過去問が配られたのは、試験の前日だった。
金は、結局あの日のうちに集まったらしい。
平田と櫛田が一人ずつ声をかけて回り、四月の10万がまだ残っている連中から少しずつ吸い上げた。多く出した者もいれば、ほとんど出さなかった者もいる。最後まで渋っていた山内も、周りが出し始めると舌打ちをして出した。
俺のところには、誰も来なかった。
あの日、俺は金の代わりに範囲変更の話を出した。教室はそれで得心した――というより、得心したことにした。あそこで俺に「で、お前はいくら出すんだ」と訊けば、せっかく拾った知らせが値切りの取引に見える。誰もそれを言い出せなかった。
……もっとも。
訊かれたところで、出せなかった。
俺の10万は、そっくりそのまま残っている。使わなかったのではない。あの板の動かし方を、俺は未だに知らない。
だから、俺だけが一ポイントも出していない。
そして、それを知っているのは俺だけだ。
5教科分の紙束を、俺は机の上に広げた。
周りの連中は、配られた瞬間から必死に解き始めている。
俺は、一問も解かなかった。
代わりに、並べて眺めた。
……妙だな。
最初に引っかかったのは、去年の問題の並び方だった。
どの教科も、頭の方は易しい。真ん中から少し重くなって、最後の一問か二問だけが極端に難しい。
見覚えのある形だった。
先月受けた、あの小テストと同じだ。
あれも、最後の三問だけが桁違いに難しかった。しかも「成績には反映されない」と言われていた。
……おかしい。
成績に反映されない試験に、なぜ誰も解けない問題を混ぜる。
俺は紙束を繰った。
去年の中間の問題と、その前の年の問題。
――同じだ。
字面だけじゃない。問いの順番も、数字も、丸ごと同じだった。
「櫛田」
俺は顔を上げた。
「これ、何年分ある」
「え? 二年分だと思うけど……」
「並べてくれ」
櫛田が、少し戸惑いながら紙を並べた。
教室の何人かが、こちらを見ている。
俺は二年分を突き合わせた。
一問残らず、同じだった。
「……これ、同じじゃないか?」
最初に声を上げたのは、平田だった。
「去年とその前で、問題が変わってない」
教室が、ざわつき始めた。
「え、待って。てことは今年も?」
「同じ問題が出るってこと?」
「それ、答え覚えりゃ満点じゃん!」
池と山内が、大声を出した。
教室が、一気に沸いた。
……なるほど。
これで、あの小テストの意味もわかった。
あれは成績に反映されない代わりに、中身をそっくり見せていたわけだ。あの時「解けない問題があった」と気づいて、それを不思議に思った人間だけが、ここに辿り着く。
毎年同じ問題を出しているのは、手抜きじゃない。
――試している。
問題を解く力じゃなく、問題の外側に手を伸ばす人間かどうかを、だ。
「よかった……本当によかった……」
誰かが、涙声で言っている。
教室が、安堵で緩んでいくのがわかった。
俺だけが、緩めなかった。
「堀北」
俺は、隣の席の女を呼んだ。
「赤点の基準を、確かめたか」
「ええ。茶柱先生に聞いてきたわ」
堀北は、まだ紙束を睨んでいた。
「点数は決まっていないの。平均点の半分。それが赤点のラインだそうよ」
「……誰の平均だ」
「え?」
「このクラスの平均か。それとも、学年全部か。どっちだ」
「え、ごめんなさい、そこまで聞いてなかったわ」
俺は、しばらく黙っていた。
「学年平均……だろうな」
「どうしてそう思うの」
「クラスの平均なら、抜け道がある」
俺は答えた。
「四十人で示し合わせて、全員が揃って白紙で出しゃいい。平均が下がって、線も下がる。……誰一人赤点にならずに済む」
堀北が、ぽかんとした顔をした。
それから、はっとした。
「……確かに。それができてしまうなら、試験の意味がないわ」
「だから、クラス単位じゃ組めねえようにしてある。学年全部なら、四十人が結託したところで、残りの百二十人が動かねえ」
俺は紙束を指で叩いた。
この学校を作った人間は、抜け道の潰し方をよく知っている。
感心すらしていた。
「なあ、堀北」
「なに」
「この過去問だが、他のクラスは持ってると思うか」
堀北の表情が、固まった。
「……持っているでしょうね。上級生が売っているなら、うちにだけ売る理由がない」
「そうだ」
俺は続けた。
「つまり明日、学年の連中はほとんど全員、答えを持って席に着く」
「平均が、跳ね上がる」
「ああ。……九十近くまで行ってもおかしくねえ」
堀北の顔から、血の気が引いていくのがわかった。
「平均が九十なら、赤点のラインは四十五。……普通の試験なら、まず出ない数字よ」
「そういうことだ」
俺は、教室を見回した。
誰も彼も、答えが手に入って助かったという顔をしている。
だが、助かるのは全員だ。
全員が助かるということは、全員が線を押し上げるということでもある。
この試験は、勉強を測っちゃいない。
答えを手に入れられたかどうかだけを測っている。
……そして先週、俺たちだけが、範囲の知らせをもらえなかった。
「わかるか、堀北」
「なに」
「先週、範囲が変わったのを知らされなかった。あれで一週間、無駄になった」
「ええ」
「だが本当に効いてるのは、そっちじゃねえ」
俺は言った。
「他所の連中は、その一週間を丸ごと使えてる。……あいつらの点が上がった分だけ、俺たちが越える線も上がるんだ」
堀北が、息を呑んだ。
「……こっちの点は下がって、線は上がる」
「両側から来てる」
よく出来ている。
刃物も、脅しも、何一つ要らない。
紙を一枚配らなかっただけで、これだけの差がつく。
これが、この学校のやり方だ。
誰も悪意を持っていない。全員が、自分の首を守るために正しく動いているだけだ。
それが、そのまま刃物になる。
こんな仕掛けを考える奴が、この学校にはいる。
「……じゃあ、どうすればいいの」
堀北の声が、少し掠れていた。
「みんなに手を抜けと言うの? そんなこと、言えるわけがない」
「言うつもりはねえよ」
俺は答えた。
「言ったところで、誰も聞かん。自分の点を下げてくれと頼まれて、はいそうですかと下げる奴がいたら、そいつは馬鹿だ」
「じゃあ――」
「線が上がるなら、上がった線を越えりゃいい。それだけだ」
「簡単に言うわね」
「簡単な話だ」
俺は、5枚の紙を見下ろした。
答えは、全部ここにある。
覚えれば、越えられる。
問題は――
俺は、英語の一枚を持ち上げた。
並んでいる文字が、何一つ読めない。
どこが問いで、どこが答えなのかも、判然としない。
「読めねえんだ」
俺は正直に言った。
「これが何を訊いてるのか、俺にはわからん。答えを写そうにも、どれが答えなのかもわからねえ」
堀北は、俺の手元を覗き込んだ。
それから、真顔になった。
「……英語、本当に何もわからないの」
「ああ」
「中学の範囲は」
「やってねえ」
堀北は、しばらく黙っていた。
その沈黙で、この女が状況を正確に理解したのがわかった。
他の連中は、覚えれば助かる。だから明日、平均を押し上げる。
俺だけが、覚える手段を持っていない。
線は上がり、俺はそこに届かない。
「……間に合わないわ」
堀北が言った。
嘘のない言い方だった。慰めも、励ましもない。
「一晩で英語を身につけるなんて、無理よ。基礎が何もないなら、なおさら」
「そうだな」
「わかっているのに、どうしてそんなに落ち着いていられるの」
「身につける気がねえからだ」
堀北が、怪訝な顔をした。
「……どういう意味」
「読めなくても、写せればいい」
俺は、紙を机に置いた。
「文字を言葉として覚えるから、無理なんだ。……絵として覚えりゃいい」
「絵……?」
「牌と同じだ」
俺は言った。
牌の絵柄に、意味なんぞない。萬子の三と四が並んでいる形を、俺は言葉で覚えちゃいない。形として覚えている。
だから一瞬で見分けがつく。
この紙に並んでいる文字も、同じことだ。
意味がわからなくても、形は覚えられる。
三番の問いの答えは、この形。七番の答えは、この形。
読めなくても、書き写せる。
「……それ、勉強とは言わないわ」
「言わねえだろうな」
「変えられたら終わりよ。少しでも問題が違ったら、何も対応できない」
「変わらねえよ」
俺は、二年分の紙を叩いた。
「二年、一字も変わってねえんだ。三年目だけ変えてくると思うか」
堀北が、言葉に詰まった。
「……賭けるのね」
「賭けるさ」
俺は答えた。
「毎年変えていない相手が、今年に限って変える。その目が出る確率と――俺が一晩で英語を覚える確率を比べたら、どっちが高い」
堀北は、答えなかった。
答える必要もなかった。
「三時間よ」
堀北が、鞄から筆記用具を出した。
「絵として覚えるにしても、どこが答えなのかは教えないと写せないでしょう。……私が、答えの場所に印をつけるわ」
「助かる」
「勘違いしないで。あなたに退学されたら、クラスが困るからよ」
悪くない嘘だった。
途中から、須藤も混ざってきた。
「俺も入れてくれ。……英語がやべえんだよ」
「あなた、私に頭を下げるのは初めてね」
「うるせえな」
三人で、日が暮れるまで机に向かった。
妙な光景だった。
一ヶ月前、この教室では誰も他人のために時間を使わなかった。今、退学に一番近い二人のために、落ちる心配の一番ない女が三時間を潰している。
……その女の点が、明日、俺の首を絞める線を押し上げるわけだが。
それを言う気にはならなかった。
帰り道、寮の前で綾小路と会った。
この男は、いつもここにいる。
「明日だな」
「ああ」
「答えは、揃ったのか」
「揃った。読めねえ分は、形で覚える」
綾小路は、少しだけこちらを見た。
「危ない橋だ。一問でも変わっていれば落ちる」
「そうだな」
俺は認めた。
それから、訊いた。
「あんたは、何点取るつもりだ」
わずかな間があった。
……ほう。
今のは、いい間だった。
「……普通に受けるだけだ」
「そうかい」
俺は頷いた。
だが、頭の中では別のことを考えていた。
今の問いに、この男は「わからん」と答えなかった。
答えが全部配られている試験だ。まともにやれば、誰でも満点近くが取れる。だから普通は「満点だろうな」と答える。
この男は、そう答えなかった。
答えを持っていて、言わないという答え方をした。
「一つ訊くが」
俺は言った。
「あんた、わざと落とすつもりだろ」
綾小路は、答えなかった。
「答えが手元にあるのに満点を取らねえってのは、取りたくねえってことだ。……目立ちたくねえのか」
「……何の話か、わからないな」
いつもの返事だった。
だが、今日はもう一つ言っておくことにした。
「言っておくが、あんたが点を落とせば、平均が下がる」
綾小路の視線が、初めてこちらへ動いた。
「平均が下がりゃ、線も下がる。……俺の首が、そのぶん楽になる」
沈黙があった。
「礼を言うつもりはねえよ」
俺は歩き出した。
「あんたは自分のためにやってるだけだ。それがたまたま、俺の得になるってだけの話だ」
背中に、返事はなかった。
……もっとも。
あの男一人が点を落としたところで、百二十人の平均はほとんど動かない。
わかっていて言った。
こちらが何を見ているかを、向こうに教えておくためだ。
その夜、俺は寮の窓を開けた。
箱から一本引き抜いて、指の間で回す。
結局、火はつけなかった。
明日は、頭が冴えていた方がいい。
机の上には、堀北が印をつけた紙が置いてある。答えの場所だけが、赤く囲まれている。
俺はそれを、閉じた瞼の裏に並べた。
三番はこの形。七番はこの形。
牌を数えるのと、変わらない。
……足りるかどうかは、わからない。
明日、この教室の連中がどれだけ取るかで、線の高さが決まる。
あいつらが必死になればなるほど、俺の足元は削れていく。
だが、それでいい。
誰かに手を抜けと言って生き延びるくらいなら、線ごと越えた方が早い。
俺は煙草を箱に戻し、明かりを消した。
明日、この学校が初めて、俺の首に手をかけてくる。