかい」

 

「ですから、お使いになるかどうかは伺いません。どこに、お捨てになりましたか」

 

赤木くんは、手の中の缶を一度だけ回した。

 

「負けたやつには関係ねえことだ」

 

赤木くんは、缶を開けずに、ポケットに入れた。

 

「あんたに言われる筋合いは、もう無えだろ」

 

「……ええ」

 

その通りだった。

 

私はもう、この人の卓の外にいる。

 

「では、失礼します」

 

言って、一歩だけ歩いた。

 

歩いてから、もう一度止まった。

 

「赤木くん」

 

「まだあんのか」

 

「北一局の八萬を、見逃されましたね」

 

赤木くんは、答えなかった。

 

「晒した手の当たり牌を、全員の目の前で」

 

「そうだな」

 

「和了っていれば、12000。私たちは残っていました」

 

「残ってたな」

 

「なぜ、とは訊きません。綾小路くんが訊いて、あなたが答えていましたから」

 

私は、杖の頭を握った。

 

「別のことを、伺います」

 

「言えよ」

 

「私は、あなたの卓に座れていましたか」

 

赤木くんは、少しの間、私を見ていた。

 

自販機の明かりが、赤木くんの顔の半分だけを照らしていた。

 

「フフ、座ってたさ」

 

「いつから」

 

 

 

「南二局の、索子の真ん中から」

 

 

 

私は、声が出なかった。

 

南二局の4巡目。

 

誰にも分からない牌を、初めて一枚だけ切った。

 

誰も和了らなかった。通っただけの一枚だった。

 

跳満の3巡前の、何も起きなかった一枚。

 

それを、この人は見ていた。

 

「……あれは、何も起きなかった牌です」

 

「起きなかったな」

 

「それでも」

 

赤木くんは、それ以上は何も言わなかった。

 

階段の方へ顔を向けた。

 

私は、何も言えなかった。

 

言えないまま、立っていた。

 

何も起きなかった一枚を、この人は、起きなかったと言っただけだった。

 

良かったとも、悪かったとも言わなかった。

 

言わないまま、覚えていた。

 

階段の方へ歩いていった。

 

私は、その背中が見えなくなるまで、ロビーに立っていた。

 

立ちながら、自分の手を見た。

 

昨日、この手は、床の杖に一度、届かなかった。

 

今日、この手は六索を切った。

 

 

 

 

 

夜更けに、私は一人で盤を出した。

 

チェスの盤だった。

 

駒を並べて、白の手を一つ指した。

 

黒の手を、指せなかった。

 

向かいに誰もいない盤で、黒を持つのは私だ。

 

必ず、私が勝つ盤だ。

 

それなのに、手が動かなかった。

 

今日、北家の席で、私は30回ほど画面で打った麻雀を、四人の卓で打った。

 

最初の局で、私は赤木くんの河にある牌だけを切って、手を捨てた。

 

東三局で萬子が六枚並んで、指が速くなった。自分でそれに気づいて、止めた。

 

休憩の時、私は綾小路くんに、なぜ東四局だけ立直を掛けなかったのかと訊いた。答えは、全部筋が通っていた。

 

筋が通っていて、私には一枚も真似できなかった。

 

真似をやめたのは、南三局の後だった。

 

堀北さんが、綾小路くんから逃げるための西を、赤木くんに切った。

 

同じ財布の中の、2600点。

 

意味が無いと私が言った条件が、局を一つ終わらせた。

 

私は、それを借りた。

 

借りて、一度落として、一度拾った。

 

北一局の始めに、私は自分の山を崩した。

 

肩が、もう上がらなかった。一日じゅう、少し高い卓で牌を取り続けた肩だった。

 

崩れた一山の下の段が、表を向いた。

 

八萬だった。

 

会長は、表のまま戻せと言った。

 

私は、自分の手で、表のまま戻した。

 

戻しながら、数えた。何も起きなければ、あの八萬を引くのは私だった。

 

局の間じゅう、私は、自分の山の尻で表を向いている八萬を見ていた。

 

あれを引いたら、どうするか。

 

赤木くんの晒した手の、当たり牌だった。

 

綾小路くんが切って、赤木くんが、全員の目の前で見逃した牌と、同じ牌だった。

 

私は、それを引いたら、手の中に留めておくつもりだった。

 

理由は、言葉にするまでもなかった。

 

あの一枚だけは、赤木くんの側に渡してはいけなかった。

 

堀北さんの一つ目の槓で、あの八萬は、私の引く牌ではなくなった。

 

綾小路くんの引く牌になった。

 

赤木くんが、足りねえな、と呟いた。

 

私は、手の中の九索を見た。

 

堀北さんの河には、白の槓の後、索子が一枚も無かった。

 

九索を持っているのは、堀北さんかもしれなかった。

 

持っていたら、鳴かれる。鳴かれたら、あの八萬がもう一度動く。

 

どこへ動くのかを、私は数えた。

 

数え終えて、九索を切った。

 

切らずにいることは、できた。

 

手の中の別の一枚を切れば、よかった。

 

それを選ばなかった理由を、私は今も、三行では書けない。

 

赤木くんの隣に座った人が、自分の兄を懸けて、槓を積もうとしている。

 

九索を抱えて、別の一枚を切る。

 

それは、東場の私がしていたことだった。危ない牌を手の中に抱えて、何も起きない場所へ逃げること。

 

堀北さんは、南三局で逃げて、逃げた先で勝負を見ていた。私は、東場の間じゅう、逃げた先で何も見ていなかった。

 

もう、あれには戻らないと決めていた。

 

だから、置いた。

 

私の九索で、あの八萬は、赤木くんの番に回った。

 

最後に、私は綾小路くんの二萬をチーした。

 

ツモを一つ飛ばして、あの八萬を、赤木くんの番から外すために。

 

外せた。

 

外したことで、ツモがずれて、五筒が赤木くんの手に落ちた。

 

赤木くんは、堀北さんに、いらねぇよ、と言った。

 

あの八萬は、最初から要らなかったのだ。

 

とばっちりと呼ぶなら、あれこそがそうだった。

 

私が自分で崩した山と、私が自分で鳴いた二萬の先で、私たちは終わった。

 

誰のとばっちりでもない。

 

北一局の最後に、堀北さんが二度、槓をした。

 

一度目の槓で、綾小路くんの手が高くなったかもしれなかった。

 

二度目の槓の前に、綾小路くんは堀北さんに言った。その九索を鳴けば、オレにもう一度自摸が来る、と。

 

堀北さんは、知ってる、と答えて、鳴いた。

 

私には、あれはできない。

 

今日一日で、私はずいぶん遠くまで来たと思う。

 

それでも、あの二つの槓までは届かなかった。

 

届かなかったものを、私は数えない。

 

数えないはずだった。

 

盤の上の白の駒を、一つ戻した。

 

盤の上のものなら、私は一通りやってきた。

 

今日の卓は、盤の上のものではなかった。

 

牌は山から来る。誰が何を引くかを、誰も決められない。

 

決められないものの上に、赤木くんは自分の退学を乗せた。

 

乗せて、私と綾小路くんの退学を取りに来た。

 

取りに来て、取った。

 

取ったあとで、一度も数えなかった。

 

私は、黒の駒を一つ、自分の方へ引き寄せた。

 

一人でやる盤では、必ず私が勝つ。

 

必ず勝つ盤で、私はもう、何も見られない。

 

私は、盤を片付けた。

 

片付けて、机の上の退学届を、封筒に入れた。

 

封をする前に、一度だけ、理由の欄を読み直した。

 

一身上の都合により。

 

一身上。

 

私一人の身の上。

 

誰のとばっちりでもない、という意味に、今夜は読めた。

 

 

 

 

 

月曜の朝、職員室の前の廊下に、綾小路くんがいた。

 

封筒を一つ、手に持っていた。

 

私と、同じ封筒だった。

 

「おはようございます」

 

「ああ」

 

綾小路くんは、職員室の扉を見ていた。

 

「茶柱先生は、まだですか」

 

「まだだ」

 

「真嶋先生は、中にいらっしゃいました」

 

「そうか」

 

私は、綾小路くんの隣に立った。

 

杖の先が、廊下の床を一度だけ鳴らした。

 

「伺ってもよろしいですか」

 

「なんだ」

 

「昨日の最後の局で、あなたは立直を掛けました」

 

「掛けた」

 

「掛けなくても、あの局で私たちが終わる目は、ほとんどありませんでした」

 

「あの局では、な」

 

「守って流すのが、正しかったのでは」

 

「正しくない」

 

綾小路くんは、職員室の扉から目を離さなかった。

 

「守って流せば、赤木の親が続く。あの男は、終わらせられる一局が来るまで、何局でも待つ。12000を見送ってでも待つ」

 

「……ええ」

 

「待たれたら、いずれ終わる。どんな手を使っても、あそこで勝負をしなければ、どのみち赤木が勝っていた」

 

私は、隣の顔を見た。

 

綾小路くんの横顔は、いつもと同じだった。

 

「掛けた時には、まだそこまで数えきれていなかった。掛けたかったから、掛けた」

 

「掛けたかった」

 

「後から数えたら、掛けるしかない手だった」

 

「あなたが、それを後から数えるとは」

 

「オレも、思っていなかった」

 

綾小路くんは、少しだけ間を置いた。

 

「坂柳。お前も、気づいているだろう」

 

「……何に、ですか」

 

「あの男の座った場所には、牌が来る。来ないはずの牌は、誰かが運んでくる。堀北の槓も、お前のチーも、最後は全部、赤木の方へ流れた」

 

私は、自分の指を見た。

 

二萬を鳴いた指だった。

 

「……ええ。気づいています」

 

「計算で説明のつかないものを、オレは認めたことが無かった」

 

綾小路くんの声は、いつもと同じ大きさだった。

 

「あれは、天から配られたものだ。オレたちが何を積んでも、届かない場所にある」

 

私は、隣の横顔を見た。

 

この人が、誰かを、自分の届かない場所にいると言うのを、初めて聞いた。

 

「あなたが、人をそう呼ぶのですね」

 

「呼ぶしかない」

 

綾小路くんは、扉を見たまま続けた。

 

「お前は、天才は作れるものじゃないと考えているんじゃないか」

 

「……ええ。ずっと、そう考えてきました」

 

作られた側の人間の前で、私はそれを、何度も言葉にしてきた。

 

「あいつは、天才じゃない」

 

私は、隣の横顔を見た。

 

「生まれつきでも、作られたのでもない。間違えれば終わる場所で、生き残ってきた。生き残った分だけ、身についた」

 

綾小路くんは、扉から目を離さなかった。

 

「生き残った天賦だ。お前の言う天才とも、オレとも、違う」

 

「天才なら、安全な卓でも勝てる。あいつは、死ぬ場所でしか勝たない」

 

綾小路くんの声は、少しも揺れなかった。

 

「オレとお前が一生努力しても、辿り着くことはない。生き残ってきた者だけに許される、特権だ」

 

私は、息を止めた。

 

天才は作れない。私はずっとそう言ってきた。作られた側のこの人は、それを否定も肯定もしなかった。

 

その人が今、天才でも、作られたものでもない、三つ目の形を口にした。

 

私の知っている二つの箱の、どちらにも入らないものを。

 

「……あなたの口から、それを聞くとは思いませんでした」

 

「オレもだ」

 

綾小路くんは、手の中の封筒を持ち替えた。

 

「掛けなければ、オレはあの局を最後まで見ていられなかった」

 

「見ていられなかった」

 

「卓の外から見るのと、卓の上で見るのとでは、見えるものが違う。赤木が、そう言っていた気がする」

 

「赤木くんは、そんなことはおっしゃっていません」

 

「言っていないな」

 

綾小路くんは、少しだけ間を置いた。

 

「あいつは、何も言わない。言わないのに、聞こえる」

 

私は、何も言えなかった。

 

廊下の窓から、朝の光が斜めに入ってきていた。

 

「綾小路くん」

 

「なんだ」

 

「外は、ありましたか」

 

綾小路くんが、ようやく私の方を見た。

 

会長に話していたことを、私も聞いていた。

 

計算の外に、卓がある。

 

「あった」

 

「……そうですか」

 

「お前は」

 

逆に訊かれた。

 

昨日の朝のロビーと、同じだった。

 

「ありました」

 

私は答えた。

 

「一人でやる盤の外に。あなたの盤の外に」

 

「オレの盤の外か」

 

「ええ。あなたの駒でいる間は、見えなかったものが」

 

綾小路くんは、何も言わなかった。

 

言わないまま、少しだけ目を伏せた。

 

「坂柳」

 

「はい」

 

「お前は、自分で座った」

 

土曜日に、同じことを言われた。

 

あの時は、会議室の机の前だった。

 

今は、職員室の前の廊下だった。

 

「ええ」

 

私は答えた。

 

「それだけは、確かです」

 

廊下の端に、人影があった。

 

真澄さんだった。

 

壁に背をつけて、こちらを見ていた。

 

来ると言っていた。

 

来ていた。

 

私は、真澄さんに向けて、小さく頭を下げた。

 

真澄さんは、頷きもしなかった。

 

ただ、目を逸らさずにいた。

 

職員室の扉が、内側から開いた。

 

真嶋先生が、私を見た。

 

私の手の中の封筒を見た。

 

私は、杖を持ち直した。

 

一歩、前に出た。

 

振り返らなかった。

 

振り返れば、綾小路くんがどんな顔をしているかを確かめたくなる。

 

確かめなくても、分かっていた。

 

昨日と、同じ顔だ。

 

最初から、最後まで。

 

あの八萬が赤木くんの番に回った時の顔だけを、除いて。

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総合評価:21952/評価:9.08/連載:158話/更新日時:2026年10月01日(木) 19:00 小説情報

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金で買えないものはない......少なくとも、この高度育成高等学校では。▼金に強い固執を持つ少女、辰見鱗(たつみ りん)。彼女は龍園率いるCクラスと共に、プライベートポイントを以て、この学校を攻略し、8億ポイントを目指していく。


総合評価:1871/評価:8.5/連載:19話/更新日時:2026年09月09日(水) 12:25 小説情報

ようこそ理想の遺伝子を求める教室へ(作者:さんぱうろ)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

人間の品種改良を行い、支配者として世界に君臨するニュートン一族。▼その分家に属す東雲理央(しののめりお)は、自身の才能と適合する優れた配偶相手を探すため、多くのエリートを輩出する実績を持つ高度育成高等学校に進学した。▼彼はそこで何を学び、何を得るのか──。▼※別作品とのクロスオーバーのため時系列の矛盾があります。よう実側の時系列に変更はありません。


総合評価:1720/評価:7.9/連載:14話/更新日時:2026年06月25日(木) 13:16 小説情報

非凡な少年はこの学校で何を考えるのか(旧:ようこそ凡人がいく実力至上主義の教室へ)(作者:神威 )(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

変人(天才)達に育てられた凡才の少年が実力至上主義の教室で学校生活を送る話 。


総合評価:2763/評価:7.67/連載:42話/更新日時:2026年08月20日(木) 14:33 小説情報

ようこそ原作主人公抜きで頑張る教室へ(作者:灰色の)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

▼よう実の世界に転生した青年、しかし物語の鍵となる原作主人公がいなかった。▼自分の能力も分からない中、彼は必死に足掻いて行く。


総合評価:3863/評価:7.95/連載:43話/更新日時:2026年08月14日(金) 21:23 小説情報


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