1989年7月6日 晴れのち曇り
「踏み込みが浅い! オーラの移動が遅れてるぞ!」
腹部にめり込むような重い衝撃。
わたしは肺から空気を無理やり吐き出されながら、泥だらけの地面を数メートル後方へと滑るように後退した。
「ぐっ……!」
両足を踏ん張り、なんとか転倒だけは免れる。
息が上がり、全身が鉛のように重い。
キャンプ地の少し開けた場所。
初夏の強い朝の日差しを遮るように、上空には少しずつ白い雲が広がり始めていた。
わたしたちは今、お互いの『発』を使わない、純粋な体術と念の基礎と応用のみでの組み手を行っている。
「どうした。もう息が上がってるぞ」
数メートル先で、ヴェラム先生が余裕の表情で構えを解かずに立っている。
強化系のわたしでさえ、真正面からの打ち合いでは、先生の巨大で鋼の様な筋肉には容易く押し負ける。
だからこそ、わたしは故郷で叩き込まれた伝統武術の型──極端に重心を落とした、地を這うような低い姿勢で立ち回り、素早いフェイントと敏捷性でなんとか先生の攻撃を捌き、隙を窺うしかなかった。
「まだまだ……!」
荒い息を吐きながら、もう一度地を蹴ろうと構え直した、その時だった。
「……そこまで。一旦休憩だ」
ふいに、先生が構えを解いて息を吐いた。
拍子抜けしてぽかんとしているわたしに、先生は呆れたように顎をしゃくった。
「気が散ってるぞ、クガーニャ。さっきからチラチラと、あっちばっかり気にしてるじゃないか」
「えっ? あ、いや、そんなことは……」
図星を突かれ、わたしは誤魔化すように視線を泳がせた。
確かに、無意識のうちに視線が向かっていた。少し離れた木陰にある、昨日から「変わらないようで、劇的に変わった」光景へと。
「……まあいい、少し休め」
先生がタオルを投げて寄越してくれた。
それを受け取り、顔の汗を拭いながら、わたしは改めてその光景へと目を向けた。
燃え尽きた焚き火の跡の向こう側。
相変わらず豪奢な銀の椅子『シルバタール』に深く腰掛けたゼルビンさん。
その膝の上を我が物顔で陣取り、大きな黒猫のヨルを抱きしめている小さな影。
変わったのは、その「小さな影」の見た目だ。
スラムの泥と煤で真っ黒に汚れ、悪臭すら放っていた野生児の姿は、もうそこにはない。
サラサラと風になびく髪。抜けるように白い肌。
昨日、わたしが悩みに悩んで買ってきた、肌触りの良いコットンの可愛らしいTシャツと、動きやすいハーフパンツ。
見違えるほど綺麗になったノノの姿を見つめていると、不意に、わたしの意識は「昨日の夕方」へと引き込まれていった。
◆
──昨日の午後四時頃。
街での爆買いを終え、巨大なボストンバッグを両肩に担いだ先生と、食材や日用品の紙袋を抱えたわたしが、ようやくキャンプ地へと帰り着いた時のことだ。
夕方と呼ぶにはまだ早く、日差しが木漏れ日となってテントを照らしていた。
「……あ、ゼルビンさん。ノノも起きて……えっ?」
荷物を下ろそうとしたわたしは、その異様な光景に目を丸くした。
買い出し前と変わらない定位置。
銀色の椅子に座るゼルビンさんの膝の上で、ノノは目を覚ましていた。
だが、ヨルを両手でぎゅっと抱きしめたままのノノは、まるで巣で親鳥を待つ雛鳥のように、小さく口を開けて上を向いている。
そこへ、ゼルビンさんが自分の手元にあるクロワッサンを指先で小さくちぎり、ポイッとノノの口へと差し入れていた。
もぐもぐ。
ノノが咀嚼して飲み込むと、再び「あーん」と口を開ける。
ゼルビンさんが、また欠片を入れる。
なんだこの、シュールすぎる餌付けの光景は。
過酷なスラムで、誰も信じず、食べ物を盗んで必死に逃げ回っていたあの野生児が、あまりにも無防備に餌付けされている。
ガサッ。
わたしが呆気にとられて紙袋を地面に下ろした瞬間、その物音にノノがビクッと肩を震わせた。
この時点では、こちらが逆光になっていたせいもあり、不意の物音でノノは誰が帰ってきたのか分からなかったのだろう。
「シャーッ!」
威嚇の声と共に、彼女が腕の中のヨルを強く抱きしめる。
同時に、ノノの全身から放たれる『削り取る鮫肌』のオーラ出力が一気に跳ね上がった。
空気がヤスリのように軋み、周囲の小石がチリチリと削れて粉を吹く。
わたしは思わず「しまった」と息を呑んだ。
だが。
「……はい、どうぞ」
ゼルビンさんとヨルは、その凶悪なオーラの暴走を、文字通り「全く」気にしていなかった。
ゼルビンさんは平然とした顔で、次のクロワッサンの欠片を、ヤスリの嵐が吹き荒れるノノの口元へと差し出している。
服の袖も、手首も、一切傷ついていない。
「にゃぁ〜」
強く抱き締められ、本来なら削り取られて激痛が走っているはずのヨルが、欠伸でも交じるような呑気な声で一鳴きした。
『仕方ないなぁ』という呆れと、『大丈夫だよ』と宥めるような、不思議な安心感のある鳴き声。
その声に気を取られたノノが、ハッとしてこちらにしっかりと視線を向けた。
立ちすくむわたしと、荷物を下ろす先生の姿を認識すると、ノノの大きく見開かれていた琥珀色の瞳から警戒の色がスゥッと引き、暴走していたオーラの出力も、元の最低限の削り状態へと落ち着いていった。
「おかえりなさい。買い出し、お疲れ様でした」
ゼルビンさんが、クロワッサンの最後の一欠片をノノの口に放り込みながら、何事もなかったかのように微笑んだ。
「た、ただいま戻りました……。その、わたしたちがいない間、ノノは大丈夫でしたか?」
「ええ。とても大人しく、お利口に留守番をしてくれていましたよ」
(いや、今さっき物凄い出力で削りかかってましたけど!?)
心の中で激しくツッコミを入れながらも、わたしは買ってきたばかりの紙袋から、石鹸やシャンプー、タオルを取り出した。
「ノノ。ちょっとこっちにおいで。裏の小川で、一緒に水浴びしよう?」
少し大きめの声で優しく誘ってみるが、ノノは首を横に振り、ゼルビンさんのシャツの裾をギュッと掴んで、ヨルと一緒に膝の上から動こうとしない。
「……おやおや。では私も一緒に行きましょうか」
ゼルビンさんがそう言うと、彼はノノとヨルをまとめてヒョイッと抱きかかえ、ゆっくりと立ち上がった。
その瞬間だった。
ゼルビンさんが座っていた豪奢な『銀色の椅子』の輪郭がドロリと崩れ、液状の金属へと姿を変えた。
そして、重力に逆らうように宙を這い上がり、ゼルビンさんの右腕の袖の中へと、音もなくシュルシュルと吸い込まれていったのだ。
「えっ……」
出現する時も見たが、収納される時もやはり異常な光景だ。
あの巨大な椅子を形作っていたかなりの質量の金属が、袖の中に完全に収まってしまう。
物理法則など欠片も存在しない。
「では、案内してもらえますか?」
「あ、はいっ! こっちです」
わたしはタオルと着替えを抱え、ノノたちを抱いたゼルビンさんを先導して、キャンプ場の裏手へと歩き出した。
「俺は買ってきた荷物を整理してる」と、背後で先生が手を振っていた。
◆
森の木々を抜けると、さらさらと涼しげな音を立てて流れる小川にたどり着いた。
夏の夕暮れ時。周囲はまだ明るいが、木陰に入ると少しひんやりとする。
「さてと……」
わたしは水浴びセットを岩の上に置き、小川に駆け寄り、水にそっと手を入れてみた。
「……冷たい」
思っていたよりも、山の水温は冷たかった。
健康な大人なら平気だが、極度に痩せ細り、栄養失調状態のノノがこの冷水で全身の汚れを落とすとなると、体力を奪われすぎて負担が大きい。
「どうしよう……焚き火でお湯を沸かして、タオルで拭いてあげるくらいに留めた方が……」
わたしが一人で頭を悩ませていると、近くまでやってきたゼルビンさんが、ノノを左腕で抱きかかえたまま、スッと右腕を小川の方へと向けた。
ドロォ……。
再び、ゼルビンさんの右腕の袖口から、あの銀色の液体金属(シルバタール)が大量に溢れ出した。
だが、今回溢れ出た銀色は、椅子にはならなかった。
瞬く間に形作られたのは、子供がすっぽりと入れるサイズの『バスタブ』と、そこから伸びる『シャワーヘッド』。
さらに、小川の水面へと太い金属の管が伸びると、勝手に水を汲み上げ始め、バスタブの淵に生えた蛇口から、ゴボゴボとお湯が注がれ始めたのだ。
「ええっ!?」
わたしが驚いてバスタブに駆け寄り、注がれているお湯に手を入れて確かめる。
お湯に慣れないであろう、ノノに程よいぬるま湯だ。
「……あったかい。これならノノでも負担にならないです!」
「シルバタールは万能ですから」
ゼルビンさんは、呑気に微笑んだ。
万能。
その言葉の響きに、わたしは背筋が粟立つような寒気を覚えた。
『アレだけでも、俺じゃ耐えられない』
昼間のカフェで先生が言っていた言葉が脳裏に蘇る。
(……これだけの質量と硬度が、もし一瞬で無数の『刃』へと変形し、全方位から襲いかかってきたら?)想像した途端、背筋を強烈な悪寒が駆け抜けた。防御も回避も間に合わない。文字通り、戦いにすらならないのだ。
「クガーニャさん、お湯が溜まりましたよ」
「っ、は、はいっ!」
ゼルビンさんの声で、わたしは我に返った。
いけない。
今は戦闘のシミュレーションをしている場合じゃない。
ノノの汚れを落として、綺麗にしてあげることが先決だ。
わたしは気を取り直して、ゼルビンさんに抱えられているノノに声を掛けた。
「さあ、ノノ。お湯に入ろう。大丈夫だよ、あったかいから」
だが、ノノはゼルビンさんから降りようとしない。
初めて見るバスタブと、湯気に警戒しているのか、ヨルに顔を隠してギュッと身を縮めている。
すると、ノノの腕の中にいたヨルが、するりと抜け出した。
タッタッと軽い足取りでバスタブの淵に飛び乗ると、そのまま躊躇うことなくお湯の中へとスルッと入っていった。
「にゃ〜」
ヨルはお湯に浮かびながら、気持ちよさそうに目を細めて鳴いた。
さらに、バスタブの淵の金属が一部だけスルスルと伸びてベンチのような形になり、ゼルビンさんがそこに腰を下ろした。
お湯に浮かぶヨルと、ベンチから動かないゼルビンさん。二つの『安全』をじっと見比べていたノノの強張った肩が、ふっと下がる。彼女はバスタブの中のヨルに向かって、恐る恐る小さな手を伸ばした。
「よしよし。じゃあ、お洋服脱ごうね」
わたしはノノを驚かせないように、ゆっくりとした動作で、もう布切れと化したボロボロの服を脱がせていった。
ノノがゆっくりとバスタブへと足を踏み入れ、お湯の中に座り込むと、すぐにヨルに抱きついた。
ザザッ……。
慣れないお湯の感触に驚いているのか、ノノのオーラの出力が少し上がり、バスタブの内側をヤスリで削るような微かな音が響いた。
「よし、じゃあ早速……」
わたしがタオル片手に意気込んで近づいた時、ゼルビンさんから声が掛かった。
「クガーニャさん。今回は仕方ありませんが……なるべく早めに、一人でノノをお風呂に入れられるようになってくださいね」
呑気そうだが、どこか真剣な声色だった。
「えっ? あ、はい。……私がノノの警戒を解くための、修行の一環ですか?」
「いえ。いくら幼いとはいえ、私のようなおじさんが少女をお風呂に入れるのはいかがなものかと思いますから」
「……倫理的な問題で、ですか?」
「ええ、倫理的な問題で」
昨晩の買い出しを促す時と全く同じ言い回しに、わたしは思わず脱力しそうになった。
「いやいや! 倫理以前に、私一人じゃノノがパニックになってお湯にすら入ってくれませんよ! それに私のオーラが途中で切れて手がヤスリがけされちゃいます! せめて髪だけでも、ゼルビンさんが洗ってください!」
「……やれやれ。では、髪の毛だけですよ。」
ゼルビンさんは上着を脱ぎ、左手の革手袋を外して、濡れないように左腕の袖をまくり上げた。
しかし、右手は手袋も外さず、袖もまくらないままだった。
わたしは、あらわになった左腕に刻まれた、様々なルーツの混ざり合った無数のタトゥーに文化民俗学的な興味を惹かれつつも、それ以上に『右腕』が気になった。
「あの、右手は……濡れてもいいんですか?」
わたしが不思議そうに尋ねると、ゼルビンさんは困ったように微笑んだ。
「訳ありでして。あまり人に見せるものではありませんから。興味があるなら、落ち着いた時にでもお見せしますよ」
タトゥーだらけの異様な左腕よりも、「見せられない右手」。
一体、あの袖の中には何が隠されているのだろうか。
だが、今は深く追求するべき時ではない。
わたしは石鹸を泡立て、ボロボロになっていく使い捨てのタオルを使って、ノノの細い身体を洗っていった。
ゼルビンさんも、ノノが痛がらないように器用な手つきで、泥と油でガチガチに固まった髪を解きほぐしながら洗っていく。
途中、何度かお湯が真っ黒に濁ったが、その度にシルバタールの管が自動で汚水を排出し、新しいお湯を張り替えてくれた。
その合間合間に、わたしはバスタブから少し離れ、『絶』を行って削られたオーラの回復を図っていた。
ノノに触れれば、当然わたしのオーラは削り取られていく。
だが、この水浴びの中で、わたしは一つの小技を思いついていた。
(……そうか。バスタブの壁がある下半身は、今ガードしなくていいんだ!)
下半身のオーラを限りなく削り、浮いたリソースの全てを上半身の防御へ回す。シルバタールの絶対的な防壁を利用した極端なオーラ配分だが、これなら長く耐えられる。
そんなことを考えながら、何度目かの石鹸の泡を洗い流していた時だった。
「おや」
ゼルビンさんが、泡を落とし終えたノノの髪と、自分の長髪を指でつまんで並べた。
「お揃いですね」
呑気な声。
ノノは、きょとんとして「おそろい?」というように小首を傾げた。
だが、その並べられたゼルビンさんの髪色と自分の髪色を見比べると。
ノノの琥珀色の瞳が、大きく見開かれた。
幾重にも重なったスラムの泥と汚れ。
それが完全に洗い流されたノノの髪は、月明かりを溶かしたような、色素の薄い、美しい『銀色』だったのだ。
ノノは、自分とゼルビンさんの髪が「一緒」であることに気づいた。
彼女はむず痒そうに、けれど、保護してから初めて、ほんの僅かに嬉しそうに表情を綻ばせた。
そして、照れ隠しのように、お湯に浸かっているヨルの首元へと顔を深く埋めた。
わたしは、泡だらけの手を止めて、その光景に見入ってしまった。
ずっと人間を拒絶し、絶対的な孤独の中にいたノノ。
そんな彼女が、自分と同じ「小さな繋がり」を見つけた、あまりにも美しい瞬間だった。
◆
「はい、お疲れ様。さっぱりしたね」
綺麗になり、バスタブから上がったノノを、わたしはふかふかの大きなバスタオルで包み込み、優しく拭いていった。
泥汚れが落ちたことで、彼女の青白い肌があらわになった。
だが、綺麗になった分、彼女が全身に負っている無数の生傷や古い傷跡が、生々しく目立ってしまっていた。
(痛々しい……普通の女の子なら、こんな傷、一つだってないはずなのに)
わたしが胸を痛めていると、背後からポンッと、アンティーク調の小さな薬瓶が投げ渡された。
「クガーニャさん。その薬をノノに塗ってあげてください」
振り返ると、ゼルビンさんが左手の袖を下ろしながら言っていた。彼はバスタブのベンチから動いておらず、相変わらずノノにシャツの裾をギュッと掴まれて捕まったままだったが、その視線はノノの傷だらけの身体からスッと外され、明後日の方向を向いていた。
「念獣が精製した万能薬です。外傷や傷跡には効きますよ」
「薬まで……ありがとうございます」
わたしは瓶の蓋を開け、半信半疑で、ジェル状のその薬をノノの腕の生傷に薄く塗り伸ばした。
「えっ……!?」
わたしは自分の目を疑った。
薬が塗られた端から、傷口がシュワシュワと音を立てるように塞がり、古い傷跡の色素沈着すらも、まるで消しゴムで消すように綺麗さっぱりと消え去っていくのだ。
塗られているノノ自身も、自分の腕から傷跡が魔法のように消えていく光景に、きょとんと不思議そうな顔をして瞬きを繰り返している。
「す、すごい……! なんですかこれ!? 傷が……本当に全部消えて……」
驚愕で声が震えた。ヨークシンのオークションに出せば、これ一瓶で国宝級の値段がつくレベルの奇跡だ。
だが、それ以上に。
綺麗になっていくノノの白い肌を見て、わたしの胸の奥に、言葉にできないほど熱いものが込み上げてきた。
スラムで刻まれた、暴力と搾取の記憶。
心に負った深い傷は、すぐには治らないかもしれない。けれど、せめてこの小さな身体に刻まれた、過酷な過去の痕跡だけでも、この子はこれ以上背負い続けずに済むのだ。
「よかったね、ノノ……。痛いのも、痕も、全部消えちゃうからね」
わたしは涙声になりそうなのを必死に堪え、優しい手つきでノノの全身に薬を塗り広げていった。
「また、いくらでも精製できますから、気になさらず」
ゼルビンさんは相変わらず視線を外したまま、事もなげに笑った。
(規格外にも程がある……けれど、今はただ、感謝しかないや)
呆然としながらも、ノノの全身に薬を塗り終えた。
ふと自分の手を見ると、ノノのオーラで削られて赤く腫れ上がっていたわたしの両手の傷跡も、薬が触れたおかげで完全に消え去り、痛みが引いていた。
本当に、何でもありだ。
わたしが特大の溜め息を吐き出そうとした瞬間。
背後で、ビシャッ! と水が落ちるような音がした。
「えっ?」
驚いて振り返ると、先程までバスタブのお湯に浸かってびしょ濡れになっていたはずのヨルが、バスタブから数十センチ離れた大きな岩の上に座っていた。
しかも、その被毛は一切濡れておらず、完全に乾ききった元の姿で。
視線を音がしたであろうバスタブの側の砂利に向けると、そこには、水跡だけがベチャッと残されていた。
(……水だけを残して、一瞬で移動した?)
あまりの理不尽な現象に、背筋に冷たいものが走る。
「……いや、今はそれどころじゃない」
わたしはブンブンと首を振って、思考を強制的に中断させた。
目の前には、バスタオル一枚のノノがいるのだ。湯冷めさせるわけにはいかない。
底知れない念獣の能力の考察は後回しだ。
わたしは気を取り直して、買ってきたばかりの服の束から、柔らかいコットンのワンピースを取り出した。
「ほら、ノノ。バンザイして」
わたしの声に合わせて、ノノが素直に両腕を上げる。
ワンピースを被せると、新品の服の感触が不思議なのか、ノノは自分の服の裾をキュッと握りしめて、自分の姿を見下ろした。
痩せ細ってはいるが、そこにはもう野生児の姿はない。
銀色の髪がさらさらと揺れる、年相応の、普通の可愛らしい女の子が立っていた。
◆
「それじゃあ、戻りましょうか」
ゼルビンさんに促され、わたしたちはキャンプ場へと歩き出した。
帰り際、役目を終えたバスタブが、再びどろりと溶けてゼルビンさんの右腕の袖の中へと収納されていく光景を見たが、三度目ともなると「ああ、戻っていくな」と、随分あっさりと受け止めている自分が少しおかしかった。
行きと違うのは、ノノがゼルビンさんに抱えられていないことだ。
ノノは自分の足でしっかりと地面を踏みしめながら歩いている。
だが、その両手は、ゼルビンさんの大きな左手をギュッと強く掴んで離さなかった。
二人の前を、時折「ついてきてる?」と確認するように振り返りながら、ヨルが先導して歩いている。
わたしは、少し後ろからその光景を眺めていた。
夕暮れの茜色の光の中、並んで歩く長身のゼルビンさんと、小さなノノ。
二人の、大小の『銀色』の髪が、歩調に合わせて優しく揺れている。
(あぁ……やっぱり、カメラ持ってくるんだった)
文化民俗学ハンターとして、どうしてもこの美しい情景をフィルムに焼き付けたかった。
キャンプ場に戻ると、荷物の整理を終えていた先生が、ノノの姿を見て目を見開いた。
「おいおい……見違えたな。本当にあの泥だらけのガキか?」
驚いて一歩近づこうとした先生に対し、ノノはサッとゼルビンさんの足の後ろに隠れた。
「シャーッ」
小さく、だが明確な威嚇の声。
(ゼルビンさんとヨルは『安全』。でも、先生やわたしはまだ完全な『味方』じゃない……)
ノノの小さな手が、ゼルビンさんの服の裾が千切れるほど強く握りしめられている。血の気が引いて真っ白になったその指先を見ていると、彼女の中にある「こちら側」への明確な拒絶を突きつけられたようで、わたしは小さく息を呑むしかなかった。
ゼルビンさんが再び右腕からシルバタールを出現させて腰を下ろす。
するとノノは、当然のように足元からヨルを拾い上げ、抱えながらゼルビンさんの膝の上へとよじ登った。
結局、いつもの特等席に戻ってしまうのだ。
わたしと先生は顔を見合わせ、苦笑いするしかなかった。
西の空に、夕日が沈んでいく。
長く伸びた彼らの影が、パチパチと音を立て始めた焚き火の光に照らされていた。
◆
「……そろそろ回復しただろ。再開するぞ」
先生の低く、よく通る声で、わたしの意識は前日の夕暮れから、朝日の注ぐの修行の場へと一気に引き戻された。
「っ、はい!」
わたしは両頬をパンッと両手で叩き、気合いを入れ直す。
構え直す直前、チラリと視界の端で「定位置」を確認した。
綺麗になった銀髪のノノが、変わらずゼルビンさんの膝の上でヨルを抱いている。
その姿を見ると、体の奥底から不思議と力が湧き上がってくる気がした。
「今回は能力有りだ。死ぬ気で躱せ」
先生がアタッシュケースを開放した瞬間、何百枚もの薄いジャポン紙が宙に舞い、空中で圧縮・硬化して鋭利な『杭(パイル)』となって、わたしめがけて無数に射出された。
『霊峰の守護獣(ワイルド・スピリット)』──!
わたしは深く息を吸い込み、故郷の霊峰に君臨する気高きピューマの姿を脳裏に描き出す。
爆発させたオーラが急速に『野生の輪郭』を帯びていき、両手足には鋭い獣爪(オーラ・クロー)が、腰部からは重さを持たせた獣尾(オーラ・テイル)が勢いよく編み上げられ、この身を包む。
「シッ!」
わたしは獣の如き極端な低い姿勢(ローポスチャー)を取り、両手足の爪を地面に深く食い込ませ、弾かれたように前方に跳躍した。
ヒュンッ! ズガンッ!
直前までわたしがいた場所に、鋼鉄並みの硬度を持つ紙の杭が突き刺さり、地面を抉る。
わたしは空中で獣尾(オーラ・テイル)を激しく振って三次元的な姿勢制御を行い、空中に浮かぶ紙の杭を蹴って方向を急転換させた。
(ステップを……踏む隙を……!)
降り注ぐ紙の杭の豪雨を、地面を這い、木々を蹴り、獣爪で弾きながら、わたしは泥臭くステップを刻んでいく。
先生の攻撃を弾く瞬間にだけ、インパクトの瞬間にだけ、爪の先へとオーラを爆発的に移動させる── だが、意識のコンマ数秒の遅れが、オーラの移動を滞らせる。
泥臭くステップを刻むたび──一段階、また一段階と、全身を覆うオーラが熱を帯び、分厚くなっていくのを感じる。
だが、まだ舞いが足りない!
「甘い!」
「しまっ……!?」
出力が上がり、反撃に転じようと先生の死角へ飛び込んだ瞬間。
死角に予め配置されていた積層紙の壁が弾け、先生の巨大な拳がわたしの腹部を正確に捉えた。
ドゴォンッ!!
「かはっ……!」
操作系らしからぬ圧倒的な素の筋力。
わたしはボールのように吹き飛ばされ、地面を何度もバウンドして転がった。
「ゴホッ、ゲホッ……!」
全身の骨が軋む。だが、不思議と心は折れていなかった。
「続けるぞ、クガーニャ!」
「……っ、はいっ!!」
わたしは獣爪を地面に突き立て、痛む体を無理やり起こした。
ノノのあの凶悪なオーラに耐え、いつか彼女に、痛みを気にせず長く触れられるようになるため。
そして、文化民俗学を志すハンターとして、世界のどんな未開の地へでも、この足で踏破していけるようになるため。
やりたいことは、山ほどある。
だから、もっと、もっと強くならなければ。
「オオォォォォッ!!」
わたしは気力とオーラを極限まで漲らせ、低い獣の如き咆哮を上げながら、再び巨大な壁である先生に向かって、力強く踏み込んでいった。
1話、1回想縛りです