1989年7月13日 曇り
蒸し暑さを感じさせない程度の風が吹き抜けるキャンプ場で、わたしはスプーンを片手に、小さく息を吐き出した。
「ほら、ノノ。あーん、して?」
温かいシチューをすくった木製のお手製スプーンを口元へ運ぶと、銀色の髪を揺らして、小さな唇が不満げに尖った。 現在、わたしたちは昼食の真っ最中である。 テーブルの前に、長細いベンチ状に変形したシルバタールが鎮座し、そこに三人並んで腰を下ろしている。配置は左からゼルビンさん、ノノ、そしてわたしの順だ。
(……わたしが余計な提案なんて、しなきゃよかったのかな)
心の中で深く後悔する。出会ってから一週間、食事中すらゼルビンさんの膝から降りようとしないノノを見かねて、「少しずつ離れる練習をした方がいい」と進言したのはわたしだ。
ゼルビンさんは「……試してみましょうか」とノノを隣に下ろしてくれたのだが──結果として、この有様である。
「……ん」
もぐもぐと咀嚼する彼女の琥珀色の瞳が、一瞬だけ「あ、美味しい」とばかりに見開かれる。
だがその直後、ノノの視線は隣に座るゼルビンさんの空いた膝へと向けられ、再び唇がへの字に曲がった。
チリッ、チリリッ……!
ノノの小さな体から漏れ出す『削り取る鮫肌』のオーラが、静電気のようにざらつきを増し、不機嫌な音を立て始めた。毛羽立ったオーラの圧が、わたしの頬をピリピリと撫でる。迂闊に触れれば、確実に皮膚を持っていかれる出力だ。
「ほ、ほら、もう一口。お肉も柔らかく煮えてるからね」
引き攣りそうになる笑顔を必死に保ちながら、わたしは次のスプーンを差し出す。ノノは再びパクリとシチューを飲み込むが、不満のオーラは一向に収まる気配がない。 テーブル越しに向かい側に座る先生は、シチューに入った肉を切り分けながら、わたしの奮闘ぶりを「自業自得だ」と言わんばかりの呆れた目で傍観している。
少しでも気を引こうと、わたしは精一杯の笑顔を作って世話を焼くのだが、ノノはシチューを飲み込むたびにゼルビンの空いた膝をじっと見つめ、チリチリとオーラの毛羽立ちを強めていく。
ついさっきまでは、あんなにキラキラしてたのになぁ……。
心の中で思わず愚痴がこぼれる。 わたしの脳裏には、昼食の準備を始める前の、ほんの少し前の光景が鮮明に蘇っていた。
◆
午前中の遅い時間。 いつもの特等席であるゼルビンさんの膝の上にちょこんと収まったノノは、目を輝かせて一枚の絵本に見入っていた。
それは、わたしが昨日街へ出た際に、ノノのためにと買ってきた童話の絵本だった。
少しでも子供らしいものに触れてほしい、言葉や色んな物語を知ってほしいという願いを込めて選んだものだ。
『……そして、森の動物たちは、みんなで歌を歌いながら歩き出しました』
ゼルビンさんの声が、のんびりと、どこか間延びしたような響きで紡がれる。
声自体は穏やかで聞き取りやすいのだが、絵本のクライマックスである「動物たちの大行進」という賑やかで楽しいシーンには、絶望的なまでにそぐわない呑気なトーンだった。
緊張感も躍動感もない、まるで縁側でお茶を啜っているかのような平坦な声。
普通なら、子供は飽きてそっぽを向いてしまうだろう。
しかし、ノノの琥珀色の瞳は、絵本の上から一瞬たりとも離れることはなかった。まばたきすら忘れたかのように、見開かれた瞳の奥で強烈な好奇心がキラキラと輝いている。 それもそのはずだ。
「……なんなんですか、あれ」
少し離れた場所からその光景を見ていたわたしは、頬を引き攣らせながら頭を抱えていた。
ゼルビンさんの広げた絵本の上では、なんと体長十センチほどの『動物たち』が、本当に二足歩行で行進していたのだ。 ウサギ、クマ、キツネ、小鳥。 絵本に描かれたキャラクターたちが、そのまま立体となってページの上を飛び跳ね、行進し、物語に合わせて寸分違わぬ動きを見せている。
最近の成長著しいアニメーションすら凌駕する、完全な立体演出。
それらはすべて、ゼルビンさんのオーラによって極めて精巧に形作られたものだった。
(削られないよう絵本をオーラで均一に覆いながら……その上で、別のオーラを何種類もの動物の形に変えている!?)
(しかも、それぞれに全く違う精密な動きを与えながら、声に出して朗読……!?)
(……おかしい。おかしいでしょ、どう考えても!)
『発』ではなく、ただの形状変化の延長だとしても、要求される並行処理のレベルが異常すぎる。
一秒でも気を抜けば脳が焼き切れるような芸当を、この人は『子供への読み聞かせ』のためだけに、息をするようにやってのけているのだ。
「……アホか」
資料の整理をしていたヴェラム先生が、手を止めて深くため息をついた。
「おいクガーニャ。お前、あいつの真似をして自分も読み聞かせたいとか、絶対に考えるなよ。あんなもん、普通の処理能力じゃ一秒で脳が焼き切れるぞ」
「わ、わかってますよ……! でも、わたしの買ってきた絵本なのに、わたしの読み聞かせのハードルが世界樹の上まで上がっちゃったじゃないですか……っ!」
半泣きになるわたしに、先生は呆れたように肩をすくめた。
「形状変化を極めればああもなるだろうが……あんな無駄に細けぇ並行処理、医療特化の連中でもやらねぇぞ。ただの変態だ、気にするな」
先生はそう言って吐き捨てたが、わたしの心はちっとも軽くならなかった。 実用性がないとか、無駄だとか、そういう問題ではないのだ。 ノノがあんなにも楽しそうに、自らを覆う防壁のざわめきすら忘れて、純粋な子供のように目を輝かせている。あんな顔を引き出せるのなら、どんな無駄な技術だって『正解』になってしまう。
保護してからこの十数日、わたしなりにノノと距離を縮めようと奮闘してきたつもりだったが、圧倒的な実力と包容力を持つ暇人と黒猫の前では、自分の未熟さもだが理不尽を見せつけられることばかりだった。
◆
「ふぅ……ごちそうさまでした」
昼食の片付けを終え、わたしは大きく伸びをした。 空を見上げると、昼前には白かった雲が、今は重たい鉛色を含んだ鈍い灰色へと変わりつつある。幸い雨の匂いはしないが、どんよりとした空気感が周囲を包み込んでいた。
先生は焚き火でお湯を沸かし、愛用のカップにコーヒーを注いでいる。その苦い香りが、キャンプ場に漂う湿った空気に混ざり合った。
ふと視線をやると、昼食を終えたノノがすやすやと寝息を立てていた。
結局、食事を終えるや否や、ノノは再びゼルビンさんの膝の上という特等席へと舞い戻ってしまったのだ。
ゼルビンさんは嫌がる素振りも見せず、自身の脚をクッション代わりに提供し、大きな手でノノの銀色の髪をゆっくりと、一定のリズムで撫で続けている。
「しかし、本当にべったりだな……」
コーヒーの入ったカップを片手に、先生が呆れたような、それでいてどこか苦笑いを含んだ声で呟いた。 一見すれば、まるで父親に甘える幼い娘の、微笑ましいお昼寝の光景だ。
だが、わたしにはどうしても、それがただの温かいだけの光景には見えなかった。
眠りに落ちているノノの体勢は、ひどく強張っていた。
片腕でヨルを奪われまいと抱き込み、もう片方の手は、関節が白くなるほどゼルビンのシャツを固く握りしめている。
それは『甘え』などという生易しいものではない。
血の気を失い、真っ白になった指先。それは、自分が眠っている間にこの安全な場所が消えてしまうのではないかという、異常な強迫観念そのものだった。
「ここまでになるとは思いませんでしたし、自分で言うのもアレですが……」
ゼルビンさんは、シャツをきつく握りしめるノノの小さな手をそっと自身の大きな手で包み込みながら、困ったような、それでいて相変わらず呑気な顔で口を開いた。
「恐怖で世界を拒絶していたところを、見知らぬ大人たちが無理やり連れ去ってきたわけですからね。本人からすれば誘拐と同じです。
ひどく怯えていた彼女の前に、決して壊れず、自分を否定しない『人肌のクッション』と、温かい『抱き枕』が転がっていたんです。……こればかりは、こうなってしまうのも仕方ないでしょう」
自らをクッションと呼び、至極の念獣を抱き枕と称する。その言葉の選び方に、わたしは胸の奥がギュッと締め付けられるような感覚を覚えた。
彼には、何処まで見えているのだろうか。
「まぁな。だが、いくら仕方ないとはいえだ」
先生はコーヒーを一口啜り、鋭い視線をノノへと向けた。
「今の状態は、お前に甘えているとも言えるが……完全に『依存』しきってるぞ」
先生の冷徹な指摘に、わたしは図星を突かれて息を呑んだ。わたしが昼食時にノノを席から離そうと提案したのも、まさにその危惧があったからだ。
しかし、当のゼルビンさんは、先生の厳しい指摘を受けても、焦ることも表情を曇らせることもなかった。 彼はただ、愛おしそうにノノの寝顔を見つめ、静かに首を振った。
「この子は、貴方達に保護され、私やヨルと出会い、ある意味で生まれ変わった」
その声は、どこまでも優しく、底知れない慈愛に満ちていた。
「そう考えるなら、彼女はまだ『生後一週間』です。本当の赤子と全く同じだとは言いませんが、だとするなら……今のこの状態も、まだまだ誤差ですよ」
生後一週間。その途方もなく長い目線での肯定に、わたしは息を呑んだ。
大人の理屈など当てはめる段階にすらない。まずは圧倒的な安心感で、彼女のすり減った魂の土台を埋めてやること。
わたしは言葉を失い、ただ、静かに上下するノノの小さな背中を見つめることしかできなかった。
「……気の長い話だ」
先生は短くため息をつき、「だが、お前らしい理屈だ」と、それ以上は依存について追及しなかった。
空を覆う雲は、いつの間にかさらに厚みを増し、太陽の光を完全に遮っている。周囲の空気が、一段と重くなったのを感じながら、わたしは眠るノノの銀色の髪を見つめていた。
「呑気なヤツだ」
先生は、ゼルビンさんの底知れない度量の広さに呆れたように息を吐きながらも、その瞳の奥には確かな感謝の色を滲ませていた。 コーヒーの入ったカップをテーブルに置き、先生は腕を組む。その仕草一つで、ただの雑談から、ハンターとしての専門的でシビアな空気が場に張り詰めた。
「で、実際のところ、ノノの能力はどう見る? 一週間、ほぼ四六時中触れ合ってみてどうだ? やはり、解除は難しいのか?」
その問いに、ゼルビンさんはノノの銀髪を撫でていた手を止めないまま、ゆっくりと頷いた。
「難しいでしょうね。以前お二人が推測した通り、彼女の心的負荷と能力は完全に連動しています。無意識の制約による『解除不可』……その見立ては、まず間違いないでしょう」
わたしは息を呑んだ。 ノノを保護した直後、わたしたちが立てた仮説。それがこの一週間、世界でもトップクラスの念能力者であるゼルビンさんの観察によって、裏付けられてしまったのだ。
「それに、ノノの『絶』で能力を強制的に抑え込ませることも、暫くは考えない方がいいでしょう」
「『絶』ですか……」
思わず口に出したわたしに、ゼルビンさんは静かなオッドアイを向けた。
「普通の念能力者でも、絶の状態で他者のオーラの中に飛び込むのは、極寒の吹雪の中に裸で飛び出すようなものだと言います。ですが、ノノの場合はそれ以上です。彼女にとって他者のオーラとは、単なるエネルギーの圧ではなく、自らを傷つける『悪意』そのものと同義ですから」
極寒の吹雪の中に、皮膚を剥がされた状態で放り出されるようなもの。 わたしは自分自身が絶を行った時の心細さを思い出し、身震いした。ノノにとって、この削り取るオーラを解くことは、無防備な肉体を無数の刃の前に晒すような恐怖なのだ。
「それに……」
ゼルビンさんの声が一段低くなる。 空の雲がさらに厚みを増し、日差しを完全に遮った。灰色の空気が、重くのしかかってくる。
「一つ、ノノのこの能力には、まだ見えていない『デメリット』があるはずなのです。それが分からないと、対処を完全にしくじることになる」
「解除不可、以上のデメリットが?」
先生が眉をひそめて尋ねた。 一度発動すれば自分の意志でも解除できない。日常生活すらままならないその状態以上のデメリットとは何なのか。
「いえ」
ゼルビンさんは明確に否定した。
「解除不可という性質は、能力の成り立ち的にも、制約的にも『メリット』なのです」
「え……?」
「考えてもみてください。でなければ、こんな高度な能力を、いくら才能があろうと幼子が寝ている間も常時維持し続けられる訳がないのですよ」
ゼルビンさんの言葉に、わたしはハッとした。 念能力は、本人のキャパシティを越えた使い方はできない。いくら才能があっても、無尽蔵に力を振るえるわけではないのだ。
「改めて、ノノの能力の概要を確認しましょう。まず、系統はオーラの性質を変化させる『変化系』ですね。次にその変化の性質です。オーラを削り取る攻勢防御の性質。物質に対する攻撃性もありますが、特にオーラに対する攻撃性が異常に高い。そしてその特性は、ノノの精神的負荷……つまり恐怖心や警戒心と深くリンクしている。これによって、ノノは向けられる悪意を退けてきた」
淡々と語られる分析は、冷徹なまでに正確だった。 わたしは唾を飲み込み、その言葉の先を待った。
「では、成り立ちはどうでしょう。彼女の拙い言語能力から見て、師匠と呼べるような存在はいなかったはずです。性質変化の特異さで分かりにくいですが、才能を一千万人に一人クラスだと加味しても、あの『纏』の練度から見て、念能力に目覚めてから最低でも二年は経過している」
二年。 今、推定七歳のノノが、二年前から。
「つまり、ノノは五歳以下の時に、この能力を感情の発露のみで突発的に発動させてしまっている。『天然物』と呼ばれる能力者です。……この異常な能力を、ですよ」
「……なるほどな」
先生が低い声で頷いた。
「五歳以下の幼子が、心を壊すほどの過酷な環境で、対象を拒絶するためだけに突発的に生み出した。そういうことか」
「ええ。だからこそ、害意を伝播するモノ……つまりは全ての人間が宿す『オーラ』に特化した性質を持った攻性防御、他者を完全に拒絶する能力として発現した。親をはじめとした、保護者足り得る存在を持たなかったノノは、二十四時間能力を発動し続けることで、悪意に満ちたスラムという世界から身を守るしかなかったのです」
その言葉に合わせて、風がざわめいた。 木々が擦れ合う音が、まるでノノの孤独なすすり泣きのように聞こえた。
「つまり、この能力の発現時を考えれば、解除不可能……いえ、『自動維持機能』と呼ぶべきこのシステムは、能力発現時点では間違いなくノノを生かすための『メリット』なのです」
そこでゼルビンさんは言葉を切り、ゆっくりと息を吐いた。
「問題は、この自動維持機能に対する、制約的な『デメリット』が判明していないこと」
ゼルビンさんの言葉は、深い洞察に基づいていた。念能力において、破格のメリットを得るためには、それに相応する重い代償が必要となる。
「デメリット……でも、強い恐怖を感じるたびに出力が上がるなら、その『心的ストレス』自体が代償なんじゃないですか?」
わたしの問いに、ゼルビンさんは静かに首を振った。
「出力が跳ね上がるのは、彼女が『生命の危機』や『強い心的ストレス』を感じた時です。つまり『強いストレス』は、すでに『高出力』と紐づいて精算されている。だとすれば……この『自動維持』対する支払いが、どこか全く別の場所で行われていると考えるべきでしょう」
わたしは混乱する頭を必死に働かせた。では、何が代償になっているというのか。
ゼルビンさんは、カップのコーヒーを静かに見つめ、さらに深く踏み込んだ。
「自動維持機能と一言で言いましたが、その中身は単純ではありません。私の眼と経験を信じて貰うしかありませんが……能力が生み出された時点では分かりませんが、1週間前の痩せ細った状態でも、ノノにはあの鮫肌の様なオーラを維持出来るだけの潜在的なオーラ量はありました」
ゼルビンさんが苦い顔でコーヒーを口にする。
「ですが、少なくとも常時発動で性質変化を行い続けるだけの処理の負荷は、この子のキャパシティを完全に超えるモノです。そもそもの修行もなしに性質変化を行えてしまっているということ。この二つに対する『代償』が、今も支払われ続けている可能性が高い」
「……最悪だな」
先生が、苦虫を噛み潰したような顔で低く唸った。
代償が、支払われ続けている。 その言葉の響きに、わたしも血の気が引く思いだった。
「持続性のあるメリットには継続性のあるデメリットが絶対、とは言い切れませんが、念のセオリーですからすれば当然の疑いです。修行無しと初期のオーラ不足分なら、すでに支払い済みかも知れませんが……そう仮定するなら、七歳にしては小さなこの体や、拙い言語能力も、脳や肉体への処理負担の影響かもしれません。脳の処理の負荷だというなら、今のこの睡眠量の多さも頷ける。」
(睡眠の多さも……!?)
わたしはハッとして、眠り続けるノノを見つめた。
「強力な代償の定番としては『寿命』。削り取るという性質から連想されるモノとしては『記憶』や『強い感情』など……パッと思いつくだけでもこれだけあります」
寿命。記憶。感情。 どれも、一人の人間から奪っていいものではない。ましてや、こんな小さな子供から。
スゥ、スゥ、とゼルビンの膝の上で、ノノの小さな背中が規則正しく上下している。
そのあまりにも無防備な寝顔と、突きつけられた『代償』という言葉の響きが、ひどくちぐはぐで、わたしの胸をざわつかせた。
「これらのどれかかもしれませんし、全てかも知れない。これらのどれでも無い、想像もつかない様な代償かもしれません。ほぼ無意識で五歳以下の思考がどこまで想像出来るのか、といった問題もありますし……今となっては、『孤独』という状態も代償になりうると言いたいですが、出力に関連してしまいそうですし。この状態でも触れ合えてしまえているヨルと私がいる時点で、なんとも言えませんね」
空が暗い。 ノノの能力の深淵に触れるたび、底なし沼に引きずり込まれるような錯覚に陥る。
「例としては挙げましたが……」
ゼルビンさんは、少しだけ口調を和らげた。
「自らの命を守る、生き残る為に突発的に生み出した能力の代償が、守るべき命を削る『寿命』では無い可能性が高いのでは無いかと。流石に産まれたてや、そこから数年は何らかの庇護が無くては、赤子があの環境で生きていける訳がないですから……それ迄の、あった筈の想いや記憶の消失による、発動時点での『孤独化』と、処理の負荷に対する何かではないかと睨んではいますが、確定は出来ません」
記憶の消失。 ノノが、両親の顔も、愛された記憶もすべて代償として手放してしまったのだとしたら。 そうしなければ生き残れなかったのだとしたら。 あまりにも悲しすぎる。
「これは制約、ルールとして考えた場合です。もし『誓約』……自らに誓っていた場合。代償を払い続ける、あるいは能力を発動させ続けるという誓いを破る、つまり無理やり能力を解除してしまった場合に、ノノに降り注ぐリスクの可能性を考えた場合、下手な事が出来ないのです」
「……だから、絶もさせられない、と」
先生が重々しく頷いた。
「ええ。この子は、私の様な理屈をこねくり回してやりくりをしている人間とは違う、本物の天才ですよ」
(どの口が言っているんだ、この人は……!)
理屈をこねくり回して何十体もの念獣を操り、絵本の上にオーラの動物園を作り出す男の言うセリフではない。天才というより、もはや変態の領域にいる自覚がないのだろうか。
口に出して言えないのがもどかしいが、隣の先生も同じことを思ったのか、ジト目でゼルビンさんを睨んでいた。
「もう少し様子を見て、ノノが落ち着いてからですが……私やヨル、貴方達二人以外との、直接でなくとも関わる事による環境の変化は必要でしょうね。勿論、スラムの様な場所も有りますが、この世界は悪意に満ちていないのだと。ここだけが特異点の安全地帯ではないのだと、ノノは様々な事を見聞きし、学ぶ必要がある。そしてその精神的変化の中で、私達は判明していないデメリットを見つけ出すしかない」
世界は、悪意だけでできているわけじゃない。 その言葉が、わたしの胸の奥にすっと落ちていった。
そうだ。ノノには、まだ見ぬ世界がたくさんある。わたしが故郷を飛び出した時に知ったような、多様な文化、優しい人々、美しい景色。
それらをこの子に見せてあげたい。この子が自分から「削る鎧」を脱いでも大丈夫だと思えるような、そんな世界を。 わたしがハンターとして、この子に色んなことを教えて──
「クガーニャさん」
不意に、ゼルビンさんの冷水を浴びせるような、静かで真っ直ぐな声がわたしの思考を遮った。 ハッとして顔を上げると、オッドアイの瞳が、わたしを真っ直ぐに射抜いていた。
「手を引くなら今ですよ?」
「……えっ?」
予想外の言葉に、わたしは間抜けな声を漏らしてしまった。 手を引く? わたしが? どういうこと?
「この子の問題は、はっきり言って長くかかります。見えないデメリットを特定し、精神を庇護し、能力のコントロールを教える。それは数年、あるいは十年単位の時間がかかるかもしれない」
ゼルビンさんは、膝の上で眠るノノを庇うように、ヨルの背中を優しく撫でた。
「貴女はまだプロとして駆け出したばかりだ。この子に深く関われば、文化民俗学の夢も、先生との修行も、数年単位で立ち止まることになりますよ」
ゼルビンさんの言葉は、あまりにも正論だった。 プロハンターになってまだ二年目。わたしはこれから自分の道を見つけ、実績を積み上げ、強さを磨かなければならない時期だ。一個人の、しかもこれほど重く複雑な問題を抱えた少女に、自分の人生の時間を割く余裕など、本来はないはずだ。
「今なら、ロートルの暇人が引き受けます。私に懐いている今なら、貴女は何も背負う必要はない」
それは、突き放すような言葉ではなく。 これから未来へと羽ばたいていく若きハンターに対する、彼なりの最大限の優しさと、配慮だった。
彼とアルト財団の力があれば、ノノを安全に保護し、ゆっくりと治療していくことは十分に可能だろう。わたしがここで「お願いします」と頭を下げて背を向ければ、それで全ては丸く収まるのだ。わたしの夢も、日常も、何一つ失うことなく。
でも。
わたしは、両手で自分の膝を強く握りしめた。
あの時、路地裏で追い詰められていた彼女を見た時の衝撃。 削られながらも、わたしが不器用に体を洗ってあげた時の、濡れた銀色の髪。 ゼルビンさんと自分がお揃いだと知って、むず痒そうに笑った、あの小さな綻び。 そして今、わたしの作ったシチューを食べて見せた、ほんのわずかな驚きの表情。
その繋がりを、ここで手放して「じゃあ、あとはよろしくお願いします」なんて言えるわけがないじゃないか。 わたしは、そんな計算高くて薄情なハンターになりたくて、故郷を出たわけじゃない。 未知を知り、人と出会い、心を通わせる。それがわたしの求めるハンターの在り方だ。
わたしは顔を上げ、ゼルビンさんのオッドアイを真っ直ぐに見つめ返した。 言葉には出さない。けれど、わたしの瞳の奥の光と、微かに揺らぐオーラが、わたしの答えを雄弁に物語っていたはずだ。 絶対に、手を引かない。わたしも、この子の未来に寄り添う。
ゼルビンさんは、わたしのその目を見ると、ふっと困ったような、けれどどこか嬉しそうな微笑みを浮かべた。
「……そうですか。若いというのは、眩しいものですね。いつでも相談には乗りますよ」
彼はそれ以上何も言わず、再びノノとヨルの頭を交互に撫で始めた。 ふと気づけば、頭上を覆っていた重い灰色の雲は薄れ、雲の隙間から柔らかな初夏の日差しが差し込み始めていた。 心地よい風が、キャンプ場の木々をざわめかせながら通り抜けていく。
わたしは、胸の奥に灯った新しい決意の炎が、ゆっくりと、しかし力強く燃え上がるのを感じていた。
初々しさって難しい。
解釈は大きくズレてはいないと信じたい。