### 【第1章:青天の霹靂、ふたば商事コミケ参戦】
「……は? コミケ?」
盆休みを目前に控えた8月上旬。ふたば商事の営業部で、野原ひろしは素っ頓狂な声を上げた。
目の前には、腕組みをしてドヤ顔を浮かべる部長の姿がある。
「そうだ野原。今年の夏、我がふたば商事は『コミックマーケット』に企業ブースを出展することになった!」
「いやいや部長、ウチは不動産とか商社的なアレですよ!? なんでまたそんな、アニメとか漫画の祭典に……」
「時代はサブカルチャーだ、野原! 若年層へのアピールとして、我が社が誇る『夢のマイホームVR体験』と、マスコットキャラクターの限定グッズを販売する。お前と川口で、現場の仕切りを頼むぞ!」
「俺と川口が!?」
隣で聞いていた後輩の川口は「マジっすか!? 俺、一回行ってみたかったんすよね〜」と呑気なものだが、ひろしは頭を抱えた。
テレビのニュースでしか見たことのない、あの地獄のような人の波。炎天下。徹夜組。オタクたちの熱狂。
しがない妻子持ちのサラリーマンが足を踏み入れていい領域なのだろうか。
「……まぁ、仕事なら仕方ねぇ。やるしかないか……」
ひろしはこの時、まだ理解していなかった。
真夏のコミケという戦場が、己の「昼メシの流儀」を根底から揺るがすほどの極限地帯であるということを。
### 【第2章:熱雲と人の海、東京ビッグサイト】
――コミックマーケット当日。
「うおおおお……なんだこの人の数は……!」
東京ビッグサイト。逆三角形の巨大な建造物を見上げるひろしのワイシャツは、すでに汗で肌に張り付いていた。
時刻は午前9時。開場前だというのに、見渡す限りの人間、人間、人間。アスファルトから立ち上る陽炎が、待機列を歪ませて見せている。
企業ブースエリアに辿り着いたひろしと川口は、息つく暇もなく設営に追われた。
「先輩、クーラー効いてるはずなのに、熱気が凄まじいっすね……」
「あぁ……みんなの『熱』が物理的な温度になってやがる。おい川口、VRの機材は大丈夫か? パンフレットの束は崩すなよ!」
午前10時。
館内に拍手が鳴り響く。コミケ特有の「開場を祝う拍手」だ。
ひろしも訳が分からないまま、とりあえず一緒に手を叩いた。
直後、怒涛の波が押し寄せる。
「ふたば商事のグッズセット、一つください!」
「VR体験、整理券まだありますか!?」
予想外の大盛況だった。
どうやら、ふたば商事がノベルティとして配っている「冷感タオル」と、妙にシュールなマスコットキャラクターのグッズが、SNSでバズっていたらしい。
ひろしは営業スマイルを顔に貼り付け、パンフレットを配り、グッズの会計をこなし、VRの案内を続けた。
「ありがとうございます! はい、お次のお客様!」
波のように押し寄せる客。見慣れないコスプレイヤーたち。飛び交う万札。
ここは戦場だ。欲望と情熱が渦巻く、巨大な鉄火場。
ひろしの体力メーターは、うだるような熱気と異常な人口密度によって、確実に、そして急激に削られていった。
### 【第3章:胃袋の警鐘、そして枯渇】
時刻は午後1時。
怒涛のピークを越え、ブースの客足がほんの少しだけ落ち着いた頃。
**――グゥゥゥゥゥルルルルル……。**
ひろしの腹の虫が、ビッグサイトの喧騒に負けないほどの重低音を響かせた。
「あぁ……」
ひろしは、額の汗を拭いながら天を仰ぐ。
**(腹が……減った……!)**
朝から立ちっぱなし、声出しっぱなし。脳内は常にフル回転。
体内のエネルギーは完全に底をついていた。
胃袋が「何か入れろ!」と激しくストライキを起こしている。
「……川口、ちょっと休憩もらっていいか? 昼メシ食ってくる」
「了解ッス! 先輩、お疲れ様です。俺はあとで適当にカロリーメイトでも齧るんで、ゆっくりしてきてください!」
「すまん、恩に着る!」
ひろしはブースを抜け出し、社員証のパスを胸に揺らしながら、広大なビッグサイトのコンコースへと足を踏み出した。
(さて、何を食うか……。いや、何が『食える』んだ……?)
ひろしの脳内で、激しい会議が始まる。
(今の俺の体は、何を求めている? 汗を大量にかいた。塩分が必要だ。そして、午後からの地獄の撤収作業を乗り切るための『カロリー』と『スタミナ』……!)
(あっさりした蕎麦じゃない。コンビニのサンドイッチでもない。もっとこう……ガツンと来るやつ! 胃袋にガツンと重い一撃を叩き込んでくれるような、野性味溢れるパワーランチだ!)
ひろしの足取りは、自然と力強くなる。
しかし、彼はコミケという魔境の「常識」を、まだ知らなかった。
### 【第4章:絶望のランチ難民と、サラリーマンの意地(後半への引き)】
コンコースのレストラン街へ向かったひろしの足が、ピタリと止まる。
「……な、なんだこりゃあ……!!」
絶望だった。
カレー屋、海鮮丼屋、カフェ、和食レストラン。
そのすべての店の前に、数十メートルに及ぶ長蛇の列が形成されていた。
並んでいるのは、戦利品である薄い本や大量の紙袋を抱えた、猛者(オタク)たち。
(並ぶ……? この状態から並ぶのか? いや、無理だ。昼休憩の時間なんてとうに過ぎちまう!)
ひろしは踵を返し、コンビニへと向かった。
しかし、そこで彼が見たのは「焼け野原」だった。
おにぎり、弁当、パンの棚は見事にスッカラカン。残っているのは、のど飴と謎の栄養ドリンクのみ。
「嘘だろ……。数万人の人間の胃袋を満たすには、この巨大な施設の食料供給ラインすらパンクするってのか……!?」
これが、コミケ名物「ランチ難民」。
ひろしは西展示棟と南展示棟を繋ぐ通路で、膝から崩れ落ちそうになった。
(ダメだ……。どこもかしこも人、人、人。食い物にありつけない……)
(このままじゃ、俺は干からびて死ぬ。ふたば商事の野原ひろしが、コミケの熱気と空腹に敗れて倒れるなんて、みさえやひまわり、しんのすけに顔向けできねぇ……!)
朦朧とする意識の中、ひろしは屋外の展示場(キッチンカーエリア)へとふらつく足で向かった。
外は灼熱。アスファルトの照り返しが、容赦なくひろしを焼く。
だがそこにも、絶望的な長さの行列が――。
**その時だった。**
ひろしの嗅覚が、微かな、しかし強烈な「匂い」を捉えた。
(……ん? この匂い……スパイス……いや、肉を焼く匂い! しかもただの肉じゃない。ニンニクと醤油が焦げる、凶悪なまでに食欲を刺激する匂いだ!)
ひろしは顔を上げた。
行列の波の奥、目立たない端のスペースに、ぽつんと停まっている一台の黒いキッチンカー。
看板には荒々しい筆文字でこう書かれていた。
**『漢のスタミナ・超絶ガーリックホルモン丼 〜限界突破盛り〜』**
「……これだ……!」
ひろしの瞳に、かつてない野生の光が宿る。
(午後からの接客? にんにく臭くなる? 知るかそんなもん!! 今、この極限状態の俺を救えるのは、あの暴力的なまでの肉と脂と白飯だけだ!!)
(並んでやる……! サラリーマンの昼メシへの執念、見せてやるぜ……!!)
ネクタイを乱暴に緩め、腕まくりをした野原ひろしは、戦士の顔つきでキッチンカーの列へと足を踏み出した。
果たして、ひろしは無事に「超絶ガーリックホルモン丼」にありつけるのか?
そして、その強烈な一杯は、コミケという異常空間で限界を迎えたひろしの胃袋に、どんな至福をもたらすのか――!?
### 【第5章:灼熱の待機列と、焦がしニンニクの誘惑】
容赦なく照りつける8月の太陽。アスファルトから立ち上る熱気は、まるで巨大なオーブンの中にいるかのようだ。
だが、野原ひろしの足は決して揺らがなかった。
(暑い……。だが、この暑さこそが最高のスパイスになるはずだ!)
ひろしの目の前には、黒いキッチンカー『漢のスタミナ・超絶ガーリックホルモン丼』へと続く十数人の列。
並んでいるのは、両手に大量の紙袋を提げた戦士(オタク)たちだ。彼らもまた、戦場で枯渇したエネルギーを補給すべく、本能のままにこの列へ並んでいるのだ。
「ジュウウウウウッ……!!」
鉄板でホルモンが焼かれる猛烈な音が、ひろしの鼓膜を打つ。
同時に風に乗って漂ってくるのは、焦がし醤油と大量のすりおろしニンニクが混ざり合った、悪魔的なまでの香り。
**(……たまらん。胃袋がギュウギュウと鳴りやがる。俺の身体は今、明確に『肉』と『塩分』を求めている!)**
待つこと15分。
ついにひろしの番が回ってきた。キッチンカーの窓口から顔を出したのは、頭にタオルを巻いた筋骨隆々の店主。
「らっしゃい! 兄ちゃん、何にする!?」
「超絶ガーリックホルモン丼の……『限界突破盛り』を一つ!」
「あいよォ! 午後も戦うアンタに、特大のガソリン注入だ!」
受け取ったプラスチックの容器はずっしりと重い。
その重みは、サラリーマンの午後を支える「希望の重み」だった。
### 【第6章:青空の下のダイニング】
コミケの屋外キッチンカーエリアに、都合よく座れるテーブルなど存在しない。
ひろしは日陰になっている階段の隅に腰を下ろし、ネクタイを肩越しに跳ね上げた。
容器のフタを開ける。
**「……おおおおっ……!!」**
そこには、絶景が広がっていた。
白飯という名の大地を完全に覆い尽くす、照り輝く巨大なホルモンの山。
タレが焦げた茶色、ニンニクの白、そして頂上に鎮座する卵黄の黄金色。
青空の下、プラスチック容器の中に、ひとつの完璧な「宇宙」が完成していた。
(このビジュアル……反則だろ。午後からの接客? にんにく臭?……もう知るか! 今はただ、この欲望の塊を喰らいたい!)
ひろしは割り箸をパチンと割り、臨戦態勢に入る。
「いただきます!」
まずは、頂上の卵黄を箸の先でそっと突く。
とろりと溢れ出す黄金の滝が、タレの絡んだホルモンに絡みついていく。
その最も美しい部分を、ひろしは箸で大きくすくい上げ、一気に口の中へ放り込んだ。
### 【第7章:炸裂するスタミナ、真夏の昼メシの流儀】
**(……ッッッ!!!)**
噛み締めた瞬間、ひろしの脳天に雷が落ちた。
(美味い!! なんだこのホルモンの弾力! 噛めば噛むほど、甘い脂がジュワァァァッと溢れ出してきやがる!)
(そして、それを迎え撃つ強烈なニンニク醤油ダレ! 卵黄がまろやかに包み込んでいるのに、奥から暴力的なまでのニンニクのパンチが突き抜けてくる!)
ひろしの箸が加速する。
ホルモン、タレ、そしてタレが染み込んだ熱々の白飯。
これを三角食べの要領ではなく、一気に掻き込む。キッチンカーの「丼モノ」は、上品に食べるものではない。口の周りが汚れることなど気にせず、掻き込んでこそ完成するのだ。
「ハフッ、ハフッ……ンガッ、ムシャムシャ……!」
(濃い! 味が濃い! だが、大量に汗をかいた今の俺の身体には、この塩分と脂が細胞の隅々にまで染み渡るのが分かる!)
額から滝のように汗が吹き出す。
太陽の熱と、ホルモン丼の熱。二つの熱に挟み撃ちにされながら、ひろしは無心で丼に向かい続けた。
添えられた紅しょうがを挟む。
(この酸味と辛味が、脂っこくなった口内を完璧にリセットしてくれる。紅しょうが、お前は丼界の最高の名脇役だ!)
真夏の野外。
冷房の効いた快適なレストランでは絶対に味わえない、この野性味。
極限状態まで腹を空かせ、汗だくになりながら外で食う飯が、こんなにも美味いとは。
(最高だ……。俺は今、猛烈に『生きている』!)
最後のひと口。
タレと卵黄が完全に混ざり合ったご飯を、容器の底から一気に掻き込む。
喉を鳴らして飲み込み、ひろしは大きく息を吐き出した。
「……ふぅぅぅーーーっ。ごちそうさん!」
### 【第8章:戦士の帰還】
容器をゴミ箱に捨て、ひろしは立ち上がった。
腹の底から、マグマのような活力が湧き上がってくるのを感じる。
朝からの疲労は嘘のように消え去り、代わりにみなぎるスタミナが全身を駆け巡っていた。
「よっしゃ……! これで午後も戦い抜けるぜ!」
しかし、ふと我に返る。
(……待てよ。俺、これからブースでVR体験の案内とグッズ販売をするんだよな……)
自らの息を手のひらに吹きかけ、嗅いでみる。
**(……クサッ!! 尋常じゃなくニンニク臭い!!)**
「やっべぇ! 川口に殺される! いや、お客さんにドン引きされる!」
慌ててコンビニへ走り(奇跡的に列が短くなっていた)、黒烏龍茶と強烈なミントタブレットを買い占めるひろし。
タブレットを3粒一気に噛み砕き、お茶で流し込む。
(よし、応急処置は完了だ。あとは気合と笑顔でカバーする!)
再び、ふたば商事のブースへ。
「先輩、おかえりなさい! 随分スッキリした顔してますね!」
川口が汗を拭いながら迎えてくれる。
「おう川口! 待たせたな。俺は完全にフル充電完了だ!」
「マジっすか! じゃあ、午後のお客さんの案内、ガンガンお願いしますよ! ……って、なんか先輩、すげぇパワフルな匂いしません?」
「気にするな! これは『戦士のオーラ』だ!」
ひろしはネクタイを締め直し、再び人の波へと向き直る。
真夏のコミケ。
過酷な環境下で見つけた、至高のキッチンカー飯。
サラリーマン野原ひろしの「昼メシの流儀」に、また一つ、忘れられない強烈な1ページが刻まれたのだった。