過去問が手に入る、という話が回ってきたのは、試験の一週間前だった。
放課後、教室に残っていたのは10人ばかりだった。平田が前に立ち、その隣に櫛田がいる。
「みんな、いい知らせだよ」
櫛田が、いつもの明るい声で言った。
「三年生の先輩に、去年の中間試験の問題を持ってる人がいるの。譲ってもらえそう」
教室が、わっと沸いた。
「まじかよ! 櫛田ちゃん最高!」
「助かった……マジで助かった……」
池と山内が、大げさに拝む真似をしている。
俺は後ろの席から、その様子を眺めていた。
悪くない働きだ。
この女は、確かに使える。誰にでも笑いかけ、誰からも警戒されない。そういう人間は、情報を集めるのに一番向いている。
……もっとも。
「ただ、ちょっとだけ問題があって」
櫛田が、少しだけ困った顔を作った。
「タダじゃないんだ。ポイントが要るの」
教室の温度が、すっと下がった。
やはりな。
ただで物をくれる人間なんぞ、どこの世界にもいやしない。
「いくらだ」
誰かが訊いた。
「一教科あたり、2万ポイント」
息を呑む音が、いくつも重なった。
「5教科で10万かよ!」
「無理だろ、そんなの……」
「みんなで出し合えば足りると思うの」
櫛田が続けた。
「四月にもらった10万、全部使っちゃった人もいると思うけど、残ってる人もいるでしょ? 余ってる人が、少しずつ出してくれれば」
沈黙が落ちた。
……ほう。
ここからが、本番だ。
「……ちょっと待てよ」
声を上げたのは、山内だった。
「残ってるって言うけどさ、俺、けっこう我慢して使わなかったんだよ。なんで使いまくった奴のために、俺が出さなきゃいけねえの」
「そうそう」
「それはちょっとなあ」
同調する声が、いくつか上がった。
池が、気まずそうに視線を落としている。あの男は、真っ先に服を買った側だ。
「みんな、落ち着いて」
平田が割って入った。
「これはクラス全体の問題なんだ。誰か一人でも退学になったら、僕たちみんなが困る」
「困るのはわかるけどよ」
山内は引かなかった。
「じゃあ聞くけどさ、赤点になりそうな奴って誰よ。須藤と……」
視線が、こちらに向いた。
教室中の目が、ゆっくりと俺の方に集まってくる。
「……赤木だろ」
なるほど。
そういう流れになるか。
当然といえば当然だ。全員が自分の首を惜しんでいる時に、誰かを助けるための金を出せと言われれば、まず「誰のために」を確かめたくなる。
そして、その「誰か」が自分より下だとわかった瞬間――人は途端に、金を出すのが惜しくなる。
俺は、そういう場面を何度も見てきた。
「おい山内。それ、俺への喧嘩か?」
声を出したのは、須藤だった。
椅子を鳴らして立ち上がっている。
「ち、違うって! 須藤は部活で忙しいし、しょうがねえじゃん。俺が言ってんのは――」
「赤木のことか」
「……いや、だから」
「あいつは毎朝走ってんぞ」
教室が、少しざわついた。
「俺と一緒に、暗いうちからだ。……勉強会に来ねえのは知ってる。けどな、何もしてねえってのは違うだろ」
……。
妙な気分だった。
あの男に、そういう筋合いはない。俺は須藤に何もしてやっていないし、この前ははっきり「あんたが落ちようが関係ねえ」と言ったばかりだ。
なのに、あの男は立った。
……勘定に合わない男だ。
だが、悪い気はしなかった。
「あのさ、俺は別にいじめたいわけじゃないんだけど」
山内は、言い訳するように続けた。
「赤木って、そもそも金使ってねえだろ」
山内は、こちらを指した。
「毎日タダの定食だぜ? 購買で何か買ってるとこ、誰も見たことねえって。……一番残ってんの、お前じゃねえの」
教室の空気が、はっきりと変わった。
なるほど。
見られていないつもりはなかったが、そこまで数えられているとは思わなかった。
人は、他人の財布を思ったよりよく見ている。
「そうだよな、赤木。お前が出しゃ足りるんじゃねえの」
「金あるなら出せよ。俺ら、もう空っぽなんだぞ」
声が、いくつも重なった。
筋は通っている。
使わなかった人間が、使った人間より多く持っている。その多い分を出せというのは、この場では正論だ。
「ちょっと、みんな待って」
平田が止めようとしたが、俺は手を上げてそれを制した。
「出せねえとは言わねえ」
教室が、少し静かになった。
「だが、その前に一つ出す。……金より高えものだ」
「は?」
山内が、間の抜けた顔をした。
「それを聞いてから、まだ俺の財布が要るかどうか決めりゃいい」
山内が、間の抜けた顔をした。
「……別のもん?」
俺は立ち上がった。
「櫛田。その過去問だが、去年の問題ってのは、どこの範囲から出てる」
「え? えっと……たぶん、教科書の最初の方だと思うけど」
「ここ一週間、あんたらが必死に覚えてたのは、どこだ」
「……同じく、最初の方だよね?」
平田が答えた。
俺は頷いた。
「じゃあ、去年と同じ範囲を、今年もやると思ってるわけだ」
「そりゃ、そうでしょ」
……。
俺は、言った。
「範囲は、変わってる」
教室が、しん、とした。
「……何言ってんだ、お前」
山内が、乾いた声を出した。
「そんな話、聞いてねえぞ」
「聞いてねえだろうな。うちのクラスには、来てねえからだ」
「はぁ?」
「先週、他のクラスの連中が昇降口で話してた。範囲が変わった、やり直しだと」
俺は続けた。
「その日から今日まで、この教室でその話が一度でも出たか」
誰も答えなかった。
「……出てない」
堀北が、低い声で言った。
「一度も」
「そういうことだ」
教室の空気が、変わっていくのがわかった。
わっと騒ぐのではない。じわじわと、血の気が引いていく類の変わり方だった。
「……ちょっと待って」
平田の顔が、青くなっていた。
「じゃあ、僕たちが一週間やってきたことは」
「無駄とは言わねえよ」
俺は答えた。
「だが、狙いは外れてる。的が動いたのを知らずに、同じ場所を撃ち続けてたってことだ」
「なんで……なんで教えてくれなかったんだよ!」
山内が叫んだ。
「一週間も前に知ってたなら、その時に言えよ!」
「言ってどうなる」
「どうなるって……!」
「範囲が変わったと聞かされて、じゃあ新しい範囲はどこだ、と訊かれて、俺が答えられたと思うか」
山内が、言葉に詰まった。
「知らせだけ配って歩いても、混乱するだけだ。……手当てのねえ知らせは、毒にしかならねえ」
俺は櫛田の方を見た。
「だから、この話が出るまで待ってた。過去問という手当てが揃って初めて、この知らせは値打ちが出る」
櫛田の笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。
……ほう。
今の間は、悪くなかった。
俺が「待っていた」と言った時、この女は驚くべきだった。あるいは、責めるべきだった。他の連中がそうしたようにだ。
だが、この女がしたのは、笑顔を止めることだけだった。
驚かなかったということは、そういう考え方をする人間を知っているということだ。あるいは、自分がそういう考え方をするということだ。
笑っていない時の顔が、少しだけ違う。
……覚えておこう。
この教室で気をつけるべき人間が、また一人増えた。
「……ちょっと、いい?」
口を開いたのは、堀北だった。
「今の話が本当なら、過去問はもっと重要になるわ。去年の範囲から出ないなら、なぜ過去問が要るのか、って話になるけど」
「作り手の癖を見るためだ」
俺は答えた。
「範囲が変わっても、問題を作ってる人間は同じだ。どういう聞き方をするか、どこを引っかけたがるか。そいつは変わらねえ」
堀北の目が、少し見開かれた。
「……範囲じゃなく、出題者を読むということ」
「そうだ」
牌が変わっても、打ち手の癖は変わらない。
俺が卓でやってきたのは、ずっとそれだ。
「それに、もう一つある」
「なに」
「うちのクラスにだけ知らせが来なかった、って事実そのものが、一番重い」
俺は教室を見回した。
「この学校は、俺たちを助ける気がねえ。少なくとも、向こうから手を差し伸べる気はない。……それがはっきりした。今後、何かが降ってきたら、まず疑え。そういう話だ」
誰も、口を開かなかった。
「……わかった」
最初に折れたのは、平田だった。
「僕は出すよ。残ってるポイント、全部でもいい」
「平田くん、それは……」
「いいんだ」
平田は、まっすぐ山内の方を見た。
「山内くん。君の言うことは正しいと思う。使わなかった君が損をするのは、確かにおかしい。……でも、今そこで揉めてる時間が、一番もったいないと思うんだ」
山内は、しばらく黙っていた。
それから、頭を掻いた。
「……あー、くそ。わかったよ。出す。出しゃいいんだろ」
櫛田がぱっと笑顔になった。
「ありがとう、山内くん!」
そこから先は、早かった。
残っている者が出し合い、足りない分をさらに出し合い、なんとか5教科分に届いた。
俺は一ポイントも出していない。
誰も、もう一度そこを突いてこなかった。
金の話は、いつの間にか流れていた。……流れるように、こちらが持っていったのだが。
帰り際、廊下で綾小路とすれ違った。
「上手いやり方だな」
「そうかい」
「情報を、一番高く売れる場所まで持っていた。……先週言っていれば、ただの噂で終わっていた」
この男は、やはり全部見えている。
「売ったつもりはねえよ」
俺は答えた。
「金を出したところで、頭数の一人にしかならねえ。それじゃ卓に着いたことにならねえだろ」
綾小路は、少しの間、黙っていた。
「……惜しい人間になる、と言っていたな」
「言ったな」
「今日ので、少しは下がったか。お前の線は」
俺は少し笑った。
「さあな」
だが、悪くない手応えだった。
一週間前、この教室で俺は「金も出さず勉強もしない、真っ先に落ちる奴」だった。
今日、俺は「いなければ全員が的を外していた奴」になった。
同じ人間で、財布の中身も一つも動いちゃいない。
変わったのは、周りが俺をどう数えるかだけだ。
――値打ちってのは、そういうふうにできている。
寮への道を歩きながら、俺は考えていた。
だが、まだ足りない。
今日やったのは、拾った物を高く売っただけだ。他人が落とした知らせを、頃合いを見て置いただけの話でしかない。
次に同じ手は使えない。あの教室はもう、俺が何かを握っているかもしれないと思って俺を見る。一度読まれた癖は、二度は通らない。
それに、本番はまだ来ていない。
一週間後、紙が配られて、点がつく。
そこで俺が赤点を取れば、今日積み上げた値打ちは全部消える。あいつらは俺を惜しむどころか、金を出した分だけ恨むだろう。
……つまり、まだ何も終わっちゃいない。
過去問は手に入った。範囲が動いていることもわかった。
道具は揃った。
あとは、俺がそれを使えるかどうかだけだ。
――生まれてこの方、教科書というものを最後まで読んだことがない男が、な。