1989年7月5日 晴れ
国境近くに位置するこの宿場町は、いつ訪れても特有のむせ返るような熱気と、どこかちぐはぐな空気を孕んでいる。
石造りの堅牢な建築物に寄り添うように、木材とトタンで急造されたような屋台がひしめき合い、頭上には原色に近い鮮やかな民族模様の布が日除けとして無数に張り巡らされている。
行き交う人々の服装も、近代的なシャツを着た商人もいれば、伝統的なゆったりとしたローブを纏う者もおり、言葉のアクセントすら通りを一本挟むだけでガラリと変わる。
文化が混ざりきらず、しかし力強く共存しているこの雑多な風景は、文化民俗学を志すわたしの心をひどく刺激した。
(あー……やっぱり、カメラ持ってくるんだった)
わたしは小さくため息をつきながら、手ぶらの自分の肩を無意識に撫でる。
激しい立体機動の衝撃からも愛用のフィルムカメラを守るための専用肩掛けカバンは、今日はキャンプ地のテントの中に置いてきていた。
5日前にノノを保護した際にもこの街を訪れているので、初めて見る光景というわけではない。 だが、あの時は逃げ回るノノを追いかけるのに必死で、街の景観をじっくり観察する余裕など一切なかった。
今はこうして落ち着いて歩いていると、記録に収めておきたい風俗や意匠が次々と目に飛び込んでくる。
しかし、今日の目的はあくまで買い出しだ。 両手を空けて荷物を運ぶ必要があったし、何よりこの街の治安は、決して手放しで安全とは言えない。
表通りこそ商気溢れる活気に満ちているが、視線を少し路地裏や町外れに向ければ、昼間から薄暗い影が落ち、物色するような鋭い視線が這い寄ってくるのを感じる。 高価なカメラなど首から下げていれば、あっという間に標的にされかねないだろう。
もっとも、今のわたしが絡まれる心配は皆無に等しかった。
「どうした、クガーニャ。何かあったか?」
「いえ、なんでもないです!」
わたしの半歩前を歩いていた、長身のヴェラム先生が振り返る。
身長187センチ。鍛え抜かれた鋼のような肉体を持つ先生が、今日はアタッシュケースを持たず、いつも羽織っているベージュのロングコートを無造作に肩に掛けて歩いている。
初夏を過ぎたこの季節、あのコートを着込むのは流石に暑そうに見えるが、あれは先生の能力『積層する紙片(ステイタス・クオー)』によって生成された擬態装甲だ。 身を守るための最低限の保険として、手放すわけにはいかないのだろう。
そんな隙のない巨漢が鋭いセピア色の瞳で周囲を一度でも睨みつければ、路地裏のチンピラたちは蜘蛛の子を散らすように奥へと引っ込んでいった。
◆
「……うーん。やっぱり、こういう柔らかい素材は難しいですよね……」
街の中心部にある衣料品店で、わたしは頭を抱えていた。
店内に所狭しと並べられた子供服のコーナー。 わたしはノノの体格に合いそうな、推定五歳から七歳サイズの色とりどりの服を前にして、ひたすらに悩んでいた。
せっかくなら、スラムの煤と泥にまみれたあのボロボロの布切れではなく、年相応の可愛らしいデザインのものや、肌触りの良い柔らかいコットンの服を着せてあげたい。 フリルが付いたワンピースや、動物の刺繍が入ったシャツ。
わたし自身の服は機能的な軽装ばかりだが、自分よりずっと小さな女の子の服を選ぶとなると、どうしても「保護者」としての親心、姉心のようなものが湧いてきてしまう。
だが、そのたびに脳裏をよぎるのは、あの容赦のない『削り取る鮫肌(かりとるシャークスキン)』のオーラだ。
感情の起伏に連動して無差別に周囲を削るあの能力。 ノノがパニックを起こせば、こんな繊細な作りの服など、数分と持たずにズタズタの雑巾に変わってしまうだろう。
かといって、厚手の帆布や革のようなゴワゴワした服ばかりでは、あの子の小さな体に負担がかかってしまう。
「先生、どうしましょう。丈夫さを取るか、着心地を取るか……」
わたしが振り返ると、少し離れた通路の中央で腕を組んでいた先生が、呆れたように息を吐いた。
「悩む必要がどこにある。数でどうにかしてしまえ」
「えっ、数、ですか?」
「ああ。一日でボロボロになるなら、一日三回着替えさせればいいだけの話だ。一週間で二十着消費するなら、五十着買っておけば済む」
先生は、ただ顎で棚の端から端までを示した。
「そこからそこまで、あの子のサイズに合うものを全部見繕え。着やすそうなもの、お前が着せたいものを片っ端からだ」
「ぜ、全部!? いやいや、いくらなんでもお金が……!」
ハンターの収入が多いのは知っているが、いくらなんでも無茶苦茶だ。 慌てて首を振るわたしに、先生は鼻で笑った。
「シングルハンターの収入を舐めるな。服の値段なんて誤差みたいなもんだ。それに、後でゼルビンにも請求書を回して払わせればいい。アイツなら国でも買える」
「……く、国!?」
わたしは目を見開いて、思わず変な声を出してしまった。
「まあ、その後の管理や維持が面倒だとか言って、国なんて今となっては買わないだろうがな」
さらりととんでもない新情報を口にしながら、先生は肩掛けのコートを揺らした。
「ここに手の空いた頑丈な荷物持ちがいるんだ。そこの隅にあるでかいカバンもいくつか買って、それに全部詰め込め」
ゼルビンさんって、一体どれほどの財力を持っているんだろうか。 昨夜の底知れないオーラ制御に加え、国を買えるほどの資産。謎がどんどん増えていく。
だが、先生の言う通り「数でゴリ押す」のが今のノノには最も現実的な対策かもしれない。
「わかりました。じゃあ、遠慮なく……!」
わたしは意を決して、棚からノノのサイズに合う服を次々と選び出した。
Tシャツ、ズボン、スカートにワンピース、下着や少し肌寒い夜のためのカーディガン。 可愛らしいデザインのものも、シンプルなものも、とにかく良さげなものをサイズ確認だけしてカウンターに積み上げていく。
その尋常ではない量に、最初は怪訝な顔をしていた店員たちの目の色が変わり始めた。
「お、お預かりいたします……あの、本当に全部よろしいので!?」
「ああ。一括で頼む」
先生が懐からカードを取り出して提示すると、店長らしき恰幅の良い男が飛んできて、揉み手をしてすり寄ってきた。
「ははぁっ! 毎度ありがとうございます! おいお前ら、早く!人手をかき集めろ! 丁寧に、迅速に詰め込むんだ!」
ハンターライセンスをチラつかせたわけでもないのに、カードのブラックな輝きだけで店員たちが総出で対応に当たる。 レジ打ちの音が鳴り響く中、綺麗に畳まれた大量の子供服が、次々と真新しい巨大なカバンへと吸い込まれていく。
その狂騒を横目に、わたしは「ノノを綺麗にするための作戦」を頭の中で組み立てていた。
「先生、服の精算が終わったら、次は日用品のお店に行きましょう。シャンプーとか、石鹸とか、肌に優しい柔らかいタオルとか、あと櫛も必要ですね。あの子の髪、泥と油でガチガチに固まってるから、かなり丁寧に洗ってあげないと……」
「ああ、わかった。お前に任せる。俺にはその辺のことは分からん。荷物はいくらでも運んでやる」
頼もしすぎる荷物持ちの言葉に、わたしは嬉しくなって頷いた。
◆
「ふう……ごちそうさまでした!」
昼時をすっかり過ぎ、閑古鳥が鳴いている静かなカフェのテラス席。 わたしは大盛りのパスタとサラダの乗った皿を綺麗に空にし、満足げに息をついた。
足元や隣の椅子には、先ほど爆買いした衣料品や大量の生活雑貨が詰め込まれた巨大なカバンが山の様に鎮座している。
強化系の頑丈な体とはいえ、昨夜の疲労と今朝からの歩き詰めで消耗していた体力も、美味しい食事を胃袋に流し込んだことで完全に回復した。 やはり、健康優良児たるもの、しっかり食べてしっかり動くに限る。
「よく食うな、相変わらず」
向かいの席で、先生がカランと氷の音を立ててアイスコーヒーのグラスを傾けた。
「先生が奢ってくれるっていうから、遠慮なくいただいちゃいました」
わたしは笑って答えながら、食後のデザートであるフルーツタルトが運ばれてくるのを待つ間、ふと視線を落とし、数時間前の──今朝のキャンプ地での光景を思い返していた。
◆
――今朝、鳥のさえずりでテントを這い出たわたしは、呆然と立ち尽くした。
昨夜赤々と燃えていた焚き火はすっかり燃え尽き、白い灰になっていた。 しかし、その灰の向こう側。銀色の金属の椅子に座るゼルビンさんの姿は、昨夜と全く同じだったのだ。
ノノはヨルをしっかりと抱きしめたまま、ゼルビンさんの膝の上で丸くなって眠り続けている。 そしてゼルビンさんも、目を閉じて、微動だにせずその姿勢のまま一晩を明かしたようだった。
寝付きの悪い我が子ならともかく、他人の──それも、いつ無意識の能力で自分を削り取ってくるかわからない野生児の下敷きになったまま、一歩も動かずに朝を迎えるなど、普通の神経では考えられない。
だが、わたしが何より戦慄したのは、ゼルビンさんのすぐ傍らにある切り株の上に、わたしの記憶にない『飲み掛けのコーヒーカップ』が静かに置かれていたことだ。
(動けないはずなのに、どうやって淹れたの……?)
魔法か、それともわたしには見えなかった別の何かが動いたのか。
訳ありの、薄汚れた見ず知らずの孤児に対し、服を汚されることも厭わず、微動だにせずクッションになり続ける。 その底知れない気の長さ、許容範囲の異常な広さ。 そして、それを「暇だから」と片付けてしまう圧倒的な余裕。
『すまんが、しばらく任せた』
そう言って、いつもなら絶対に手放さないアタッシュケースをテントに置き、軽装でわたしを促した先生の言葉が、耳に残っている。
先生は、ゼルビンさんなら何があっても、絶対に安全だと確信しているのだ。
◆
「お待たせいたしました、季節のフルーツタルトでございます」
店員がコトッと皿を置く音で、わたしは回想から引き戻された。
「あ、ありがとうございます」
フォークを手に取りながら、わたしはたまらず前のめりになって先生に問いかけた。
「ねえ、先生。ゼルビンさんって、一体何者なんですか?」
先生はグラスを置き、ふう、と息を吐いた。
「昨日の今日だ。そりゃ気になるわな」
周囲を見渡し、テラス席にわたしたち以外の客がいないことを確認してから、先生は静かに口を開いた。
「俺が新人の頃から時折世話になっているコレクションハンターで、かなりのベテランだな。本業は古物商だ」
そこで一度言葉を切り、先生は思い返すように視線を遠くへやった。
「俺が遺跡調査で掘り当てちまった『表に出せない訳ありの品』を、高値で買い取ってくれたこともあったな。除念が必要だったりな」
「訳ありの品……」
「他にも色々とやっていて、企業群と言ってもいい規模の組織を束ねてる。『アルト財団』って名前くらい、お前も知ってるだろ?」
「ア、アルト財団!?」
わたしは思わずフォークを落としそうになった。 慌てて手元を立て直し、先生の顔をまじまじと見つめる。
「当然知ってますよ! 歴史的な遺跡や文化の保護活動や、希少生態系のサンクチュアリ運営、色んな事業に莫大な資金を投じている、超巨大な国際財団じゃないですか! わたしたち文化民俗学や考古学を志す人間で、知らないなんてモグリですよ!」
興奮気味にまくしたてるわたしを見て、先生はクスリと笑う。
「あ!ゼルビン=アルトの『アルト』って……」
「その創設者だ」
「ええええっ!?」
あまりの事実に、わたしは完全に言葉を失った。 あの呑気そうに焚き火の前で猫を撫でていた人が、世界経済を裏から回す超大物?
「ひ、暇人って言ってたのは……?」
「事実だ。本人はって枕詞が付くがな」
先生はグラスの結露を指で拭いながら、呆れたように肩をすくめた。
「もうアイツがいなくても、関連した組織や財団はほぼほぼ、回るようになってる。なんなら数年前から、一部の信頼できる相手以外には目立たないように、表立った繋がりや名前を消し始めてるからな。完全に隠居生活でのんびり気ままにやってる。だから、俺も今回みたいに気軽に呼び出せたんだ」
信じられないという顔をしているわたしを余所に、先生は言葉を続ける。
「星は俺と同じシングルだが、ちゃんと弟子さえ取れば、トリプルハンターになっていてもおかしくないくらいの実績とやり手だ。どうせ協会に申告していない規格外の功績が、ごまんとあるだろうよ」
「じゃあ、なんで弟子を取らないでシングルのままなんですか?」
「『星が増えても手間が増えるだけだから』だそうだ。弟子を取れとか、功績の申告をしろっていうハンター協会からの圧力を、面倒くさがって全部蹴っ飛ばしてる。シングルを取ったのも、自分の師匠への義理立てだったそうだ」
スケールが大きすぎて、めまいがしてきた。 わたしは乾いた喉を潤すように、タルトを一口かじった。甘さが脳に染み渡る。
「……じゃあ、あの『ヨル』っていう黒猫は?」
わたしは核心に触れた。
「ただの黒猫に見えるのに、ノノの能力が全く効かない。ゼルビンさん本人も無傷でした。先生はタネも仕掛けも知ってるって言われてましたよね」
流石に他人の能力の全容をペラペラと喋るのはハンターとしてのタブーだ。 先生も少し言い淀むような素振りを見せた。 しかも、相手は敵ではなく、むしろ恩人であり世話になっている先輩だ。
「まぁ、あいつも前に『もういい』と言っていたし、概要くらいは教えてもいいか。昔はわざわざ念で厳格な守秘義務契約まで結ばされたんだがなぁ……」
先生はそう前置きして、試すような視線をわたしに向けた。
「その前に、クガーニャ。お前はどう見た? あの男の能力を」
「えっと……」
わたしはフォークを持ったまま、昨夜の記憶をフル回転させた。
「普通の猫とは思えません。猫が自力で念を修得して使えるなんて聞いたことがないし。でも、ノノの『オーラを削る能力』と矛盾してるけど、やっぱり念獣ですよね?」
先生が促すように顎をしゃくる。わたしは言葉を継いだ。
「でも、おかしいんです。あの銀色の金属の椅子。あれも念能力ですよね。金属操作と念獣、二つも複雑な能力を持っているなんて……まだ、『あの金属も念獣で、念獣を二体扱っている』と考えた方が信じられます」
「ほう。なぜだ?」
「だって、ニ種類の性質の違う能力を極めようとするより、念獣を二種類とする方が負担が少ないじゃないですか」
わたしは、タルトの果実を一つ口に放り込んで、思考を整理しながら続けた。
「ただ、具現化系って、一種類の物を具現化するだけでもものすごく大変なんですよね? 質感や温度、構造まで何年もかけてイメージしなきゃいけないのに、それを『念獣』という形で複数生み出すなんて。どっちにしろ能力者の処理能力……頭のキャパシティが足りるわけがないです」
そこまで言って、わたしはハッとした。
「あと、気になるのは首元のタトゥーです。あの金属の椅子も、わざわざ右腕の袖の中から出てきてましたし」
わたしは自分の首元を指差しながら、身を乗り出した。
「もし本当に複数の念獣を扱えるんだとしたら……わたしが見ただけでも、首元に一つずつ違うデザインのタトゥーが複数ありました。あれが、念獣たちと繋がっているんじゃないですか? なんらかの『制約と誓約』として」
全身にあのタトゥーが刻まれているとしたら、一体どれだけの数の念獣と、どれだけ重い制約を背負っているのか。 想像するだけでぞっとする。本当に一人の能力者でどうにかなる代物ではない。
「でも……だとしたら、どれほどの誓約を課せばあんな規格外のことができるのか。それに、そもそも『ノノの能力が効かない理由』にはなってないですよね。念獣としての特殊な耐性の可能性もありますけど、ゼルビンさん本人も平気そうでしたし」
年齢とオーラの矛盾もそうだ。
「それに、先生より少し上に見えましたけど、あそこまでの完璧なオーラ制御の技量に達するなんて、年齢が釣り合ってない気がします。もっとも、かなりの年齢だったとしてもおかしいレベルでしたけど」
わたしが一通り推理を披露すると、先生は感心したように口角を上げた。
「アイツは確か、五十手前だぞ」
「ご、五十!? えっ、うそ!?」
思わず大声を出しそうになり、慌てて口を両手で塞いだ。 どう見ても三十代半ばの若々しさだったのに。
「アルト財団の創設が三十年近く前だ。創設時の年齢をどんなに若く見積もって十歳だとしても、四十歳は超えないと無理があるだろ。本人も『おじさん』って言ってただろうが」
確かに言っていたが、謙遜だと思っていた。
「だが、なかなか鋭いな」
先生は満足げに頷く。
「見て拾える情報だけでそこまで考慮できたなら、新人としてはほぼほぼ満点だな。あとは経歴まで含めればだが、それは新人に求めすぎだな。ただ単に、あいつが歴史的なイレギュラーなだけだ」
先生はアイスコーヒーの残りを飲み干し、氷をカラカラと鳴らした。
「お前の想像通り、色々とややこしい制約と誓約があるが、あいつは『複数の念獣を扱える能力者』だ。詳細は教えてやれんがな」
「やっぱり……」
「いいか? クガーニャ。ゼルビン本人は、殴ろうがどう扱ってもいいが、あの黒猫だけは絶対に丁重に扱え」
「えっ、本人はいいんですか?」
「大体のことは『面倒だ』とか『どうでもいい』で終わるか、面白がるかのどっちかだ。暇人だからな。だが、ヨルが関わると話は別だ」
先生の目が、少しだけ鋭い色を帯びた。
「ゼルビンの三十年を超えるハンター人生は、ヨルが傷つかない為に費やされたようなもんで、今となっては本人より何倍、何十倍もあのお猫様の方が強い化け物だ」
本人より何十倍も強い念獣。 そもそも念獣が傷つかない為とは……。
「本人のオーラ運用も異常だからな。ノノの能力が効かない、効いていない様に見えるのは、これも色々とややこしいんだが『耐性効果のある能力』を持っているのと、理解不能なレベルの『隠』とオーラ運用で誤魔化してるんだろ。そもそも、お前が見たあのオーラ量も擬装だからな」
「擬装……あんな新人のようなオーラに?」
「ああ。ある種の選別と警告だな。あのオーラ量と練度の組み合わせはまず、あり得ないからな。よっぽどの新人かバカでも無い限り、絡むヤツはいないさ」
「普通は……警戒しますよね」
「そして、ヨルにノノの能力が効かないのは、能力相性もあるが、単純にヨルが化け物だからだな。アイツにノノの削りが通用しないなら、ヨルに通用しないのもある種、当然のことだ」
先生は忌々しそうに、しかしどこか畏敬の念を込めて言った。
「それでも、あの大事なお猫様を傷つけようとすれば、アイツの怒りを買う事になる。そうなればゼルビン本人と、無数の念獣軍団、背後に控える国家規模の企業群を全て敵に回すことになる。俺は絶対にごめんだな。というか、物理的に無理だ」
「先生でも、ですか……?」
「そもそも、あの銀色……『シルバタール』と言うんだが。アレだけでも、俺じゃ耐えられない」
「ええっ!?」
わたしは目を見開いた。
先生は、遺跡や出土物の保護も請け負うが、古文書や碑文、古代文字の研究が本業だ。
だが、その肉体はまさに鋼鉄。 分厚い筋肉とオーラ、『積層する紙片』による防御力は、「武闘派ではない」と言い張るものの、強化系を真っ向から殴りあえるほどのタフさを誇るのだ。 その先生が、「耐えられない」と断言した。
「複数の念獣がいるってことは、戦況のすべてをコントロールできるってことだ。相手の能力を見極めてから、最も相性の悪い手札を叩きつけられる。後出しジャンケンし放題さ。それも、本人は安全圏に引っ込んだままでな」
先生の言葉が、ズシンと腹の底に響く。
「あいつも『私は武闘派ではない』と涼しい顔で宣うだろうさ」
先生は窓の外に目をやりながら、ぼやいた。
「そもそも、念獣軍団、複数対個人の戦いになっちまうから、タイマンの尺度で測ること自体が間違ってるんだがな。そのくせ、本人には強さへの拘りなんて微塵もないだろうが」
昨夜、焚き火の向こうで微笑んでいたあの穏やかな男が、それほどの軍勢を抱えた怪物だったとは。
「今となっては、どうやったらあのヨルが傷付くのか、俺には分からん。対ヨル専用の能力を念能力者、十人、二十人単位の、相互協力型ででも育て上げるくらいしか思いつかんな」
「そ、それなら勝てるんですか?」
「いや。まぁ、育ち切る前に気付かれて、財力と情報網で社会的に潰されるか、寝首を掻かれて終わりだろうさ。それに、ヨルやシルバタールみたいな化け物みたいな手札もあるが、アイツは負けない為の状況作りを極めた能力者だからな。負けないヤツには勝てないって訳だ」
先生は呆れたように笑い飛ばした。
◆
カフェを出たわたしたちは、市場の活気ある通りへと足を向けた。
服や日用品は確保した。あとは、今日の夕食と明日の朝食のための生鮮食品──肉や野菜、パンなどを手早く買い込むだけだ。
「ほら、さっさと歩け。日が傾き切る前に山に戻るぞ」
大量の荷物が詰め込まれた特大のボストンバッグを二つも肩に担ぎ、さらに食材の入った紙袋を抱えながらも、先生の足取りは驚くほど軽い。
「はいっ! 今行きます!」
わたしも両手に荷物を抱え、急ぎ足で先生の後を追った。
街の喧騒を背にして、なだらかな山道へと足を踏み入れる。 木々の間から差し込む午後の日差しが、少しずつ傾き始めていた。
わたしの頭の中は、先ほど聞いたゼルビンさんの規格外の情報の余韻と、新たな謎でぐちゃぐちゃになっていた。
(複数の念獣に、それぞれ異なるデザインのタトゥー。重い制約と誓約……)
山の斜面を歩きながら、頭の中で彼の手札をおさらいする。
(それに加えて、強固なオーラの擬装技術と、ノノの力を無効化する謎の耐性系能力。……無茶苦茶だ。そんなの、処理能力がどう考えたって足りない)
ふと、ある可能性が脳裏をよぎり、わたしはハッと息を呑んだ。
(具現化系や操作系だけじゃ説明がつかない。でも、もしゼルビンさんが……血統や特殊な環境でしか発現しないと言われる『特質系』の能力者だったとしたら……?)
それなら、この常識外れな能力の数々も、真相自体は分からないままだが、かろうじて説明がつくかもしれない。 底知れない大先輩の姿を思い浮かべ、わたしは身震いするような畏敬の念を抱いた。
だが、昨日までの絶望的ですらあったピリピリとした緊張感は、今はもうない。
あの底知れない大先輩がいてくれるなら、何があってもノノは絶対に大丈夫だという確信があるからだ。
(早く戻って、ノノにこの可愛い服を見せてあげたいな)
買ってきたばかりの、柔らかいコットンの小さなTシャツ。 そして、肌に優しい石鹸とシャンプー。
スラムで生き抜き、大人を拒絶し続けてきたあの子の、泥と油で固まった髪を、今日こそは綺麗に洗ってあげられるかもしれない。
「……キャンプ場の裏手の小川の水、冷たくないといいな」
わたしは誰に言うともなく小さく呟き、荷物を抱え直して、山の頂へ向かう坂道を元気よく駆け上がった。
トラウマを抱えたハンターが経済発展に特化したら、これくらいにはなりますよね?